仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、フランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年(昭和15年)の北部仏印進駐と、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐に分けられる。
1940年(昭和15年)9月、日中戦争(支那事変)によって日本と敵対していた蒋介石の中国国民党政権に対するイギリス・アメリカ合衆国などによる援助ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する目的で行われた。これは、フランスの親独的中立政府であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果とされ、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、実際には進駐開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で戦闘日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。
進駐後は、統治権はフランス側に残され、フランス軍と日本軍の共同警備の形態がとられた。日本軍は、軍事協定にもとづいてフランス側から提供された飛行場を拠点とし、中国南部への空襲を開始した。
ヴィシー政権を承認していなかったイギリスのほか、ヴィシー政権を承認アメリカ政府は1943年8月までヴィシー政権と外交関係を保った。していたアメリカも進駐を正当な交渉結果とは認めず、対抗手段として英領ビルマにルートを建設することで、蒋介石援助を続けた。また、進駐直後に日独伊三国軍事同盟が締結されたことによって、日本は英米と完全な敵対関係となる。アメリカはただちに屑鉄の対日禁輸を決定し、翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。また蒋介石政権へは資金・物資両面から多大な援助を行った。
なお、この北部仏印進駐は、仏印との間で領土問題を抱えていたタイ王国政府をも刺激し、同年11月のタイ・仏印紛争勃発のきっかけとなった。
1941年(昭和16年)7月2日の御前会議において仏印南部への進駐が決定し(『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』)、日本軍はヴィシー政権の許可を得て7月28日に仏印南部への進駐を開始した(南部仏印進駐)。英蘭への圧力と、開戦に備えて南方作戦への橋頭堡を確保する狙いがあった。英米は、進駐が行われた場合には貿易制限を強化することを宣言していたが、無視して強行された。結果として、在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な制裁が発動され、これは日本側の予想を上回るものとなった。この決定的な対決によって、12月に日本は米英に宣戦布告、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発することとなる。
太平洋戦争(大東亜戦争)開始後も、従前のフランス側による植民地統治が認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。もっとも、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。
1945年(昭和20年)まで、日本は仏印政府の統治を認めていたが、フランス本国でヴィシー政府が解体されるに伴い、3月9日『明号作戦』を発動してフランス植民地政府を武力によって打倒し、バオ・ダイ(保大)帝にベトナム帝国の独立を宣言させた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 09:07。