吉田 茂(よしだ しげる、1878年9月22日 - 1967年10月20日)は、日本の外交官・政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣(在任期間・1946年5月22日 - 1947年5月24日、1948年10月15日 - 1954年12月10日)。
外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。従一位・大勲位。皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。
聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
明治11年(1878年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる『吉田茂とその時代(上)』 6頁には「吉田は1878年9月22日横須賀に生れたといわれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった」という記述がある 。 明治14年(1881年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる『吉田茂とその時代(上)』 9頁には「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」、11頁には「こうして生まれる前から実父に捨てられ、9歳で養父を失った吉田の幼年時代は養母から最も深い影響を受けることになった」という記述がある。 明治22年(1889年)に、養父・健三が若くして他界し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(現在の横浜市立太田小学校)を卒業後、明治22年(1889年)2月、耕余義塾に入学し、明治27年(1894年)4月に卒業する。同年9月から、日本中学(現在の日本学園)へ約1年通った後、明治28年(1895年)9月、高等商業学校(現一橋大学)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。明治29年(1896年)3月、正則尋常中学校(現在の正則高等学校)を卒業し、同年9月、東京物理学校(現在の東京理科大学)に入学。明治30年(1897年)10月、学習院に移り、明治34年(1901年)8月に学習院高等学科を卒業。同年9月、学習院大学科に入学し、明治37年(1904年)7月まで通う。学習院大学科閉鎖に伴い、同年9月に東京帝国大学に移り、明治39年(1906年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官及び領事官試験に合格する。
政治思想的にはナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做されたただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎・谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解を採っている。。 二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使として日英の和平を目指すが、情勢の悪化はいかんともしがたかった。また、日独伊三国同盟には強硬に反対していた。
太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって昭和20年(1945年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日後に仮釈放、後に不起訴とされた。ちなみに吉田の著書「回想十年」によると、牧野伸顕の義妹が宮崎県、旧高鍋藩主家の秋月氏に嫁いでおり、秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテを頼りに当時軍令部次長だった小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願した。しかし小沢からは十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断られた。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。
終戦後の昭和20年(1945年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌・昭和21年(1946年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。首相に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
昭和22年(1947年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、日本国憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱及び実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も昭和23年(1948年)、昭電疑獄により瓦解した。このときGHQ民政局による山崎猛幹事長首班工作が失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し、戦後日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日米安全保障条約を結んだ。以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などがあった。造船疑獄では、犬養健法務大臣を通して、検事総長に佐藤栄作幹事長の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。
昭和29年(1954年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である日本国憲法下において、下野した総理大臣が再任したただ1人の例である。内閣総理大臣在任期間は2616日。。
昭和30年(1955年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党した。昭和37年(1962年)、皇學館大學総長就任、翌・昭和38年(1963年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。
昭和39年(1964年)、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。またこの年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。昭和40年(1965年)米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。
昭和42年(1967年)10月20日正午頃、死去。享年89。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)。 前日に「富士山が見たい」と病床でつぶやき、三女の和子に起こしてもらって快晴の富士を眺めたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁。 葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。、官庁や学校は半休『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面、テレビ各局は特別追悼番組を放送して故人を偲んだ特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。。 戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
自由党入党・総裁就任後の吉田は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。吉田は昭和24年(1949年)の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。
官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物(彼らは共に次官経験者である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い)。
吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。
尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
昭和27年(1952年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣 茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判された。
昭和21年(1946年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。
自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任し今は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶。そこで鳩山は松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また昭和11年(1936年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、なんと「あの殿様松平は元会津藩主で京都守護職の松平容保の四男で、長女の節子は秩父宮の妃になっていた。じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところがこの日の夜から毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。しかもこうした松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から二人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
一方の吉田はといえば、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。しかし総選挙からすでに一ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝したこれが最後の「組閣の大命」である。。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した小泉純一郎が総理在任中、党の意見を一切聞くことなく独力で閣僚を選考したのはこの例を踏襲したものである。。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。戦後政治はここに始まる。
thumb|200px|日米安全保障条約の調印式<br /><small>後方最左は[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス国務長官(1951年9月8日)]]
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
thumb|200px|「旧友」との再会
<hr />
<small>最後の外遊となった訪米中に、吉田は旧友マッカーサーをニューヨーク・[[ウォルドルフ=アストリアの自宅に訪問して昔話に花を咲かせている。(1954年11月5日)]]
吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。前述のエピソードに示されているが、吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。
後半は、吉田茂-2参照
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月7日 (日) 02:50。