大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。
当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。
多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。
しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され、さらに内部対立の影響もあって党員数は減少。1942年(昭和17年)6月には政治団体としての性格を持たない思想団体・大日本一新会に改組された。
機関誌は「改造戦線」「興民新聞」の2誌。「打倒政党政治」のスローガンを掲げる。
1932年(昭和7年)5月15日の犬養毅総理大臣暗殺事件(五・一五事件)に際しては「声明書」において「政、民両党が国家を害した公憤の激成」として擁護した。
1931年(昭和6年)12月、栃木県阿久津村で全農組合員・全国労働大衆党員らの小作争議に反対して暴行を重ねた。小作人側はこれに対抗して竹槍・日本刀での大乱闘となり、1932年(昭和7年)1月9日、大日本生産党の党員17名が殺傷された。 「全国労農大衆新聞」1932年1月13日号外。
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