大東亜戦争

大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、太平洋戦争の呼称の一つ。大日本帝国時代の日本政府によって定められた。

本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。戦争の背景、経過、兵器、人物、影響などについては、日中戦争および太平洋戦争を参照の事。

概要

1941年12月8日の真珠湾攻撃後、1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初2国に対して行われたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれる。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分である。

一般に大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることが多い。しかし、1937年7月7日の盧溝橋事件以降の支那事変(日中戦争)を含むと主張する説もある<ref name=F>「大東亜戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)。これは、閣議決定にある「支那事変ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、1937年7月7日からの期間を含むと考えるのか、1941年12月8日以降の中国大陸における戦闘のみを含むと考えるかの違いによって生起している。

戦時中の呼称

呼称の決定

閣議決定

戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を「大東亜戦争」と呼称していた。この呼称は1941年12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、12月12日に閣議決定された。閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」<ref name=C>「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(1941年12月12日 閣議決定)は、その第1項で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。同日情報局より、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

「大東亜戦争」の呼称はもともとは陸軍案として1941年12月10日の大本営政府連絡会議に提出されたものである。海軍は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが採用されなかった<ref name=D>『大本営機密日誌』(種村佐孝著、1952年)。「太平洋戦争」が採用されなかった理由は、陸軍側が「太平洋戦争では支那事変を含むと理解しにくい」と主張したためであった。しかし海軍内部では戦争中も「太平洋戦争」の呼称が用いられたといわれている。これは海軍が支那事変(日中戦争)にはさほど関与しておらず、海軍にとっての戦争は真珠湾攻撃以降であるという認識に起因するものと考えられる。

対米英宣戦布告前から、日本の中央部では将来発生する可能性の高い戦争を「対米英蘭蒋戦争」、「対米英蘭戦争」、「対英米蘭戦争」などと呼んでいた。ただし、対オランダに関しては、1941年12月1日の御前会議で開戦を決定したものの、同12月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告までは正式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。

大日本帝国逓信省(現在の日本郵便)が1942年12月8日に発行した寄附金付記念切手は、真珠湾とバターン半島の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。

期間に関する問題

「大東亜戦争の開始は昭和12年」と主張する人々がその根拠とするのは、当時の内閣が、1942年1月、「大東亜戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」を帝国議会に提出する際、「『大東亜戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案』説明基準」<ref name=F />を添付したことである。その中には、「右決定(注・「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」<ref name=C />のこと)ハ、今後大東亜戦争ナル呼称ヲ用フル場合ニハ昭和十六年十二月八日前ノ支那事変ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム」と記されている。

しかし、この文章が意味するところは、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事変」自体が大東亜戦争に含まれるということではない。当時の法律の中から「支那事変」という言葉が一切消え、「大東亜戦争」という言葉だけに変わってしまったが、今後も公債発行や農村負債処理のことなどでこれらの法律を運用していく際は、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事変」期間中のことも引き続き適応対象となる、というほどの意味である。

もっとも、この法律(昭和17年2月18日法律第9号)によって「大東亜戦争」が指す期間の定義については、当時の国民の間にも様々に解釈が生じたことは事実である。例えば、貴族院議員の村上恭一は、1945年11月30日の帝国議会において、昭和17年法律第9号がある以上「大東亜戦争の開戦は昭和12年ではないか」と質問している。これに対し、松元承治国務大臣は、この法律によって「法律、勅令の適用の範囲」に付いては「支那事変」と「大東亜戦争」とは「一体を成して区分すべからざる状態」になったとしているが、支那事変と大東亜戦争は「観念に於いて区別がある」と答弁している。

ちなみに、1941年12月12日の閣議決定では、「平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」とある。また、厚生労働省の資料に基づいて戦没者を祀る靖國神社では、戦死者の数は1941年12月8日より前の「支那事変」と「大東亜戦争」を分けて集計している。

連合国における呼称

米英などの連合国においては、戦時中から「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

戦後の呼称

GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止

1945年8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)<ref name=E>「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」SCAPIN No.448、1945年12月25日)である。これにより、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離せないと判断され、「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語を公文書で使用することが禁止された。

また、1945年12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戦争史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は速やかに「太平洋戦争」に置き換えられていった。

文藝評論家の江藤淳は、占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が存在したとし、これを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」としている江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、1989年 ※文春文庫版は1994年 ISBN 4167366088)。

呼称に対するGHQの検閲

占領中GHQは、公文書だけではなく、すべての出版物から「大東亜戦争」という言葉を抹殺しようと検閲を行った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」という言葉はすべて「太平洋戦争」と書き換えられたこれらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在は、このプランゲ文庫の全ての資料がマイクロフィルム化されており、日本の国立国会図書館で閲覧可能である。また、市販されている比較的入手可能な書籍で言えば、勝岡寛次著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社)が、原資料に基づきかなり多くの検閲の実例を挙げてこれらについて論証している。。

さらに、占領政策後期においては、この「事前検閲」は「事後検閲」へと変更された。すなわち、既に印刷製本が完成した出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に都合の悪い記述(GHQへの批判等)があれば、この本自体を出版停止とした。既に印刷した出版物の発行を禁止された出版社は、莫大な損害を蒙ることとなる。この検閲によって、出版社は自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版できなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、検閲は占領軍によってではなく、日本人自身によって行われたと想像されると主張している。

戦後の法令にみる呼称

GHQの神道指令により、「大東亜戦争」という用語公文書で使用することは禁止された。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。

また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。

呼称を巡る状況

日本の公教育、公文書作製、言論出版界においては、1952年の講和独立以降も、この「自己検閲」が続いたようで、「大東亜戦争」という言葉はほとんど一切使用されなかった。現在、「大東亜戦争」を使用している、いわゆる保守系の作家や評論家、雑誌や新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していたのである(一方、戦中派の一般国民の多くは大東亜戦争という言葉を遣い続けていた)。

このような風潮に対し公然と叛旗を翻した著述が、1964年に出された林房雄著『大東亜戦争肯定論』と1967年に出された名越二荒之助著『大東亜戦争を見直そう』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、社会主義幻想の崩壊等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活躍中の保守派知識人の多くが、かつてこの二冊を読んだことを述懐している。

また、1980年代に、作家の山中恒は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。これに対して、時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」という言葉が保守系の月刊誌で部分的に使われ始め、1990年に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後からは、その使用回数がさらに増えている。『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』等での使用頻度を数えてみればそれは一目瞭然である。もっとも、『前衛』や『論座』等のいわゆる左派系の月刊誌では、「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほとんど皆無である。また、日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『産経新聞』は比較的「大東亜戦争」を多用する。

大東亜戦争の呼称に否定的な意見としては、大東亜戦争の呼称の使用を主張する意見は、右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、戦争は解放戦争だった、良い面もあったなどといった自国中心の見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の呼称を使用する事が「戦争賛美」、「復古的国粋主義を煽る」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。これらの意見を主張している人々はリベラル・左翼が主であり、保守・右翼はこうした主張を自虐史観と非難している。

なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』光人社。

他の呼び方として、1931年の満州事変と1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、十五年戦争アジア・太平洋戦争と呼称することもある。しかし、満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことが妥当かについて賛否両論がある。庶民の日常感覚では、1937年以来が「戦争」であったことは、同時代の証言としては徳田秋声の『縮図』の冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。

また、イギリスの歴史家・ソーンは極東戦争(Far Eastern Conflict)という呼称を提唱している。なお、少数ながら主に民間で「8年戦争」という呼称が使用されている。

現在の日本政府による公式見解

現在の日本政府は、「大東亜戦争」の定義が1941年12月12日に当時の内閣によって閣議決定されたことを事実として確認している<ref name="第166">「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。が、同時に現在「大東亜戦争」という用語を政府の公文書では使用していないことを明らかにしている<ref name="第165">「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)。実際、現行法令の条文等には「大東亜戦争」という用語は使用されていない。 一方、「太平洋戦争」という用語については、「政府として定義したことはない」としている<ref name="第166" /><ref name="第165" />が、現行法令の条文などにはこの用語が使用されている。

答弁書では「昭和二十年十二月十五日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書においてお尋ねの呼称を使用しなくなった。」「公文書においていかなる用語を使用するかは文脈等にもよるもの」とされている<ref name="第165" />。

なお、天皇が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。

戦争の始まりと終わりについての諸説

日付はいずれも日本時間である。

始まり

終わり

  • 1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府によるポツダム宣言受諾通告
    • 終戦の詔書の日付も8月14日である。
  • 1945年8月15日 - 玉音放送
  • 1945年8月16日 - 日本軍への停戦命令
  • 1945年9月2日 - 戦艦ミズーリ上での降伏文書調印
  • 1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効
    • 国際法上の戦争終了は講和条約が発効した日とされる。このため、連合国による占領下で実施された「戦犯」裁判は、国際法上は戦闘行為の継続と解釈され、A、B、C級の「戦犯」刑死者に対して、日本政府は戦死者と同等の待遇を与え、その遺族に年金を支給している。同様の理由で、「戦犯」刑死者(服役中の死亡や未決拘禁中の死亡者を含む)は、戦死者と共に靖國神社にも合祀されている。

脚注

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関連項目

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外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 01:19。










    

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最終更新:2008年10月09日 23:28
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