天皇

thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]]

天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝君主を敬っていう称号君主号)もしくは謚号

古代から世襲により受け継がれた日本君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。

本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。

「天皇」の由来

「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。

  • 古代中国北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」から採ったという説。
  • 高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
  • 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。

はじめて採用されたのは推古朝という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、1998年飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。

称号の変遷

国内での天皇の称号の変遷について説明する。

古代

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。「てんのう」の読みは「てんおう」の連声による明治期の変化。

中世

天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。自称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。

なお、奈良時代天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武から持統天皇までの41代、及び元明元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみことすめろぎすべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇上皇と略称され、仙洞などともいった。出家すると法皇とも呼ばれた。光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

明治以降

大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

現在

なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「お上」「聖上」などの婉曲表現で呼ぶことはまれである。

一部の出版物及び印刷物において、敬称を用いない三人称に「○○(元号)天皇」(例:「平成天皇」)という称号が用いられる事も多い。これは、戦後、存命中の昭和天皇を「今上天皇」と表現せず「昭和天皇」と表記した事が始まりとされる。本来ならこれは諡号になるが、存命中に使用しても間違いとはされていない。

海外での呼称

英語における呼称

英語における天皇を意味する言葉は、原則として大文字の E を用いたEmperor である。定冠詞(the)を付ける場合もあるが、その場合でも大文字の E という原則は崩れない(固有名詞扱いであるため)。天皇を言及する際に用いられる尊称は His Majesty であるが、His Imperial Majesty と記すこともあり、また略してH.M. と記す場合もある。天皇は男性であるため、Her Majesty は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M. である。「~天皇陛下」という場合、正式には His [Imperial] Majesty (the) Emperor の後に名前を記す。天皇皇后両陛下という場合は、Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress となる。天皇に対する呼びかけは一般的に Your [Imperial] Majesty で、「皇帝としての威厳」に対して呼びかけるという形式になる。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、His/Her Imperial Highness であるが、この場合はImperial は省略できない。

歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。

朝鮮半島と天皇の呼称

Template:see also? 朝鮮半島は長く中国歴代王朝の属国として存在しており、朝鮮半島が属していた中原王朝では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため朝鮮ではこのように天皇家の皇や帝を称することを認めず「倭王」「日本国王」等の称号を用いたりした。近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、新たに大日本帝国の従属下に入った事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。朝鮮半島独立後は徹底した反日教育により、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。 朝鮮半島においては、戦後から一貫して教育現場、マスコミにおいて、日本を華夷秩序に基づいた蔑称で「倭」で呼ぶのが一般的であり、天皇の呼称も例外ではない。現在世界において、一国の元首を侮蔑した表記で記述、報道しているのは朝鮮半島の国家のみである。

この原因として韓国の「小中華主義」の他、朝鮮清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。

天皇の配偶者の称号

明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。

明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。

天皇家の姓氏

天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号とされており、苗字には当たらない。。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。

しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前進)は、姓を有していたとされている。5世紀倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101。吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店<角川選書>、2005、ISBN 4047033731。など。また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする考えもあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする見解が支持されている吉田前掲。。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説が有力となっている吉村前掲。。

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている吉田前掲。。

天皇の皇位継承

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明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照

皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承、あるいは帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(日本国憲法第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。()」とある。

憲法の規定

日本国憲法大日本帝国憲法での天皇の規定について説明する。

日本国憲法における天皇

現在において天皇は、日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法においては、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられ、憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。

天皇の地位

天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、これは主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。

天皇が日本国憲法の下における「元首」であるのか否かについては議論があるが、日本国憲法に元首について何ら記載がないこともあり、元首という用語の定義如何で元首であるかどうかの結論が異なるとされることが多い。

天皇は、諸外国からは元首としての扱いを受けている。オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているので、日本国内で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。

天皇の国事行為

天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為のみを行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下のとおり。

これらの天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う。(輔弼と同義)

大日本帝国憲法における天皇

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大日本帝国憲法プロイセン王国ベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。

法文を素直に解釈すると大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。

天皇の地位

大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

天皇の大権

大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。

衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。この構造が昭和に入ってから軍部に大きく利用されることとなり、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。

神道と天皇

天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は「国家神道」、「国体」を参照。また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっていたが、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめ、仏教とは疎遠となった。


これ以後の内容は天皇-2参照




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 12:01。












     

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最終更新:2008年09月23日 00:01
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