宮家

宮家(みやけ)とは、日本皇室で代々皇族の身分の保持を許された一家のことである。

宮(みや)とは、元々、天皇並びに皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。この「宮」という呼称を世襲することから「宮家」という言葉が起こった。ただし、法的な根拠を持つものではない。現在の法令上の取り扱いでは「○○宮」の称号はあくまでも宮家の当主個人の称号とされている。

現在の宮家

三笠宮の長男である寬仁親王も独立の生計を営んでいるが、三笠宮家の継承が予定されているため、独自の宮号は持っていない。

概略

鎌倉時代以降、親王宣下の制度により、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・上皇養子縁組猶子となって親王の称号を世襲する例が散見されるようになり、これを後世「世襲親王家」と呼んでいる。現在の「宮家」の源流である。たとえば、鎌倉時代中期に順徳天皇の皇子忠成王岩倉宮善統親王四辻宮を名乗り、子孫に宮号が伝わっている。

本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、室町時代に成立した亀山天皇の皇子恒明親王を始祖とする常盤井宮と、後二条天皇の皇子邦良親王を始祖とする木寺宮である。両親王とも、皇位を継承する可能性があったが、当時の持明院統大覚寺統両統迭立の情勢に翻弄され、実際には皇位に就く事がなかった。これらの親王には所領があり、子孫に代々経済的基盤として伝領された。

常盤井宮、木寺宮両家は、室町時代の後期頃には断絶したと考えられるが、この2つの宮家に次いで創設され、以後、戦後の皇籍離脱まで約550年間の長きに渡って続いたのが伏見宮である。

さらに、室町時代には、旧南朝の末裔である小倉宮玉川宮のような例も見られる。いずれにしても、皇位継承争いに敗れた皇族が、皇位を確保した本家に政治的に対抗するかたちで分家を創立する、というパターンは共通する。そのときどきの天皇にとっては、むしろ不本意な事態として、世襲親王家は発足したのである。

しかし、安土桃山時代以降は、朝廷の極度の衰退により、世襲親王家の創設は朝廷外部からの経済的支援がなければ不可能になり、朝廷にとってむしろ歓迎すべき事態へと変わってゆく。統一政権の成立とともに、桂宮有栖川宮閑院宮の3家が相次いで創設され、伏見宮とあわせて、この4つの世襲親王家を「四親王家」と呼ぶ。

四親王家

伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王(よしひとしんのう)が始祖である。第3代貞成親王(さだふさしんのう)の王子彦仁王が称光天皇の崩御後、正長元年(1428年)に後花園天皇となって皇位を継承した。

桂宮家は、正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁親王(としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、豊臣秀吉の猶子であったが、天正17年(1589年)に秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ「八条宮」の宮号を賜ったのが始まりである。以後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称し、明治14年(1881年)の第12代当主淑子内親王薨去まで存続した。

有栖川宮家は、寛永2年(1625年後陽成天皇の第7皇子好仁親王(よしひとしんのう)によって創設された。初めは高松宮と称した。好仁親王には後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、承応3年(1654年)兄の後光明天皇が没したため、良仁親王は後西天皇として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。

閑院宮家は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子直仁親王(なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王の王子・祐宮は皇嗣を儲けないまま22歳の若さで崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779年光格天皇となった。

以上、宮家から入って皇統を継いだ天皇は3例ある。

明治以降

幕末から明治時代にかけては新しい宮家が続々と新設され、それまで出家していた皇族が還俗して天皇の藩屏としての役割を担う事になった。 まず、文久3年(1863年)に中川宮(のちに賀陽宮を経て久邇宮に改称)、元治元年(1864年)に山階宮、以後明治3年(1870年)までに梨本宮、聖護院宮、北白川宮華頂宮、東伏見宮(明治15年に小松宮に改称)の各宮家が設立された。

明治22年(1889年)、旧皇室典範の制定によって永世皇族制が定められた。これにより、皇族の家格は廃止される。 旧皇室典範の制定後、明治33年(1900年)には賀陽宮、明治36年(1903年)には東伏見宮、明治39年(1906年)には竹田宮朝香宮東久邇宮の3宮家が設立された。 その後、大正天皇の3皇子のうち、大正2年(1913年)に宣仁親王が断絶した有栖川宮の祭祀を継承するために高松宮の宮号を賜り宮家を創立した。また、大正11年(1922年)に雍仁親王秩父宮を、昭和10年(1935年)に崇仁親王三笠宮の宮号を賜り宮家を創設した。

旧皇室典範は当初は永世皇族主義を本則として採用する一方、明治40年(1907年)に公布された皇室典範増補は、王が勅旨または情願により華族に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年(1920年)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、この準則が制定されてから旧皇室典範が廃止されるまで宮号を有しない又は継承しない王のうち、12人が華族に列せられている。第二次世界大戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、皇室財産の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三直宮家を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。現在の皇室典範は昭和22年(1947年5月3日に施行され(日本国憲法施行と同日)、同年10月14日に11宮家の皇籍離脱となった。これは形式的には、強制ではなく、皇族たち自身が皇族の身分を離れることを請願し、皇室会議の議決により皇籍を離れるものとされた。

現在かかえている問題

秋篠宮家に平成18年(2006年)に悠仁親王が誕生したが、それ以外の宮家については、昭和29年(1954年)の高円宮憲仁親王以来、宮家を継承する、あるいは新たに宮家を創設することができる男性皇族は誕生していない。現在の皇室典範では第9条で「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」とされており、第12条で「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とされている。

現状のままではいずれの宮家も近い将来に断絶してしまうことになり、皇位の補間としての宮家の立場から、宮家の存続をめぐり様々な意見がある。例えば、内親王女王による宮家の継承および創設を認める、既存の宮家の後継者としていわゆる旧皇族の男系子孫から養子(第1内親王・女王の婿等)を迎える、旧皇族を復籍するなどさまざまな意見はあるが、結論は出ていない。

関連項目

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 21:16。











    

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最終更新:2009年01月29日 23:08
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