日本近代史

日本近代史(にほんきんだいし)

明治時代

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大正時代

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1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会原敬が首相となった。政友会でも、西園寺公望薩摩藩閥と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州藩閥と結び付きが強かった。原敬の祖先は南部盛岡藩藩士であったが、1922年、東京駅頭で一青年に暗殺された。 この当時、社会問題の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。

1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。

大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄犬養毅らによる憲政擁護運動護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、1925年(大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年(昭和7年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。

このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介有島武郎武者小路実篤志賀直哉白樺派中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。

昭和時代

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急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものまでを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。

昭和初期

第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。

一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であったため国内の野党から「満州某重大事件」として追及された。田中は昭和天皇に事件の調査を約束しながら、陸軍の突き上げによって事態を曖昧にしようとしたため、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、一つもよしことなかったと揶揄された。

田中内閣はもともと前の大正政変で生まれた護憲三派内閣、特に幣原外交の中国内政不干渉政策を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、同年に3・15事件、翌年に4・16事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行なった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。

そんな中1929年10月24日ニューヨークウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた浜口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国フランス米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を負っていたドイツや、目ぼしい植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因となった。

各国が世界大戦後の財政負担に耐えかねている状況で米国や英国が中心となりワシントン軍縮条約が提案された。日本は英国・米国・フランス・イタリアと共に五大軍事大国としてこれに調印し、いわゆる列強になった。しかもワシントン条約の戦艦保有率を米英の5に対して日本が3を保持したことは、世界3位の国になったことになる。この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていたため、軍部や官僚の中でも激しい意見対立があった。

1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされ、政府の戦争不拡大の方針を軍が無視する形で満州事変に発展し、ポツダム宣言受諾による降伏まで15年もの間繰り広げる十五年戦争に突き進んだ。このことで中国での権益、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立は深まっていった。また1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件1936年皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。日本の満州建国に前後して、国際連盟リットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいった。

1936年には、盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争(日華事変)が始った。ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国軍事同盟(三国同盟)を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。

国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12)には、加藤勘十鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になって行った。

太平洋戦争

Template:main? 日中戦争開始後、1937年、資源局企画庁が統合されて企画院が設置され、満州国で功績を挙げた岸信介らの「革新官僚」が登用された。また近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争及び太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿東条英機小磯国昭鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局及び23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省及び警察主導の行政補助機関となって行った。

三国同盟の締結や仏印進駐によってアメリカ合衆国・イギリス・オランダとの関係が悪化し、戦争中の中華民国を含めて日本ではABCD包囲網と呼ぶ物資の入手困難な状況に陥った。大日本帝国では、大日本帝国陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰ノモンハンで偵察的な戦闘を行った際、ソビエト連邦軍戦車部隊に大敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相と中華民国の蒋介石がアメリカ合衆国の参戦を要望し、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領大日本帝国海軍の艦隊行動に激怒したことからコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地を返還する事などを要求する交渉案を提示され(通称ハル・ノート)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。このようにして太平洋戦争(当時の大日本帝国は戦争中一連の戦争を聖戦であるとみなし大東亜戦争と呼称した)が始まり、大日本帝国も第二次世界大戦に参戦することとなった。

1941年12月8日(現地時間12月7日)、大日本帝国海軍は、真珠湾攻撃で対米戦争を開始した。(開戦そのものについて、アメリカ側はルーズベルト大統領もハル国務長官もアメリカ大使館あてのパープル暗号電報を解読し内容は既に知られていた。外務省アメリカ大使館書記官の翻訳遅れで数時間宣戦布告の通告が遅れたので騙し討ちではないとの主張もある。開戦のリメンバー・パールハーバーのスローガンのもと反日感情が一気に高まった)しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六は一年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。大日本帝国海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦艦載機を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって活動中の戦艦を沈めるなど、アメリカ軍、イギリス軍、オランダ軍相手に連戦連勝であり、大日本帝国臣民はこの最初の大勝利に酔いしれた。

1942年、東条内閣は初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本青少年団大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。更に町内会部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。

当時大日本帝国は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として大日本帝国に賛成する動きも多かったが、大日本帝国の強硬な占領政策に大日本帝国への反発は大きくなっていった。大日本帝国はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは、事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無かったとの批判があった。

そして、これまで劣勢だった米国はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返し、次第に戦況は傾いていった。ミッドウェイ海戦では最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北した。しかしこの時から国民には偽りの戦況が伝えられ、大日本帝国臣民は大日本帝国海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで大日本帝国への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカ合衆国の数10分の1でしかない大日本帝国の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。

1944年7月にはサイパン島が陥落し、このことで大日本帝国本土は連日のように空襲に晒され、1945年3月10日には、大量無差別に民間人8万人以上殺され、焼失家屋は約27万8千戸、東京の3分の1以上の面積(40平方Km)が焼失するという東京大空襲が行なわれた。大日本帝国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。それに対して、各種和平工作が企図されるが、国際社会との窓口を自らすべて放棄した大日本帝国にはこの時点ではすでに降伏する以外の選択肢はなかった。翌1945年7月26日、連合国ポツダム宣言を発表するが、大日本帝国政府は直ちには正式回答せず、アメリカ軍によって世界ではじめての原子爆弾実戦使用として広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下され無差別に数十万人の民間人が殺されまたそれ以外の多数の民間人が被爆者にされた。そして御前会議の場において、昭和天皇の英断という形を取ることで政府は降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。

大日本帝国は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を行ったが、ヤルタ会談での連合国の申し合わせに従って大日本帝国政府にソ連対日宣戦布告を通告し、満州国に進撃した。関東軍は総崩れとなり、こぞって大日本帝国へ逃亡しようとした。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じた。これにより大日本帝国の無条件降伏は決定的となった。降伏の意思は翌8月15日正午、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により大日本帝国臣民に伝えられた。

降伏文書の調印は9月2日東京湾上の連合国、アメリカ合衆国海軍戦艦ミズーリ号艦上にて行われた。

連合国軍占領期

Template:main? 敗戦後、日本はそれまで領土としていた、台湾朝鮮南樺太南洋群島千島列島歯舞群島色丹島を失った。このうち、千島列島および歯舞群島・色丹島については、各種の議論があり、1875年の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となったため、日本は千島列島全島の領土権を主張できるとの考え方もあるが、日本政府は、千島列島のうち、国後島択捉島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞・色丹の2島は北海道に属すると説明している。また、ごく一部に南樺太の領有権を主張する動きもある。

1945年から1952年までの7年間にわたって、有史以来初めて外国(連合国軍最高司令官総司令部、多くの職員の国籍はアメリカ合衆国)に占領され、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また旧治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放及び被選挙権の停止措置が採られた。首相の座が目前の位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことを理由に、政治的活動が制約された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。

連合国 (Allies) の日本占領は、事実上のアメリカ合衆国の単独占領であったが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連スターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。

日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツオーストリアウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニアブルガリアハンガリーチェコスロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆使用の提案など強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、「占領」下のこととて当然とはいえ、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。検閲は戦前のような伏せ字による出版ではなく、書き直しが命じられた。1946年に日本国憲法が公布され、1951年日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま駐留軍と称して残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。

占領下の制定とはいえ、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約自衛隊が日本国憲法の平和主義に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。またこの憲法によって女性の選挙権が初めて認められた。

15年戦争と敗戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年には早くも現れ始めていた。その上、1949年に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎池部良久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄の下山事件三鷹事件松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の共産主義的教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風赤狩り)と軌を一にしていた。

文化面においては、日本映画が全盛時代を迎え、東映大映松竹東宝日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やポピュラー音楽も急速に流入した(当時は一般にポピュラー音楽はみな「ジャズ」と呼ばれた)。一方、国語の問題についても昭和21年の現代かなづかい当用漢字の制定や、新聞の検閲などが行われた。

講和後 - 昭和後期

自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、朝鮮戦争ベトナム戦争の軍需の有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要により、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、大阪万国博覧会の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。

この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、アメリカに朝鮮戦争の戦費を終戦処理費の名目で負担させられたり、米軍駐留に膨大な資金負担を要求されてきたことは見過ごされがちである。沖縄返還の時も日本政府はアメリカに対し多額の資金を提供した。日米安保条約日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。また、米軍駐留に対する日本の資金負担は、思いやり予算という形で現在も行われている。

急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職した彼らの豊富な労働力が日本経済を支えた。

一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、高等教育の大衆化がすすんだ。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にした彼らはそれを見習い、既存社会や日本共産党日本社会党等の「旧左翼」への反発から、新左翼学生運動をリードするようになり、大学紛争が激しくなった。大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争日大紛争を経て、彼らの多くは屈服を強いられ、一部セクトは「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。当初市民の間には、社会への不満から学園闘争へ共感を持つ者も少なくなかったが、その後彼らの起こすテロ活動や内ゲバが顕在化するにつれ、市民の支持を失っていった。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代は、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、消費者や地域住民という立場からなされる新しい市民運動が盛り上がった時期でもある。社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。

戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。

一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。

大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。しかし1970年ころには、日本人の貧しさはかなり解消され、高度経済成長は一段落した。オイルショックを境に、高度成長時代は終わり、低成長時代へと変化した。しかし輸出依存の体質による円高と貿易黒字が問題視されるようになり、プラザ合意をへて内需拡大政策のもとでバブル景気を引き起こしてしまう。そのような転換の中で平成を迎える。

平成時代

Template:main? 1991年ソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国のすべてが独立し、解体された。その後、新たな世界構造を模索する状態が続き、日本は、国際連合に協力して海外で国際連合平和維持活動部隊を展開するようになったり、米国主導の湾岸戦争に資金援助をしたりするようになった。冷戦期を通じて整備されていった自衛隊は、ついには驚異的な経済力と円高に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、行政が合憲と解釈し、裁判所も憲法判断を避けるという、明治憲法下の統帥権の解釈にも似ているとされるものが続いていたが、21世紀をむかえるころになって、湾岸戦争、国連平和維持活動、イラク戦争などで自衛隊の海外活動が活発化し、自民党の悲願であった憲法改正の議論が前よりは高まってきたといわれている。

世界屈指の豊かな国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。しかし1980年代後半からの異常な好景気が平成の幕開けとともに崩壊し、その後10年の間に経営の建て直しができなかった数多くの企業が倒産、もしくは欧米系企業を含む大手企業に買収された。企業の国際化によって人的な国際流動が活発になり、また南米出身の日系人を中心に、低賃金で働く発展途上国出身者を肉体労働者として雇うなど、社会の国際化がいっそう進んだ。価値観の多様化、個人主義という流れの中、戦後に確立した日本の社会価値観は変化した。家族の多様化に伴う共通価値観の変化、少年による凶悪犯罪、不況に伴う失業者の増加が問題視され、就職難で増加したフリーターニートがバッシングを受けるなど、多様化した社会への不安が強まっている。

そうした中で、経済の行き詰まりとも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「構造改革」の必要が各方面から叫ばれるようになった。とくに東海地方では、過疎化や産業空洞化が進展し、大都市との格差が広がった。2005年頃から企業業績が改善し、景気の回復が言われるようになった。しかし企業の人件費抑制などにより、国民の生活が豊かになっているという実感はごく一部に限られ、改革によって景気が良くなると言う展望も見えないまま、増税が相次いで打ち出されようとしている。

一方、アジアでは中華人民共和国大韓民国マレーシアベトナムなどの経済発展が目立ち、そのように大きく変化しつつあるアジアにおける日本の位置についても考え直す必要も指摘されている。少なくとも今日、日本のみがアジアで唯一経済的に繁栄することに成功した国ではなくなっている。それどころかこのままでは、近い将来、日本の成功ならぬ「日本の失敗」について語らなくてはならなくなるかもしれない。中華人民共和国の「四つの近代化」、マレーシアなどアセアン (ASEAN) 諸国の共同体形成と近代化、ベトナムのドイモイなども現代の経済発展システムとして発展途上国では、より自らに近似的な経験として、日本の経験以上に注目されるようになっている。その意味では日本についても内側から見るだけではなく、外側から見る視点も必要となっていると言えるし、アジアについてより多元的な視点から考えることも必要となろう。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月3日 (木) 05:54。










    

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最終更新:2008年10月02日 08:55
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