独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく、Template:lang-de-short?、Template:lang-ru-short?、Template:lang-en-short?)は、1939年8月23日にドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。犬猿の仲といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。
ヒトラー=スターリン条約とも呼ばれる。また、署名したモロトフ、フォン・リッベントロップ両外務大臣の名前を取り、モロトフ=リッベントロップ協定(Template:lang-ru-short?、Template:lang-en-short?)とも呼ばれる。
1933年にナチ党が政権を取り、1935年に再軍備宣言を行なうなど、ドイツがヴェルサイユ体制を脱して急速に勢力を拡大すると共に、ヨーロッパの国際緊張は次第に高まっていった。イギリス・フランスはそうしたドイツの勢力伸張に対して積極的に対抗や阻止を図ろうとせず、1938年3月にはオーストリア併合を、同年9月にはミュンヘン会談によってチェコスロバキアの西半分の併合を認めた。英仏のこうしたいわゆる「宥和政策」の理由については、ドイツを、共産主義国であったソ連の西ヨーロッパへの勢力拡大を防ぐ防波堤にしようという考えがあったとも、ヴェルサイユ条約でドイツに苛酷極まる賠償を課した事への贖罪意識であるとも、あるいは当時西ヨーロッパに広がっていた平和・反戦を求める世論に押されたともされる。世界恐慌後の深刻な不況下で、さらに植民地の民族運動に苦慮していた英仏が、大規模な戦争が勃発した場合には、もはや植民地帝国の維持が困難になることを懸念したともされる。
しかし1939年3月にはドイツは更にチェコスロバキアの占領と解体に至ると共に、以前からのポーランドとの対立が激化した(ダンツィヒ自由市や、ポーランド回廊の通行をめぐる対立)。もはやイギリスも対独宥和は不可能として、戦争勃発に際してはポーランドに軍事的な援助を与える事を公表した。だが、その実行にはポーランドと隣接するソビエト連邦の協力が不可欠である。英仏両国はソ連との交渉に入ったが、チェンバレンら英仏首脳はこの交渉に消極的で、8月に始まった本格的な協議もすぐに行き詰まってしまい、英仏とソ連の連携は頓挫した。ヒトラーが「ウクライナ(当時はソ連領)はドイツの生命線」と公言していた事もあり、ドイツが侵略の矛先をソ連に向けて戦争に入る可能性を英仏が期待していた事、ヒトラーがソ連と協調する可能性はないというのが当時の常識であった事などがその原因と考えられる。
ドイツでは、イギリス・フランスの干渉をはねのけてポーランド問題を円滑に解決する、つまり、ポーランドに外交面で強圧をかけて屈服させるにせよ戦争に訴えて撃滅するにせよ、英仏の介入を招く事なく行うにはどうしてもソ連との結託が必要と見て、英仏と並行して秘密裏にスターリン、モロトフと接触し、英仏の対ソ交渉が失敗するのとほぼ同じ1939年8月にはついに独ソ不可侵条約の締結に至る。 また、当時のドイツ軍首脳部にはゼークト(ドイツ軍再建に尽力した功労者)をはじめとする親ソ的な勢力が強かったことも見逃せない。ヴェルサイユ体制下のドイツは厳しい軍備制限を受けていたが、軍首脳部は将来の再軍備に向けて密かにソ連と協定し、ソ連国内で兵器開発や軍事訓練を行なっていたという事実がある。
ソ連でも、英仏とドイツという対立する二つの陣営のどちらに付くかは、軍事的にも経済的にもまだ弱体であった当時では重要な選択肢であった。1937年から始まったスターリンによる大粛清でソ連軍の実力が大幅に落ち込んでいた事実もあったほか、1939年5月にノモンハン事件が勃発し、日本と戦闘状態に入っていた(日ソの休戦協定は独ソ不可侵条約の締結後)ことから、日独挟撃を回避する意図もあったとされる。
スターリンがドイツへの接近を決めたのは、ミュンヘン会談で英仏がソ連の安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアをドイツに渡した結果であるとする、つまり1938年9月以降とする説があり、またジョージ・ケナンは、スターリンは1937年には既に決意しており、大粛清は独ソ接近に対する反対派を処分するための手段であった、と考えている。
条約は全7条。内容は次の通り。
*〔笹本駿二『第二次世界大戦前夜』(岩波新書、1969年)より抜粋〕
公表された内容は上記のようなごく平凡なもので、独ソの結託という大事件の結果としては取るに足らないものでしかない。そのため、必ず裏取引――秘密議定書があると、成立当初から疑われていた。事実、第二次世界大戦後にそれは明らかにされている。そこでは、東ヨーロッパにおける独ソの勢力範囲の線引きが画定され、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏に入れ、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意していた。
なお、のちにバルト三国がソ連より独立する際、上記の秘密議定書を根拠に主権の回復を主張することになる。
この条約の締結により、ドイツは東西2正面での開戦という最悪の事態を避けられるようになり英仏との戦いに有利な状況ができたため、第二次世界大戦の勃発を早める結果となった。戦後に東西冷戦が始まると、アメリカを中心にこの点が問題視され、「スターリンは、ヒトラーの背後の安全を保証してやってドイツと英仏を戦わせ、両陣営が消耗するのを待ってヨーロッパの支配に乗り出す魂胆だったのだ」と主張されるようになった。一方で親ソ的な言論の中には、当時のソ連が英仏独という大国のいずれからも敵視され戦争に巻き込まれる危険を抱えていたので、ドイツか英仏のどちらかと手を結ばざるを得なかったのである、とする意見がある。
いずれにせよ、ヒトラーもスターリンも独ソ不可侵条約は互いの勢力拡大の前段階としての一時的な協調に過ぎないと考えていたのは確かである。条約は1941年6月にドイツからの攻撃開始で破綻したが、仮にドイツが先制攻撃をしなかったとしても、いずれ軍備増強が完了すればソ連の方から戦端を開いたであろう事は日ソ中立条約の例からも充分考えられる。実際、独ソ戦では緒戦でソ連は大敗北を喫したが、それはドイツ攻撃のためソ連軍が南方に集結しており、中央部の防御が手薄になっていたためだとする説もある(独ソ戦を参照)。
西欧の共産主義者や社会民主主義者に与えた影響は大きく、イギリスとフランスは共に8月25日ポーランドと相互援助条約を結んだ。独ソ両国は同条約の秘密議定書に従い、ドイツは同年9月1日、ソ連は9月17日にポーランドに軍を進め、東西から分割占領した。第二次世界大戦のはじまりである。
ソ連は、ドイツがフィンランドを勢力範囲の一つとして容認したと解釈し、同年11月30日に軍を隣国フィンランドに侵入させた。フィンランドはこれをソ連に対する冬戦争と呼び、大部隊を擁する侵入軍に果敢に抵抗し、手痛い打撃を与えた。
ドイツでは、反ソ主義者ローゼンベルクらが、まるで「古くからの党の仲間のあいだにいる」かのよう、という調印の時のリッベントロップの感想を槍玉に挙げるなど、条約を快く思わない人々がいたようである。1941年6月22日にはドイツは同条約を破棄、ソ連領内に侵入した(独ソ戦)。
日本では、ソ連を後ろ盾とするモンゴル人民共和国との国境紛争・ノモンハン事件(1939年5月11日~9月15日)の最中で、ドイツ政府の本条約締結を日独防共協定違反行為とみなし、平沼内閣は、8月25日に日独同盟の締結交渉中止を閣議決定し、8月28日に「欧州情勢は複雑怪奇」と声明し、責任をとって総辞職した。
調印時にスターリンはたばこを左手に持っていた。ヒトラーは「偉大な二つの国が、荘厳な条約を締結した」としながらも、「(指にたばこをもった)この写真だと真剣さが足りないと思われるかもしれない」として写真から取り除かせた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 06:52。