パリ講和会議

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[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳、[[ロイド・ジョージ]](イギリス)、[[ジョルジュ・クレマンソー]](フランス)、[[ヴィットリーオ・オルランド]](イタリア)、[[ウッドロウ・ウィルソン]](アメリカ)]] '''パリ講和会議'''(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、[[1919年]]1月18日に開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[三国同盟|同盟国]]の講和条件について討議した会議である。[[ヴェルサイユ宮殿]]で講和条約の調印式が行われたことから、'''ヴェルサイユ会議'''とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]の[[フランス外務省]]内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、[[ヴェルサイユ条約]]を参照のこと)。 == 概要 == 第一次世界大戦は、[[1918年]][[11月]]に[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]の14か条を[[ドイツ]]が受け入れたことで、休戦が成立した。本会議はそれを受けて上記の通り開かれたものである。 この会議で締結された諸々の条約および[[国際連盟]]については、それぞれの関連項目を参照のこと。 この会議では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[大英帝国|イギリス]]・[[フランス]]が主導権を握り、敗戦国は会議から除外された。アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]は、[[十四か条の平和原則]]を主張したが、これはイギリス・フランスによって、ほぼ無視された。 === 日本の対応 === 会議は英米仏伊の四カ国に日本を合わせた計五カ国による「十人会議」が会議のほとんどを支配した。日本以外の四カ国は大戦中から戦略会議を開いていたという古い関係があり、ここに日本を加える予定は全くなかったのであるが、[[珍田捨巳]]駐英大使他の必死の奔走で辛くも日本代表を含ませることができたのであった。 日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]・[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]](個人的にも[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]フランス首相とは親友であった)及び[[牧野伸顕]]らが任命されたが、会議では日本が「五大国」と称されながら、実際の発言力が低かった事で批判を浴びた。 === 山東問題 === 日本は第一次世界大戦への参戦に際して、[[山東半島]]の旧ドイツ権益を奪取した。日本は同大戦中の[[対華21ヶ条要求]]を通じて、[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。 一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として[[顧維鈞]]を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。 そして[[門戸開放政策]]を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。 結果としては[[ヴェルサイユ条約]]において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中国では[[五四運動]]が起こり、中国はこれを調印しなかった。またアメリカにおいては対日感情が悪化し、日系[[移民]]排斥にいっそう拍車がかかることになる。 == 国際連盟の設立 == [[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]の14か条によって提案されたもので、[[ヴェルサイユ条約]]によって成立した。しかし、アメリカ合衆国自身は、議会の反対により国際連盟に参加しなかった。 詳細については[[国際連盟]]の項を参照。 == 日本の「人種差別撤廃案」 == 日本の代表団は[[国際連盟]]の規約に[[人種差別撤廃条項]]を加えるよう提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。 当初、この提案は多くの植民地を有するイギリスやオーストラリアなどに猛反対され一度は退けられたが、日本代表団は交渉を続け、4月11日の最終委員会において国際連盟規約の前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むよう再度提案する。修正案は採決の結果、出席者16名中11名の賛成(フランス・イタリア他)を得るに至り、賛成多数により可決と思われたが、しかし議長であったアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]大統領はこの案に反対。それまで全ての議題は多数決で採決されていたにも関わらず、突如『重要な議題については全会一致が必要である』として日本の提案を退けた(外務省記録「人種差別撤廃」、『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻)。この否決を受けてアメリカでは黒人達の暴動が発生し、エジプト・インド・東南アジアなどでは独立運動の声が高まった。 当時のアメリカではアジア系移民の排斥運動が問題になっており、ウィルソンは人種差別撤廃に反対するアメリカ世論におもねったと見られるが、これにより日本国内では反米感情が高まった。 さらに1924年アメリカでいわゆる[[排日移民法]]が成立し、日系移民が全面禁止されると国民の対米感情の悪化は決定的なものとなる。こういった流れが[[満州事変]]、さらには[[太平洋戦争]]へとつながる端緒の一つとなったとする意見もある。 == 結果と評価 == ともあれ、この会議によって一連の関連条約が結ばれ、第一次世界大戦は終戦することになる。 これ以降[[ヨーロッパ]]においてはヴェルサイユ体制と呼ばれる秩序が、[[第二次世界大戦]]前まで続くことになる。 === ヴェルサイユ体制 === この体制の維持には、ワシントン体制の維持と同様に[[社会システム論]]に基づく[[蝶番国家]]であるアメリカの経済が順調であることが必要条件であった。 具体的には、アメリカは *ドイツに対して財政面、物資面での援助を行い、それを元にドイツは連合国に対して賠償金を支払い、アメリカが連合国からの戦債を回収する *軍事費に苦しむ日本に対して、融資を行うとともに軍備削減を要求する というものである。 従って、ヴェルサイユ・ワシントン体制は[[1929年]]のアメリカの金融恐慌を機に崩壊していくことになる。 == 関連項目 == *[[第一次世界大戦]]の[[講和条約]] **[[ブレスト・リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]] **[[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]] **[[ヌイイ条約]] - 対ブルガリア王国 **[[サン=ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]([[オーストリア・ハンガリー帝国]]) **[[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]](オーストリア・ハンガリー帝国) **[[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]] **[[国際連盟]] *[[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]] {{第一次世界大戦}}   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月2日 (水) 06:47。]    
[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳、写真左から[[ロイド・ジョージ]](イギリス)、[[ジョルジュ・クレマンソー]](フランス)、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]](イタリア)、[[ウッドロウ・ウィルソン]](アメリカ)]] '''パリ講和会議'''(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、[[1919年]]1月18日に開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[三国同盟 (1882年)|同盟国]]の講和条件について討議した会議である。[[ヴェルサイユ宮殿]]で講和条約の調印式が行われたことから、'''ヴェルサイユ会議'''とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]の[[フランス外務省]]内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、[[ヴェルサイユ条約]]を参照のこと)。 == 概要 == 第一次世界大戦は、[[1918年]][[11月]]に[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]の14か条を[[ドイツ]]が受け入れたことで、休戦が成立した。本会議はそれを受けて上記の通り開かれたものである。 この会議で締結された諸々の条約および[[国際連盟]]については、それぞれの関連項目を参照のこと。 この会議では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[大英帝国|イギリス]]・[[フランス]]が主導権を握り、敗戦国は会議から除外された。アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]は、[[十四か条の平和原則]]を主張したが、これはイギリス・フランスによって、ほぼ無視された。 === 日本の対応 === 会議は英米仏伊の四カ国に日本を合わせた計五カ国による「十人会議」が会議のほとんどを支配した。日本以外の四カ国は大戦中から戦略会議を開いていたという古い関係があり、ここに日本を加える予定は全くなかったのであるが、[[珍田捨巳]]駐英大使他の必死の奔走で辛くも日本代表を含ませることができたのであった。 日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]・[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]](個人的にも[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]フランス首相とは親友であった)及び[[牧野伸顕]]らが任命されたが、会議では日本が「五大国」と称されながら実際の発言力が低かった事で批判を浴びた。 === 山東問題 === 日本は第一次世界大戦への参戦に際して、[[山東半島]]の旧ドイツ権益を獲得した。日本は同大戦中の所謂[[対華21ヶ条要求]]を通じて、[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。 一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として[[顧維鈞]]を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。 そして[[門戸開放政策]]を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。 結果としては[[ヴェルサイユ条約]]において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中国では[[五四運動]]が起こり、中国はこれを不満として調印しなかった。また権益を得られなかったアメリカでも対日感情が悪化し、日系[[移民]]排斥にいっそう拍車がかかることになる。 == 国際連盟の設立 == [[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]の14か条によって提案されたもので、[[ヴェルサイユ条約]]によって成立した。しかし、アメリカ合衆国自身は、議会の反対により国際連盟に参加しなかった。 {{main|国際連盟}} == 日本の人種差別撤廃案 == 日本の代表団は[[国際連盟]]の規約に[[人種的差別撤廃提案|人種差別撤廃条項]]を加えるよう提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。 英豪などが反対する中、出席者16名中11名の賛成多数を得たが、議長を務めた米国は突如として全会一致を主張、多数決を無視して本提案を退けた。この拒絶を受け、日本は欧米白人社会、特にアメリカに対する不信感を強める事になる。両国の対立感情はその後の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])への呼び水となった。 {{main|人種的差別撤廃提案}} == 結果と評価 == ともあれ、この会議によって一連の関連条約が結ばれ、第一次世界大戦は終戦することになる。 これ以降[[ヨーロッパ]]においてはヴェルサイユ体制と呼ばれる秩序が、[[第二次世界大戦]]前まで続くことになる。 === ヴェルサイユ体制 === この体制の維持には、ワシントン体制の維持と同様に[[社会システム論]]に基づく[[蝶番国家]]であるアメリカの経済が順調であることが必要条件であった。 具体的には、アメリカは * ドイツに対して財政面、物資面での援助を行い、それを元にドイツは連合国に対して賠償金を支払い、アメリカが連合国からの戦債を回収する * 軍事費に苦しむ日本に対して、融資を行うとともに軍備削減を要求する というものである。 従って、ヴェルサイユ・ワシントン体制は[[1929年]]のアメリカの金融恐慌を機に崩壊していくことになる。 == 参考文献 == * NHK取材班 編『<small>日本の選択1</small> 理念なき外交 「パリ講和会議」』([[角川文庫]]、1995年) ISBN 4-04-195403-7 * マーガレット・マクミラン 著\稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ <small>1919年パリ講和会議の群像</small>』上、下(芙蓉書房出版、2007年) : 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8 * [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 <small>両大戦間の巨人たち</small>』(情報文化研究所、2000年) ISBN 4-7952-8238-2 * イアン・ニッシュ 著\関静雄 訳『戦間期の日本外交 <small>パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで</small>』([[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年) ISBN 4-623-04074-7 == 関連項目 == * [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]] ** [[ブレスト・リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]] ** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]] ** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]] ** [[サン=ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]([[オーストリア・ハンガリー帝国]]) ** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]](オーストリア・ハンガリー帝国) ** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]] ** [[国際連盟]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月26日 (金) 14:02。]    

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