ヤルタ会談

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[[画像:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|320px|thumb|ヤルタ会談(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]・[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]])]] '''ヤルタ会談'''(ヤルタかいだん)は、[[1945年]]2月に[[ソビエト連邦|ソ連]][[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]で行われた、[[フランクリン・ルーズベルト|F.ルーズベルト]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])・[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]([[イギリス]])・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]([[ソビエト連邦|ソ連]])による首脳会談。 == 概要 == [[連合国]]の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、[[第二次世界大戦]]後の処理について[[ヤルタ協定]]を結び、イギリス・アメリカ・[[フランス]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]の4カ国による[[ドイツ]]の戦後の分割統治や[[ポーランド]]の国境策定、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]の[[バルト三国]]の処遇などの[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国の戦後処理を発表した。 併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定も締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および[[千島列島]]、[[樺太]]などの[[日本]]領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連(現在の[[ロシア]])両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「[[北方領土]]問題」の原因となった。 === 常任理事国 === また、その後正式に発足した[[国際連合]]の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・[[中華民国]]・ソ連の5カ国(後の国際連合[[常任理事国]]メンバー)の[[拒否権]]を認めたのもこの会談であった。 == ポーランド問題 == ヤルタ会談の半分以上の日程は、この[[ポーランド]]問題について話し合われた。 第二次世界大戦中、[[ポーランド]]は西半分を[[ドイツ]]に、東半分を[[ソビエト連邦|ソ連]]に、それぞれ分割占領されていた。しかし、[[ドイツ]]が[[独ソ不可侵条約]]を破って、東半分に進軍し、ポーランド全域を占領した。その後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の支援を受けたソ連は、軍を立て直して、再び東半分をドイツから奪還し、[[ルブリン]]で、ポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権、[[ルブリン]]は地名)を樹立した。 ソ連は、さらに西へ軍を進め、首都[[ワルシャワ]]に迫ったとき、[[モスクワ放送]]で、[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]](ポーランドの市民で作る、反[[ナチス・ドイツ|ナチス]]勢力)に蜂起を呼びかけた([[ワルシャワ蜂起]])。国内軍は、ソ連からの支援を信じて蜂起し、ワルシャワを占領するが、国内軍の蜂起後、ソ連は進軍を停止し、国内軍を支援しなかった。国内軍に、ソ連からの支援がないことを知った[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、ワルシャワの徹底的破壊を指示し、国内軍は壊滅した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者を出したといわれる。 このとき、アメリカと[[イギリス]]は、ソ連に国内軍への支援を要求したが、当時のソ連指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はこれを無視した。当時、[[ロンドン]]にポーランドから亡命していた指導者たちで作る、[[亡命政権]]が存在し、イギリスは、亡命政権をポーランドの正式な政権として、承認していた。しかし、[[カティンの森]]で、ソ連軍に連行されたポーランドの将兵の死体が、大量に発見される([[カティンの森事件]])と、イギリスは[[赤十字]]に調査を依頼した。これにより、イギリスとソ連の関係が悪化し、また、イギリスの承認する亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連は各国に、ポーランドの正式な政権は、ロンドンの亡命政権ではなく、ルブリン共産党政権だと認めさせるために、ルブリン共産党政権に、ポーランドの実質的な統治をさせたいと考え、そのために邪魔となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。 ヤルタ会談では、ロンドンの亡命政権と、ルブリン共産党政権のどちらが正式な政府かを巡って、イギリスとソ連が対立し、平行線をたどった。ポーランドは地理的な問題から、ソ連にとっても、イギリスにとっても重要な国であった。ソ連にとっては、隣国であり、ドイツのソ連侵攻の拠点になったことから、安全上の問題で、重要だった。一方、イギリスにとっては、首相の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]が、[[社会主義]]の拡大を懸念していたため、[[共産党]]政権を認めることはできなかった。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国自体を、西へ移動させることで決着した。 ところが、スターリンは選挙のために戻ってきたロンドン亡命政権の指導者を逮捕し裁判にかけた。これにより、ポーランドはルブリン共産党政権によって統治されること、また社会主義国となることが決定的となった。後のアメリカ大統領、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]はこのことを知って激怒し、米ソの対立が深まっていった。 == ドイツ問題 == ドイツは現在の[[オーデル・ナイセ線]]以東にある[[シレジア]]、[[ポメラニア]]、[[東プロイセン]]の領土をすべて失い、これらの領土は[[ポーランド]]領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の四分の一にあたり、ドイツにとっては[[プロイセン]]の故地である東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。 なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながった。また、[[ガリチア]]等旧西部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。 一方、戦後ドイツの処遇について、[[東側陣営]]と[[西側]]陣営で共同管理することが決められた。 == 極東密約(ヤルタ協定) == 主に[[日本]]に関して、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]、ソ連の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、およびイギリスの[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]との間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは[[千島列島]]をソ連に引き渡すことを条件に、[[日ソ中立条約]]の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、[[樺太]](サハリン)南部をソ連に返還すること、[[千島列島]]をソ連に引き渡すこと、[[満州]]の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた。<br/> ヤルタ協定に従って、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本に宣戦布告。戦争を終結させる勢力の実も実り ポツダム宣言受諾・有条件降伏を決めた。 === その他の国について === この密約の会談では、[[日本]]以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、[[カイロ会談]]で決定していた[[台湾]]の[[中華民国|中国]]への返還を改めて確認した。また、ここでいう中国とは[[蒋介石]]の率いる[[中国国民党]]であり、当時はソ連も国民党を中国の正式な政権として支持していた。また、[[朝鮮半島]]は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深まるようになると、その[[代理戦争]]が[[朝鮮戦争]]となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。 == 批判 == 本会談の意義は、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国の立場からみた領土や戦後イニシアティブといった、戦後世界の枠組みに関する利害調整の場であったという批判が多い。中でも、領土に関するさまざまな取決めについては、関連当事者抜きで決定されている事項ばかりで、本会談の決定により、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐にわたる影響を及ぼしている。 アメリカにとって、ドイツ敗戦後も長く続くことが予想された[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])での自国の損失を抑えるため、まだ日本と[[日ソ中立条約]]を結んでいたソ連に条約破棄・対日参戦させることに比重を置いた会談であった。ソ連参戦後間もなく日本が降伏したため、日本降伏後のソ連の戦果(日本のポツダム宣言受諾までは2日間しかない)に日本の領土を与えるという、結果としてソ連に非常に有利な内容になった。 [[2005年]]5月、世界における自由と民主化の拡大を意図しているアメリカの[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ大統領]]は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先の[[ラトビア]]で冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。 また、ヤルタ協定は、当事国が関与しない領土の移転は無効という[[国際法]]の条文{{要出典}}に違反している為、ソ連・ロシアによる[[南樺太]]及び[[千島列島]]を侵略・占領は法的根拠が無いとする多くの主張が日本以外にもある。更に、連合国自らが領土拡張の意図を否定した[[カイロ宣言]]と矛盾することも批判を招いている。 == 冷戦 == この会談以後の戦後体制をしばしば'''ヤルタ体制'''と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする[[資本主義]]国陣営と、ソ連を中心とする[[共産主義]]国陣営の間で本格的な東西[[冷戦]]が開始されたと言われている。 == 関連作品 == * [[日本放送協会|NHK]] [[映像の世紀]] 第七集 『勝者の世界分割』 == 関連項目 == * [[ポツダム会談]] * [[ポツダム協定]] * [[ポツダム宣言]] * [[冷戦]] * [[ウィンストン・チャーチル]] * [[ヨシフ・スターリン]] * [[フランクリン・ルーズベルト]] * [[ハリー・S・トルーマン]] == 外部リンク == * [http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450211.T1J.html ヤルタ協定] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月29日 (木) 18:58。]      
[[画像:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|320px|thumb|ヤルタ会談(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]・[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]])]] '''ヤルタ会談'''(ヤルタかいだん)は、[[1945年]]2月に[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]で行われた、[[フランクリン・ルーズベルト|F.ルーズベルト]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])・[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]([[イギリス]])・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]([[ソビエト連邦|ソ連]])による首脳会談。 なおクリミア半島は歴史的にはタタール人とスラブ系により争われてきた土地であるが、18世紀末以降(会談当時も)ロシア・[[ソビエト連邦|ソ連]]が占領していた。のち、冷戦期初期に[[ウクライナ]]に割譲され、現在に至る。地理的にはウクライナの半島に他ならない。 またヤルタはクリミア諸島の南端、黒海を臨むリゾート地。このソ連唯一のリゾート地に米英首脳を迎えたのであった。 == 概要 == [[連合国]]の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、[[第二次世界大戦]]後の処理について[[ヤルタ協定]]を結び、イギリス・アメリカ・[[フランス]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]の4カ国による[[ドイツ]]の戦後の分割統治や[[ポーランド]]の国境策定、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]の[[バルト三国]]の処遇などの[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国の戦後処理を発表した。 併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定も締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および[[千島列島]]、[[樺太]]などの[[日本]]領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連(現在の[[ロシア]])両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「[[北方領土]]問題」の原因となった。 === 常任理事国 === また、その後正式に発足した[[国際連合]]の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・[[中華民国]]・ソ連の5カ国(後の国際連合[[常任理事国]]メンバー)の[[拒否権]]を認めたのもこの会談であった。 == ポーランド問題 == ヤルタ会談の半分以上の日程は、この[[ポーランド]]問題について話し合われた。 第二次世界大戦中、[[ポーランド]]は西半分を[[ドイツ]]に、東半分を[[ソビエト連邦|ソ連]]に、それぞれ分割占領されていた。しかし、[[ドイツ]]が[[独ソ不可侵条約]]を破って、東半分に進軍し、ポーランド全域を占領した。その後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の支援を受けたソ連は、軍を立て直して、再び東半分をドイツから奪還し、[[ルブリン]]で、ポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権、[[ルブリン]]は地名)を樹立した。 ソ連は、さらに西へ軍を進め、首都[[ワルシャワ]]に迫ったとき、[[モスクワ放送]]で、[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]](ポーランドの市民で作る、反[[ナチス・ドイツ|ナチス]]勢力)に蜂起を呼びかけた([[ワルシャワ蜂起]])。国内軍は、ソ連からの支援を信じて蜂起し、ワルシャワを占領するが、国内軍の蜂起後、ソ連は進軍を停止し、国内軍を支援しなかった。国内軍に、ソ連からの支援がないことを知った[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、ワルシャワの徹底的破壊を指示し、国内軍は壊滅した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者を出したといわれる。 このとき、アメリカと[[イギリス]]は、ソ連に国内軍への支援を要求したが、当時のソ連指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はこれを無視した。当時、[[ロンドン]]にポーランドから亡命していた指導者たちで作る、[[亡命政権]]が存在し、イギリスは、亡命政権をポーランドの正式な政権として、承認していた。しかし、[[カティンの森]]で、ソ連軍に連行されたポーランドの将兵の死体が、大量に発見される([[カティンの森事件]])と、イギリスは[[赤十字]]に調査を依頼した。これにより、イギリスとソ連の関係が悪化し、また、イギリスの承認する亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連は各国に、ポーランドの正式な政権は、ロンドンの亡命政権ではなく、ルブリン共産党政権だと認めさせるために、ルブリン共産党政権に、ポーランドの実質的な統治をさせたいと考え、そのために邪魔となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。 ヤルタ会談では、ロンドンの亡命政権と、ルブリン共産党政権のどちらが正式な政府かを巡って、イギリスとソ連が対立し、平行線をたどった。ポーランドは地理的な問題から、ソ連にとっても、イギリスにとっても重要な国であった。ソ連にとっては、隣国であり、ドイツのソ連侵攻の拠点になったことから、安全上の問題で、重要だった。一方、イギリスにとっては、首相の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]が、[[社会主義]]の拡大を懸念していたため、[[共産党]]政権を認めることはできなかった。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国自体を、西へ移動させることで決着した。 ところが、スターリンは選挙のために戻ってきたロンドン亡命政権の指導者を逮捕し裁判にかけた。これにより、ポーランドはルブリン共産党政権によって統治されること、また社会主義国となることが決定的となった。後のアメリカ大統領、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]はこのことを知って激怒し、米ソの対立が深まっていった。 == ドイツ問題 == ドイツは現在の[[オーデル・ナイセ線]]以東にある[[シレジア]]、[[ポメラニア]]、[[東プロイセン]]の領土をすべて失い、これらの領土は[[ポーランド]]領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の四分の一にあたり、ドイツにとっては[[プロイセン]]の故地である東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。 なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながった。また、[[ガリチア]]等旧西部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。 一方、戦後ドイツの処遇について、[[東側陣営]]と[[西側]]陣営で共同管理することが決められた。 == 極東密約(ヤルタ協定) == 主に[[日本]]に関して、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]、ソ連の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、およびイギリスの[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]との間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは[[千島列島]]をソ連に引き渡すことを条件に、[[日ソ中立条約]]の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、[[樺太]](サハリン)南部をソ連に返還すること、[[千島列島]]をソ連に引き渡すこと、[[満州]]の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた。<br/> ヤルタ協定に従って、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本に宣戦布告。戦争を終結させる勢力の実も実り ポツダム宣言受諾・有条件降伏を決めた。 === その他の国について === この密約の会談では、[[日本]]以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、[[カイロ会談]]で決定していた[[台湾]]の[[中華民国|中国]]への返還を改めて確認した。また、ここでいう中国とは[[蒋介石]]の率いる[[中国国民党]]であり、当時はソ連も国民党を中国の正式な政権として支持していた。また、[[朝鮮半島]]は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深まるようになると、その[[代理戦争]]が[[朝鮮戦争]]となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。 == 批判 == 本会談の意義は、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国の立場からみた領土や戦後イニシアティブといった、戦後世界の枠組みに関する利害調整の場であったという批判が多い。中でも、領土に関するさまざまな取決めについては、関連当事者抜きで決定されている事項ばかりで、本会談の決定により、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐にわたる影響を及ぼしている。 アメリカにとって、ドイツ敗戦後も長く続くことが予想された[[太平洋戦争]]での自国の損失を抑えるため、まだ日本と[[日ソ中立条約]]を結んでいたソ連に条約破棄・対日参戦させることに比重を置いた会談であった。ソ連参戦後間もなく日本が降伏したため、日本降伏後のソ連の戦果(日本のポツダム宣言受諾までは2日間しかない)に日本の領土を与えるという、結果としてソ連に非常に有利な内容になった。 [[2005年]]5月、世界における自由と民主化の拡大を意図しているアメリカの[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ大統領]]は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先の[[ラトビア]]で冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。 また、ヤルタ協定は当事国が関与しない領土の移転は無効という[[国際法]]に違反しているため、ソ連・ロシアによる[[南樺太]]及び[[千島列島]]の侵略・占領は法的根拠が無いとする多くの主張が日本以外にもある。更に、連合国自らが領土拡張の意図を否定した[[カイロ宣言]]と矛盾することも批判を招いている。 == 冷戦 == この会談以後の戦後体制をしばしば'''ヤルタ体制'''と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする[[資本主義]]国陣営と、ソ連を中心とする[[共産主義]]国陣営の間で本格的な東西[[冷戦]]が開始されたと言われている。 == 関連作品 == * [[日本放送協会|NHK]] [[映像の世紀]] 第七集 『勝者の世界分割』 == 関連項目 == * [[ポツダム会談]] * [[ポツダム協定]] * [[ポツダム宣言]] * [[冷戦]] * [[ウィンストン・チャーチル]] * [[ヨシフ・スターリン]] * [[フランクリン・ルーズベルト]] * [[ハリー・S・トルーマン]] == 外部リンク == * [http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450211.T1J.html ヤルタ協定] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月11日 (木) 15:03。]      

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