朝鮮総督府

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[[Image:Korean Government-General Office.JPG|thumb|300px|朝鮮総督府庁舎]] '''朝鮮総督府'''(ちょうせんそうとくふ)は、[[1910年]]([[明治]]43年)、[[日韓併合]]によって、[[日本統治時代の朝鮮|日本の領土となった朝鮮]]を統治するために当時の[[大日本帝国|日本政府]]が[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]](現在の[[大韓民国]][[ソウル特別市]])の[[景福宮]]の敷地内に設置した[[官庁]]である。 [[韓国統監府]]を前身とし、[[大韓帝国|大韓帝国政府の組織]]を改組・統合したが主要高官はほぼ日本人であった。初代総督は[[寺内正毅]]。総督は日本の現役の[[陸軍大将]]か[[海軍大将]]が歴任した。[[1945年]][[太平洋戦争]]における日本の敗戦に伴い連合軍の指示により業務を停止。その権限は[[アメリカ軍政庁]]に引き継がれた。 総督府により、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まり等が行われた<ref name="相賀">相賀徹夫著・編『日本大百科全書 15』1987年 小学館</ref><ref>フランク・B・ギブニー著『ブリタニカ国際大百科事典 13』1974年 TBS-Britannica </ref><ref>下中直人編『世界大百科事典』1988年 平凡社</ref>。[[インフラ]]の整備が行われ結果として[[伝染病]]の予防や出生率の増加におよび<ref name="朝統">朝鮮総督府『統計年報』</ref><ref name="文雄">[[黄文雄]]『歪められた朝鮮総督府』光文社</ref>、教育施設では[[皇民化教育]]、[[日本語]]や[[ハングル]]<ref name="基鎬">崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』詳伝社</ref>の教育が進められた。これらの政策や事業に対しては批判する意見と評価する意見がある。 == 概要 == 朝鮮総督は[[天皇]]に直隷し、朝鮮における[[軍事権]]、[[立法権]]、[[行政権]]、[[司法権]]を掌握し、広大な権限を行使した。朝鮮総督府には[[朝鮮総督府政務総監|政務総監]]、総督官房と5部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置されたほか、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局([[朝鮮総督府鉄道]])、[[専売局]]、地方行政区画である道、府、郡など朝鮮の統治機構全体を包含していた。朝鮮総督の政策は、日本の利益を最優先とし、[[植民地]]を日本に同化し[[満州]]進出の基礎とすることを目的としたものであり、現地文化に対して極めて否定的な態度をとり、総督府統治に反対する[[朝鮮独立運動]]を厳しく取り締まった<ref name="宮田"/>。 日本政府は朝鮮を内地と同様の経済水準に引き上げるため、多額の[[予算|国家予算]]を朝鮮半島に投資した。鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場などのインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島の近代化に役立っていった<ref>Cumings Bruce (1984a), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton:Princeton University Press</ref>。こうした結果、朝鮮半島で流行していた伝染病が予防され、農地の開発等により食糧生産が増加(併合当初米の生産量が約1千万石であったものが、20年後には2千万石へと倍増)したことにより、朝鮮半島の人口は、併合前の[[1906年]]には1600万人程度だったものが[[1940年]]には2,400万人程となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、[[1942年]]には45歳まで伸びることとなった<ref name="朝統"/><ref name="文雄"/>。 朝鮮における経済開発は主として日本の工業化を補完する目的で行われ、高い経済発展とは裏腹にその果実の大部分が在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低かったとする研究者もいる<ref>「日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する」p34~37</ref>。また植民地一般の傾向にもれず、植民者たる在朝日本人と原住民たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きいものがあったと主張する者もいる<ref>「[http://www.jkcf.or.jp/history/3/06-0k_hsy_j.pdf 日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済]」</ref>。 === 政策の変遷 === 朝鮮総督府の初期の政策は「[[武断政治]]」と呼ばれた<ref name="馬場">馬渕貞利「朝鮮総督府」『世界大百科事典』日立デジタル平凡社、1998年。</ref><ref>『日本史B用語集』山川出版社2000年。</ref><ref name="宮田">[[宮田節子]]「日本の朝鮮統治」『大日本百科事典』</ref>。[[武断政治]]は、[[植民地]]同化政策に反対する[[独立運動]]弾圧のために政治活動を一切禁止し、徹底した[[軍政]]のもと植民地統治の基礎を作ることを目的とした。このため朝鮮に日本の[[憲法]]を施行せず軍の大権により統治するとした。総督の命令(制令)が司法・行政・立法の全機能を有し、帝国議会の議決は不要とされた。言論、集会、結社の自由も、(国際世論への配慮のため)一部のキリスト教徒を除き大きく制限され、朝鮮警察事務をすべて日本軍に委任し、通常の警察でなく軍の憲兵(軍事警察)が一般警察官を兼ねるとした(併合年で憲兵は2019名。その内1012名は朝鮮人であった)。憲兵は一般の朝鮮人に対して極めて威圧的な制度だったと言われている。具体的にはスパイや義兵鎮圧の名目で、法的手続なしに朝鮮人を逮捕し処罰出来るものであり、朝鮮人の日常生活に関与した<ref name="馬場"/>。 憲兵は一般行政事務として「日本語普及」や徴税も行い、農事改良をし、「所有者のいない」農地を接収した。総督府は土地所有者の調査を進め、所有者のいない土地は接収し、[[東洋拓殖]]に買い取られ、進出した[[日本人]]や現地有力者に分配された。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである<ref>山本有造『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会</ref>。李氏朝鮮時代の韓国は、農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていた。日本は朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益をもたらすようになった<ref>朴泰赫『醜い韓国人』</ref>。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の儲けを得ていた。その代表例は[[サムスングループ]]の創始者である[[李秉喆]]である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に[[1938年]]に[[大邱]]にて[[三星商事]]を設立し、これがのちの[[サムスングループ]]に発展していった<ref>[http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_aboutkorea_detail.htm?no=333 KBS WORLD]</ref>。その反面、[[農家|農民]]が土地を手放し、困窮した人々が満州や日本国内、[[沿海州|ロシア沿海州]]などへ移住する結果となってしまったとする論もある{{要出典}}。また土地調査事業は、申告主義による所有権確立が目的だったが、周知の不徹底や課税を恐れ不申告の土地が多数有った{{要出典}}。結果的に多くの土地が国有地に編入され、朝鮮の農民の多くが土地の所有権を喪失したとする研究者もいる<ref>『東洋史辞典』東京創元社、1980年p.577。「朝鮮土地調査事業」の項。</ref>。逆にソウル大学の[[李栄薫]]教授は、韓国で教えられている「日帝による土地収奪論」は神話であり、客観的数値で見ても日本が編入した朝鮮の土地は10パーセントに過ぎないとしている<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20041120000000 ソウル大教授、日本による土地収奪論は神話]</ref>。 李氏朝鮮では庶民に対する教育をする機関がほぼなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができなかった。また朝鮮では両班を中心に漢字が重視されており、ハングル(朝鮮語)は軽視され、普及していなかった<ref>姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』朝日文庫</ref><ref>姜在彦『朝鮮の歴史と文化』明石書店</ref>。そうした中、日本は朝鮮語教育に力を入れ、ハングルを学校の必修科目とした。朝鮮民衆に八ングルが広まったのは、日本の政策の結果であったとする者もいる<ref name="基鎬"/>。その一方、[[日本語]]教育など同化政策も進められていた。 選挙権・被選挙権に関しては、属地主義を採っていたため、朝鮮半島では権利はなかったが、内地においては朝鮮人にもこれらの権利が与えられた。そのため衆議院議員の[[朴春琴]]をはじめ、貴族院議員には通算10人の朝鮮人議員が任命されている。また地方の郡守、面長(村長に相当)は原則として朝鮮人であった<ref>杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』</ref>。 [[石窟庵]]等の遺跡、総督府庁舎の置かれた[[景福宮]]等が破却や損傷を受けており、[[慶熙宮]]のように完全に破却された宮殿もあった<ref name="tanaka">田中禎彦「20世紀前半の朝鮮総督府による朝鮮の歴史的建造物の調査保存事業について」『日本建築学会計画系論文集』594号 日本建築学会 2005年8月p.207-214 ISSN:13404210</ref>が、景福宮正門であった[[光化門]]<ref>完全に撤去する予定だった<ref name="tanaka"/>が、日本の[[柳宗悦]]など一部の文化人の反対により宮殿東側に移築されていた。</ref>や[[崇礼門]]など、保存運動などによって保存された建造物もあった。また、北関大捷碑など各地にあった[[文化財]]も日本により朝鮮半島外へ持ち出されることがあった<ref name="tanaka"/>。 [[1919年]]の[[三・一独立運動]]後、[[内地|日本内地]]における[[大正デモクラシー]]の影響もあって「武断政治」は融和的な「文化政治」([[朝鮮総督府#文化政治|文化政治]]参照)に転換するが、[[1937年]]に[[日中戦争]]が勃発すると朝鮮でも戦時体制下で[[皇民化教育|皇民化政策]]<ref>この一環として、日本語の普及を目指した「国語常用」運動があり、最終的に朝鮮語の公教育からのほぼ完全な追放へとつながった(熊谷明泰「[http://www.kansai-u.ac.jp/fl/pdf/aveducation29/1-5_kumatani.pdf 賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動]」(PDF)『関西大学視聴覚教育』29号2006年3月31日p.55-77 。ISSN:13431099</ref>が推進され、日本が敗戦を迎えるまで各種の人的資源の動員や、様々な[[資源]]、[[食品|食糧]]の日本への大量移送などが行われた<ref name="宮田"/>。朝鮮人の中には軍人・軍属として第二次世界大戦に参加した者([[朝鮮人日本兵|朝鮮人志願兵]]含む)や、「従軍[[慰安婦]]」として働いた朝鮮人女性も存在した。 === 警察機構 === 当時韓国統監であった[[寺内正毅]]は併合直前の[[1910年]]7月に[[明石元二郎]][[憲兵隊]][[司令官]]に警務総長を兼務させることによって[[憲兵]]と普通[[警察]]を一体化した。これを[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|憲兵警察制度]]という。韓国併合年で「憲兵警察」と「一般警察」を合わせて、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。「憲兵警察」は2019名(その内、朝鮮人は1012名)であった<ref>水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁</ref>。 朝鮮全土に[[日本軍]]や警察が配置され、憲兵以外の[[軍人]]も統治や警察活動を行った。丁度その頃に開設された[[西大門刑務所]]は、独立運動家を多く収容したことで知られている{{要出典}}。朝鮮独立を求める運動や日本支配への抵抗運動は厳しく取締りが行われた<ref name="馬場"/>。憲兵警察は[[文化政治]]への転換に伴い廃止される。[[朝鮮総督府警察]]は普通警察に移行した後も、日本内地の警察には無い[[機関銃]]、[[野砲]]等の重装備を保有しており、日本の支配が及ばない[[中国]]領から越境してくる独立派[[武装勢力]]との戦闘を行う{{要出典}}など[[警察軍]]的性格を有していた。 === 文化政治 === [[三・一独立運動]]に衝撃を受けた日本政府は、武力だけで朝鮮支配は不可能と判断し、また大正デモクラシー期における政党内閣の登場や、武断政治批判の日本国内世論にも配慮し、武断政治を一部変更した。[[原敬]]首相は、[[長谷川好道]]総督を更迭し穏健派の[[斎藤実]]総督(海軍大将)を任命した。民族運動の要求を一部受容し、運動を分裂・弱体化させることで安定的支配を構築することを目指したが、政策の基本は内地延長主義、すなわち同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的差別を縮小し、現地の不満を減少させ同化をはかるものである{{要出典}}。 1919年8月20日勅令により総督武官制を廃止し、制度上は文官でも総督就任可能としたが、実際には実現せず、斎藤以外の総督はすべて陸軍大将だった。また普通警察制度への改編をはかり、憲兵警察を廃止したが、多くの警察が日本から派遣され警察官は1919年の6,387人から1920年には20,134人へと急増した。独立運動の監視体制はむしろ強化された<ref name="相賀"/>。言論や結社の自由はやや緩和され、韓国語の新聞・雑誌の発行が認められた。この時代には朝鮮人による合法的民族運動が盛り上がり、朝鮮文学の発展や大都市における大衆文化の発達が見られた{{fact}}。ただし[[同化教育]]はさらに推進され、学校での朝鮮語の時間は減少し、かわりに日本語の時間を増加させた<ref name="kumatani">熊谷明泰「[http://www.kansai-u.ac.jp/fl/pdf/aveducation29/1-5_kumatani.pdf 賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動]」(PDF)『関西大学視聴覚教育』29号2006年3月31日p.55-77 。ISSN:13431099。</ref>。1938年4月1日からは小学校教育における教授用語が日本語に限定された(小学校令16条8号)。小学校未就学の青年には「朝鮮特別青年錬成所」への一年の入所を義務とし、600時間の教育を行った。このうち日本語教育が400時間を占めた<ref name="kumatani"/>。 1924年には[[京城帝国大学]]が開設され、{{要出典範囲|民立大学期成運動に対抗した}}。大学内では日本人学生が6割以上を占め、教育内容は日本文化中心であった。1940年4月には「忠良有為ノ皇国民ヲ錬成スル」という目的を掲げた<ref>『国史大辞典』第5巻、吉川弘文館1984年P.42上沼八郎「京城大学」の項。</ref>。 == 職員 == [[台湾総督府]]をはじめとする他の外地政庁と異なり、朝鮮総督府は[[大韓帝国]]政府の機構を殆どそのまま継承したため、最初から多くの朝鮮人[[官僚]]を抱えていた。 === 王公族・朝鮮貴族 === 特権的身分制度が設けられ、韓国の旧皇族は[[王公族]]に、韓国併合に功績あるものは[[朝鮮貴族]]となった。 == 庁舎建築 == [[1995年]]まで見られた旧朝鮮総督府の庁舎は、景福宮<ref>[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]の王宮、皇宮。[[風水|風水思想]]に基づいて造営されていた</ref>内部を破却して1926年に造られた建築である{{要出典}}。日本で事務所を開いていた[[ドイツ人]][[建築家]][[ゲオルグ・デ・ラランデ]]が基本設計を行い、デ・ラランデの死後、日本人建築家([[野村一郎]]、[[國枝博]]ら)が完成させた。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っていた。 * 建築概要 ** 階数:5階建/構造:鉄筋コンクリート造 ** 建坪:2,134坪1合6勺(約7,055m2)/総延坪:9,619坪7合5勺(約31,800m2) ** 軒高:75尺(約22.7m)、中央塔高180尺(約54.5m) ** 室数:257室/大広間:210坪(約694m2)/大会議室106坪4合(約351m2)/様式:復興式 ** 外壁体:花崗石(ソウル東大門外産出)、内部壁間煉瓦積 ** 工費:636万4,482円(外に外囲倉庫及構内整理費38万7,500円) 日本軍は宮殿正門の[[光化門]]を撤去し<ref name="iwai">岩井長三郎「総督府新庁舎の計画及実施について」『朝鮮』朝鮮雑誌社 1926年4月p.10-26。復刻、皓星社 1998年。<!--CiNiiでは「新庁舎」の「新」の欠落。誤記。--></ref>朝鮮王朝の正宮だった[[景福宮]]内部の建物を8割以上を破却し<ref name="iwai"/>、宮殿正面に総督府庁舎を建て、街から宮殿は見えなくなった。これらにより[[朝鮮民族]](朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の[[象徴]]ともいわれるようになった。これも現在まで続く[[反日感情]]の一因であると見られている。 === 独立後の庁舎 === [[Image:Japanese General Government Building 1995.jpg|thumb|300px|1995年に撮影された国立中央博物館(旧朝鮮総督府庁舎)]] [[1948年]]8月、大韓民国政府の樹立に伴い旧総督府の庁舎は政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれた。大韓民国の成立宣言はここで行われている。 その後、韓国国内でも、旧[[植民地]]の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論が行われたが、[[大韓民国|韓国]]の国立中央博物館として利用されることになった。依然として、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、王宮が破却された状態であったことにより、保存か解体かの論議がしばしば再燃した。最終的には、かつての王宮を塞ぐ形で建てられていることから、反対意見を押し切り、旧・王宮前からの撤去が決まった。撤去の方法として移築も検討されたが、莫大な費用がかかるため、[[1995年]]に尖塔部分のみを残して庁舎は解体された。現在、尖塔部分は[[天安市]]郊外の「独立記念館」に展示されている。跡地には庁舎建設によって取り壊された王宮の一部が復元され、現在は同宮の正面入口となっている。 ; 韓国における近代建築の保存 旧朝鮮総督府庁舎は撤去されたが、旧[[ソウル駅]]舎(旧京城駅)([[塚本靖]]設計と言われる)や[[韓国銀行]]本店(旧[[朝鮮銀行]]、[[辰野金吾]]設計)などについては保存措置が講じられている。[[西大門刑務所]]は現在博物館となり周囲は独立公園となっている。 == 前史 == ''朝鮮総督府設置に至る歴史については[[韓国併合]]を参照'' == 朝鮮総督府の組織 == * 総督官房 * 総務部 - 人事局、外事局、会計局 * 内務部 - 地方局、学務局 * 度支部 - 司税局、司計局 * 農商工部 - 殖産局、商工局 * 司法部 * [[朝鮮総督府中枢院|中枢院]] - 朝鮮人名士を主体とする諮問機関。但し、政策決定には朝鮮人は関与させなかった<ref>『国史大辞典』第9巻、吉川弘文館1983年P.619水野直樹「朝鮮総督府」の項。</ref>。 == 朝鮮総督府の職制 == * 総督 - 陸海軍大将を以て充てる、[[親任官]]。 * 政務総監 - 親任官。 * 長官 - 各部の長。[[勅任官]]。 * 局長 - 各局の長。勅任官。 * [[参事官]] - [[奏任官]]。2名の内1名を勅任官にできる。 * [[秘書官]] - 奏任官。2名。 * 書記官 - 奏任官。19名。 * [[事務官]] - 奏任官。19名。 * 技師 - 奏任官。30名の内2名を勅任官にできる。 * [[通訳|通訳官]] - 奏任官。6名。 * 技手 - [[判任官]]。337名。 * 通訳生 * 総督府附武官 - 陸海軍[[少将]]又は[[佐官]]を以て充てる。[[参謀]]。 * 専属副官 - 陸海軍佐[[尉官]]を以て充てる。 == 歴代朝鮮総督 == 日本政府は[[台湾]]に比して朝鮮を重視して、[[台湾総督]]と異なり、韓国統監・朝鮮総督には相当地位の高い[[政治家]]・軍人が任用された。総督は海軍大将の斎藤を除く全てが陸軍大将。 * '''韓国統監''' *# [[伊藤博文]] *# [[曽禰荒助]] *# [[寺内正毅]] * '''朝鮮総督''' *# 寺内正毅(兼任、後に専任) *# [[長谷川好道]] *# [[斎藤実]] *# [[宇垣一成]](臨時代理) *# [[山梨半造]] *# [[斎藤実]] *# [[宇垣一成]] *# [[南次郎]] *# [[小磯国昭]] *# [[阿部信行]] == 年表 == * 1905年5月28日 - [[京釜線|京釜鉄道]]開通式 * 1905年11月17日 - [[第二次日韓協約]](乙巳保護条約)締結 * 1906年2月1日 - [[韓国統監府]]設置 * 1907年6月25日 - [[ハーグ密使事件]] * 1907年7月20日 - [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]退位、[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]即位。翌年にかけて[[日本軍]]は[[反日義勇軍]]1万4千人との1774回の戦闘を行った<ref>『国史大辞典』第3巻、吉川弘文館 1984年 P.813 臼井勝美「韓国併合」の項。</ref>。 * 1907年8月1日 - 韓国軍解散 * 1908年12月18日 - [[東洋拓殖|東洋拓殖会社]]設立 * 1909年7月6日 - 日本、[[韓国併合]]方針を閣議決定 * 1909年10月26日 - [[ハルビン]]で[[伊藤博文]]が[[暗殺]]される * 1909年12月4日 - 韓国の[[一進会]]より「[[韓日合邦を要求する声明書]]」の上奏文が提出される * 1910年3月14日 - 土地調査事業開始 * 1910年6月30日 - 憲兵警察制度発足 * 1910年8月22日 - [[日韓併合条約|韓国併合ニ関スル条約]](日韓併合条約)調印 * 1910年8月29日 - 朝鮮総督府設置 * 1911年8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。 * 1912年1月1日 - [[標準時]]を[[韓国標準時]]から[[日本標準時]]に変更 * 1914年3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制) * 1919年1月21日 - 高宗死去 * 1919年3月1日 - [[三・一独立運動]]始まる * 1919年8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任 * 1919年8月20日 - 憲兵警察制度廃止 * 1919年10月5日 - [[金性洙]]、[[京紡|京城紡織株式会社]]設立 * 1920年3月5日 - [[朝鮮日報]]創刊 * 1920年4月1日 - [[東亜日報]]創刊 * 1920年12月27日 - 総督府、産米増産計画立案 * 1926年4月1日 - [[京城帝国大学]]開設 * 1927年2月16日 - [[社団法人]][[朝鮮放送協会|京城放送局]]、[[ラジオ|ラジオ放送]]開始 * 1927年5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立 * 1929年11月3日 - [[光州学生事件]]( - 1930年3月) * 1930年5月30日 - [[間島]]5・30事件 * 1931年7月2日 - [[万宝山事件]] * 1931年9月18日 - [[満州事変]]勃発 * 1931年1月8日 - [[韓人愛国団|愛国団]]員・[[李奉昌]]、[[東京市|東京]]で[[昭和天皇|天皇]]暗殺未遂事件([[桜田門事件]]) * 1931年4月29日 - 愛国団員・[[尹奉吉]]、上海爆弾テロ事件([[上海天長節爆弾事件]]) * 1936年8月9日 - [[孫基禎]]、[[ベルリンオリンピック]][[マラソン]]で優勝 * 1937年6月1日 - [[金日成]]、[[普天堡の戦い|普天堡襲撃事件]]を起こす * 1937年7月7日 - [[日中戦争]]勃発 * 1937年10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。 * 1938年2月26日 - [[志願兵|陸軍特別志願令]]公布 * 1938年3月4日 - 朝鮮教育令改正、[[朝鮮語]]の授業必須から外す * 1940年2月11日 - [[創氏改名]]実施 * 1941年3月31日 - [[国民学校]]規定改正、朝鮮語の授業廃止 * 1941年12月8日 - [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])勃発 * 1942年10月1日 - 朝鮮語学会事件 * 1944年4月1日 - 第1回徴兵検査開始 * 1944年8月23日 - [[女子挺身隊]]勤労令公布 * 1945年8月9日 - [[ソビエト連邦|ソ連]]対日参戦、[[豆満江]]を越える。 * 1945年8月15日 - 日本政府、[[ポツダム宣言]]受諾。[[呂運亨]]、[[朝鮮建国準備委員会]]結成 * 1945年8月21日 - [[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]、[[平壌]]進駐 * 1945年8月25日 - [[アメリカ軍]]、[[仁川広域市|仁川]]上陸 * 1945年9月6日 - 呂運亨らは[[朝鮮人民共和国]]の樹立を宣言 * 1945年9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における[[占領行政|軍政]]を宣言(即時独立否認) * 1945年9月9日 - 総督府、降伏文書に調印 == 脚註 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[日本統治時代の朝鮮]] * [[韓国統監府]] * [[朝鮮総督府警察]] * [[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)]] * [[朝鮮銀行]] * [[朝鮮放送協会]] * [[朝鮮総督府鉄道]] == 外部リンク == * [http://www.kcn.ne.jp/~eijun/soutokuhu/soutokuhu.html 旧朝鮮総督府]<!--個人ブログ?--> * [http://homepage2.nifty.com/hashim/seoul/seoul011.htm 総督府変遷の写真]<!--個人ブログ?--> * [http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kougi.htm#Kindai 朝鮮近現代史(大阪産業大学藤永壯研究室)] * [http://ilc2.doshisha.ac.jp/tmitsui/lecture/chiiki2007/chiiki02_04.htm 植民地支配下の朝鮮] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月31日 (土) 13:32。]     

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