鰻香内閣

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'''鰻香内閣'''(まんこうないかく)とは、[[1914年]]の[[シーメンス事件]]による[[第1次山本内閣|山本権兵衛内閣]]の[[内閣総辞職|総辞職]]後に、[[枢密院顧問]][[清浦奎吾]]が[[組閣]]の[[大命降下]]を受けながら辞退に追い込まれた騒動を皮肉った表現である。 == 貴族院と山本内閣倒閣運動 == シーメンス事件で[[山本権兵衛]][[内閣総理大臣|首相]]の出身母体である[[大日本帝国海軍|海軍]]と特定企業の癒着が問題になった際に、新年度予算案における海軍予算の削減が問題となった。[[貴族院_(日本)|貴族院]]では最大会派の[[研究会_(貴族院)|研究会]]と同じく有力会派の[[茶話会]]が実現不可能な削減要求を成立させて山本内閣を総辞職に追い込んだ。研究会と茶話会はいずれも[[元老]][[山県有朋]]の側近である清浦奎吾と[[平田東助]]が貴族院議員時代に代表者を務めていた会派であり、[[超然主義]]を奉じて[[政党政治]]に否定的な姿勢を示していた。特に当時貴族院の最大会派であった研究会は[[政党]]との関係を持っただけで議員が会派から[[除名]]されるほどの徹底ぶりであったとされるほどの反政党主義であり、ともに山本が[[立憲政友会]]から閣僚を入れたことに反感を抱いていた。そこでこれを好機として、平田が清浦や[[田健治郎]]らを誘って倒閣運動を起こしたのであった。 == 幻の「鰻香内閣」 == [[3月24日]]の総辞職を受け、元老達が最初に後継首班に推薦したのは[[貴族院議長]]で[[徳川宗家]]16代当主(最後の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川慶喜]]の[[養嗣子]])の[[徳川家達]]であった。だが、[[徳川氏]]一門の中には[[明治維新]]の際に新政府が強引に徳川氏を[[朝敵]]とした事に未だに快く思わないものもおり(そもそも元老たちは元[[奇兵隊]]隊長の山縣をはじめとして明治維新の中核となった連中であった)、家達に迫って辞退をさせてしまった。 そこで[[3月31日]]に元老会議は改めて清浦を後継首班に推薦したのを受けて、清浦は[[大正天皇]]より組閣の大命を受けた。そこで清浦は平田や[[宗像政]]([[東京府知事]])とともに組閣を開始した。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の方は軍の長老である山県の強い後押しで[[岡市之助]]を[[陸軍大臣]]に内定した。その他の大臣も[[海軍大臣]]以外はほぼ内定したが、清浦の意向によって貴族院や[[官僚]]出身者が占めるいわゆる[[超然内閣]]の色彩の強いものとなった。 これに対して[[4月2日]]に立憲政友会と[[立憲国民党]]が超然内閣反対決議を採択して清浦新内閣の[[野党]]になる事を宣言した。更に海軍も清浦が海軍大臣就任を希望していた[[加藤友三郎]][[中将|海軍中将]]([[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]][[司令長官]])が[[斎藤実]]前海軍大臣とともに予算案の否決で中止された新艦艇建造計画の復帰とその予算復活を求めたが[[4月6日]]に清浦はこれを拒絶、海軍は海軍大臣の推薦を事実上拒絶した。そもそも、新艦艇計画中止のきっかけとなった予算案否決は平田が主導して清浦も乗ったものであり今更復活させるわけにはいかず、当時は[[軍部大臣現役武官制]]が政党主導による改正で緩和されていたもののそれに反対した清浦が[[予備役]]の起用を行うわけにもいかず、遂に[[4月7日]]に組閣を断念したのである。その結果、今度は[[大隈重信]]に大命が降下されて[[4月16日]]に[[第2次大隈内閣|大隈重信内閣]]が成立した。 清浦は組閣辞退の直前に記者団に対して「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」とぼやいた。大和田とは当時人気の[[鰻屋]](現在も「鰻割烹 大和田」として営業している)の事で、前を通っていると美味しい匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待っても[[うな丼]]にはありつけないという有様を組閣の現状に重ね合わせたものであったが、世間はうなぎの匂い(大命降下)だけで結局うな丼(首相の地位)にはありつけなかった清浦を嘲笑してこれを「'''鰻香内閣'''」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだのである。 == 後日譚と清浦内閣 == 一方、清浦とその支持勢力であった研究会はこの顛末にひどく失望した。特に研究会の議員は元は平田と茶話会が仕掛けた倒閣運動に由来するのに、清浦が組閣に失敗したのは平田が清浦に大命降下が下った事に嫉妬したからではないかと疑った。かつて、平田も[[1912年]]に元老会議で後継首班に推挙されたが、諸般の事情で辞退して大命降下には至らなかった経緯があったからである。勿論、平田や茶話会にとっては思わぬ言いがかりであり、当の清浦でさえ相手にしなかった臆説でしかなかったが、両会派が以前から貴族院内の主導権を巡って対立を起こすことが多かったために、ここに来て一気に対立が表面化したのである。その結果、かつては同じ「山県閥」として貴族院を主導してきた両会派は決別して研究会は政友会との関係を強め、茶話会はしばらくはなお超然主義を維持したものの、研究会との対抗上遅れて国民党などとの関係を強める路線に転換する事になった。 この確執は根深く、10年後の[[1924年]]に[[内大臣]]であった平田の奔走によって清浦に再度大命が降下して今度は[[清浦内閣]]が成立した。その結果、茶話会からも[[江木千之]]が[[文部大臣]]として入閣する。ところが、[[外務大臣|外務]]・陸軍・海軍の3大臣がそれぞれの省から出された以外は全て貴族院議員7名が占める超然内閣にしたにも関わらず、清浦系の研究会が3ポストを占めた事から茶話会は激怒し、閣僚を出しているにも関わらず他の反研究会会派とともに「[[幸三派]]」と呼ばれるグループを結んで清浦内閣と研究会を非難して[[第2次護憲運動]]を側面支援することになったのである。 == 関連項目 == *[[シーメンス事件]] *[[超然内閣]] *[[研究会_(貴族院)|研究会]] *[[茶話会]] *[[清浦内閣]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%B0%BB%E9%A6%99%E5%86%85%E9%96%A3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月13日 (金) 10:40。]     
'''鰻香内閣'''(まんこうないかく)とは、[[1914年]]の[[シーメンス事件]]による[[第1次山本内閣|山本権兵衛内閣]]の[[内閣総辞職|総辞職]]後に、枢密院顧問[[清浦奎吾]]が[[組閣]]の[[大命降下]]を受けながら辞退に追い込まれた騒動を皮肉った表現である。 == 貴族院と山本内閣倒閣運動 == シーメンス事件で[[山本権兵衛]][[内閣総理大臣|首相]]の出身母体である[[大日本帝国海軍|海軍]]と特定企業の癒着が問題になった際に、新年度予算案における海軍予算の削減が問題となった。[[貴族院_(日本)|貴族院]]では最大会派の[[研究会_(貴族院)|研究会]]と同じく有力会派の[[茶話会]]が実現不可能な削減要求を成立させて山本内閣を総辞職に追い込んだ。研究会と茶話会はいずれも[[元老]][[山縣有朋]]の側近である清浦奎吾と[[平田東助]]が貴族院議員時代に代表者を務めていた会派であり、[[超然主義]]を奉じて[[政党政治]]に否定的な姿勢を示していた。特に当時貴族院の最大会派であった研究会は[[政党]]との関係を持っただけで議員が会派から[[除名]]されるほどの徹底ぶりであったとされるほどの反政党主義であり、ともに山本が[[立憲政友会]]から閣僚を入れたことに反感を抱いていた。そこでこれを好機として、平田が清浦や[[田健治郎]]らを誘って倒閣運動を起こしたのであった。 == 幻の「鰻香内閣」 == [[3月24日]]の総辞職を受け、元老達が最初に後継首班に推薦したのは[[貴族院議長]]で[[徳川宗家]]16代当主(最後の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川慶喜]]の[[養嗣子]])の[[徳川家達]]であった。だが、[[徳川氏]]一門の中には[[明治維新]]の際に新政府が強引に徳川氏を[[朝敵]]とした事に未だに快く思わないものもおり<ref>そもそも元老たちは元[[奇兵隊]]隊長の[[山縣有朋]]をはじめとして明治維新の中核となった者たちであった。</ref>、家達に迫って辞退をさせてしまった。 そこで[[3月31日]]に元老会議は改めて清浦を後継首班に推薦したのを受けて、清浦は[[大正天皇]]より組閣の大命を受けた。そこで清浦は平田や[[宗像政]]([[東京府知事]])とともに組閣を開始した。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の方は軍の長老である山縣の強い後押しで[[岡市之助]]を[[陸軍大臣]]に内定した。その他の大臣も[[海軍大臣]]以外はほぼ内定したが、清浦の意向によって貴族院や[[官僚]]出身者が占めるいわゆる[[超然内閣]]の色彩の強いものとなった。 これに対して[[4月2日]]に立憲政友会と[[立憲国民党]]が超然内閣反対決議を採択して清浦新内閣の[[野党]]になる事を宣言した。更に海軍も清浦が海軍大臣就任を希望していた[[加藤友三郎]][[中将|海軍中将]]([[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]][[司令長官]])が[[斎藤実]]前海軍大臣とともに予算案の否決で中止された新艦艇建造計画の復帰とその予算復活を求めたが[[4月6日]]に清浦はこれを拒絶、海軍は海軍大臣の推薦を事実上拒絶した。そもそも、新艦艇計画中止のきっかけとなった予算案否決は平田が主導して清浦も乗ったものであり今更復活させるわけにはいかず、当時は[[軍部大臣現役武官制]]が政党主導による改正で緩和されていたもののそれに反対した清浦が[[予備役]]の起用を行うわけにもいかず、遂に[[4月7日]]に組閣を断念したのである。その結果、今度は[[大隈重信]]に大命が降下されて[[4月16日]]に[[第2次大隈内閣|大隈重信内閣]]が成立した。 清浦は組閣辞退の直前に記者団に対して「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」とぼやいた。大和田とは当時人気の[[鰻屋]]<ref>現在も「鰻割烹 大和田」として営業している。</ref>のことで、前を通っていると美味しい匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待っても[[うな丼]]にはありつけないという有様を組閣の現状に重ね合わせたものであったが、世間はうなぎの匂い(大命降下)だけで結局うな丼(首相の地位)にはありつけなかった清浦を嘲笑してこれを「'''鰻香内閣'''」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだのである。 == 後日譚と清浦内閣 == 一方、清浦とその支持勢力であった研究会はこの顛末にひどく失望した。特に研究会の議員は元は平田と茶話会が仕掛けた倒閣運動に由来するのに、清浦が組閣に失敗したのは平田が清浦に大命降下が下った事に嫉妬したからではないかと疑った。かつて、平田も[[1912年]]に元老会議で後継首班に推挙されたが、諸般の事情で辞退して大命降下には至らなかった経緯があったからである。勿論、平田や茶話会にとっては思わぬ言いがかりであり、当の清浦でさえ相手にしなかった臆説でしかなかったが、両会派が以前から貴族院内の主導権を巡って対立を起こすことが多かったために、ここに来て一気に対立が表面化したのである。その結果、かつては同じ「山縣閥」として貴族院を主導してきた両会派は決別して研究会は政友会との関係を強め、茶話会はしばらくはなお超然主義を維持したものの、研究会との対抗上遅れて国民党などとの関係を強める路線に転換する事になった。 この確執は根深く、10年後の[[1924年]]に[[内大臣]]であった平田の奔走によって清浦に再度大命が降下して今度は[[清浦内閣]]が成立した。その結果、茶話会からも[[江木千之]]が[[文部大臣]]として入閣する。ところが、[[外務大臣|外務]]・陸軍・海軍の3大臣がそれぞれの省から出された以外は全て貴族院議員7名が占める超然内閣にしたにも関わらず、清浦系の研究会が3ポストを占めた事から茶話会は激怒し、閣僚を出しているにも関わらず他の反研究会会派とともに「[[幸三派]]」と呼ばれるグループを結んで清浦内閣と研究会を非難して[[第2次護憲運動]]を側面支援することになったのである。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[シーメンス事件]] *[[超然内閣]] *[[研究会_(貴族院)|研究会]] *[[茶話会]] *[[清浦内閣]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%B0%BB%E9%A6%99%E5%86%85%E9%96%A3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月28日 (火) 09:13。]     

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