東條英機

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{{日本の内閣総理大臣 |[[東條内閣|40]] |東條 英機<br/>(とうじょう ひでき)[[Image:Hideki_Tojo_signature_processed.jpg|Hideki_Tojo_signature_processed.jpg]]<br/>[[Image:Hideki Tojo.jpg|200px]] |[[1884年]][[7月30日]]<br/>(戸籍上は[[12月30日]]) |出生地:[[東京市]]<br/>本籍地:[[岩手県]] |[[陸軍大学校]] |[[陸軍大将]] |[[陸軍大臣]] |無し<!--([[#子孫|子孫]]参照)参照の意味が分からない--> |[[1941年]][[10月18日]]|[[1944年]][[7月18日]] |非議員| |[[挙国一致内閣]] |[[1948年]][[12月23日]]}} '''東條 英機'''(とうじょう ひでき、[[新字体]]で東条 英機、[[1884年]](明治17年)[[7月30日]](戸籍上は[[12月30日]]) - [[1948年]](昭和23年)[[12月23日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。現役軍人のまま第40代[[内閣総理大臣]]に就任した(在任期間は[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]] - [[1944年]](昭和19年)[[7月18日]])。血液型は[[ABO式血液型|B型]]。<ref>[http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/ron/2005/ron051001.htm 東條英機氏の自決未遂は狂言だったのか]</ref> [[階級]][[位階]][[勲等]][[金鵄勲章|功級]]は[[陸軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等]]・[[功二級]]。[[永田鉄山]]の死後、[[統制派]]の第一人者として陸軍を主導する。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って[[陸軍大臣]]と[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]を兼任した。敗戦後に行われた[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]にて[[A級戦犯]]とされ、[[軍国主義]]の代表人物として[[死刑|処刑]]された。その高い事務処理能力から「'''カミソリ東條'''」とあだ名された。 日本の戦前の独裁者とされる場合があるが、東條が独裁する権限が法制度上はなかった(各大臣と総理大臣は天皇の輔弼という点では対等の立場である)。これは[[アドルフ・ヒトラー]]等とは違い、東京裁判での論点となった。 == 生い立ちと経歴 == [[Image:Young Tojo.JPG|right|thumb|若い時の東條英機]] 東條英機は1884年(明治17年)7月30日、[[東京市]][[麹町|麹町区]](現在の[[千代田区]])に[[東條英教]]陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と[[東條千歳|千歳]]の間の三男として生まれる。[[本籍地]]は[[岩手県]]。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた<ref>誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている</ref>。 東條家は[[江戸時代]]、[[能#流派|宝生流]][[ワキ方]]の[[能楽師]]として[[盛岡藩]]に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍[[中将]]であったが、[[長州]]閥が幅を利かせていた当時の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]での立場は弱く、[[陸軍大学校|陸大]]を首席で卒業した[[秀才|俊才]]であったが、陸軍中将で[[予備役]]となった<ref>八幡和郎『歴代総理の通信簿』([[PHP研究所]])によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗の責任を負わされたとされている。また同期には[[秋山好古]]がいた。 </ref> <ref>[[山田風太郎]]が明治時代小説の題材にしたこともある(当時の陸軍は[[明治維新]]の元老たる[[山縣有朋]]を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、[[戊辰戦争]]では賊軍扱いとなった[[東北地方]]諸藩の出身者は様々な差別をうけたという)。</ref>。 英機は[[千代田区立番町小学校|番町小学校]]、[[新宿区立四谷小学校|四谷小学校]]、[[学習院初等科]](1回落第)、[[港区立青山小学校|青山小学校]]を経て、[[1897年]](明治30年)、[[東京都立戸山高等学校|東京府城北尋常中学校]](現・都立戸山高等学校)に入学する。[[1899年]](明治32年)、[[陸軍幼年学校|東京陸軍幼年学校]]入学(3期生)。[[1902年]](明治35年)、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]入学(17期生)。[[1904年]](明治37年)、[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]入学(17期生)。 == 陸軍入隊 == {{基礎情報 軍人 | 人名 = 東條 英機 | 各国語表記 = | 画像 = Hideki Tojo uniform.jpg | 画像サイズ = 179px | 画像説明 = | 渾名 = カミソリ<br />メモ魔<!-- 東條幕府<br/>東條一等兵(石原莞爾)--><!-- あだ名には、「だれ彼がこう言っていた」ではなく、「広く多くの人にこう言われていた」ものを --> | 出生日 = [[1884年]][[7月30日]] | 生地 = 出生地:東京都東京市麹町区<br/>本籍地:岩手県 | 死亡日 = [[1948年]][[12月23日]] | 没地 = 東京都[[豊島区]] | 埋葬日 = | 埋葬地 = [[殉国七士廟]]<br />[[靖国神社]] | 所属政体 = [[Image:Flag of Japan (bordered).svg|20px]] [[大日本帝国]] | 所属組織 = [[画像:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|20px]][[大日本帝国陸軍]] | 軍歴 = [[1905年]] - [[1945年]] | 最終階級 = [[陸軍大将]] | 部隊 = | 指揮 = 関東憲兵隊司令官<br/>関東軍参謀長<br/>察哈爾派遣兵団(東條兵団)<br/>陸軍次官<br/>航空総監<br/>参謀総長 | 作戦・戦闘 = | 功績 = | 栄典 = [[従二位]]・[[勲一等]]・[[功二級]]<br/>死刑(東京裁判) | 引退後 = }} [[1905年]](明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、同年4月21日に[[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。[[1907年]](明治40年)12月21日には[[中尉|陸軍歩兵中尉]]に昇進する。 [[1909年]](明治42年)、[[東條かつ子|伊藤かつ子]]と結婚。[[1911年]](明治44)に長男の英隆([[東條由布子]]の父)が誕生。[[1912年]]([[大正]]元年)に受験3度目にしてようやく[[陸軍大学校]]に合格し、入学(27期生)した。[[1914年]](大正3年)には二男の[[東條輝雄|輝雄]](元[[三菱自動車工業]]社長)誕生。[[1915年]](大正4年)に陸軍大学校を卒業し、[[大尉|陸軍歩兵大尉]]に昇進。[[近衛師団|近衛歩兵第三連隊]][[中隊|中隊長]]に就く。[[1918年]](大正7年)には長女が誕生、翌[[1919年]](大正8年)8月、[[駐在武官]]として[[スイス]]に赴任。[[1920年]](大正9年)8月10日に[[少佐|陸軍歩兵少佐]]に昇任、[[1921年]](大正10年)7月には[[ドイツ]]に駐在。 [[1922年]](大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。[[1923年]](大正12年)10月5日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員、10月23日には[[陸軍歩兵学校]]研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女[[東條満喜枝|満喜枝]]が誕生している。[[1924年]](大正13年)に[[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇任。[[1925年]](大正14年)に三男[[東條敏夫|敏夫]]が誕生。[[1926年]](大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。[[1928年]](昭和3年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に[[大佐|陸軍歩兵大佐]]に昇進。[[1929年]](昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。[[1931年]](昭和6年)8月1日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。 [[1933年]](昭和8年)3月18日に[[陸軍少将]]に昇任、同年8月1日に兵器行政本部附軍事調査委員長、11月22日に[[陸軍省]]軍事調査部長に就く。[[1934年]](昭和9年)8月1日には歩兵第24[[旅団]]長に就任。[[1935年]](昭和10年)9月21日には、[[憲兵|関東憲兵隊]]司令官・関東局警務部長に就任。[[1936年]](昭和11年)12月1日に[[陸軍中将]]に昇進。翌[[1937年]](昭和12年)3月1日、[[関東軍]][[参謀長]]に就任する。[[1938年]](昭和13年)には[[板垣征四郎]]陸軍大臣の下で、陸軍[[次官]]・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。[[1940年]](昭和15年)7月22日から[[第2次近衛内閣]]、[[第3次近衛内閣]]の[[陸軍大臣]]を務めた(対満州事務局総裁も兼任)。 関東軍参謀長であった東條は、[[北支事変]]([[日中戦争]])の開戦後、内蒙古の[[デムチュクドンロブ|徳王]]を指導し、[[綏遠省]](内蒙古自治区中南部)侵入を支援した([[綏遠事件]])。中国側は、綏遠省主席の[[傅作義]]([[:zh:傅作义|zh:{{lang|zh|傅作义}}]])の指揮で一週間で撃退された。これ以降、中国側は、東條を、日本の[[満州]]権益拡大を主導する人物として警戒するようになった。 == 首相就任 == [[Image:Cabinet of Hideki Tojo 2.jpg|thumb|240px|[[1941年]][[10月18日]]、[[東京府]][[東京市]]の[[総理大臣官邸]]にて初[[閣議]]を終えた東條英機と[[東條内閣]]の[[国務大臣]]ら]] [[木戸幸一]][[内大臣府|内府]]らは、日米衝突を回避しようとする[[昭和天皇]]の意向を踏まえ、[[昭和天皇|天皇]]を敬愛していた東條英機をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。 天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。[[宇垣一成]]の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている<ref>『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『[[木戸日記|木戸幸一日記]]』、『[[細川日記]]』など。</ref>。ただし木戸は[[勝田龍夫]]「重臣たちの昭和史」において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。 <!-- 陸軍大臣公邸で引っ越しの支度をしていた東條は、至急参内するよう命をうけた。当初は[[東久邇宮稔彦王]]に組閣大命が下ると考えられていたため、おそらく対支、対米政策についての苦言であろうと周囲は予想した。このため、陸軍の将校の一部が、天皇が陸軍の方針に反対される場合は、はっきり意見を述べるように東條に訴えている。これに対して東條は、「わたしは天子様のおっしゃることには、ただわかりましたと答えるつもりです」と返答した。 ところが、実際には組閣大命であったため、東條にはまさに寝耳に水の事態であった。元来東條は「政治は[[水商売]]と人気取り」と断言し、政治に関わることを嫌っていた。:一次資料に基づく出典の明記を求めます--> 日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、[[1941年]](昭和16年)10月18日に、第40代[[内閣総理大臣]]兼[[内務大臣]]・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで[[大将|陸軍大将]]に昇進する<ref>当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。[[海軍大臣]]の[[嶋田繁太郎]]が[[海軍大将]]であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。</ref>。 この年『[[戦陣訓]]』を作成し布達している。 == 日米開戦 == [[Image:Cabinet of Hideki Tojo.jpg|thumb|240px|[[東條内閣]]の[[国務大臣]]らと東條英機]] [[Image:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|240px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、東條英機、[[ナラーティップポンプラパン]]、[[ホセ・ラウレル]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]]] 1941年[[12月8日]]、日本は[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[宣戦布告]]し[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])に突入した。 東條は[[1942年]](昭和17年)に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](~9月17日)、[[1943年]](昭和18年)には[[文部大臣]](~4月23日)・[[商工省|商工大臣]]・[[軍需省|軍需大臣]](以上[[内閣総辞職]]まで)を兼任。1943年には[[大東亜会議]]を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。 1944年(昭和19年)2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]に就任するが、戦況の悪化に伴い[[連合国軍]]により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。 そこで[[絶対国防圏]]を定め大部隊をもって[[マリアナ諸島]]を死守する事を発令し、[[サイパン島]]周辺の守備を増強したが、[[マリアナ沖海戦]]の敗北により戦力差は更に拡大し、[[サイパンの戦い]]で日本兵3万名が玉砕した。[[グアム島|グアム]]、[[テニアン島|テニアン]]も次々に陥落し、[[岸信介]]に造反される。東條の内意を受けた[[四方諒二]]憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。 東條の腹心の[[赤松貞雄]]らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた<ref>[[赤松貞雄]]『東条秘書官機密日誌』</ref>。東條は[[小磯内閣|次の内閣]]において、[[山下奉文]]を陸相に擬する動きがあった為、これに反発して、[[杉山元]]以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、[[梅津美治郎]]参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となった<ref name="nukata">『額田担回想録』</ref><ref name="sugamo">『巣鴨日記』</ref>。 [[広橋眞光]]による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。 現在ではごく普通になっている[[衆議院]]本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。[[1941年]][[12月23日]]に封切られた[[ニュース映画|日本ニュース]]第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]のやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。 辞任後の東條は重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲した。たまさかに意見を聞かれても無味乾燥な精神論を吐くばかりで周囲から敬遠された。鈴木貫太郎内閣成立時に「陸軍がそっぽを向く。」と失言して顰蹙を買ったのはその一例である。 東條が敗戦直前の8月10日から14日残した自筆の日記には、戦争の勝利への未練に執着しており、敗戦の責任転嫁と詭弁に終始していた。降伏により国民の不満が軍部に向かうことへの恐れ、戦争の大儀などの内容が記されていた。敗戦は無気力な政府と国民のせいと非難し、自身への責任については言及せず、敗戦を認めることは恥晒しとして、自らならば死を選ぶ、と書かれていた。  == 敗戦と自殺未遂 == [[Image:Tojo beinjg treated by American doctors.psd.jpg|thumb|240px|自殺未遂後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のアメリカ軍病院で手当を受ける東條]] [[1945年]](昭和20年)[[9月11日]]、終戦とその後の[[連合国軍]]による占領、そして自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って[[拳銃]][[自殺]]を図るも失敗している。 頭を撃たなかったのもさることながら、東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女[[東條満喜枝]]の婿で近衛第一師団の[[古賀秀正]]少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。 銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し[[救急車]]などと共に[[世田谷区]][[用賀]]にある東條の私邸を取り囲んでいた[[アメリカ軍]]を中心とした[[連合国]]軍の[[憲兵|MP]]たちが一斉に踏み込み救急処置を行った。<!--その際に身の回りの物やズボン、パンツまでもを略奪していったという話も伝えられている。:出典の明記を。東條がパンツ?褌ならまだしもね。-->拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の[[朝日新聞|朝日]]、[[読売新聞|読売]]、[[毎日新聞|毎日]]の新聞でも[[阿南惟幾]]ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった<ref>1946年9月16日[[朝日新聞]]等</ref>。 使用された拳銃については諸説があり、結論は出ていない。東條が自殺に使用したものとして[[アメリカ合衆国]]の[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]にある[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]記念館(MacArthur Memorial Museum)に展示されている拳銃は[[コルト・ファイヤーアームズ|コルト]]社製の32口径であるが、当時は占領の混乱の最中であったため、それが本物であるという確実な証拠も存在しないというのが実際のところである。 *[[ブローニング・アームズ|ブローニング]](22口径)説 :東條の秘書官だった[[赤松貞雄]]の手記には東條がブローニング社製の小型拳銃を所持していたことが語られており、胸を撃ったにもかかわらず救命されたという結果と、東條が普段護身用に携帯していたのがこの銃であったことから推測された説と考えられる。当時の[[読売新聞]]や朝日新聞には「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事が並び、マスコミを通じて広く一般の国民に流布された。自決に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠ともなっており、東條に悪意を持つ人々が多かったという背景もあって現在も根強く信じられている。[[佐々淳行]]は「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」と述べており、[[東京都知事]]の[[石原慎太郎]]も同様の発言を行っている。<!--「最近では」という表現があったので削除しました。閲覧した人にとっての「最近」は曖昧なので具体的期日などの加筆をお願いします--> *[[コルト・ファイヤーアームズ|コルト]](32口径)説 :東條の娘婿で近衛第一師団の古賀少佐が、8月15日の自決に際して使用した銃であり、米軍の調査担当者もこの説を採用している。しかし古賀少佐の遺品の拳銃を使用したことは秘書官であった赤松貞雄や[[花山信勝]]など多くの関係者の記録に東條自身の発言として伝えられているが、不思議なことに銃の種類については「制式大型」「陸軍の制式拳銃」など米国製のコルトであることを否定するような主張を繰り返しており、また米軍による取り調べの供述においては「陸軍省から貰った」と明らかに上記とは矛盾する証言を残している。 *[[十四年式拳銃|南部]] (8mm) 説 :古賀少佐の遺品である陸軍制式(拳銃)大型を使用したという説。この拳銃は発射時に独特のショックがあるため、手元が狂ってしまったとされる。しかしながら憲兵出身で拳銃の扱いには慣れていたはずの東條が軍の制式銃の特徴を知らぬはずがなく、この説明はいささか説得力に乏しい。この説は東條が語った古賀少佐の遺品であるという話と、陸軍の制式大型という内容の整合性を取るために導き出された推論であるが、東條を主人公とした映画『[[プライド・運命の瞬間]]』では彼の発言を尊重して日本製の[[十四年式拳銃|南部十四年式]]が使用されている。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人[[軍医]]のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、[[横浜市]][[本牧]]の大鳥[[国民学校]](現・[[横浜市立大鳥小学校]])に設置された[[野外病院|野戦病院]]において、米軍による最善を尽くした[[手術]]と[[看護]]を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 あるアメリカ軍曹<!--映像資料、及び文献資料あり。-->が東條へB型の血液を提供する際、「彼を生かして、裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては手温過ぎる。私が、[[ニューギニア島|ニューギニア]]で過ごしたあの17ヶ月間のお返しを、少しはしてやりたい」とのコメントを残している。治療中も出血が酷く、自殺を図ってから最初の12~14時間で、東條自身の血の半分までが出血したとの報道がされている。その間、6~7度に渡る輸血が行われ、アメリカ軍人からの血の提供もあった。 [[Image:Tojo-in-custody.jpg|left|240px|thumb|回復後の健康診断を受ける東條]] 戦争責任者である東條英機逮捕による世論の動向を調査した京都府警察部特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)よると、 : 「……東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ……」 と多くの世論が東條に冷たい視線を送るだけであった。 [[山田風太郎]]も「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ」、「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」と手厳しく批判している。 当時の日本人の多くが同じ感想を持った。新聞に連日掲載された他の政府高官の自決の記事の最後には「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになりさらに国民の不興を買っていった。 なお、これには東條は自殺未遂ではなく米軍MPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を着替えるため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、いきなり拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している<ref name="nukata" />。 後の[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内における[[重光葵]]との会話の中では、「自分の陸相時代に出した[[戦陣訓]]には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていた<ref name="sugamo" />。 == 東京裁判判決と処刑 == === 判決と仏教への帰依 === [[Image:Tojo at IMTFE.gif|thumb|240px|極東裁判にて、被告台に立つ東條。]] [[Image:Tojo wearing tie.jpg|thumb|right|240px|珍しいネクタイ姿の東條(戦後のものと思われる)]] 東條は[[1948年]](昭和23年)[[11月12日]]、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)で[[絞首刑]]の[[判決]]を受け、[[12月23日]]、[[巣鴨拘置所]](スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。 辞世の句は、 : 「''我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば''」 : 「''さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき''」 : 「''散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは''」 : 「''今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ''」 晩年は[[浄土真宗]]の[[信仰]]の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の[[教誨師]]、[[花山信勝]]の影響で[[浄土真宗]]に[[帰依]]した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から[[吉川英治]]の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[土肥原賢二]]、[[広田弘毅]]等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。 浄土真宗に帰依してからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、それまで信じていた[[国家神道]]をも否定、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。 また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。 さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在のアメリカに対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。 処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。 : 「''さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき''」 : 「''明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む''」 : 「''日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく''」 === 遺骨と神道での祭祀 === [[絞首刑]]後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに[[横浜市]]西区久保町の久保山火葬場に移送し[[火葬]]された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。 [[小磯國昭]]の[[弁護士]]を務めた[[三文字正平]]と久保山火葬場の近隣にある[[興禅寺 (横浜市)|興禅寺]]住職の[[市川伊雄]]は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、[[熱海市]]の[[興亜観音]]に運ばれ隠された。[[1958年]](昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、[[1960年]](昭和35年)8月には[[愛知県]][[幡豆郡]][[幡豆町]]の[[三ヶ根山]]の山頂に改葬された。同地には現在、[[殉国七士廟]]が造営され遺骨が祀られている。 東條英機は陸軍に対して、[[靖国神社]][[合祀]]のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している<ref>「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」[[1944年]][[7月15日]]付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」[[1944年]][[7月19日]]付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの</ref>。刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、[[1966年]](昭和41年)、旧[[厚生省]](現[[厚生労働省]])が「祭神名票」を靖国神社側に送り、[[1970年]]の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は[[1978年]](昭和53年)にこれらを合祀している。 なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。[[神社]]は神霊を祭る社であり、靖国神社では天皇家の護りのため[[戦争]]・[[事変]]で命を落とした戦没者、およびその他の公務[[殉職]]者の霊を[[祭神]]として祀っている。よって、物理的に存在するのは「霊璽簿」(れいじぼ)と称される神霊を合祀する際に用いる和紙で作られた合祀者名簿の名前(霊魂はご神体へと名簿よりうつされ合祀される)と、東條等を[[顕彰]]する施設のみである。 以下は、[[東條英機-2]] 参照 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月5日 (土) 00:48]     
{{日本の内閣総理大臣 |[[東條内閣|40]] |東條 英機<br/>(とうじょう ひでき)[[Image:Hideki_Tojo_signature_processed.jpg|Hideki_Tojo_signature_processed.jpg]]<br/>[[Image:Hideki Tojo.jpg|200px]] |[[1884年]][[7月30日]]<br/>(戸籍上は[[12月30日]]) |出生地:[[東京市]]<br/>本籍地:[[岩手県]] |[[陸軍大学校]] |[[陸軍大将]] |[[陸軍大臣]] |無し<!--([[#子孫|子孫]]参照)参照の意味が分からない--> |[[1941年]][[10月18日]]|[[1944年]][[7月18日]] |非議員| |[[挙国一致内閣]] |[[1948年]][[12月23日]]}} '''東條 英機'''(とうじょう ひでき、[[新字体]]で東条 英機、[[1884年]](明治17年)[[7月30日]](戸籍上は[[12月30日]]) - [[1948年]](昭和23年)[[12月23日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。現役軍人のまま第40代[[内閣総理大臣]]に就任した(在任期間は[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]] - [[1944年]](昭和19年)[[7月18日]])。血液型は[[ABO式血液型|B型]]。<ref>[http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/ron/2005/ron051001.htm 東條英機氏の自決未遂は狂言だったのか]</ref> [[階級]][[位階]][[勲等]][[金鵄勲章|功級]]は[[陸軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等]]・[[功二級]]。[[永田鉄山]]の死後、[[統制派]]の第一人者として陸軍を主導する。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って[[陸軍大臣]]と[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]を兼任した。敗戦後に行われた[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]にて[[A級戦犯]]とされ、[[軍国主義]]の代表人物として[[死刑|処刑]]された。その高い事務処理能力から「'''カミソリ東條'''」とあだ名された。 日本の戦前の独裁者とされる場合があるが、東條が独裁する権限が法制度上はなかった(各大臣と総理大臣は天皇の輔弼という点では対等の立場である)。これは[[アドルフ・ヒトラー]]等とは違い、東京裁判での論点となった。 == 生い立ちと経歴 == [[Image:Young Tojo.JPG|right|thumb|若い時の東條英機]] 東條英機は1884年(明治17年)7月30日、[[東京市]][[麹町|麹町区]](現在の[[千代田区]])に[[東條英教]]陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と[[東條千歳|千歳]]の間の三男として生まれる。[[本籍地]]は[[岩手県]]。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた<ref>誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている</ref>。 東條家は[[江戸時代]]、[[能#流派|宝生流]][[ワキ方]]の[[能楽師]]として[[盛岡藩]]に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍[[中将]]であったが、[[長州]]閥が幅を利かせていた当時の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]での立場は弱く、[[陸軍大学校|陸大]]を首席で卒業した[[秀才|俊才]]であったが、陸軍中将で[[予備役]]となった<ref>八幡和郎『歴代総理の通信簿』([[PHP研究所]])によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗の責任を負わされたとされている。また同期には[[秋山好古]]がいた。 </ref> <ref>[[山田風太郎]]が明治時代小説の題材にしたこともある(当時の陸軍は[[明治維新]]の元老たる[[山縣有朋]]を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、[[戊辰戦争]]では賊軍扱いとなった[[東北地方]]諸藩の出身者は様々な差別をうけたという)。</ref>。 英機は[[千代田区立番町小学校|番町小学校]]、[[新宿区立四谷小学校|四谷小学校]]、[[学習院初等科]](1回落第)、[[港区立青山小学校|青山小学校]]を経て、[[1897年]](明治30年)、[[東京都立戸山高等学校|東京府城北尋常中学校]](現・都立戸山高等学校)に入学する。[[1899年]](明治32年)、[[陸軍幼年学校|東京陸軍幼年学校]]入学(3期生)。[[1902年]](明治35年)、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]入学(17期生)。[[1904年]](明治37年)、[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]入学(17期生)。 == 陸軍入隊 == {{基礎情報 軍人 | 人名 = 東條 英機 | 各国語表記 = | 画像 = Hideki Tojo uniform.jpg | 画像サイズ = 179px | 画像説明 = | 渾名 = カミソリ<br />メモ魔<!-- 東條幕府<br/>東條一等兵(石原莞爾)--><!-- あだ名には、「だれ彼がこう言っていた」ではなく、「広く多くの人にこう言われていた」ものを --> | 出生日 = [[1884年]][[7月30日]] | 生地 = 出生地:東京都東京市麹町区<br/>本籍地:岩手県 | 死亡日 = [[1948年]][[12月23日]] | 没地 = 東京都[[豊島区]] | 埋葬日 = | 埋葬地 = [[殉国七士廟]]<br />[[靖国神社]] | 所属政体 = [[Image:Flag of Japan (bordered).svg|20px]] [[大日本帝国]] | 所属組織 = [[画像:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|20px]][[大日本帝国陸軍]] | 軍歴 = [[1905年]] - [[1945年]] | 最終階級 = [[陸軍大将]] | 部隊 = | 指揮 = 関東憲兵隊司令官<br/>関東軍参謀長<br/>察哈爾派遣兵団(東條兵団)<br/>陸軍次官<br/>航空総監<br/>参謀総長 | 作戦・戦闘 = | 功績 = | 栄典 = [[従二位]]・[[勲一等]]・[[功二級]]<br/>死刑(東京裁判) | 引退後 = }} [[1905年]](明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、同年4月21日に[[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。[[1907年]](明治40年)12月21日には[[中尉|陸軍歩兵中尉]]に昇進する。 [[1909年]](明治42年)、[[東條かつ子|伊藤かつ子]]と結婚。[[1911年]](明治44)に長男の英隆([[東條由布子]]の父)が誕生。[[1912年]]([[大正]]元年)に受験3度目にしてようやく[[陸軍大学校]]に合格し、入学(27期生)した。[[1914年]](大正3年)には二男の[[東條輝雄|輝雄]](元[[三菱自動車工業]]社長)誕生。[[1915年]](大正4年)に陸軍大学校を卒業し、[[大尉|陸軍歩兵大尉]]に昇進。[[近衛師団|近衛歩兵第三連隊]][[中隊|中隊長]]に就く。[[1918年]](大正7年)には長女が誕生、翌[[1919年]](大正8年)8月、[[駐在武官]]として[[スイス]]に赴任。[[1920年]](大正9年)8月10日に[[少佐|陸軍歩兵少佐]]に昇任、[[1921年]](大正10年)7月には[[ドイツ]]に駐在。 [[1922年]](大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。[[1923年]](大正12年)10月5日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員、10月23日には[[陸軍歩兵学校]]研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女[[東條満喜枝|満喜枝]]が誕生している。[[1924年]](大正13年)に[[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇任。[[1925年]](大正14年)に三男[[東條敏夫|敏夫]]が誕生。[[1926年]](大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。[[1928年]](昭和3年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に[[大佐|陸軍歩兵大佐]]に昇進。[[1929年]](昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。[[1931年]](昭和6年)8月1日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。 [[1933年]](昭和8年)3月18日に[[陸軍少将]]に昇任、同年8月1日に兵器行政本部附軍事調査委員長、11月22日に[[陸軍省]]軍事調査部長に就く。[[1934年]](昭和9年)8月1日には歩兵第24[[旅団]]長に就任。[[1935年]](昭和10年)9月21日には、[[憲兵|関東憲兵隊]]司令官・関東局警務部長に就任。[[1936年]](昭和11年)12月1日に[[陸軍中将]]に昇進。翌[[1937年]](昭和12年)3月1日、[[関東軍]][[参謀長]]に就任する。[[1938年]](昭和13年)には[[板垣征四郎]]陸軍大臣の下で、陸軍[[次官]]・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。[[1940年]](昭和15年)7月22日から[[第2次近衛内閣]]、[[第3次近衛内閣]]の[[陸軍大臣]]を務めた(対満州事務局総裁も兼任)。 関東軍参謀長であった東條は、[[北支事変]]([[日中戦争]])の開戦後、内蒙古の[[デムチュクドンロブ|徳王]]を指導し、[[綏遠省]](内蒙古自治区中南部)侵入を支援した([[綏遠事件]])。中国側は、綏遠省主席の[[傅作義]]([[:zh:傅作义|zh:{{lang|zh|傅作义}}]])の指揮で一週間で撃退された。これ以降、中国側は、東條を、日本の[[満州]]権益拡大を主導する人物として警戒するようになった。 == 首相就任 == [[Image:Cabinet of Hideki Tojo 2.jpg|thumb|240px|[[1941年]][[10月18日]]、[[東京府]][[東京市]]の[[総理大臣官邸]]にて初[[閣議]]を終えた東條英機と[[東條内閣]]の[[国務大臣]]ら]] [[木戸幸一]][[内大臣府|内府]]らは、日米衝突を回避しようとする[[昭和天皇]]の意向を踏まえ、[[昭和天皇|天皇]]を敬愛していた東條英機をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。 天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。[[宇垣一成]]の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている<ref>『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『[[木戸日記|木戸幸一日記]]』、『[[細川日記]]』など。</ref>。ただし木戸は[[勝田龍夫]]「重臣たちの昭和史」において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。 <!-- 陸軍大臣公邸で引っ越しの支度をしていた東條は、至急参内するよう命をうけた。当初は[[東久邇宮稔彦王]]に組閣大命が下ると考えられていたため、おそらく対支、対米政策についての苦言であろうと周囲は予想した。このため、陸軍の将校の一部が、天皇が陸軍の方針に反対される場合は、はっきり意見を述べるように東條に訴えている。これに対して東條は、「わたしは天子様のおっしゃることには、ただわかりましたと答えるつもりです」と返答した。 ところが、実際には組閣大命であったため、東條にはまさに寝耳に水の事態であった。元来東條は「政治は[[水商売]]と人気取り」と断言し、政治に関わることを嫌っていた。:一次資料に基づく出典の明記を求めます--> 日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、[[1941年]](昭和16年)10月18日に、第40代[[内閣総理大臣]]兼[[内務大臣]]・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで[[大将|陸軍大将]]に昇進する<ref>当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。[[海軍大臣]]の[[嶋田繁太郎]]が[[海軍大将]]であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。</ref>。 この年『[[戦陣訓]]』を作成し布達している。 == 日米開戦 == [[Image:Cabinet of Hideki Tojo.jpg|thumb|240px|[[東條内閣]]の[[国務大臣]]らと東條英機]] [[Image:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|240px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、東條英機、[[ナラーティップポンプラパン]]、[[ホセ・ラウレル]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]]] 1941年[[12月8日]]、日本は[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[宣戦布告]]し[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])に突入した。 東條は[[1942年]](昭和17年)に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](~9月17日)、[[1943年]](昭和18年)には[[文部大臣]](~4月23日)・[[商工省|商工大臣]]・[[軍需省|軍需大臣]](以上[[内閣総辞職]]まで)を兼任。1943年には[[大東亜会議]]を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。 1944年(昭和19年)2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]に就任するが、戦況の悪化に伴い[[連合国軍]]により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。 そこで[[絶対国防圏]]を定め大部隊をもって[[マリアナ諸島]]を死守する事を発令し、[[サイパン島]]周辺の守備を増強したが、[[マリアナ沖海戦]]の敗北により戦力差は更に拡大し、[[サイパンの戦い]]で日本兵3万名が玉砕した。[[グアム島|グアム]]、[[テニアン島|テニアン]]も次々に陥落し、[[岸信介]]に造反される。東條の内意を受けた[[四方諒二]]憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。 東條の腹心の[[赤松貞雄]]らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた<ref>[[赤松貞雄]]『東条秘書官機密日誌』</ref>。東條は[[小磯内閣|次の内閣]]において、[[山下奉文]]を陸相に擬する動きがあった為、これに反発して、[[杉山元]]以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、[[梅津美治郎]]参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となった<ref name="nukata">『額田担回想録』</ref><ref name="sugamo">『巣鴨日記』</ref>。 [[広橋眞光]]による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。 現在ではごく普通になっている[[衆議院]]本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。[[1941年]][[12月23日]]に封切られた[[ニュース映画|日本ニュース]]第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]のやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。 辞任後の東條は重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲した。たまさかに意見を聞かれても無味乾燥な精神論を吐くばかりで周囲から敬遠された。鈴木貫太郎内閣成立時に「陸軍がそっぽを向く。」と失言して顰蹙を買ったのはその一例である。 東條が敗戦直前の8月10日から14日残した自筆の日記には、戦争の勝利への未練に執着しており、敗戦の責任転嫁と詭弁に終始していた。降伏により国民の不満が軍部に向かうことへの恐れ、戦争の大儀などの内容が記されていた。敗戦は無気力な政府と国民のせいと非難し、自身への責任については言及せず、敗戦を認めることは恥晒しとして、自らならば死を選ぶ、と書かれていた。  == 敗戦と自殺未遂 == [[Image:Tojo beinjg treated by American doctors.psd.jpg|thumb|240px|自殺未遂後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のアメリカ軍病院で手当を受ける東條]] [[1945年]](昭和20年)[[9月11日]]、終戦とその後の[[連合国軍]]による占領、そして自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って[[拳銃]][[自殺]]を図るも失敗している。 頭を撃たなかったのもさることながら、東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女[[東條満喜枝]]の婿で近衛第一師団の[[古賀秀正]]少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。 銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し[[救急車]]などと共に[[世田谷区]][[用賀]]にある東條の私邸を取り囲んでいた[[アメリカ軍]]を中心とした[[連合国]]軍の[[憲兵|MP]]たちが一斉に踏み込み救急処置を行った。<!--その際に身の回りの物やズボン、パンツまでもを略奪していったという話も伝えられている。:出典の明記を。東條がパンツ?褌ならまだしもね。-->拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の[[朝日新聞|朝日]]、[[読売新聞|読売]]、[[毎日新聞|毎日]]の新聞でも[[阿南惟幾]]ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった<ref>1946年9月16日[[朝日新聞]]等</ref>。 使用された拳銃については諸説があり、結論は出ていない。東條が自殺に使用したものとして[[アメリカ合衆国]]の[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]にある[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]記念館(MacArthur Memorial Museum)に展示されている拳銃は[[コルト・ファイヤーアームズ|コルト]]社製の32口径であるが、当時は占領の混乱の最中であったため、それが本物であるという確実な証拠も存在しないというのが実際のところである。 *[[ブローニング・アームズ|ブローニング]](22口径)説 :東條の秘書官だった[[赤松貞雄]]の手記には東條がブローニング社製の小型拳銃を所持していたことが語られており、胸を撃ったにもかかわらず救命されたという結果と、東條が普段護身用に携帯していたのがこの銃であったことから推測された説と考えられる。当時の[[読売新聞]]や朝日新聞には「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事が並び、マスコミを通じて広く一般の国民に流布された。自決に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠ともなっており、東條に悪意を持つ人々が多かったという背景もあって現在も根強く信じられている。[[佐々淳行]]は「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」と述べており、[[東京都知事]]の[[石原慎太郎]]も同様の発言を行っている。<!--「最近では」という表現があったので削除しました。閲覧した人にとっての「最近」は曖昧なので具体的期日などの加筆をお願いします--> *[[コルト・ファイヤーアームズ|コルト]](32口径)説 :東條の娘婿で近衛第一師団の古賀少佐が、8月15日の自決に際して使用した銃であり、米軍の調査担当者もこの説を採用している。しかし古賀少佐の遺品の拳銃を使用したことは秘書官であった赤松貞雄や[[花山信勝]]など多くの関係者の記録に東條自身の発言として伝えられているが、不思議なことに銃の種類については「制式大型」「陸軍の制式拳銃」など米国製のコルトであることを否定するような主張を繰り返しており、また米軍による取り調べの供述においては「陸軍省から貰った」と明らかに上記とは矛盾する証言を残している。 *[[十四年式拳銃|南部]] (8mm) 説 :古賀少佐の遺品である陸軍制式(拳銃)大型を使用したという説。この拳銃は発射時に独特のショックがあるため、手元が狂ってしまったとされる。しかしながら憲兵出身で拳銃の扱いには慣れていたはずの東條が軍の制式銃の特徴を知らぬはずがなく、この説明はいささか説得力に乏しい。この説は東條が語った古賀少佐の遺品であるという話と、陸軍の制式大型という内容の整合性を取るために導き出された推論であるが、東條を主人公とした映画『[[プライド・運命の瞬間]]』では彼の発言を尊重して日本製の[[十四年式拳銃|南部十四年式]]が使用されている。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人[[軍医]]のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、[[横浜市]][[本牧]]の大鳥[[国民学校]](現・[[横浜市立大鳥小学校]])に設置された[[野外病院|野戦病院]]において、米軍による最善を尽くした[[手術]]と[[看護]]を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 あるアメリカ軍曹<!--映像資料、及び文献資料あり。-->が東條へB型の血液を提供する際、「彼を生かして、裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては手温過ぎる。私が、[[ニューギニア島|ニューギニア]]で過ごしたあの17ヶ月間のお返しを、少しはしてやりたい」とのコメントを残している。治療中も出血が酷く、自殺を図ってから最初の12~14時間で、東條自身の血の半分までが出血したとの報道がされている。その間、6~7度に渡る輸血が行われ、アメリカ軍人からの血の提供もあった。 [[Image:Tojo-in-custody.jpg|left|240px|thumb|回復後の健康診断を受ける東條]] 戦争責任者である東條英機逮捕による世論の動向を調査した京都府警察部特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)よると、 : 「……東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ……」 と多くの世論が東條に冷たい視線を送るだけであった。 [[山田風太郎]]も「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ」、「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」と手厳しく批判している。 当時の日本人の多くが同じ感想を持った。新聞に連日掲載された他の政府高官の自決の記事の最後には「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになりさらに国民の不興を買っていった。 なお、これには東條は自殺未遂ではなく米軍MPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を着替えるため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、いきなり拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している<ref name="nukata" />。 後の[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内における[[重光葵]]との会話の中では、「自分の陸相時代に出した[[戦陣訓]]には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていた<ref name="sugamo" />。 == 東京裁判判決と処刑 == === 判決と仏教への帰依 === [[Image:Tojo at IMTFE.gif|thumb|240px|極東裁判にて、被告台に立つ東條。]] [[Image:Tojo wearing tie.jpg|thumb|right|240px|珍しいネクタイ姿の東條(戦後のものと思われる)]] 東條は[[1948年]](昭和23年)[[11月12日]]、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)で[[絞首刑]]の[[判決]]を受け、[[12月23日]]、[[巣鴨拘置所]](スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。 辞世の句は、 : 「''我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば''」 : 「''さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき''」 : 「''散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは''」 : 「''今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ''」 晩年は[[浄土真宗]]の[[信仰]]の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の[[教誨師]]、[[花山信勝]]の影響で[[浄土真宗]]に[[帰依]]した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から[[吉川英治]]の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[土肥原賢二]]、[[広田弘毅]]等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。 浄土真宗に帰依してからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、それまで信じていた[[国家神道]]をも否定、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。 また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。 さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在のアメリカに対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。 処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。 : 「''さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき''」 : 「''明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む''」 : 「''日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく''」 === 遺骨と神道での祭祀 === [[絞首刑]]後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに[[横浜市]]西区久保町の久保山火葬場に移送し[[火葬]]された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。 [[小磯國昭]]の[[弁護士]]を務めた[[三文字正平]]と久保山火葬場の近隣にある[[興禅寺 (横浜市)|興禅寺]]住職の[[市川伊雄]]は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、[[熱海市]]の[[興亜観音]]に運ばれ隠された。[[1958年]](昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、[[1960年]](昭和35年)8月には[[愛知県]][[幡豆郡]][[幡豆町]]の[[三ヶ根山]]の山頂に改葬された。同地には現在、[[殉国七士廟]]が造営され遺骨が祀られている。 東條英機は陸軍に対して、[[靖国神社]][[合祀]]のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している<ref>「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」[[1944年]][[7月15日]]付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」[[1944年]][[7月19日]]付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの</ref>。刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、[[1966年]](昭和41年)、旧[[厚生省]](現[[厚生労働省]])が「祭神名票」を靖国神社側に送り、[[1970年]]の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は[[1978年]](昭和53年)にこれらを合祀している。 なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。[[神社]]は神霊を祭る社であり、靖国神社では天皇家の護りのため[[戦争]]・[[事変]]で命を落とした戦没者、およびその他の公務[[殉職]]者の霊を[[祭神]]として祀っている。よって、物理的に存在するのは「霊璽簿」(れいじぼ)と称される神霊を合祀する際に用いる和紙で作られた合祀者名簿の名前(霊魂はご神体へと名簿よりうつされ合祀される)と、東條等を[[顕彰]]する施設のみである。 以下は、[[東條英機-2]] 参照 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 02:23。]     

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