桂太郎

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次桂内閣|11]]・[[第2次桂内閣|13]]・[[第3次桂内閣|15]] |桂 太郎<br/>(かつら たろう)<br/>[[Image:Taro Katsura.jpg|200px]] |[[1848年]][[1月4日]]<br/>([[弘化]]4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) |[[長門国]][[阿武郡]]萩町<br/>(現・[[山口県]][[萩市]]) |- |[[陸軍大将]]<br/> |[[陸軍大臣]]<br/>[[内大臣]] |世襲ではない([[#系譜|系譜]]参照) |第1次:<br/>[[1901年]][[6月2日]]|[[1906年]][[1月7日]]<br/>第2次:<br/>[[1908年]][[7月14日]]<br/>‐[[1911年]][[8月30日]]<br/>第3次:<br/>[[1912年]][[12月21日]]<br/>‐[[1913年]][[2月20日]] |- |- |- |[[1913年]]([[大正]]2年)[[10月10日]] }} '''桂 太郎'''/'''桂 清澄'''(かつら たろう/かつら きよずみ、[[弘化]]4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[1848年]][[1月4日]]) - [[大正]]2年([[1913年]])[[10月10日]])は、[[日本]]の[[武士]]・[[長州藩]]士、[[軍人]]、[[政治家]]。第11・13・15代[[内閣総理大臣]]。[[元老]]、[[陸軍大将]]・[[正二位]]・[[大勲位]]・[[功三級]]・[[公爵]]。[[台湾協会学校]](現[[拓殖大学]])創立者初代校長。[[毛利氏|毛利家]]の庶流で重臣であった[[桂氏|桂家]]の出身で、[[大江広元]]や[[桂元澄]]などの子孫に当たる。[[通称]]は「太郎」、[[諱]]は'''清澄'''(きよずみ)。[[元老]]第二世代。長州閥で[[山縣有朋]]の直系。 == 経歴 == [[長門国]][[阿武郡]]萩町、[[萩城]]下の武家屋敷地である平安古(現・[[山口県]][[萩市]]平安古)に生まれる。父は[[長州藩]]士の桂與一右衛門(禄120石余り)で長男、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の[[桜尾城]]主・[[桂元澄]]と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・[[山口県]][[萩市]]川島)に移る。[[万延]]元年(1860年)には藩政府の西洋式操練に参加し、鼓隊に編入される。[[元治]]元年(1864年)には、[[禁門の変]]など中央政界で藩政府が窮地に立たされるなか、7月には世子[[毛利元徳|元徳]]の小姓役となる。[[戊辰戦争]]では敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し、奥羽鎮撫軍の第二大隊司令として活躍。 [[明治維新]]後、[[横浜市|横浜]]語学学校で学び[[ドイツ]]へ留学。帰国後山縣有朋の下で軍制を学び陸軍次官、第三師団長、[[台湾総督]]を歴任した後[[伊藤博文]]内閣、[[大隈重信]]内閣、山縣有朋内閣で[[陸軍大臣]]をつとめた。[[1901年]]首相に就任。以後[[西園寺公望]]と交代で総理大臣を務め、「[[桂園時代]]」と呼ばれた。総理大臣在職日数2886日は歴代1位。尚、彼は連続して在職してはおらず、連続在職の記録は[[佐藤栄作]]に譲る形となっている。 [[1900年]][[9月15日]]には[[拓殖大学]]の前身である[[台湾協会学校]]を創立している。また、現在の[[獨協大学]]の前身である[[獨逸学協会学校]]の校長を[[1887年]]4月から[[1890年]]7月までつとめた。 == ニコポン宰相 == {{Infobox 軍人 |name= 軍人としての桂太郎 |lived= [[1848年]][[1月4日]] - [[1913年]][[10月10日]] |image=[[image:11 KatsuraT.jpg|250px]] |caption= 軍装の桂太郎 |nickname=ニコポン宰相 |allegiance=[[大日本帝国]] |serviceyears=1873 - 1913 |rank=[[陸軍大将]] |commands=[[大日本帝国陸軍]] |unit=[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]<br/>[[東京防禦総督部]] |battles=[[戊辰戦争]]<br/>[[日清戦争]] |awards= [[正二位]]・[[大勲位]]・[[功三級]]・[[公爵]] }} 桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「[[東京日日新聞]]」記者の[[小野賢一郎]]で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。このやり方からすると、桂は下積み時代から苦労して成功したかのように思われがちだが、実は恵まれた[[上士]]の出身である。長州藩で伊藤博文や山縣有朋は最下級の中間、小者(武士身分ではない)の出身だったが、桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の[[中谷正亮]]は[[松下村塾]]のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは[[吉田松陰]]が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。 家柄の良い桂は、はじめ藩の正規軍である「[[選鋒隊]]」に編入されたが、[[蛤御門の変]]の前に、世子[[毛利元徳]]の御小姓になった。これが彼の幸運の手始めで、もし選鋒隊士のままだったなら、山縣の[[奇兵隊]]との戦いに敗れ、そこで人生を終えていたかもしれないのである。その後の[[江戸幕府]]軍との戦争では志願して石州方面で戦い、戊辰戦争では[[奥羽]]を転戦し、250石の賞典を受けた。彼の部下は約200名だったが、戦死者41名、負傷者53名。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかった。 == 政治家としてのしたたかさ == 1870(明治3)年8月、桂はドイツに留学した。ただしこれは私費留学で、生活はかなり苦しかった模様である。[[岩倉具視]]に同行してきた[[木戸孝允]](桂小五郎)に自身を官費留学生にしてもらえるよう依頼し、木戸はそれを承知した。中谷正亮は1862(文久3)年に急死しているが、木戸は中谷とは親しくしていたため、中谷の甥の桂にも目をかけていた。だが、木戸の帰国は1873(明治6)年の7月、忙しい政争の合い間に桂のため手続きを行ったが、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。 木戸は[[陸軍卿]]の山縣有朋に依頼し、桂を[[陸軍]]に入れ、山縣は桂を[[大尉]]に任命した。250石を受けた軍歴からすれば[[佐官]]クラスであるが、山縣は桂に、「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」「御言葉ですが、秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく[[少尉]]の方が陸軍のためには良かったと思います」「では聞くが、陸軍を良くするについて何か方策はあるか」「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、[[徴兵制]]が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」。これを聞いた山縣は大喜びだった。 山縣の発案した徴兵制度は、[[士族]]出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、[[駐在武官]]となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。 == 日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」 == 以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。[[日清戦争]]には[[名古屋]]の第3師団長として出征し、その後台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で陸軍大臣になり、大隈重信、第2次山県、第4次伊藤内閣の途中までその任を務めた。そして、[[義和団事件]]が一段落した1900(明治33)年12月に[[兒玉源太郎]]と交代した。もちろん、すべて山縣の意向である。この時期の最大の案件は「[[ロシア]]と戦うことになるのか否か、戦うとすれば誰に首相の大任を委ねるか」である。 伊藤博文は4回、山県有朋と[[松方正義]]は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは[[西郷従道]]と[[井上馨]]の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある[[大蔵大臣]]を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない兒玉を変えるかどうか。井上は蔵相に[[渋沢栄一]]、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。 元老会議は桂を推し、[[明治天皇]]は桂に組閣を命じた。[[1901年]](明治34年)6月、[[山本権兵衛]][[海軍大臣]]、兒玉陸相の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[曾禰荒助]]をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが[[内務省 (日本)|内務省]]出身の山県閥官僚であった。世人は「第二流内閣」と揶揄した。桂は首相就任と同時に[[予備役]]となるはずであったが、[[明治天皇]]の意向により現役軍人であり続けた。 桂は9月に[[小村寿太郎]]を外相に起用した。[[日英同盟]]締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。現実に日英同盟は[[日露戦争]]において日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の[[東郷平八郎]]、陸軍の兒玉の働きで勝利した。[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]でのロシアとの和平交渉は陰で[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領]]を動かした[[金子堅太郎]]の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。 桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が[[樺太]]南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する[[日比谷焼き打ち事件]]も、この第1次桂内閣の頃に起こっている。 その後桂は[[西園寺公望]]と交互に組閣(俗に言う'''[[桂園時代]]''')、[[1908年]]7月~[[1911年]]8月に第2次内閣、[[1912年]]12月~1913年2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は[[立憲政友会]]の[[原敬]]との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する[[元老]]世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、[[韓国併合]]や[[幸徳事件|大逆事件]]による[[社会主義者]]への弾圧、[[関税自主権]]の回復による[[条約改正]]の達成などの業績を残した。だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、更に反[[立憲政友会]]を結集させた「[[桂新党]]」までも視野に入れた桂とそれを許さない山縣。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「[[大正天皇|新帝]]輔翼」の重要性を説き、[[内大臣府|内大臣]]兼[[侍従長]]として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、[[二個師団増設問題]]を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。 だが、第3次桂内閣の時に[[護憲運動|第一次護憲運動]]が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の[[立憲同志会]])を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないままわずか62日で退陣を余儀なくされた([[大正政変]])。その8ヶ月後に胃ガンで死去した。日露戦争を勝利に導いた総理大臣であるにも関わらず、[[国葬]]をもって送られることはなかった。しかし[[増上寺]]で行われた葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。 == 栄典 == *[[1895年]]8月20日:[[子爵]]、[[勲一等瑞宝章]] *[[1902年]]2月27日:[[伯爵]] 日英同盟の功による *[[1906年]]4月1日:[[大勲位菊花大綬章]]  *[[1907年]]9月21日:[[侯爵]] 日露戦争時に首相だったことによる *[[1911年]]4月21日:[[公爵]] 日韓併合の功による この時点で、先輩格の井上馨や松方正義を抜いてしまった *[[1913年]]10月10日:[[大勲位菊花章頸飾]] 第2次内閣の総辞職後に[[元帥 (日本)|元帥]]贈号の内示があったが、現役の政治家でありたいという本人の意向により撤回された。 == 家族親族 == *最初の妻歌子(旧姓・野田、明治7年結婚、明治19年没)との間に1男2女。2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人、明治19年結婚、明治23年没)との間に1男2女。3番目の妻可那子(旧姓・木村、名古屋時代に出会い明治24年より事実婚、明治31年結婚、昭和15年没)との間に2男1女。 *五女寿満子は首相[[伊藤博文]]の庶子文吉に嫁いでいる。 *三男[[井上三郎|三郎]]は[[井上馨]]の嫡男(娘婿)の[[養子]]となり井上家を継ぐ。更にその間に生まれた[[井上光貞]]は[[歴史学者]]として活躍した。 *愛妾として知られる芸者・お鯉(安藤照)とは日露戦争中に山縣の紹介で知り合った。病弱だった本妻可那子に代わり桂の世話をし、総理官邸に「お鯉の間」が設けられたり、日比谷焼き討ち事件では妾宅が襲撃の対象になったりした。 == 系譜 == *桂氏 [[本姓]]は[[大江氏]]。[[江戸時代]]、代々[[長州藩]][[武士|士]]。 <pre> 與一右衛門━┳太郎━┳與一━┳広太郎━┳繁太郎━┳伸太郎       ┗二郎 ┣テウ ┣壽雄  ┣茂都子 ┗美香子           ┣茂子 ┗友子  ┗栄二郎           ┣三郎━━光貞           ┣潔子           ┣輝子           ┣五郎           ┣壽満子            ┗新七 </pre> <pre>         桂太郎━━井上三郎               ┃               ┣━━━井上光貞               ┃    ┃         井上馨━━千代子   ┃                    ┃        伊達宗徳━━二荒芳徳  ┃                   ┃  ┏明子                ┣━━┫                ┃  ┗治子    北白川宮能久親王━━━拡子    ┃                     ┃                   ┏石坂一義                   ┃                   ┣石坂泰介                   ┃                 石坂泰三 ┣石坂泰夫                ┃  ┃                ┣━━╋石坂泰彦                ┃  ┃          織田一━━雪子  ┣石坂信雄                   ┃                   ┣智子                   ┃                   ┗操子                    ┃            霜山精一━━霜山徳爾 </pre>  == 参考文献 == * [[宇野俊一]] 校注『桂太郎自伝』(平凡社東洋文庫、1993年) ISBN 4582805639 * [[小林道彦]]『日本の大陸政策1895-1914/桂太郎と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 4816501940 * 古川薫『山河ありき <small>明治の武人宰相 桂太郎の人生</small>』 :(文藝春秋、1999年) ISBN 4163187103 :(文春文庫、2002年) ISBN 4167357151 * [[伊藤之雄]]『立憲国家と日露戦争――外交と内政 1898-1905』([[木鐸社]]、2000年) * 杉山茂丸『桂大将伝』(ゆまに書房歴代総理大臣伝記叢書第6巻、2005年) ISBN 4843317845 * 宇野俊一『桂太郎』(吉川弘文館人物叢書、2006年) ISBN 4642052348 * 小林道彦『桂太郎』([[ミネルヴァ書房]]、2006年) ISBN 4623047660 == 関連項目 == *[[大江氏]]([[桂氏]]の[[本姓]]) *[[華族]] *[[第1次桂内閣]] *[[第2次桂内閣]] *[[第3次桂内閣]] *[[大正政変]] *[[桂園時代]] *[[小村壽太郎]]、[[後藤新平]] - 政権時代のブレーン。 *[[加藤高明]]、[[若槻禮次郎]]、[[濱口雄幸]] - 桂の政治的継承者。「桂新党」([[立憲同志会]])の結党に参加し、[[憲政会]]-[[立憲民政党]]内閣で(桂が新党構想で掲げた)健全財政・軍縮・協調外交路線をとる。 *[[松陰神社#松陰神社(東京)|松陰神社]] - 周囲に桂の墓所がある。 *[[大三]] - 桂の「ニコポン主義」に由来する「ニコホン綿」で知られる。 == 外部リンク == {{commonscat|Taro Katsura}} *[http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/11.html 歴代総理の写真と経歴(首相官邸ホームページ)] *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_katura.html 桂氏系譜] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/52.html?c=0 桂太郎肖像] *[http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/2007_01/taro_katsura/ 明治宰相列伝 : 桂太郎 | 国立公文書館] *[http://www.takushoku-u.ac.jp 拓殖大学] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月4日 (日) 08:08。]     

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