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{{大統領
| 人名 = ウィンストン・スペンサー=チャーチル
| 各国語表記 = Sir Winston Leonard Spencer-Churchill
| 画像 = Churchill portrait NYP 45063.jpg
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| 出生日 = 1874年11月30日
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1953年|ノーベル文学賞| }}
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'''サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル'''(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, [[1874年]][[11月30日]] - [[1965年]][[1月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]。[[1940年]]から[[1945年]]にかけてイギリス戦時内閣の[[イギリスの首相|首相]]としてイギリス国民を指導し、[[第二次世界大戦]]を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。
彼の[[姓|家名]](ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「'''スペンサー=チャーチル'''」という複合姓(二重姓)である。
[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ダグラス・マッカーサー]]とは遠戚関係にある。
[[2002年]]、[[英国放送協会|BBC]]が行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
== 生涯 ==
=== 出自と幼年期 ===
チャーチルは、1874年11月30日に[[オックスフォードシャー州]]ウッドストックの[[ブレナム宮殿]]に生まれた。ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先[[マールバラ公ジョン・チャーチル]]が、[[スペイン継承戦争]]中の[[ブレンハイムの戦い]]で立てた戦功によって当時の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]から贈られた大邸宅である。
父[[ランドルフ・チャーチル]]は第7代[[マールバラ公]]の息子で、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の領袖であり[[財務大臣 (イギリス)|蔵相]]をつとめた政治家であった。また、母は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の銀行家[[レナード・ジェローム]]の娘で、[[社交界]]の花形であった[[ジャネット・ジェローム|ジャネット]](ジェニー)である。
幼年時代に寄宿学校([[ハーロー校]])に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は[[左利き]]だったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわず、士官学校に入るのにすらたいへんな時間がかかった。
=== 政界入り ===
[[Image:Churchhill 03.jpg|200px|thumb|right|将校時代のチャーチル]]
[[1895年]]に[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]を卒業し、[[騎兵]]隊[[少尉]]に任官した。その後、軍事顧問として[[キューバ]]や[[インド]]に赴き、本国の[[雑誌]]に記事を寄せた。特にインドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、時の首相である[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]に面会を求められている。
[[1899年]]の[[ボーア戦争]]には[[従軍記者]]として参加。[[ナタール]]で敵に捕われ、捕虜となるが[[脱走]]に成功。チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4000ポンドの収益と名声を手に入れた。[[1900年]]、保守党から[[下院]][[選挙]]に出馬し、初当選を果たした。
[[1904年]]、チャーチルは[[保護関税]]問題から保守党を離党し、[[自由党 (イギリス)|自由党]]に移籍した。[[1906年]]の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。
=== 第一次世界大戦期 ===
[[1911年]]、チャーチルは海軍相となり、在任のまま[[第一次世界大戦]]を迎えた。しかし、敵国となった[[オスマン帝国]]([[トルコ]])の首都[[イスタンブル]]の入り口である[[ダーダネルス海峡]]制圧をねらって彼が推進した[[ガリポリの戦い]]([[1915年]])はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋([[屠殺]]者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。
[[1917年]]、チャーチルは[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、[[1919年]]以降は[[ロシア革命]]に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。[[1921年]]、彼は植民地相に転じ、[[アイルランド自由国]]の独立を認めた[[英愛条約]](イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
[[1922年]]には落選して政権を去ったが、この間「反[[社会主義]]」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。[[1924年]]の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣の財務相に就任した。
[[1929年]]、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、[[1931年]]に発足した[[ラムゼイ・マクドナルド]]挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。
===第二次世界大戦期===
[[Image:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|220px|thumb|right|ヤルタ会談]]
[[1939年]]9月に[[ポーランド]]に侵攻した[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ドイツ]]に宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた(Winston is back)」と艦隊に発信している)。[[1940年]]には[[ネヴィル・チェンバレン]]首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、[[挙国一致内閣]]を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルは[[ラジオ]]や議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき[[バトル・オブ・ブリテン]]を勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、[[ヤルタ会談]]、[[ポツダム会談]]などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の[[1945年]]7月におこなわれた総選挙で保守党は[[クレメント・アトリー]]率いる[[労働党 (イギリス)|労働党]]に敗北した。敗北が確定したのは[[ポツダム会談]]中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった<ref>投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。</ref>。
===冷戦期===
その後、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領の招きで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を訪問し、各地で演説を行ったが、[[1946年]][[3月5日]]に[[ミズーリ州]][[フルトン]]で行った演説で[[ヨーロッパ]]の東西分断を評した「[[鉄のカーテン]]」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした[[冷戦]]の到来を予言した。
[[1951年]]の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、二度目の政権は国際問題に悩まされ、[[大英帝国]]の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。また、[[脳卒中]]の発作にも悩み、[[アンフェタミン]]を服用しなければ演説が出来ない程までに体力は低下していた。
まず選挙の年には、イランで[[モハンマド・モサデク]]首相がイギリス系の石油会社[[アングロ・イラニアン石油]]の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地[[ケニア]]では、[[キクユ人]]による抵抗運動から[[1952年]]に非常事態宣言が発令されて[[マウマウ戦争]]に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。[[マレーシア]]でも独立の機運が高まって反英[[ゲリラ]]の闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。
アトリー労働党政権とは逆に、鉄鋼や運輸分野において非国有化を行った。
[[1955年]]、チャーチルは首相職を[[アンソニー・イーデン]]に譲り、引退した。[[1963年]]にはアメリカから[[アメリカ名誉市民|名誉市民権]]を贈られたが、チャーチルはその頃には病気で式典に出ることができなかった。その頃には頻繁に[[心臓発作]]をくり返すようになり、次第に恍惚状態になることが多くなり、一日に頭がはっきりしているのは2、3時間という有様であったという。1965年1月24日、チャーチルは病没し、平民のためとしては史上初となる[[国葬]]によって葬られた。
== 寸評 ==
チャーチルは非常に英雄主義的な考えをもった政治家であり、政治や文学にその才能を発揮した。第二次世界大戦の困難な時期に彼は強い意志と楽観主義をもって憔悴したイギリス国民を激励。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、ついにはアメリカ・ソ連と同盟しイギリスを勝利に導いた。彼はたぐいまれな軍事的知識をもち、その戦略家としての名声は卓越したものがある。しかし批判者の中には「彼の提案する壮大で無謀な作戦戦略は、しばしば現場と衝突し、混乱させた。」と主張するものもある。これは、チャーチルには幼少時から[[ハンニバル]]や[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]などの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。ナポレオンへの思い入れは深く少年時は、錫製のナポレオン時代の兵士の人形をコレクションしていた。
彼の政治キャリアは長きにわたるが、そこには幾たびかの不遇期があった。特に戦間期にはチャーチルは古い帝国主義的幻想にしがみついた時代遅れの政治家と考えられていた。また彼はマルバロー家特有の[[躁うつ病]]を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の躁うつ病のことを『私の中の黒い犬』と呼んでいた)。
また彼の文才とユーモアとウィットのセンスは、広く認められたものであった。彼はその政治家としてのスタートをさまざまな戦記を執筆することからはじめた。彼は下院議員に当選後も積極的に執筆活動を続け、海軍大臣として第一線で活躍した第一次世界大戦を書いた作品や自分自身の先祖ジョン・チャーチルや父ランドルフ・チャーチルを書いた伝記など多数を執筆。特に第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名であり、それらの筆業は彼にノーベル文学賞をもたらした。日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名。貴女と顔を会わせなくても良くなるなら、毒入りの紅茶を飲む方が良いと切り返して、女性議員を悔しがらせた伝えられる。
なお、彼が優秀な政治家の条件として挙げたのは「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、それを弁解する能力」である。
== 備考 ==
*[[昼寝]]をする事が日課であり、他人にも勧めていた。[[国会]]会期中であっても昼寝が出来る様に議事堂内にチャーチル専用の[[ベッド]]が用意されていた。医学的にも適度な昼寝は心身の疲れを取り[[ストレス (生体)|ストレス]]解消に繋がる事が指摘されており、チャーチルが不健康であったにもかかわらず長命であったのも昼寝の効用であったとする専門家もいる。
*トレードマークの[[葉巻]]は大きいサイズを好んだが、半分までしか吸わなかったという。現在でも、[[キューバ]]の「[[ロメオ・イ・フリエタ]]」などの一部のブランドでは長さ178ミリ、直径18.65ミリの葉巻を「チャーチルサイズ」と呼んでいる。また葉巻はロンドンにある[[ダンヒル]]など有名たばこ店から購入していたが、第二次世界大戦中にダンヒルの店が[[ドイツ空軍]]による爆撃にあった際、直ちにマネージャーが首相官邸に「あなたの葉巻は大丈夫です」と電話をしたという。
*1929年10月24日、たまたまウォール街を見学に訪れていたため、いわゆる「[[世界恐慌|暗黒の木曜日]]」を目の当たりにした。
== 語録 ==
*「民主主義は最悪の政治体制だ。だがそれまであったものよりかは幾らかマシだ」
*「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」
*「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
*「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」
*「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」
*「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に」
*「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない」
*「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」(あらゆる政治体制に民主制が打ち勝ってきたことを挙げて)
*「人類ははじめて自分たちを絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後の到達した運命である」
*「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった」(第一次世界大戦に際して)
*「お金を失うことは小さく失うことだ。名誉を失うことは大きく失うことだ。しかし、勇気を失うことは全てを失うことだ」
*「私が歴史を書くのだから、歴史は私に好意的だろう」
*「戦争での成功を保証できる者などいない。いるのは成功を収める権利を勝ち取った者だけだ」
*「人類の戦闘において、かくも多数の人々が、かくも少数の人々によって、これほど多くの恩恵をうけたことはかつてない。」([[バトル・オブ・ブリテン]]を振り返った時の言葉)
*息子の嫁が、[[フィアット]]の[[ジャンニ・アニェッリ]]と不倫し、それが報道された時、「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」と[[ジャンニ・アニェッリ]]を評した。
*「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況がわかる」
*「これは我が党の長い歴史の中で蒙った最悪の厄災だ」(ヤルタ会談直後の総選挙惨敗を受けて)
*「私はイギリスが今や世界のおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」(アメリカ名誉市民権を贈られたとき)
*「何もかもウンザリしちゃったよ」([[臨終]]の際の最後の言葉)
== 架空の名言 ==
チャーチルが'''「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない。」'''と発言したという事が巷間に伝わっているが、'''これは誤った情報であり、チャーチルがこのような発言をしたという公式文書などは存在しない事が指摘されている'''<ref>[http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20050921 捏造されたチャーチル]</ref>。同じイギリスの首相である[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の発言'''「16歳で[[自由党 (イギリス)|自由党]]員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で[[保守党 (イギリス)|保守党]]員にあらざる者は、頭を持たぬ」'''が上記の言葉の元となったともいう説もあるが、この「名言」には年齢の部分などにさまざまな異種があると同時に、誰が言ったかについても明確な根拠がなく、出典は不明である。ディズレーリの他にも[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[アリスティード・ブリアン]]、[[ウッドロー・ウィルソン]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]]、[[ジョルジュ・クレマンソー]]、[[フランソワ・ギゾー]]、[[バートランド・ラッセル]]、[[デイヴィッド・ロイド=ジョージ]]といった大物の発言に擬せられたことがある<ref>[http://www.geocities.com/Athens/5952/unquote.html]</ref>。
また、[[競馬]]関連の名言としてよく引き合いに出される'''「[[ダービー (競馬)|ダービー]]馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」'''という発言も出典がなく、現在では作り話とされている。
==著書==
*『サヴローラ』(小説)
*『マラカンド野戦軍』(戦記)
*『河畔の戦争』(戦記)
*『ランドルフ卿』(父ランドルフの伝記)
*『第二次世界大戦回想録』、([[1953年]][[ノーベル文学賞]])
*『第二次世界大戦』、[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]訳、全四巻、[[河出書房新社]]、(第二次世界大戦回想録を、戦争を中心にして自身が短くまとめたもの)のち[[河出文庫]]新版
*『わが生涯』中村祐吉訳 [[角川文庫]] 若き日の回想録
==参考文献==
*ロード・モーラン『チャーチル 生存の戦い』 河出書房新社 1967 主治医の日記が元
*Jose Harris([[柏野健三]]訳)『その生涯(上・中・下)』ふくろう出版、1995・97・99年
*大森実 『チャーチル 不屈の戦士』 人物現代史4 講談社 1978
*河合秀和 『増補版チャーチル』 中公新書 1998
*ジョン・ルカーチ 『ヒトラー対チャーチル』 共同通信社, 1995
*ロバート・ペイン 『チャーチル』(りぶらりあ選書・法政大学出版局) , 1993
*ウィンストン・スペンサー=チャーチル(孫) 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』(りぶらりあ選書), 1994
*ジョン・コルヴィル『[[ダウニング]]街日記 首相チャーチルのかたわらで』 20世紀メモリアル上下・平凡社 1990
*祥伝社新書編集部編 『グレートスモーカー ― 歴史を変えた愛煙家たち』 祥伝社 2006
*[[山田風太郎]] 『人間臨終図鑑Ⅲ』 徳間文庫 1987
== 関連項目 ==
[[Image:Churchill waves to crowds.jpg|220px|thumb|right|群集に[[Vサイン]]を掲げるチャーチル]]
*[[バトル・オブ・ブリテン]]
*[[蒋介石]]
*[[宋美齢]]
*[[フランクリン・ルーズベルト]]
*[[ヨシフ・スターリン]]
*[[ピースサイン]] - チャーチルが始めたとされる。
*[[日中戦争]]
*[[中国国民党]]
*[[ウィンストン・S・チャーチル (ミサイル駆逐艦)]]([[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦]]31番艦。フライトIIA)
*[[セカンダラバード]]([[インド]]の都市、軍隊時代に赴任)
== 脚注 ==
<references />
==外部リンク==
{{Wikiquote|ウィンストン・チャーチル}}
{{Commons|Winston Churchill}}
*[http://www.churchill-speeches.com/ チャーチル演説集(英語)]
*[http://www.fiftiesweb.com/usa/winston-churchill-blood-toil.htm 血と労苦と涙と汗](1940年5月13日、首相就任演説。英語)
*[http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm The Sinews of Peace](1946年3月5日、いわゆる「鉄のカーテン」演説。英語)
*[http://www.hpol.org/churchill/ 鉄のカーテン演説(フルトン演説)(英語)]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 06:27。]