融和運動

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前半は[[ソ連対日参戦]]を参照 == 経過 == === 初動 === 8月9日午前1時(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動し、同じ頃、[[関東軍]]総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が[[攻撃]]を開始したとの報告を受けた。さらに[[牡丹江市]]街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が[[大本営]]の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付[[偵察機]]で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は宮内府に赴いて[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]皇帝に状況を説明し、[[満州国]]政府を臨江に遷都することを勧めた。 === 西正面の状況 === ソ連軍ではザバイカル戦線、関東軍では[[第3方面軍 (日本軍)|第3方面軍]]がこの地域を担当していた。日本軍は9個師団、3個独混旅団、2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個、騎兵5個、戦車2個、自動車化2個各師団、戦車、機械化旅団等18個という大兵力であった。一方方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、本格的な交戦は行われなかった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に前進できた。[[第3方面軍 (日本軍)|第3方面軍]]は既存の[[築城]]による抵抗を行い、[[ゲリラ戦]]を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を[[鉄道]]沿線に集結させて、担当地域に分割し、[[ゲリラ戦]]を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は[[後退]]させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に[[第3方面軍 (日本軍)|第3方面軍]]作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で[[戦闘力]]を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は[[朝鮮半島]]の防衛を考慮に入れた段階的な[[後退]]を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に[[新京]]に向かって後退するために8月12日に本格的に[[後退行動]]を開始し、西正面から進行したソ連の主力である機甲部隊は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。 ソ連軍は8月13日には[[牡丹江]]を占領し、16日には勃利を占領した。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは[[第107師団 (日本軍)|第107師団]]で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、 8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。 === 東正面の状況 === 東方面においては日本軍は[[第一方面軍]]が、ソ連軍は極東方面軍が担当していた。[[第1方面軍 (日本軍)|第1方面軍]]は防勢作戦を計画していた。日本軍は 10個師団、独立混成旅団、国境守備隊、機動旅団各1個に対し、ソ連軍は 35個師団、17個戦車・機械化旅団基幹であった。つまり、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方から[[ゲリラ戦]]を以って[[奇襲]]を加える。牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、[[満州国]]と[[朝鮮半島]]の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に[[陣地防御]]に必要な定数を割り込んでいた。同方面軍の主力部隊の一つであった[[第5軍 (日本軍)|第5軍]]を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、[[銃剣]]・[[軍刀]]・弾薬・燃料だけでなく、[[火器]]・[[火砲]]にも欠数が多く、[[銃]]・[[軽機関銃]]、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また[[火砲]]は[[第124師団 (日本軍)|第124師団]]、[[第135師団 (日本軍)|第135師団]]ともに定数の三分の二以下、第124師団は[[野砲]]の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、[[迫撃砲]]で野砲の欠数を補填しているほどであった。事実、実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と[[遭遇戦]]が発生し、離脱したのは850人中200人であった。このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。 東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126、第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍はよく死闘したが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。 === 北正面の状況 === 満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。孫呉正面においては、ソ連軍は36軍、39軍、53軍、17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団は[[陣地防御]]を準備していたが、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団、独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために[[後退行動]]を行った。 === 北朝鮮の状況 === 北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に終結した。戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は[[第17方面軍 (日本軍)|第17方面軍]]司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、二個歩兵補充隊と、五個警備大隊、特別警備大隊八個、高射砲中隊三個、工兵隊三個などから構成されていた。第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して[[平壌]]への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦[[築城]]を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北鮮の雄基と羅南に上陸してきた。8月13日にソ連軍の偵察隊が淸津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する[[作戦]]を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し, 水際まで追い詰めたが、14日払暁まで[[清津]]に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。 == 南樺太および千島の概況 == 当時日本が領有していた南[[樺太]]・[[千島列島]]は、米軍の西部[[アリュ-シャン列島]]への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた[[北部軍管区 (日本軍)|北部軍管区]]を管轄してきた[[北部軍 (日本軍)|北部軍]]を、1943年2月5日には[[北方軍]]として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第一飛行師団と共にその隷下においた。 結果、1944年秋には千島に5個師団樺太に1個旅団を擁するに至る。しかし本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると、航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。 他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日1000を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。 しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。 北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島、すなわち[[占守島]]、[[幌筵島]]、[[温禰古丹島]]の占領を命じた。 === 南樺太の状況 === 1941年6月の[[関特演]]で樺太混成[[旅団]](後にこれを中核として第88師団を編成)が動員され戦時編成となって以来、対ソ静謐の方針に従い情報収集や物資集積に努めていた。ただし、[[アッツ島]]玉砕を受け関心が千島の不十分な防備に移ってしまったうえ、対米戦のための陣地構築が樺太南部や東海岸で実施されるようになったため、その進捗は中途にとどまった。 さらには、国境地帯に広がる[[ツンドラ]]が陣地構築の妨げとなった。居留民の避難については、1944年秋に第五方面軍より指示されたが、資材や人員の不足から、上敷香から内恵道路に至る道路を構築できたにすぎず、例えば炭鉱の内地への労働力移出といった、民間側の努力に頼るほかなかった。 向地視察隊などによる情報収集の結果、ソ連側の兵力集中が確認されたが、対応は遅々としていた。 樺太でソ連軍を迎え撃ったのは第88師団であったが、主力は米軍来攻が予想される南部、すなわち[[豊原]]や[[大泊]]にあり、国境付近を含め、北部([[白縫村|真逢]]-[[久春内村|久春内]]以北)に展開していたのは歩兵第125連隊だった。 第五方面軍及び大本営からのソ連宣戦布告の報に接すると、師団は[[落合町 (樺太)|落合]]にあった歩兵第25連隊に[[真岡町|真岡]]方面への転進を命じ、歩兵第125連隊は国境陣地占領を行ない、平行して国境付近の作業員や警察官家族、開拓団の避難に努めた。8月10日には[[安別]]付近の住民に緊急避難命令を発令、[[西柵丹村|西柵丹]]へと退避させた。また、9日には在郷軍人ら3628名を地区特設警備隊要員として防衛召集、沿岸警備や避難者援護に従事させた。[[恵須取町|恵須取]]では8月13日、支庁長により地域、職域ごとの義勇戦闘隊(男子約600名、女子約70~80名)が編成された。 同日、第88師団は樺太庁長官や豊原海軍武官府と「老幼緊急疎開の件」につき緊急会談、13歳以下の男女と14歳以上の婦女子等16万名を北海道へ疎開させる旨決定、8月12日に全市町村に通達した。翌13日には第一船が出発、23日にソ連軍が邦人の島外移動を禁ずるまでに87670名が離島に成功することになる。 === 南樺太の戦闘 === 樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。しかし、11日までは斥候兵が出没するのみで、その動きは極めて緩慢であった。これは、ソ連側が、満洲における進捗いかんでは樺太及び千島への兵力を同方面に振り向けることを考慮していたためである。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。ルートは樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの二つに分かれていた。 しかし、ツンドラ地帯ゆえ戦車や重砲の通行可能なルートが限られていたこともあり、その進撃は果々しくなかった。他方、日本軍は方面軍の「積極戦闘を禁ず」という命令(8月10日に解除、ただし無線機材の故障や人員不足による機材置き去りゆえ前線に通じず)のため、専守防御的なものとならざるを得なかった。 けれども、国境付近の半田集落において国境警察隊と2個小隊の兵士約100人が抵抗、1個軍団を丸一日にわたり食い止める等の善戦を見せた。ただし、その多くが後に戦死した。国境の10kmほど後方の八方山陣地においては、日本軍第125連隊約3000人が[[陣地防御]]を行ったほか、伏兵を配置するなどの挺身奇襲攻撃を実施、時間的猶予を得ることに努めた。その間に非戦闘員の[[鉄道]]による後送を実施、これに成功した。 元来樺太は現有兵力でのみ防衛にあたることとされていたが、日本側の航空兵力が皆無だったこともあり、8月12日、在道の航空部隊に出撃が命じられた。しかし、出撃に至ったのは8月14日のことであり、かつ悪天候のため宗谷海峡を越えることなく終わってしまった。 陸上兵力についても増援が企図されたが、日の目を見ることはなかった。また、8月16日未明に実行すべく、北樺太上陸作戦が計画されていたが、終戦の知らせと大陸命により、こちらも中止された。 ところが、実際の戦闘はこの後も継続し、むしろ拡大していった。 15日の時点では、国境の古屯でのみ防御戦闘が続けられていたが、同日ソ連統帥部は真岡・千島への進攻を決断、夜には恵須取攻略船団(13日に一度撃退されたため)が出航していた。16日には恵須取への再攻撃が開始され、浜市街や太平炭鉱付近などもソ連軍による艦砲射撃と航空機による無差別攻撃があり、追い詰められた太平炭鉱病院の看護婦が集団自決する事件が発生。 これに対し、日本軍は18日の戦闘行動中止命令を受け、連絡を受けた部隊から順に解散していたが、19日以降方面軍から再三自衛戦闘継続が要求される。ソ連軍が南下を続ける限り、という条件付のものではあったが、ソ連側が「停戦には応ずるが、日本軍は無条件降伏したのだから、わが軍は目的地を占領するまで前進する」として取り合おうとしなかったこともあり、実質的には戦闘の継続を意味した。 真岡へのソ連軍上陸で事態はさらに急を告げる。同地は樺太南西に位置する港町で、ソヴィエツカヤガヴァニから出発したソ連海軍北太平洋艦隊が20日早朝から艦砲射撃を行い、その後上陸し占領した。真岡にあった部隊の多くは当時終戦に伴う師団からの命令により東方の荒貝沢に移動しており、市街に残っていた部隊は管理部隊が殆どだった。このため、犠牲となったのは一般市民であり、ソ連兵の避難民に対する無差別乱射により殺害されたものもあったという。<!--避難民に攻撃を加えたのは事実。満州でも葛根廟事件などの避難民虐殺事件が多発しており、誤認による殺害とは言い切れない-->この時同地では、電話交換手が自決した[[真岡郵便電信局事件]]や、清水村瑞穂における日本人による[[樺太朝鮮人虐殺事件]]も発生した。 同地にあった歩兵第25連隊は、軍使の派遣を考慮し発砲を禁じたが、軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に切り替えた。21日朝には荒貝沢に[[機動|接敵機動]]、熊笹峠へ後退しつつ現場指揮官は抵抗を続け、避難民の後方への移動を掩護、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。 この最中、8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による攻撃が加えられ、多数の死傷者が出るなど戦火は続いた。同日朝には樺太よりの引揚船「[[小笠原丸]]」「[[第二新興丸]]」「[[泰東丸]]」が留萌沖で潜水艦に攻撃され、「第二新興丸」が大破、他の二船は沈没し1708名の死者と行方不明者を出した。 その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には[[豊原]]に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には[[大泊]]に上陸、[[樺太]]全土を占領した。 === 千島列島の状況と戦闘 === アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも[[占守島]]をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初は[[アッツ島]]からの[[空爆]]に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、航空兵力も含めある程度の数が終戦まで確保(航空機は占守島で8機-樺太はゼロ、兵力約25000、火砲約200門)された。 また、樺太と異なり、対米戦であれ対ソ戦であれ、スタイルとして異なるところはなく、資源を有効活用できたのも特筆すべきであろう。 作戦は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。 ソ連参戦後も、付近に艦船を目撃することはあったが積極攻勢には出ず、特に動きはないまま、8月15日を迎える。そして、方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。 だが、この日、15日ソ連軍は[[千島列島]]北部の[[占守島]]への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示、18日未明に[[揚陸艦|揚陸艇]]16隻、艦艇38隻、8363人の兵員を運用して[[上陸作戦]]を行った。 投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍根拠地帯の全艦艇、上陸用舟艇、商船及び国境軍の現有船舶、第128混成飛行師団であった。 当時占守島の防衛を担っていた日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させた。これは、上陸可能な地点が限定されていたことや、ソ連軍内部での通信の途絶などが主因であったといえよう。 だが、残存したソ連軍部隊が上陸し、島北部の四嶺山において[[戦闘]]が続いた。日本軍は 戦車第11連隊を先頭にして、四嶺山のソ連軍に突撃を敢行し、これを撃退、さらに四嶺山北斜面のソ連軍を後退させた。しかし、やがてソ連軍も対戦車火器を結集して激しく抵抗、これに対して四嶺山南東の日本軍高射砲が砲撃し、駆け付けてきた独立歩兵第283大隊も軽戦車を先頭に攻撃を開始。耐え切れなくなったソ連軍は、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退した。しかし、戦車第11連隊も27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した。だが、ソ連軍の内陸部への侵入を阻止しすることに成功した。 その後、ソ連軍が、防備の要所をすでに占領していることを知り、これを奪還した。しかし、ソ連軍もこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し激しい戦闘となり、大隊長が重傷を負い、大隊副官以下50名余の戦死者を出した。しかし独立歩兵第283大隊はこの要地の確保し、歩兵73旅団隷下の各大隊の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。 この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍重砲4門が射撃を行っていたが、四嶺山の日本軍重砲1門が応戦し、1門でこの4門を撃破することに成功した。また幌筵島の74旅団も、主力を8月18日夜までに占守島に転進させた。このような戦況で、國端崎の拠点を確し、戦車第11連隊と歩兵73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵74旅団主力がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢であったが、第五方面軍司令官の命令により、第91師団は 予定通り16時に戦闘行動の停止と防御移転の命令を発した。停戦のための白旗を掲げた軍使が派遣されるがソ連軍はこれを射殺, また部隊が戦闘停止してからもソ連側の攻撃はしばらく続いた。19日朝に再び軍使が送られ、ソ連軍もこれを受け入れた。そして21日に局地停戦協定が締結され、23・24日にわたり武装解除がなされた。 なお、千島列島のうち民間人が在住していたのはほとんどが南千島([[北方領土]])であり、北千島の定住者は18名だけであった。しかし、季節労働者である[[日魯漁業]]の女子従業員400~500名がいた。終戦後直ちにその送還が企図され、8月19日16時、独航船26隻に分乗し脱出、全員無事北海道に到着した。 それ以降、ソ連軍は25日に[[松輪島]]、31日に[[ウルップ島]]という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。 南千島の占領は北千島占領部隊とは別な部隊により行われた。[[択捉島]]の占領はウルップ島占領前の8月29日であり、さらに9月1日~4日に[[国後島]]・[[色丹島]]の占領を完了した。[[歯舞群島]]の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。 == 停戦 == 外地での戦闘が完全に収束する前に、日本政府は[[ポツダム宣言]]を受諾し、[[終戦詔書]]が発布された。このことにより攻勢作戦を実行中であった部隊はその作戦を中止することになった。しかしソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。そのため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなく、関東軍とソ連軍の停戦が急務となった。連合国最高司令官[[マッカーサー元帥]]は8月15日に日本の天皇・政府・大本営に対して戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令を出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わっていなかった。 8月17日、関東軍総司令官[[山田乙三]]大将はソ連側と交渉に入ったが、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。これにマッカーサーは要求を強め、ついに8月18日に一切の武力行動を停止する命令を出し、これをうけ日本軍は各地で戦闘停止し、停戦交渉が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に[[北海道]]上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞と[[スタフカ]]からの命令により実行されることはなかった。 8月19日1530(極東時間)、関東軍参謀長畑中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。8月24日には、スタフカから正式な停戦命令が届いたが、作戦は9月始めまで続けられ、ソ連軍は満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島を占領した。 == 前線部隊の状況 == 対ソ防衛戦は[[満州国]]各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。巨視的に日本軍は終始戦力格差から各地で一日の間に[[陣地]]を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は戦況を立て直すことができず、離散することがほとんどであった。しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備不十分の寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃する戦場に投入したとしても、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば[[第5軍 (日本軍)|第5軍]]は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも[[陣地]]を新設して邀撃の準備を行い、さらに陣地の後方に各部隊を再編して戦力を準備することに成功しており、非常に優れた指揮の下で円滑に[[後退]]が行われたことが伺える。また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊はほぼすべてが現地固守を命じられた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めないからであった。そのため後退できない警備隊は物量で波状攻撃をかけるソ連軍に対して悲愴な陣地防御を行い、そのほとんどが担当地域で果てることとなった。ここで注目すべき点は、[[戦闘力]]が寡弱な[[中隊]]・[[小隊]]であったとしても、事前に定位を捨てる部隊はなく、戦闘前に個人的に離隊した兵士も一人もいなかった<ref>防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社(昭和49年6月28日発行) </ref>。 == 在留邦人の状況 == 日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してきてから地域の在留邦人が悲惨な事態に追い込まれることとなった。ソ連軍首脳部は日本軍、日本人に対する非人道的な行為を戒めているものの、実際には現地部隊はそれを無視しており、正当な理由なき発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していた。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封じられていたため、現地の状況について東京に伝え、ソ連に対してこの事態についての外交交渉を求めることが限界であった。その中でも現地状況を逐次日本政府に電報で再三にわたって送り続け、連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するように取り計らっていた。このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は[[中国残留日本人]]と呼ばれており、日中両国の政府や[[非営利団体|NPO]]による日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から60年が経た後でも完全な解決には至っていないのが現状である。 また、樺太では[[在樺コリアン]]の問題が残っている。 == 参考文献 == *防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦 <2> 千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社(昭和46年3月31日発行) *防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社(昭和49年6月28日発行) *金子俊男『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録-』(1974年4月28日第4刷) *秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1996年9月10日第4版) == 関連項目 == *[[ソ連対日宣戦布告]] *[[第二次世界大戦]] *[[満州国]] *[[占守島の戦い]] *[[シベリア抑留]] *[[真岡郵便電信局事件]] *[[葛根廟事件]] *[[小笠原丸]] == 脚注 == <references/> [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008年5月9日 (金) 06:55。]    
'''融和運動'''(ゆうわうんどう)とは、[[戦前]]の日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動である。 == 水平運動との比較 == 差別[[糾弾]]的傾向の強かった[[全国水平社|水平社]]運動に対し、融和運動は一般国民以上に[[天皇]]への忠誠を誓い、[[国粋主義]]者や富裕層の力を借りる事によって部落民の地位向上を実現しようとした。戦後、水平社の思想が[[部落解放同盟]]や[[全国部落解放運動連合会|全解連]]に引き継がれたのに対し、融和運動の思想は[[自由同和会]]や[[全日本同和会]]へと引き継がれた。 == 歴史 == [[明治時代]]に部落出身の代議士[[森秀次]]、[[和歌山県|和歌山]]の郷土史家[[岡本弥]]らによって始められた。[[大正時代]]には、[[1914年]]に[[大江卓]]が[[帝国公道会]]を設立、[[1921年]]に[[華族]]で[[東京大学|東京帝国大学]]助教授だった[[有馬頼寧]]が[[同愛会]]を設立、[[1925年]]にはこれらの団体を結集した[[全国融和連盟]]が発足した。[[1925年]]には国粋主義者の[[平沼騏一郎]]を会長とする[[中央融和事業協会]](中融)が発足した。昭和初期には、[[ファシズム]]台頭によって迫害され衰退した水平運動を圧倒した。 == 関連項目 == * [[部落問題]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%9E%8D%E5%92%8C%E9%81%8B%E5%8B%95 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 03:42。]    

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