大久保利通

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{{政治家 |各国語表記 = おおくぼ としみち |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1830年]][[9月26日]] |出生地 = [[薩摩国]][[鹿児島]][[城下町|城下]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1830|9|26|1878|5|14}} |死没地 = [[東京府]][[麹町区]] |称号・勲章 =[[従一位]]、[[勲一等旭日大綬章]] |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代[[大蔵卿]] |就任日 = [[1871年]][[8月13日]] |退任日 = [[1873年]][[10月12日]] |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代[[内務卿]] |就任日2 = [[1873年]][[11月29日]] |退任日2 = [[1874年]][[2月14日]] |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代[[内務卿]] |就任日3 = 1874年[[4月27日]] |退任日3 = 1874年[[8月12日]] |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第5代[[内務卿]] |就任日4 = [[1874年]][[11月28日]] |退任日4 = [[1878年]][[5月14日]] |退任理由4 = 死去のため }} [[画像:Toshimichi Okubo.jpg|thumb|200px|志士時代の大久保利通]] [[画像:Toshimichi Okubo 3.jpg|thumb|200px|[[サンフランシスコ]]にて撮影]] [[画像:Okubo-Toshimichi Kioi-no-hen.JPG|thumb|200px|遭難の地に立つ石碑]] [[画像:Ohkubo Toshimichi statue.jpg|thumb|200px|銅像(鹿児島市)]] '''大久保 利通'''(おおくぼ としみち、[[文政]]13年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1830年]][[9月26日]]) - [[明治]]11年([[1878年]])[[5月14日]])は、[[日本]]の[[武士]]、[[政治家]]。[[位階]][[勲等]]は[[従一位]][[勲一等]]。 [[明治維新|維新]]の[[元勲]]。[[西郷隆盛]]、[[木戸孝允]]と並んで「'''[[維新の三傑]]'''」と呼ばれる。 == 生涯 == === 幕末 === 文政13年8月10日(1830年9月26日)、[[薩摩国]][[鹿児島城]]下高麗町(現・[[鹿児島県]][[鹿児島市]]高麗町)に、[[琉球]]館附役の[[薩摩藩]]士・[[大久保利世]]と[[皆吉鳳徳]]の次女・福の長男として生まれる([[幼名]]は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の[[家格]]は御小姓与と呼ばれる身分である下級[[藩士]]であった。本姓は[[藤原氏]]を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の[[西郷隆盛]]、[[海江田信義]]らと共に学問を学ぶ。 15歳の時[[元服]]し、[[仮名 (通称)|通称]]を正助、[[諱]]は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。 [[弘化]]3年([[1846年]])から藩の記録所書役助として出仕する。[[嘉永]]3年([[1850年]])の[[お由羅騒動]](嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、[[島津斉彬]]が藩主となると復職する。[[精忠組]]の領袖として活動し、[[安政]]5年([[1858年]])の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新[[藩主]]・[[島津忠義|島津茂久]]の実父・[[島津久光|忠教]]に友人・[[税所篤]]の助力で接近する。篤の兄・[[吉祥院乗願]]が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。[[文久]]元年([[1861年]])、御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる<ref>御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である[[大山綱栄]]や[[調所広郷]]がいる。</ref>。文久元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1862年]][[1月14日]])から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から'''一蔵'''の名を賜り改名する。 [[慶応]]元年([[1865年]])、'''利通'''と改名する。 久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の[[岩倉具視]]らと[[公武合体]]政策を画策し、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]の将軍後見職、福井藩主[[松平慶永]]の[[政事総裁職]]就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年([[1867年]])に江戸幕府将軍[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行うと、岩倉と共に[[王政復古 (日本)|王政復古]]の[[クーデター]]を計画して実行した([[小御所会議]])。 === 明治維新後 === 明治2年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]([[1869年]][[8月29日]])に[[参議]]に就任し、[[版籍奉還]]、[[廃藩置県]]などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年([[1871年]])には[[岩倉使節団]]の副使として外遊する。外遊中に[[留守政府]]で問題になっていた朝鮮出兵を巡る[[征韓論]]論争では、[[西郷隆盛]]や[[江藤新平]]らと対立し、[[明治六年政変]]にて失脚させた。また同年、[[台湾出兵]]を行い[[9月14日]]に戦後処理のため、全権弁理大使として、[[清]]に渡り、[[10月31日]]、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。 明治6年([[1873年]])、[[内務省 (日本)|内務省]]を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると[[地租改正]]や[[徴兵令]]などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の[[官僚]]機構([[霞ヶ関]]官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。 明治10年([[1877年]])には、[[西南戦争]]で政府軍を指揮した。その後、[[侍補]]からの要請に乗る形で自らが[[宮内卿]]に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、[[石川県]][[士族]][[島田一郎]]らにより[[紀尾井坂]]([[東京都]][[千代田区]][[紀尾井町]])にて暗殺された([[紀尾井坂の変]])(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の[[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]。 == 余録 == [[趣味]]は[[囲碁]]。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変な[[ヘビースモーカー]]で、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩[[パイプ (タバコ)|パイプ]]を掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。[[茶]]は[[京都]][[宇治市|宇治]]の[[玉露]]を濃く淹れたものを好んだ。[[漬物]]も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。 官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友[[税所篤]]からの借金で賄ったとされる。後にこの邸は[[ベルギー]][[公使館]]となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残った。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 口数こそ少ないが他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた[[桐野利秋]]も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした[[山本権兵衛]]も、大久保の前では殆ど意見出来なかったという。 また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは、維新の根幹として、旧来の人事の刷新を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝允や[[大隈重信]]と対立した。[[大木喬任]]や薩摩出身の[[吉井友実]]・[[松方正義]]ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧[[幕臣]]を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実美宛覚書)。 [[渋沢栄一]]が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている<ref>実際に渋沢は大蔵卿となった大久保によって明治4年7月29日から8月14日まで太政官枢密権大史に移されている。だが、渋沢ら排除した旧幕臣官僚の代わりとして大久保が推挙した人材中、財政を理解できたのは松方正義のみだったために、仕方なく呼び戻されたと言う。</ref>。 こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて、大隈重信はもちろん、[[井上馨]]・[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米視察で国家運営の実情を知って以後は、こうしたいわゆる「党派的行動」を改めるようになった。 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保没後の[[帝国議会]]で[[板垣退助]]が答弁したとき、野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は、「大久保卿であればこんなことにはならないのに」といって大久保の威厳を偲んだ。 内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった[[河瀬秀治]]は、大久保の没後の内務省では、[[伊藤博文]]内務卿の部屋で[[西郷従道]]や[[中井弘]]が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 家庭内では優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、次男の[[牧野伸顕]]と三男の[[大久保利武]]が争って玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用する、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪を[[ポマード]]でセットしていた。 [[江藤新平]]が佐賀の乱で挙兵した際に、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。大久保は江藤のことをよほど憎んでいたらしく、大久保の日記には「・・・今日、裁判所に宮に随従、江東(藤)之裁判を聴聞す」や、「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」など、辛辣極まりない表現を使い、罵倒している。 かつての盟友西郷隆盛が挙兵したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と書き送った一面があった。しかし、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々[[鴨居]]に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言った様だ<ref>中西進監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、ISBN 4-88405-126-2 C1023</ref>)。 また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたとか、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記を書くことを人に勧めたりしていたともいう。 暗殺される日の朝、福島県令[[山吉盛典]]に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。 大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、西郷贔屓の鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていた。現在、鹿児島市には大久保の[[銅像]]があるが、これは西南戦争百周年に際して東京から「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったとされる。現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされているが、しばらく前までは鹿児島では大久保の話も出来ないほどであった。 *[[雅号]]:甲東 *[[座右の銘]]:「為政清明」、「堅忍不抜」 *[[身長]]:178cm、[[体重]]:65kg。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 == 家族・子孫 == 安政4年([[1857年]])に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には、長男[[大久保利和]](貴族院議員)・次男[[牧野伸顕]](内大臣)・三男[[大久保利武]](大阪府知事)・五男[[石原雄熊]]・長女芳子が生まれた。芳子は後の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[伊集院彦吉]]に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう([[杉浦勇]])という愛妾が居り、おゆうとの間に四男[[大久保利夫]](海軍少尉)・六男[[大久保駿熊]]・七男[[大久保七熊]](農学者)・八男[[大久保利賢]]([[横浜正金銀行]][[頭取]])を儲けた。 孫の[[大久保利謙]]は日本近代史家で東大名誉教授。もう一人の孫[[大久保利春]]は[[丸紅]]専務で、[[ロッキード事件]]に際しては[[賄賂|贈賄側]]の一人として[[逮捕]]・[[起訴]]され有罪[[判決]]を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]](作家)、[[大久保利晃]](放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に[[寛仁親王妃信子]]、[[牧野力]]([[通産省|通産]][[事務次官]])、[[麻生太郎]]([[内閣総理大臣]])、[[武見敬三]](元[[参議院議員]])。 == 系譜 == ; [[大久保氏]] : 明確ではないが[[藤原氏]]末流を称している。[[家紋]]は三つ藤巴。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末に京都から薩摩に移るというが、系図は[[貞享]]年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。 <pre> 仲兵衛━勘之丞━正左衛門━正左衛門━利辰━利政━利敬┳利建=利世━利通━┳利和==利武┳利謙━┳利泰━洋子                           ┣利貞  ↑    ┣伸顕━伸通↑┣利正 ┗成子                           ┗利世――┘ ┣利武―――┘┗通忠                                     ┣利夫                                     ┣雄熊                                     ┣駿熊                                     ┣七熊                                     ┣芳子                                     ┗利賢┳利春                                        ┣利秀                                        ┗利康 </pre>      == [[官位]]及び[[栄典]]の履歴 == *明治元年[[閏月|閏]][[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[1868年]][[6月11日]]):[[従四位]](辞退) *明治2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1869年[[7月10日]]):[[従三位]]、永世[[賞典禄]]1,800石 *明治10年(1877年)[[11月2日]]:[[勲一等旭日大綬章]] *明治11年(1878年)[[5月15日]]:[[贈位|贈]][[正二位]][[右大臣]] *明治17年([[1884年]])[[7月7日]]:継嗣利和が[[侯爵]]に叙爵される。 *明治34年([[1901年]])[[5月22日]]:贈[[従一位]] == 大久保利通が登場する作品 == ; [[小説]] * [[海音寺潮五郎]]『西郷と大久保』 * [[司馬遼太郎]] ** 『[[翔ぶが如く]]』 ** 『[[歳月 (小説)]]』 ;[[漫画]] * [[武田鉄矢]]・[[小山ゆう]]『[[お~い!竜馬]]』 - かなり陰湿な性格の持ち主として描かれており、さらには[[肥溜め]]に落ちるなど貶めるような描写も見られる。 * [[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』 * [[和月伸宏]]『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』 ; 映画 * [[竜馬暗殺]]([[1974年]] 役者:[[田村亮 (俳優)|田村亮]]) * [[徳川一族の崩壊]]([[1980年]] 役者:[[梅宮辰夫]]) * [[幕末純情伝 (映画)|幕末純情伝]]([[1991年]] 役者:[[石丸謙二郎]]) * [[壬生義士伝#映画|壬生義士伝]]([[2003年]]・[[松竹]] 役者:[[津田寛治]]) ; ドラマ * [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]([[1968年]]・[[NHK大河ドラマ]] 役者:[[土屋嘉男]]) * [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]([[1974年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[西沢利明]]) * [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]([[1977年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[高橋長英]]) * [[獅子の時代]]([[1980年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[鶴田浩二]]) * [[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]([[1987年]]・[[日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]] 役者:[[近藤正臣]]) * [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]([[1990年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[鹿賀丈史]]) * [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]([[1998年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[池田成志]]) * [[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]([[2004年]]・[[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇]] 役者:[[斎藤歩]]) * [[新選組!]]([[2004年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[保村大和]]) * [[白虎隊_(テレビ朝日系テレビドラマ)|白虎隊]]([[2007年]]・[[テレビ朝日]] 役者:[[井田國彦]]) * [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]([[2008年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[原田泰造]]) == 関連項目 == {{Commons|Okubo Toshimichi}} *[[日本史の人物一覧]] *[[幕末の人物一覧]] *[[明治の人物一覧]] *[[鹿児島県出身の人物一覧]] *[[暗殺された人物の一覧]] ==脚注== {{reflist}} == 外部リンク == *[http://210.128.252.171/portrait/datas/32.html?c=3 大久保利通 | 近代日本人の肖像] *[http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/05_o/ookubo_toshimiti.html 大久保利通 銅像] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishinnmeikashokann.html 維新名家書簡(MF:個人蔵) | 国立国会図書館] *[http://episode.kingendaikeizu.net/6.htm 系図でみる近現代 第6回] *[http://kingendaikeizu.net/makinonobuaki.htm 牧野伸顕 大久保利通 近現代・系図ワールド] *[http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm 近現代・系図ワールド]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月9日 (日) 17:50。]    

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