木戸孝允

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{{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = [[天保]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1833年]][[8月11日]]) |出生地 = {{JPN}}[[長門国]]・萩・呉服町<br/>(現:[[山口県]]・[[萩市]]) |没年月日 = [[明治]]10年([[1877年]])[[5月26日]] |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = [[木戸松子]] |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代[[文部卿]] |就任日 = 明治7年([[1874年]])[[1月25日]] |退任日 = 明治7年[[5月13日]] |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代[[内務大臣|内務卿]] |就任日2 = 明治7年([[1874年]])[[2月14日]] |退任日2 = 明治7年[[4月27日]] |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = }} '''木戸 孝允'''(きど たかよし、[[天保]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1833年]][[8月11日]]) - [[明治]]10年([[1877年]])[[5月26日]])は、[[日本]]の[[武士]]・[[長州藩]]士、政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。 江戸時代([[幕末]])には、'''桂小五郎'''(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で薩摩の[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]とともに「'''[[維新の三傑]]'''」として並び称せられる。名の孝允は「コウイン」と[[有職読み]]されることもある。 == 略歴 == [[吉田松陰]]の弟子、[[長州正義派]]の長州藩士、[[江戸]][[練兵館]]塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。 [[明治維新|維新]]を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、[[版籍奉還]]・[[廃藩置県]]など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主[[毛利敬親]]、[[明治天皇]]から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓'''幾松'''([[木戸松子]])である。 明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。[[西南戦争]]の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と[[明治政府]]双方の行く末を案じながら、息を引き取った。 昭和21年([[1946年]])正月元旦、[[昭和天皇]]による「[[新日本建設に関する詔書|人間宣言]]」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「[[五箇条の御誓文]]」があらためて示されている。 == 名前 == 「'''木戸'''」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「'''桂'''」である。'''小五郎'''、'''貫治'''、'''準一郎'''は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。 「'''小五郎'''」は生家和田家の由緒ある祖先の名前であり、五男という意味ではなく長男である。 「'''木戸'''」姓は、第2次[[長幕戦争]]前(慶応2年(1866年))に藩主[[毛利敬親]]から賜ったものである。それ以降、それまでの「'''桂'''」姓に替えて使用し始める。 「'''孝允'''」名は、'''桂'''家当主を引き継いで以来の[[諱]](いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、[[戊辰戦争]]終了の明治2年([[1868年]])、腹心の[[大村益次郎]]と共に[[東京招魂社]]([[靖国神社]]の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら[[諱]](いみな)のはずの「'''孝允'''」を公的な名前として使用するようになる。 [[雅号]]としては、「[[木圭]]」「[[猫堂]]」「[[松菊]]」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがある。 名前の大まかな推移は、'''和田小五郎'''(元服して正式に桂家を継ぐまで)→'''桂小五郎'''(15歳以降)→'''木戸貫冶'''(33歳)・'''木戸準一郎'''(33歳以降)→'''木戸孝允'''(36歳以降)である。43歳(年齢はいずれも[[満年齢]])で逝ってからは「'''松菊木戸孝允'''」「'''木戸松菊'''」あるいは「'''松菊木戸公'''」とも呼ばれる。 == 経歴 == === 少年時代 === [[天保]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1833年]][[8月11日]])、[[長門国]]萩呉服町(今の[[山口県]][[萩市]])萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。和田家は[[毛利元就]]の七男[[毛利元政]]の血を引くという。母はその後妻。前妻による姉が二人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年([[1840年]])、7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という[[武士]]の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。 少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあった。[[萩城]]下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉(かいさい・かいや)を叫ぶといういたずらに熱中していた。あるとき、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂(かい)で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。この当時の、いたずら好きとしての勲章が額の三日月型の傷跡として後世まで残り続ける(写真では見えない)。 10代に入ってからは、藩主[[毛利敬親]]による親試で二度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『[[孟子]]』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 [[嘉永]]元年([[1848年]])、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年([[1849年]])、[[吉田松陰]]に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は、「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。 === 剣豪桂小五郎 === [[弘化]]3年([[1846年]])、長州藩の師範代である[[新陰流]]剣術[[内藤作兵衛]]の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、[[剣術]]修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。嘉永5年([[1852年]])、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 身長6[[尺]](約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身だった。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」([[斎藤弥九郎]])の[[練兵館]](九段北三丁目)に入門し、[[神道無念流剣術]]の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となる。大柄な小五郎が、得意の上段に[[竹刀]]を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た[[大村藩]]の[[渡邊昇]](後に、長州藩と[[坂本龍馬]]を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。 ほぼ同時期に、 * 「位の桃井」([[桃井春蔵]])の[[士学館]]([[鏡新明智流]]剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた[[武市半平太]] * 「技の千葉」([[千葉定吉]])の[[桶町千葉道場]]([[北辰一刀流剣術]]、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬 も免許皆伝を得ている。 幕府[[講武所]]の総裁、[[男谷精一郎]]の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間、剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩・鳥居藩・内藤藩などの江戸の藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。 一説には、[[安政]]5年([[1858年]])10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から[[土佐藩]]に帰ったままである。 === 留学希望・開国・破約攘夷の志士 === 練兵館塾頭を務める傍ら、[[マシュー・ペリー|ペリー]]の再度の来航([[1854年]])に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である[[江川英龍|江川太郎左衛門]]に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。 松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかしながら、義弟となる来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の「下田踏海」への対応に弱っていた藩政府を更に驚愕させる。 倒幕方針をまだ持っていない藩政府が江戸幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。 * 兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ * [[浦賀奉行]]支配組与力の[[中島三郎助]]から造船術を学ぶ * 江戸幕府海防掛本多越中守の家来[[高崎伝蔵]]からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ * 長州藩士[[手塚律蔵]]から[[英語]]を学ぶ [[文久]]2年([[1862年]])、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、[[周布政之助]]、[[久坂玄瑞]](義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付[[長井雅楽]]の幕府にのみ都合のよい[[航海遠略策]]を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年([[1863年]])5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。 この[[長州五傑]]と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、 * [[井上馨]](聞多) * [[伊藤博文]](俊輔) * [[山尾庸三]] * [[井上勝]] * [[遠藤謹助]] の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六([[大村益次郎]])を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 5月12日、小五郎や[[高杉晋作]]たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、[[真木和泉]]たちとともに破約攘夷活動を行い、[[正藩合一]]による[[大政奉還]]および新国家建設を目指す。 === 池田屋事変 === [[元治]]元年([[1864年]])に[[会津藩]]お預かり[[新選組]]が勤皇の志士を襲撃した[[池田屋事件]]で小五郎は、到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れた…と言われているが、それは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。 [[乃美織江]]の手記に基づくなら、桂小五郎は池田屋事件当時池田屋にいて、逃げ延びたと言うことになる。 その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには[[正藩合一]]思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂らとともになおも活動をし続ける。 === 蛤御門の変 === [[八月十八日の政変]]の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や[[周布政之助]]・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約三百名が率兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、[[来島又兵衛]]軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとする所まで行くが、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と半ば脅され、幕府・会津藩と完全な敵対関係に入る覚悟までは持ち併せていない孝明天皇および公卿たちは、あっさりとひるんでしまう。そこで劣勢を回復した[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。 長州軍としては武門の名誉に賭けて、何も果たさず、何も戦わずに、すごすごと国許まで帰ることは、まず不可能である。天皇直訴と集団諫死に賭けた長州先発隊は、まだ瀬戸内海上にいる世子定広率いる長州軍本隊二千名に引き上げを要請した上で、[[蛤御門の変]](禁門の変)を敢行する。 * 来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は、会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫るも、薩摩軍に横腹を付かれ、来島が倒れた後は総崩れとなって、散り散りに敗走する。 * 福原越後率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大阪方面へ退避する。 * 久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は、淀川のぬかるみで出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、鷹司邸を根城にして天皇に直訴だけは行おうとするが、これもかなわず、久坂たちは自らは大将として自刃し、残りは天王山方面へ退避させる。 このとき小五郎は、[[鳥取藩|因州藩]]を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の[[有栖川宮]]邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である[[河田景与]]と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で[[孝明天皇]]が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士[[大島友之允]]の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。 === 第一次長州征討 === 朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次[[長州征討]]が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降りた。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で武士らしく責任を取った。 ところが、長州俗論派政権がここぞとばかり正義派の面々を徹底的に粛清し始めたため、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻して軍事クーデターを成功させ、俗論派政権による恐怖政治を終わらせた。この後、小五郎がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。長州政務座に入ってからは、高杉たちが所望する[[武備恭順]]の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。 === 薩長同盟 === 長州藩は[[土佐藩]]の[[土方久元|土方楠左右衛門]]・[[中岡慎太郎]]・坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの[[薩長同盟]]を結ぶ。[[慶応]]2年([[1866年]])1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の[[小松帯刀]]・[[大久保利通]]・[[西郷隆盛]]・[[黒田清隆]]らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった。 === 第二次長州征討 === 長州藩の[[武備恭順]]や大村益次郎たちによる秘密貿易を口実として幕府側(会津藩・新撰組)は、第二次長州征討([[長州征討|四境戦争]])を強行してくる。 薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。長州訪問中の坂本龍馬が感激して薩摩<!--の誰にでしょうか-->に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。 * 初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた木戸貫冶(小五郎)は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、高杉晋作艦による幕軍への艦砲射撃によって形勢が逆転し、その後は[[第二奇兵隊]]の活躍によって長州側の勝利が確定した。 * 大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。 * ことに芸州口を担当していた井上馨率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせた。 * 肥後軍の高みからの猛攻撃により八ヶ月に及んでいた小倉口の戦いは、幕府側の劣勢にもかかわらず戦おうとしない幕艦・幕軍にあきれ果てた肥後軍の撤退によりあっさり幕を下ろした。 大島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年(1869年)の版籍奉還まで長州藩の属領となる。 === 明治維新政府で === 明治新政府にあっては、副総裁の[[岩倉具視]]からもその政治的識見の高さを買われ、ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛、参与、参議、文部卿などを兼務していく。明治元年([[1868年]])以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。[[五箇条の御誓文]]、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、[[版籍奉還]]・[[廃藩置県]]、人材優先主義、[[四民平等]]、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させる。 なお、昭和戦後まで実現はしなかったが、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に、維新の元勲の立場で行っている。 === 五箇条の御誓文 === : 一 廣ク會議ヲ興シ、萬機公論ニ決スヘシ。 : 一 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ經綸ヲ行フヘシ。 : 一 官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。 : 一 舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。 : 一 知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。 : 我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此趣旨ニ基キ、協心努力セヨ。 * 第一条の「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」、第四条の「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」の二つが木戸により全く新たに挿入された五箇条の御誓文の最重要精神である。 その他には、 * [[福岡孝弟]]の会盟の「人心をして倦まざしむるを要す」という言葉遣いをより洗練された表現「人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」に修正したり(ただし、前半の「官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ」という表現は福岡孝弟独自の表現をそのまま尊重している)、 * 「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」を最後の第五条に持って来て、「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない」という明治維新の最重要課題を国民全員に印象付けることに留意する などの修正を施している。 「五箇条の御誓文」と称し、[[明治天皇]]以下全員が天地神明に誓うという儀式を木戸自身が構想したこともあり、木戸は抵抗する守旧派を説き伏せ、明治天皇には大いに本気になってもらっている。 === 参議内閣制の確立と崩壊 === 明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年([[1871年]])6月、西郷隆盛(第2代宰相)、大久保利通(第3代宰相)、[[三条実美]](太政大臣)、岩倉具視(右大臣)たちから、木戸(初代宰相)がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじ、ファシズム的な独裁体制を嫌う長州の代表である木戸は、これを堅く固持し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、西郷が「俗吏」と評して嫌っていることを知っていながら、肥前の[[大隈重信]]を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も人事では負けじとばかり(自分が先月主張していた「命令一途」体制を忘れて)『それでは土佐の[[板垣退助]]も参議にすべきだ』と応じ、めでたく薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 しかし、この薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。 海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と[[留守政府]]組(三条・西郷・[[江藤新平|江藤]]・大隈・板垣たち)との間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を変更しない」という約束が交わされていた。しかし、それを留守政府が大きく反故にしてしまっていたのである。また、留守政府による[[征韓論]]の方針は、海外視察組には到底承伏し難い暴挙にしか見えなかった。 木戸は海外視察へ出かけていたただひとりの参議であり、しかももともと筆頭参議的な存在であるため、帰朝後、あらゆる難題が一気に木戸の下に持ち込まれ、明治政府の難題をひとりで背負わされているかの如き態となり、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。この奇妙な持病のため、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。 何よりも頭が痛かったのは、権力の腐敗と闘争が、木戸の不在時に激化し始めたことであった。長州出身の[[山縣有朋]]や[[井上馨]]などが汚職事件を起こし、肥前出身の司法卿[[江藤新平]]から厳しく責任を糾弾され、失脚に追い込まれていた。これと長州出身の伊藤博文が対立していた。木戸としても、弟分たちの復権を考慮せざるを得なかった。こうして、木戸自身がつくった薩長土肥の参議内閣は、木戸自身ですら調和的にコントロールし得なくなっていた。以後この矛盾は、海外派兵の是非を巡る対立から不平士族の反乱・暴発へと発展していく。 === 薩長政権の成立 === 木戸自身、大久保から、事態収拾のため、やはりかつての薩長同盟のように薩摩と長州が組むべきだという提案を受けていた。土肥をも尊重していきたかった木戸としては不本意ではあったが、もはや了承せざるを得なかった。あとは大久保利通の指導力と自分の執事のように動いてくれる伊藤に任せるしかなかった。 こうして、木戸を頂点に担ぐことでかろうじて統合されていた薩長土肥の明治政府は、開明派と守旧派、漸進(ぜんしん)派と急進派という二重のねじれた権力闘争の結果、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・井上馨・山縣有朋・黒田清隆・[[松方正義]]たちに代表される、開明的で漸進的な、第二の[[薩長同盟]]の如き薩長政府と、土肥の[[板垣退助]]・大隈重信たちに代表される、薩長政府から政権を奪取せんとする権力闘争的で急進的で開明的な民権活動家グループ(のちの政党活動家グループ)へと分離していく。 === 岩倉使節団とその影響 === 木戸は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、[[岩倉使節団]]の全権副使として[[欧米]]を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性まで洞察して帰って来る。 しかしながら、欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。かつての征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組んだ。後に[[文部卿]]に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したものであった。西郷らが主張する征韓論や大久保らが主張する[[台湾出兵]]には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた[[地租改正]]や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された[[秩禄処分]]が、財政至上主義のために単なる農民・武士の切捨策として実行された時にはこれに激しく反発した(木戸は井上馨に充てた手紙(1876年12月6日付「木戸文書」所収)では、[[地租改正反対一揆]]を擁護すらしている)。そして、無謀と判断していた台湾出兵が不平士族たちの暴発をそらすため決定された[[1874年]](明治7年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。 === 立憲政体漸立 === 木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい大久保利通・井上馨らは、明治8年([[1875年]])8月、[[大阪会議]]に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに[[立憲政体の詔書]]が発布される。議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された。司法については現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立されることとなった。 === 初めての国民的会議 === 明治元年(1868年)の[[集議所]]、同2年(1869年)の[[公議所]]など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 しかし、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させ、自由に発言させただけでは、維新の方針とも現実的な可能性とも乖離(かいり)し過ぎており、保守的な大久保をして「廃止すべし」と断言させるほどに、時期尚早かつ、ほとんど無意味なものであった。また、これらの会議は、「[[廃刀令]]」「四民平等」以前に行われたため、薩長土肥以外の、特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかった。 このため、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が、環境を整備し、タイミングを見計らった上で、第1回の地方官会議([[1875年]][[6月20日]]~[[7月17日]])を、自ら議長として挙行した。それでも不平士族や民権派の多岐にわたる要望や噛み合わない議論の中、議長の木戸は鮮やかな議事進行で法案をまとめて行き、成立させていった。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する画期的な法案であるが、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかった。 === 西南戦争 === 明治10年([[1877年]])2月、[[西南戦争]]が勃発すると、すぐさま西郷をなだめる鎮撫使に立候補する。内務卿の大久保が、それは自分の仕事だと言って認めず、西郷への鎮撫使として木戸の次に立候補してしまう。明治政府の瓦解を恐れた伊藤博文が、これに反対し、結局、西郷をなだめるための鎮撫使が出されないまま、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。 かねてから重病化していた正体不明の脳発作が悪化し、明治天皇のお見舞いも受けるが、[[5月26日]]、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45。 墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、[[京都霊山護国神社]]にある。また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市糸米(いとよね))に[[木戸神社]]がある。 晩年、木戸は現在の東京都[[文京区]][[本駒込]]5丁目、[[豊島区]][[駒込]]1丁目の別宅で親しい友人を招き過ごしたと言われる。当時の庭園が今も維持されている。JR山手線[[駒込駅]]から別邸までの間に[[木戸坂]]と命名された坂が残されている。 後半は[[木戸孝允-2]]を参照   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15:32。]    

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