大同団結運動

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'''大同団結運動'''(だいどうだんけつうんどう)とは、[[1887年]]-[[1889年]]に発生した[[帝国議会]]開設に備えた[[自由民権運動]]各派による統一運動。 自由民権運動は政府の弾圧によって衰微し、[[自由党_(明治)|自由党]]は解党、[[立憲改進党]]も休止状態にあったが、1887年にいわゆる[[三大事件建白運動]]が発生すると、かつての自由党の領袖である[[後藤象二郎]]は自由民権運動各派が再結集して来るべき[[第1回衆議院議員総選挙]]に臨み、帝国議会に[[議会政治]]の打ち立てて[[条約改正]]や[[地租]]・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。 だが、自由党元総裁[[板垣退助]]は自分が疎外された事から運動から距離を置き、立憲改進党の[[大隈重信]]も懐疑的であった。これに対して政府は同年[[12月26日]]に[[保安条例]]を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌[[1888年]]2月には大隈重信を[[第1次伊藤内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として入閣させて立憲改進党を運動から離脱させた。一方、旧自由党系内部でもとりあえず選挙に備えた新党の母体となる[[政治結社]]を結成しようとする(政社系)[[河野広中]]らと立憲改進党系が離脱した以上は新党ではなく自由党再興を目指すべきで今は政治結社を考える時ではないとする(非政社系)[[大井憲太郎]]らが対立する。ところが、1889年2月には運動の盟主に擁されていた後藤象二郎が[[黒田内閣]]の[[逓信大臣]]として入閣して運動からの撤退を表明(なお、自分抜きの大同団結運動に不快感を抱いた板垣が、[[黒田清隆]]側近の[[時任為基]][[高知県知事]]とともに後藤に入閣を勧めたとされている)、これを機に[[3月10日]]には運動は河野の[[大同倶楽部]]と大井の[[大同協和会]]に分裂して事実上崩壊した。その後も大井は自由党再興運動を起こすが実らず、翌[[1890年]]に[[中江兆民]]らとともに自由党再興を独自に宣言した。ところが、実際に帝国議会が開催されて民権派系の民党と政府の対立が激化すると、大同団結運動と距離を置いていた板垣退助を擁立する声が高まり、これを機に旧自由党系の再集結論が盛り上がり、同年暮に大井の自由党や大同倶楽部などによって板垣を擁した[[立憲自由党]]が結成された。なお、結果的に梯子を外された形となった後藤象二郎直系を中心とした集団は[[国民自由党]]を結成して[[吏党]]に転じるが、第1回総選挙で5議席しか獲得できなかったためにほとんど影響力は無かった。大同団結運動分裂時のしこりは新しい立憲自由党にも持ち込まれ、後の[[第1次山縣内閣]]による自由党土佐派の切り崩しの遠因となる。   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%90%8C%E5%9B%A3%E7%B5%90%E9%81%8B%E5%8B%95 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月6日 (日) 22:29。]   

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