大東亜会議

「大東亜会議」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

大東亜会議」(2009/01/08 (木) 23:26:22) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[画像:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、[[東條英機]]、[[ナラーティップポンプラパン|ワンワイタヤーコーン]]、[[ホセ・ラウレル]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]]] '''大東亜会議'''(だいとうあかいぎ)は、[[昭和]]18年([[1943年]])[[11月5日]]~[[11月6日]]に[[東京]]で行われた首脳会議。当時の[[日本]]([[大日本帝国]])の影響下にあった[[アジア]]諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、[[大東亜共栄圏]]の綱領ともいうべき[[大東亜共同宣言]]が採択された。 日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年([[1945年]])5月には代替として駐日[[特命全権大使]]や駐日代表による「大使会議」が開催された。 == 概要 == この会議は、史上初めて[[有色人種]]のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの[[植民地]]対[[宗主国]]の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧<ref name="黎明">[[深田祐介]]著『黎明の世紀―大東亜会議とその主役たち』([[文藝春秋]])</ref>もある一方で、[[タイ王国]]代表[[ナラーティップポンプラパン|ワンワイタヤーコーン]]が、その演説にあって大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、また[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]][[ホセ・ラウレル]]が、[[インドネシア]]代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べる<ref name="黎明" />など、ある程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。 日本の敗戦後における(戦勝国の[[連合国]]による)一般の認識としては「会議は東條首相による操り人形たちの集まり」とされている。一方で、この様な連合国による評価に対して、「[[大東亜共同宣言]]は[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が提唱した[[大西洋憲章]]に対抗する形で普遍的理想を高唱するものであった」という評価もある。 しかし会議の内容については、大東亜共同宣言を日本が単独で作成し一切の変更を許さないという態度、「大東亜共栄圏」を謳いながら参加国は日本の影響力が強い国々のみであったこと、さらに大西洋憲章を提唱した連合国側がその内容の具現化を[[ダンバートン=オークス会議]]などを通じて着々と進めていったのに対して、自国の防衛に追われる日本は大東亜共同宣言の「高邁な」理想を実現する能力に全く欠けていた点を問題とする見方もある。 == 参加者 == === 国政責任者 === *日本:[[東條英機]][[内閣総理大臣]](大東亜共同宣言中には「大日本帝国」ではなく「日本国」と表記されている) *[[汪兆銘政権|中華民国(南京)国民政府]]:[[汪兆銘]][[行政院長]] *[[満州国]]:[[張景恵]][[国務総理大臣]] *[[フィリピン|フィリピン共和国]]:[[ホセ・ラウレル]]大統領 *[[ビルマ国]]:[[バー・モウ]]内閣総理大臣 === 代理参加 === *[[タイ王国]]:タイの総理大臣[[プレーク・ピブーンソンクラーム|ピブーンソンクラーム]]は、[[第二次世界大戦]]前より[[独立国]]であったタイが、日本の[[傀儡政権]]であった満州国、南京政府、また独立を果たしたものの[[日本軍]]の影響下にあったフィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、日本側の度重なる慫慂(しょうよう)にもかかわらず、王族のワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。公式には「健康上の理由」によるとされた。 === オブザーバー参加 === *[[インド]]:インドからは、日本と協力しインド全土のイギリス([[イギリス領インド帝国]])からの完全独立を目指していた[[自由インド仮政府]]首班の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が参加した。ただし、同じくイギリス領インド帝国からの完全独立を目指していたものの、ボースとは別に[[インド国民会議|国民会議派]]の主流として活動していた[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]や[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]らは、日本による[[中華民国の歴史|中華民国]]侵略などを非難し、日本からの支援を拒否した。 == 不参加 == === 参加できなかった主な地域 === *[[マレーシア|マライ]]:昭和18年([[1943年]])の「[[s:大東亜政略指導大綱|大東亜政略指導大綱]]」が同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていたため、いかなる民族代表も参加を許されなかった。 *[[インドネシア]]:やはり同様に「(大日本)帝国領土」と位置づけられていたため、[[オランダ]]からの独立運動の指導者であった[[スカルノ]]や[[モハマッド・ハッタ|ハッタ]]が参加を熱望するも容れられなかった。 === 参加を希望しなかった地域 === *[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]]:この時期日本は[[ヴィシー政権]]を承認しており、同地域はヴィシー政権の植民地統治機構を維持したまま日本軍が駐留するという微妙な関係にあり、ヴィシー政権からの参加の希望は出されなかった。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|大東亜共栄圏}} *[[大東亜戦争]] *[[大東亜省]] *[[東アジア共同体]] *[[東アジアサミット]] *[[ブロック経済]] *[[生存圏]] *[[バンドン会議]] *[[人種的差別撤廃提案]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E4%BC%9A%E8%AD%B0 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月24日 (月) 11:45。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。