薩長同盟

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'''薩長同盟 '''(さっちょうどうめい)は、[[江戸時代]]後期の[[慶応]]2年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]([[1866年]][[3月7日]])に[[幕末]]の[[薩摩藩]]と[[長州藩]]の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。 幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、[[西郷隆盛]]・[[大久保利通]]らの薩摩は、[[1864年]]([[元治]]元年)の[[会津藩]]と協力した[[八月十八日の政変]]や[[禁門の変]]で長州を[[京都]]から追放し、[[第一次長州征伐]](幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝のある[[土佐藩]]脱藩の[[坂本龍馬]]や[[中岡慎太郎]]の斡旋により、主戦派の長州藩重臣である[[福永喜助]]宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都[[小松清廉]]邸([[京都市]][[上京区]])で坂本を介して[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の[[木戸孝允]](当時は桂小五郎)が[[倒幕運動]]に協力する6か条の同盟を締結した。他の薩摩側出席者は、[[島津伊勢]](諏訪甚六広兼)、[[桂久武]]、[[吉井友実]]、[[奈良原繁]]。 長く[[宮内省|宮内大臣]]を務めた[[田中光顕]]によれば、薩長連合成功の最大原因は、[[木戸孝允]]が[[西郷隆盛]]に「我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ」とを打ち明けた{{要出典}}点にあるという。 ==提携内容(6ヶ条)== 一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事 一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事 一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事 一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事 一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事 一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり 坂本龍馬が裏面に朱書で、裏書署名している。 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。  == 関連 == *[[日本史の出来事一覧]] *[[薩土盟約]]・[[薩長芸三藩盟約]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月8日 (土) 09:51。]   

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