張学良

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{{中華圏の人物 | 名前=張学良 | 画像=[[画像:Zhang_Xueliang.jpg|250px]] | 画像の説明=青年期の張学良 | 出生=[[1901年]][[6月3日]] | 死去=[[2001年]][[10月14日]] | 出身地=[[中国]] [[遼寧省]] | 職業=[[軍人]]、[[政治家]] | 簡体字=张学良 | 繁体字=張學良 | ピン音=Zhāng Xuéliáng | 注音= | 和名=ちょうがくりょう | 発音= | ラテン字=Chang Hsüeh-liang | 英語名=Peter Hsueh Liang Chang }} '''張 学良'''(ちょう がくりょう、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|张学良}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|張學良}}'''、[[ピン音|ピンイン]]:{{lang|zh|Zhāng Xuéliáng}}、[[1901年]][[6月3日]] – [[2001年]][[10月14日]])は[[中国]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[字]]は'''漢卿'''。[[張作霖]]の長男として[[遼寧省]]に生まれた。 == 人物 == === 青年時代 === [[1901年]]、張学良は当時満州地方の[[馬賊]]であった[[張作霖]]の長男として生まれた。母親(趙春桂)のことはよく分からないが、張学良が10歳の時に亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の[[家庭教師]]が付き高い[[教養]]を身につけた。 [[1919年]]3月、父の創設した軍幹部養成学校である[[東北陸軍講武堂|東三省講武学堂]]の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を[[暗記]]していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離して[[カンニング]]が出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。また、[[昭和天皇]]と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時[[皇太子]]であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う[[医師|医者]]になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後述の[[日本放送協会|NHK]]の取材で述べている。 === 武官時代 === [[1920年]]、東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。[[満州]]の奉天[[軍閥]]、張作霖の長子として父と共に[[大日本帝国]]に協力的であった。1920年に[[安直戦争]]が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて[[直隷派]]の救援に向かい、側近の[[郭松齢]]の補佐のもと、[[安徽派]]軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、[[1922年]]の第一次奉直戦争、[[1924年]]の第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは[[楊宇霆]]ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。 === 奉天軍閥 === [[画像:Zhang_zuolin_car.jpg|right|thumb|250px|張作霖爆殺事件により破壊された車両]] [[1928年]][[6月4日]]、[[関東軍]]の[[河本大作]]による[[張作霖爆殺事件]]により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、父の領土満州を継承した。当時、[[蒋介石]]率いる北伐軍が[[北京市|北京]]に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、[[易幟]]([[中華民国の国旗#青天白日旗|青天白日旗]]を掲げ、[[国民政府]]への服属を表明すること)することを条件に満州への[[軍事]]、[[政治]]の不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する。日本は[[林権助]]を派遣して説得したが、翻意させることは出来なかった。こうして日本から反感をかってしまったが決定的な対立には至らぬように工作し日本を軟化させた。[[1929年]]1月、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。 張学良は富国強兵策を採り軍事、[[金融]]、[[教育]]などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め1929年8月には[[ソビエト連邦]]が持っていた東中国鉄道を接収したことを切っ掛けに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。 === 満州事変 === [[画像:Zhang Xueliang and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|250px|張学良(右)と蒋介石(左)]] [[1931年]]に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの[[軍事演習]]だと思い、何の対策も取らなかったと言う。 [[満州事変]]が勃発した時、彼は北京にいたが、[[日本軍]]侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取材で述べている。 いずれにせよ、日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は[[下野]]していたが、蒋の意向も同じであった)。これは[[国共内戦]]のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を[[占領]]したので、抗戦を主張した[[汪兆銘]]は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]や[[ドイツ]]の[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]に面会し、[[ファシズム]]の影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。 === 西安事件 === [[1934年]]張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。[[1935年]]、[[西安市|西安]]に駐留して9月から11月にかけて[[中国共産党|共産党]]の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い[[紅軍]]に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に[[周恩来]]と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石[[クーデター]]の構想などが練られていたと言われる。[[1936年]]、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。12月12日、張学良と[[楊虎城]]は[[西安事件]]を起こして蒋介石を拘束し[[第二次国共合作]]を認めさせた。 === 軟禁 === 翌[[1937年]]にその代償として逮捕され、[[軍法会議]]により懲役10年の刑を受けた。[[1938年]]に[[恩赦|特赦]]を受けたが、実際は[[軟禁]]の身であった。[[1945年]]、[[第二次世界大戦]]に日本が敗北した後の[[国共内戦]]において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、[[1949年]]に[[台湾]]に逃れたが、張学良も台湾に移され、50年以上も軟禁され続けた。この間、[[1955年]]に[[キリスト教]]に改宗した。 [[1975年]]の蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになり、[[戒厳令]]が解かれ中華民国(台湾)が完全に[[民主化]]を果たした後の[[1990年]]には[[日本放送協会|NHK]]の取材を受け大きな反響を呼んだ。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、[[靖国神社問題]]については、「日本はなぜ[[東條英機|東條]]のような人を[[靖国神社]]に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。その後[[1991年]]に釈放され、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハワイ州|ハワイ]]に隠棲。そのまま生涯を終えた。100歳であった。 == 評価 == *国共合作を成立させたことから、[[中華人民共和国]]では「千古の功臣」、「民族の英雄」と呼ばれ、非常に高く評価されている。逆に中華民国内では正反対の「千古の罪人」として扱われ、特に[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]ら[[親日派]]は激しく批判している。何より最終的に共産党に中国大陸を追われたことが、中華民国での張学良評価を厳しくしている。但し、釈放など時間の経過に伴い、再評価の動きも起きている。 == 参考文献 == *[[臼井勝美]]:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 [[角川書店]] ISBN 4048210416、1995/5 [[角川文庫]] ISBN 4041954029、いずれも[[絶版]]) *松本一男:『張学良と中国・西安事変立役者の運命』(サイマル出版会) == 関連項目 == *[[中華民国の歴史]] *『[[中原の虹]]』浅田次郎の小説 ==外部リンク== {{commons|Zhang Xueliang}} *[http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/QCao/Zhang/zhangindex.htm 張学良論 原題:「張学良糊涂死了――仮英雄・仮将軍・仮基督徒」] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 16:19。]    

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