滝川事件

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'''滝川事件'''(たきがわじけん)は、1933(昭和8)年に[[京都帝国大学]]で発生した思想弾圧事件。'''京大事件'''とも呼ばれる。 == 経緯 == === 事件の発端 === 事件は、[[京都帝国大学]][[法学部]]の[[瀧川幸辰|滝川幸辰]]教授が、[[1932年]]10月[[中央大学]][[法学部]]で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容([[レフ・トルストイ|トルストイ]]の思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が[[無政府主義]]的として[[文部省]]および[[司法省]]内で問題化したことに端を発するが、この時点では[[宮本英雄]]法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが[[1933年]]3月になり[[日本共産党|共産党]]員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「[[司法官赤化事件]]」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに[[蓑田胸喜]]ら[[原理日本社]]の[[右翼]]、および[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]([[貴族院 (日本)|貴族院]])や[[宮澤裕]]([[衆議院]]・[[立憲政友会|政友会]]所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として[[帝国大学]]法学部の「赤化教授」の追放を主張、司法試験委員であった滝川を非難した。 === 滝川の処分と京大法学部の抵抗 === [[1933年]]4月、[[内務省 (日本)|内務省]]は滝川の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、その中の[[内乱罪]]、[[姦通罪]]に関する見解(後者については妻にだけ適用されることを批判した)などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には[[齋藤内閣|斎藤内閣]]の[[鳩山一郎]][[文部大臣|文相]]が[[小西重直]]京大総長に滝川の罷免を要求した。京大法学部[[教授会]]および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により滝川の休職処分を強行した。 滝川の休職処分と同時に、京大法学部は[[教授]]31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の[[松井元興]]総長([[博士 (理学)|理学博士]]、のちに[[立命館大学]]学長)が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。すなわち松井総長は、辞表を提出した教官のうち滝川および[[佐々木惣一]](のちに立命館大学学長)、宮本英雄、[[森口繁治]]、[[末川博]](のちに立命館大学学長・総長)、[[宮本英脩]]の6教授のみを免官としてそれ以外の辞表を却下、さらに鳩山文相との間で「滝川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。この結果法学部教官は、解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した残留組([[中島玉吉]]、[[末広重雄]]、[[牧健二]]など)と、辞表を撤回せず解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に[[恒藤恭]](のちの[[大阪市立大学]]初代学長)および[[田村徳治]]の教授2名、助教授5名、専任講師以下8名が辞職という形で事件は決着した(年末には残留組に近かったとされる宮本英脩が復職した)。 === 学内外の支援運動 === 京大法学部の学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こし、他学部の学生もこれに続いた(このとき文学部の大学院生・学生のグループで活躍したのが[[中井正一]]、[[久野収]]、[[花田清輝]]、[[高木養根]]らである)。さらに[[東京大学|東京帝大]]など他大学の学生も呼応し、7月には16大学の参加により「大学自由擁護連盟」、さらに文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成された。『[[中央公論]]』『[[改造 (雑誌)|改造]]』などの総合雑誌、『[[大阪朝日新聞|大阪朝日]]』などの新聞は京大を支援し文部省を批判する論説を多く掲載した。しかし大学の夏期休暇などもあり学内の抗議運動は終息、自由擁護連盟も弾圧により解体した。学芸自由同盟も翌年には活動停止状態となったが、前記の中井、久野などこの運動に参加した学生のなかから『[[土曜日 (雑誌)|土曜日]]』『[[学生評論]]』『[[世界文化]]』など反[[ファシズム]]を標榜する雑誌メディアが生まれ、自由主義的文化運動は「[[非常時]]」下でなおも命脈を保った。 === 事件のその後 === 滝川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍した。結果、立命館をはじめ京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。しかしその後、京大の残留教官による説得に応じ京大に復帰する教官([[黒田覚]]、[[佐伯千仭]]ら6名)が現れ、滝川および筋を通して復帰しなかった人々(宮本英雄、末川、恒藤、田村ら)との間に感情的なしこりを残した。 このことは[[第二次世界大戦]]後の京大法学部の再建に大きな影を落としたといわれる。すなわち戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の方針により滝川は京大に復帰したが、他の「辞職組」教官らは復帰しなかった(ただし恒藤は戦後に兼任教官として短期間在任)。また滝川を法学部長とし、法学部再建の全権を委ねる旨密約がなされ、黒田法学部長は解任され、佐伯ら前記「復帰組」教官らは辞職した。<!---滝川の報復人事を許すことになった。---> なお、鳩山一郎が戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[公職追放]]指令を受けたのは、かつて文相として滝川の処分を強行したことに関係があるといわれる。 == 事件の意義 == *久野収はこの事件の特色について、「危険思想の内容がもはや[[共産主義]]や[[マルクス主義]]といった嫌疑にあるのではなく…国家に批判的な態度を取る学者たちの思想内容に及んできた」点にあると回顧しており、'''言論弾圧の対象が従来の共産主義思想から[[自由主義]]的な言論へと拡大'''することとなった大きな転機であることを強調している。 *また、文部省が京大総長の具状を待たずに分限委員会を開き滝川の休職処分を決定したことは、京大における[[沢柳事件]]([[1913年|1913]] - [[1914年|14年]])以来、'''「教授会自治」'''として認められていた慣行(総長の具状は教授会の同意を必要とするというもの)を無視するものであったうえに[[帝国大学]]官制にすら違反する可能性があった。[[斎藤実|斎藤首相]]や鳩山文相が当時語っていたように、政府当局が処分を強行した意図は、「大学自治の総本山」と見られていた京大を強力な国家権力のもとに屈服させるという点にあったと考えられている。 *立命館大学『学園通信校友版』「百二十年の歴史を訪ねて」によると、同省は滝川を弾圧すると末川が反対に乗り出すことを予想し、むしろ弾圧の本命を末川としていたとする説もあることを紹介している。その末川は「この事件は滝川個人に加えられた弾圧ではなく、日本の[[学問の自由]]と[[大学自治]]に加えられた弾圧だったから京大事件と呼ぶべきだ」と繰り返し語っていた。 ==「第2次滝川事件」== [[1955年]]6月、新制[[京都大学]]で発生した学生による滝川幸辰総長への「暴行」事件は、「第2次滝川事件」と称されることがある。この事件は学生自治会である同学会が、当時京大総長に在任([[1953年|1953]] - [[1957年|57年]])していた滝川に対し創立記念祭行事の開催を求めており、その実施方法をめぐる両者の協議が決裂、直後再交渉を求める学生が総長を監禁したため警官隊が導入されたものである。この結果同学会は解散させられ、中心人物と目された学生2名が逮捕起訴された。同年9月に開かれた被告2名の初公判では、被告側の弁護人として11名の弁護士(この中には先述の佐伯千仭が含まれている)のほか、[[田畑茂二郎]]ら3名の法学部教官が特別弁護人として参加した。滝川はこの3教官に対し罷免を示唆しつつ公の場で繰り返し非難を行い、結局のところ3人全員が特別弁護人を辞退した。このことは滝川総長自らがかつての主張を覆し教授会の人事権を否定したものとされ、戦後の滝川に反動的な人物とのイメージを付け加えることになったという者もいる。公判自体は滝川自身の監禁に対する証言の曖昧さもあって、[[1959年]][[大阪高等裁判所|大阪高裁]]での[[控訴|控訴審]]判決により確定し、被告2名のうち1名の[[暴行罪]]のみを認定した(両名の[[不退去罪]]および[[傷害罪]]は無罪となった)。 == 事件をモデルとした作品 == *この事件(および[[ゾルゲ事件]])をモデルとした映画が、[[黒澤明|黒沢明]]監督の戦後第1作『[[わが青春に悔なし]]』([[1946年]])である。滝川をモデルとしたとおぼしき八木原教授を[[大河内伝次郎]]、その娘・幸枝を[[原節子]]が演じている。大河内の教え子でのちに幸枝と結婚する人物として[[尾崎秀実]]をモデルにした野毛隆吉([[藤田進]]が演じている)が登場するが、もちろん実在の尾崎はこの事件とは無関係である。さらに学生によるデモ行進のシーンもあるが、実際には戦前のこの時期に学生デモが認められることはなかった。 *近年では[[かわぐちかいじ]]の漫画作品『[[ジパング (かわぐちかいじ)|ジパング]]』に「滝川事件に連座して京大[[理学部]]を免職になり、[[日本軍]]の[[原子爆弾|原爆]]計画に関与する科学者」という設定の倉田万作(モデルは『世界文化』同人として検挙されたことがあり、戦時期には[[理化学研究所]]を中心とする[[日本の原子爆弾開発|陸軍の原爆開発]]に関わっていた物理学者・[[武谷三男]]であると思われる)が登場する。滝川事件は法学部のみの処分で決着し、理学部とはほとんど関係のない事件であるので、この人物設定は歴史的な意味では正確さを欠くものともいえるが、「思想信条を理由に大学教員が弾圧された戦前の事件」としては象徴的な意味を今なお持っていることを示している。 == 関連項目 == *[[河上肇]] *[[京都学連事件]] *[[沢柳事件]] *[[京大天皇事件]] *[[わが青春に悔なし]] *[[佐伯千仭]] == 関連書籍 == * [[伊藤孝夫]] 『瀧川幸辰;汝の道を歩め』(日本評伝選) [[ミネルヴァ書房]]、[[2003年]] ISBN 4623039072 * 世界思想社編集部(編) 『滝川事件 記録と資料』 [[世界思想社]]、[[2001年]] ISBN 4790708837 * [[松尾尊兌|松尾尊兊]] 『滝川事件』 [[岩波現代文庫]]、[[2005年]] ISBN 4006001363 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月22日 (月) 00:50。]     

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