鳩山一郎

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次鳩山内閣|52]]・[[第2次鳩山内閣|53]]・[[第3次鳩山内閣|54]] |鳩山 一郎<br/>(はとやま いちろう)<br/>[[Image:52 HatoyamaI.jpg|52 HatoyamaI.jpg]] |[[1883年]][[1月1日]] |[[東京府]][[東京市]]牛込区 |[[東京帝国大学]] |[[正二位]][[大勲位]]<br/>法学士・弁護士 |<!-->東京市会議員<br/><!-->[[衆議院議員]]<br/><!-->[[内閣書記官長]]<br/>[[文部大臣]]<br/>[[自由党 (日本)|自由党]][[総裁]]<br/><!-->[[日本民主党]][[総裁]] |[[#家族・親族|家族・親族]]参照 |[[1954年]][[12月10日]]|[[1956年]][[12月23日]] |東京1区 |衆15回 |日本民主党<br/>→[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |[[1959年]][[3月7日]]}} '''鳩山 一郎'''(はとやま いちろう、[[1883年]]([[明治]]16年)[[1月1日]] - [[1959年]]([[昭和]]34年)[[3月7日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[弁護士]]。第52・53・54代[[内閣総理大臣]]。[[正二位]] [[大勲位]]。 [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の初代[[自由民主党総裁|総裁]]であり、[[日本|日本国]]と[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。 == 経歴 == * [[1883年]](明治16年) [[東京市]][[牛込区]]東五軒町に出生、父・[[鳩山和夫]]は[[文部省]]第1期留学生、弁護士、[[東京府]]議会議員。母・春子は[[お茶の水女子大学|東京女子師範学校]]の英語教師、明治19年共立女子職業学校([[共立女子大学]])を創立 * [[1907年]](明治40年) [[東京大学|東京帝国大学]]英法科卒、父の弁護士事務所に勤める * [[1908年]](明治41年) [[右翼団体]][[玄洋社]]出身の衆議院議員秘書課長[[寺田栄]]の長女寺田薫と結婚。 * [[1911年]](明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長) * [[1912年]]([[大正]]元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選 * [[1915年]](大正4年) [[立憲政友会]]公認で衆議院議員に当選 * [[1924年]](大正13年) 政友会分裂に伴い、[[政友本党]]に参加。 * [[1925年]](大正14年) 政友本党を離党、翌年に[[同交会]]を経て政友会に復党。 * [[1927年]](昭和2年) [[田中義一内閣]]の内閣書記官長(1929年まで) * [[1931年]](昭和6年) [[犬養毅]]内閣の文部大臣。五・一五事件後、[[斎藤実]]内閣で引き続き文部大臣(1934年まで) * [[1933年]](昭和8年) [[滝川事件]] * [[1934年]](昭和9年) [[帝人事件]]で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職) * [[1937年]](昭和12年) [[中島知久平]]・[[前田米蔵]]・[[島田俊雄]]とともに政友会総裁代行委員に就任する * [[1939年]](昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する * [[1942年]](昭和17年) [[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]に非推薦で出馬、無所属で当選 * [[1943年]](昭和18年) 東條内閣を批判し、[[軽井沢]]へ隠遁 * [[1945年]](昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、[[自由党 (日本)|日本自由党]]結成(総裁) * [[1946年]](昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが[[公職追放]]の措置を受ける * [[1951年]](昭和26年) [[脳出血]]で倒れる、追放解除 * [[1954年]](昭和29年) 日本民主党結成(総裁)、総理大臣になる ** 1954年12月10日-1955年3月19日 [[第1次鳩山内閣]] - 1955年1月「[[天の声解散]]」の後、総選挙で民主党は比較第一党となるも少数与党にとどまる ** 1955年3月19日-同年11月22日 [[第2次鳩山内閣]] * [[1955年]](昭和30年) 保守合同で自由民主党結成([[55年体制]]を参照) ** 1955年11月22日-1956年12月23日 [[第3次鳩山内閣]] * [[1956年]](昭和31年) モスクワで[[日ソ共同宣言]](日ソ国交回復)、総辞職 * [[1959年]](昭和34年) 逝去。墓所は東京都台東区の[[谷中霊園]]。 == 戦前の事績 == 戦前は立憲政友会の議員として活躍(ただし、一時期政友本党に参加していた時期がある)し、[[1930年]]、第58帝国議会の[[ロンドン海軍軍縮条約]]の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の[[統帥権]]の干犯に当たるとして[[濱口内閣]]を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであった為、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。鳩山は対立する[[立憲民政党]]政府を苦しめることを企図したようだが、議員としては政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。また、この時期の政友会は[[田中義一]]・[[鈴木喜三郎]]の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまった事になる。この事は戦後になり[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「軍部の台頭に協力した[[軍国主義]]者」として追及され、[[公職追放]]の一因となった。 [[Image:Hatoyama in Karuizawa during the purge in 1950.jpg|thumb|left|200px|公職追放を受けて軽井沢に隠棲し畑仕事に精を出す鳩山(1950年)]] 鳩山は[[犬養内閣]]から[[齋藤内閣]]にかけて文部大臣を務めたが、1932年に義兄の鈴木が犬養の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。[[1933年]]の[[京都大学|京都帝国大学]]の[[滝川幸辰]]の学説・思想を非とするいわゆる[[滝川事件]]の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると[[文官分限令]]によって一方的に滝川教授を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされたが、立場上やむをえなかったという見方もある。 樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された[[樺太工業問題]]の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の[[久原房之助]]による内閣攻撃の一環であり、[[枢密院]]の[[平沼騏一郎]]が後ろで糸をひいていたという。 [[帝人事件]]では[[台湾銀行]]頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。 1936年の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大きな顰蹙を買う。特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。[[1939年]]の政友会分裂に対しては中島知久平を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ[[自由主義]]的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。[[1940年]]に鳩山は民政党総裁の[[町田忠治]]と極秘に正統派と民政党を合同させて[[新体制運動]]に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。[[1943年]]の第81帝国議会では[[東條内閣]]による戦時刑事特別法改正案に反対し[[翼賛政治会]]を脱会した。 == 首相としての事績 == [[Image:Yoshida meets Hatoyama.jpg|thumb|right|300px|吉田総理(左)と歓談する脳梗塞の症状から回復した鳩山<small>(1952〜54年頃)</small>]] 1946年の総選挙で[[自由党]]が第一党になると、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりであったが、就任を目前にして戦前の[[統帥権]]問題を発生させたこと等を[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が問題視したため、[[公職追放]](1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由 ─ [[統帥権]]や[[滝川事件]]を参照のこと)。また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。不運な状態が続いたことから世の同情を集めていた。貴族主義的でワンマンと呼ばれた[[吉田茂]]が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。 吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった[[日ソ国交回復]]を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた[[三木武吉]]の尽力により[[日本民主党]]・[[自由党 (日本)|自由党]]の[[保守合同]]を成し遂げ、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]を結成。これにより[[保守]]勢力と[[革新]](この時点では[[社会主義]])勢力を軸とした[[55年体制]]が確立された。 日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、[[憲法改正論議|改憲]]を公約にしたが、与党で改憲に必要な三分の二議席には達しなかった。また、改憲を試みるために[[小選挙区制]]中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「[[ゲリマンダー]]ならぬ[[ハトマンダー]]」と批判され、実現には至らなかった。 == 逸話 == [[Image:Hatoyama and LDP leaders in Otowa Mansion.jpg|thumb|right||300px|[[鳩山会館|音羽御殿]]の応接室に集まった自民党幹部<br /><small>体が不自由だった鳩山(中央)は壮大な自邸を政治の場に活用し記者会見にも利用された。(1956年)</small>]] * [[文京区]][[音羽]]の自邸、通称「音羽御殿」は、友人の建築家[[岡田信一郎]]の設計。現在は[[鳩山会館]]として一般に公開されている。 * [[文部大臣]]時代の[[1933年]]、[[聾学校]]での[[手話]]教育を[[手話#試練の時代|口話]]教育に転換させた。 * 公職追放の一因になったのは、ヒトラー礼賛本とされた戦前の著作『世界の顔』であるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の[[山浦貰一]]が[[ゴーストライター]]として執筆したとも言われている。戦時中は政党人として[[翼賛選挙]]に反対し、[[軽井沢]]で隠遁生活を送っていたとするが、特に東条と仲が悪かったために引っ込んだ訳でもない。 *教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の[[大野伴睦]]や[[三木武吉]]らに支えられ、政党政治家として筋を通した。 * お坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、妻の薫に対しても暴力を振るう事があった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は妻を非常に大切にするようになったのだと言う。 *1955年3月、東京で[[フリーメーソン]]の一員となった。 *大の甘党で赤飯に砂糖をかけて食べたという逸話がある。 *[[バラ]]の花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」([[東京都]][[世田谷区]])を訪れ、バラを鑑賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。余生もバラ栽培に没頭した。 *孫である鳩山由紀夫に、愛人がいたことをテレビで暴露された。 *[[クリスチャン]]であった。<!--[[第27回衆議院議員総選挙]]の発端となった[[天の声解散]]の際に「天の声を受けた」として衆議院を解散した。--><!-- 無関係 --> *鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは本にまとめられて『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。 == 栄典 == * 1959年3月7日: [[大勲位菊花大綬章]] == 家族・親族 == [[Image:Ichiro_Hatoyama_with_two_grandsons.jpg|thumb|right|250px|音羽御殿で孫の由紀夫 (中央) ・邦夫の兄弟とくつろぐ鳩山総理]] ;実家 *祖父:博房([[美作勝山藩|美作勝山藩士]]) *父:[[鳩山和夫|和夫]](弁護士、代議士、[[衆議院議長]]) *母:[[鳩山春子|春子]]([[松本藩|信州松本藩士]]・渡辺努(明治になって多加に改姓)の長女、教育者、[[共立女子学園]]の創立者のひとり) *姉:カヅ(政友会総裁・[[鈴木喜三郎]]に嫁ぐ) *'''鳩山一郎''' *弟:[[鳩山秀夫|秀夫]]([[民法]]学者、嫁は[[数学者]]・[[菊池大麓]]の次女・千代子)。 ;自家 *妻:薫([[教育者]]、[[共立女子大学]]学長) **長男:[[鳩山威一郎|威一郎]](官僚、参議院議員、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]) **嫁: 安子([[ブリヂストン]]創業者・[[石橋正二郎]]の長女) ***孫:[[鳩山由紀夫]](学者、代議士) ***孫:[[鳩山邦夫]](代議士) **長女:百合子(元[[日本輸出入銀行]]総裁・[[古沢潤一]]に嫁ぐ) **次女:玲子(鳩山秀夫の長男・道夫に嫁ぐ) **三女:節子 **四女:恵子(元[[石炭協会]]勤務・[[山中繁]]に嫁ぐ) **五女:信子([[指揮者]]・[[渡邉暁雄]]に嫁ぐ) == 系譜 == ;鳩山家 <!--細罫線(┌┼┘)を使用したらブラウザによって系図の表示が崩れることがあります。故に太罫線(┏╋┛)を使用しております。--> <pre>                 鈴木喜三郎                    ┃                   ┏━━カヅ                     ┃              井上多門                ┃石橋正二郎━━安子       ┃                ┃       ┃     ┏━━和子 鳩山十右衛門博房━━鳩山和夫 ┃       ┣━━━━━╋鳩山由紀夫             ┣━━╋鳩山一郎   ┃     ┗鳩山邦夫             春子 ┃  ┣━┳鳩山威一郎                ┃  薫 ┃                 ┃    ┃渡邉曉雄                ┃    ┃  ┣━━━━━┳渡邉康雄                ┃    ┣━━信子(五女)┗渡邉規久雄                ┃    ┗━━玲子(次女)                ┗鳩山秀夫   ┃                     ┣━━鳩山道夫           菊池大麓━━━千代子 </pre> [[箕作阮甫]]と[[鳩山威一郎]]の項にも関連系図。<!--系図を肥大化させないで下さい。 --> == 参考文献 == * [[豊田穣]]『英才の家系 <small>鳩山一郎と鳩山家の人々</small>』(講談社文庫、1996年) ISBN 4062634473 * 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 165-168頁 * 神一行 『閨閥 改訂新版 <small>特権階級の盛衰の系譜</small>』 [[角川書店]] 2002年 45-60頁 == 関連項目 == {{Commons|Category:Ichirō Hatoyama}} *[[第1次鳩山内閣]] *[[第2次鳩山内閣]] *[[第3次鳩山内閣]] *[[保守合同]] *[[鳩山会館]] *[[渡邉暁雄]](鳩山一郎の娘婿で指揮者) == 外部リンク == * [http://www.hatoyamakaikan.com/ 鳩山会館] * [http://www.arch-hiroshima.net/a-map/tokyo/hatoyama.html 建築マップ 鳩山会館] * [http://www.yuaiyouth.or.jp/ichiro.htm 友愛青年連盟 初代会長・鳩山一郎] * [http://csx.jp/~gabana/keizu/kei-hatoyama.htm 鳩山ファミリー系図] * [http://episode.kingendaikeizu.net/3.htm 系図でみる近現代 第3回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月20日 (水) 02:20。]     
{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次鳩山内閣|52]]・[[第2次鳩山内閣|53]]・[[第3次鳩山内閣|54]] |鳩山 一郎<br/>(はとやま いちろう)<br/>[[Image:52 HatoyamaI.jpg|52 HatoyamaI.jpg]] |[[1883年]][[1月1日]] |[[東京府]][[東京市]]牛込区 |[[東京帝国大学]] |[[正二位]][[大勲位]]<br/>[[法学士]]・弁護士 |<!-->東京市会議員<br/><!-->[[衆議院議員]]<br/><!-->[[内閣書記官長]]<br/>[[文部大臣]]<br/>[[自由党 (日本)|自由党]][[総裁]]<br/><!-->[[日本民主党]][[総裁]] |[[#家族・親族|家族・親族]]参照 |[[1954年]][[12月10日]]|[[1956年]][[12月23日]] |東京1区 |衆15回 |日本民主党<br/>→[[自由民主党 (日本)|自民党]] |[[1959年]][[3月7日]]}} '''鳩山 一郎'''(はとやま いちろう、[[1883年]]([[明治]]16年)[[1月1日]] - [[1959年]]([[昭和]]34年)[[3月7日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[弁護士]]。第52・53・54代[[内閣総理大臣]]。[[正二位]] [[大勲位]]。 初代[[自由民主党総裁|自民党総裁]]であり、[[日本|日本国]]と[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。 == 経歴 == * [[1883年]](明治16年) [[東京市]][[牛込区]]東五軒町に出生、父・[[鳩山和夫]]は[[文部省]]第1期留学生、弁護士、[[東京府]]議会議員。母・春子は[[お茶の水女子大学|東京女子師範学校]]の英語教師、明治19年共立女子職業学校([[共立女子大学]])を創立 * [[1907年]](明治40年) [[東京大学|東京帝国大学]]英法科卒、父の弁護士事務所に勤める * [[1908年]](明治41年) [[右翼団体]][[玄洋社]]出身の衆議院議員秘書課長[[寺田栄]]の長女寺田薫と結婚。 * [[1911年]](明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長) * [[1912年]]([[大正]]元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選 * [[1915年]](大正4年) [[立憲政友会]]公認で衆議院議員に当選 * [[1924年]](大正13年) 政友会分裂に伴い、[[政友本党]]に参加。 * [[1925年]](大正14年) 政友本党を離党、翌年に[[同交会]]を経て政友会に復党。 * [[1927年]](昭和2年) [[田中義一内閣]]の内閣書記官長(1929年まで) * [[1931年]](昭和6年) [[犬養毅]]内閣の文部大臣。五・一五事件後、[[斎藤実]]内閣で引き続き文部大臣(1934年まで) * [[1933年]](昭和8年) 文部大臣として[[滝川事件]]に関与。 * [[1934年]](昭和9年) [[帝人事件]]で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職) * [[1937年]](昭和12年) [[中島知久平]]・[[前田米蔵]]・[[島田俊雄]]とともに政友会総裁代行委員に就任する * [[1939年]](昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する * [[1942年]](昭和17年) [[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]に非推薦で出馬、無所属で当選 * [[1943年]](昭和18年) 東條内閣を批判し、[[軽井沢]]へ隠遁 * [[1945年]](昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、[[自由党 (日本)|日本自由党]]結成(総裁) * [[1946年]](昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが[[公職追放]]の措置を受ける * [[1951年]](昭和26年) [[脳出血]]で倒れる、追放解除 * [[1954年]](昭和29年) 日本民主党結成(総裁)、総理大臣になる ** 1954年12月10日-1955年3月19日 [[第1次鳩山内閣]] - 1955年1月「[[天の声解散]]」の後、総選挙で民主党は比較第一党となるも少数与党にとどまる ** 1955年3月19日-同年11月22日 [[第2次鳩山内閣]] * [[1955年]](昭和30年) 保守合同で自民党結成([[55年体制]]を参照) ** 1955年11月22日-1956年12月23日 [[第3次鳩山内閣]] * [[1956年]](昭和31年) モスクワで[[日ソ共同宣言]](日ソ国交回復)、総辞職 * [[1959年]](昭和34年) 逝去。墓所は東京都台東区の[[谷中霊園]]。 == 戦前の事績 == 戦前は立憲政友会の議員として活躍(ただし、一時期政友本党に参加していた時期がある)し、[[1930年]]、第58帝国議会の[[ロンドン海軍軍縮条約]]の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の[[統帥権]]の干犯に当たるとして[[濱口内閣]]を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであった為、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。鳩山は対立する[[立憲民政党]]政府を苦しめることを企図したようだが、議員としては政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。また、この時期の政友会は[[田中義一]]・[[鈴木喜三郎]]の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまった事になる。この事は戦後になり[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「軍部の台頭に協力した[[軍国主義]]者」として追及され、[[公職追放]]の一因となった。 [[Image:Hatoyama in Karuizawa during the purge in 1950.jpg|thumb|left|200px|公職追放を受けて軽井沢に隠棲し畑仕事に精を出す鳩山(1950年)]] 鳩山は[[犬養内閣]]から[[齋藤内閣]]にかけて文部大臣を務めたが、1932年に義兄の鈴木が犬養の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。[[1933年]]の[[京都大学|京都帝国大学]]の[[滝川幸辰]]の学説・思想を非とするいわゆる[[滝川事件]]の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると[[文官分限令]]によって一方的に滝川教授を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされたが、立場上やむをえなかったという見方もある。 樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された[[樺太工業問題]]の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の[[久原房之助]]による内閣攻撃の一環であり、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の[[平沼騏一郎]]が後ろで糸をひいていたという。 [[帝人事件]]では[[台湾銀行]]頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。 1936年の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大きな顰蹙を買う。特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。[[1939年]]の政友会分裂に対しては中島知久平を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ[[自由主義]]的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。[[1940年]]に鳩山は民政党総裁の[[町田忠治]]と極秘に正統派と民政党を合同させて[[新体制運動]]に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。[[1943年]]の第81帝国議会では[[東條内閣]]による戦時刑事特別法改正案に反対し[[翼賛政治会]]を脱会した。 == 首相としての事績 == [[Image:Yoshida meets Hatoyama.jpg|thumb|right|300px|吉田総理(左)と歓談する脳梗塞の症状から回復した鳩山<small>(1952〜54年頃)</small>]] {{Main|鳩山内閣}} 1946年の総選挙で[[自由党]]が第一党になると、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりであったが、就任を目前にして戦前の[[統帥権]]問題を発生させたこと等を[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が問題視したため、[[公職追放]](1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由 ─ [[統帥権]]や[[滝川事件]]を参照のこと)。また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。不運な状態が続いたことから世の同情を集めていた。貴族主義的でワンマンと呼ばれた[[吉田茂]]が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。 吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった[[日ソ国交回復]]を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた[[三木武吉]]の尽力により[[日本民主党]]・[[自由党 (日本)|自由党]]の[[保守合同]]を成し遂げ、[[自由民主党 (日本)|自民党]]を結成。これにより[[保守]]勢力と[[革新]](この時点では[[社会主義]])勢力を軸とした[[55年体制]]が確立された。 日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、[[憲法改正論議|改憲]]を公約にしたが、与党で改憲に必要な三分の二議席には達しなかった。また、改憲を試みるために[[小選挙区制]]中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「[[ゲリマンダー]]ならぬ[[ハトマンダー]]」と批判され、実現には至らなかった。 == 逸話 == [[Image:Hatoyama and LDP leaders in Otowa Mansion.jpg|thumb|right||300px|[[鳩山会館|音羽御殿]]の応接室に集まった自民党幹部<br /><small>体が不自由だった鳩山(中央)は壮大な自邸を政治の場に活用し記者会見にも利用された。(1956年)</small>]] * [[文京区]][[音羽]]の自邸、通称「音羽御殿」は、友人の建築家[[岡田信一郎]]の設計。現在は[[鳩山会館]]として一般に公開されている。 * [[文部大臣]]時代の[[1933年]]、[[聾学校]]での[[手話]]教育を[[手話#試練の時代|口話]]教育に転換させた。 * 公職追放の一因になったのは、ヒトラー礼賛本とされた戦前の著作『世界の顔』であるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の[[山浦貰一]]が[[ゴーストライター]]として執筆したとも言われている。戦時中は政党人として[[翼賛選挙]]に反対し、[[軽井沢]]で隠遁生活を送っていたとするが、特に東条と仲が悪かったために引っ込んだ訳でもない。 *教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の[[大野伴睦]]や[[三木武吉]]らに支えられ、政党政治家として筋を通した。 * お坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、妻の薫に対しても暴力を振るう事があった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は妻を非常に大切にするようになったのだと言う。 *1955年3月、東京で[[フリーメーソン]]の一員となった。 *大の甘党で赤飯に砂糖をかけて食べたという逸話がある。 *[[バラ]]の花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」([[東京都]][[世田谷区]])を訪れ、バラを鑑賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。余生もバラ栽培に没頭した。 *孫である鳩山由紀夫に、愛人がいたことをテレビで暴露された。 *[[クリスチャン]]であった。<!--[[第27回衆議院議員総選挙]]の発端となった[[天の声解散]]の際に「天の声を受けた」として衆議院を解散した。--><!-- 無関係 --> *鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは本にまとめられて『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。 == 栄典 == * 1959年3月7日: [[大勲位菊花大綬章]] == 家族・親族 == [[Image:Ichiro_Hatoyama_with_two_grandsons.jpg|thumb|right|250px|音羽御殿で孫の由紀夫 (中央) ・邦夫の兄弟とくつろぐ鳩山総理]] ;実家 *祖父:博房([[美作勝山藩|美作勝山藩士]]) *父:[[鳩山和夫|和夫]](弁護士、代議士、[[衆議院議長]]) *母:[[鳩山春子|春子]]([[松本藩|信州松本藩士]]・渡辺努(明治になって多加に改姓)の長女、教育者、[[共立女子学園]]の創立者のひとり) *姉:カヅ(政友会総裁・[[鈴木喜三郎]]に嫁ぐ) *'''鳩山一郎''' *弟:[[鳩山秀夫|秀夫]]([[民法]]学者、嫁は[[数学者]]・[[菊池大麓]]の次女・千代子)。 ;自家 *妻:薫([[教育者]]、[[共立女子大学]]学長) **長男:[[鳩山威一郎|威一郎]](官僚、参議院議員、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]) **嫁: 安子([[ブリヂストン]]創業者・[[石橋正二郎]]の長女) ***孫:[[鳩山由紀夫]](現[[民主党]][[幹事長]]) ***孫:[[鳩山邦夫]](現[[総務大臣]]) **長女:百合子(元[[日本輸出入銀行]]総裁・[[古沢潤一]]に嫁ぐ) **次女:玲子(鳩山秀夫の長男・道夫に嫁ぐ) **三女:節子 **四女:恵子(元[[石炭協会]]勤務・[[山中繁]]に嫁ぐ) **五女:信子([[指揮者]]・[[渡邉暁雄]]に嫁ぐ) == 系譜 == ; 鳩山家 <div style="font-size:80%"> {{familytree/start}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | |ino| |ino=[[井上多門]]}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | |:| | |}} {{familytree|border=1| | | | | | | | |ish|-|yas|,|kaz|ish=[[石橋正二郎]]|yas=安子|kaz=和子}} {{familytree|border=1| | | | | | | | |suz| | |}|-|+|yuk|suz=[[鈴木喜三郎]]|yuk=[[鳩山由紀夫]]}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |,|iich|`|kun|iich=[[鳩山威一郎]]|kun=[[鳩山邦夫]]}} 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[http://www.hatoyamakaikan.com/ 鳩山会館] * [http://www.arch-hiroshima.net/a-map/tokyo/hatoyama.html 建築マップ 鳩山会館] * [http://www.yuaiyouth.or.jp/ichiro.htm 友愛青年連盟 初代会長・鳩山一郎] * [http://csx.jp/~gabana/keizu/kei-hatoyama.htm 鳩山ファミリー系図] * [http://episode.kingendaikeizu.net/3.htm 系図でみる近現代 第3回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 09:38。]     

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