辻政信

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[[画像:Tuji_Masanobu.jpg|thumb|辻 政信]] '''辻 政信'''(つじ まさのぶ、[[1902年]](明治35年)[[10月11日]] - [[1961年]](昭和36年)?)は、[[日本]]の[[陸軍軍人]]、[[陸軍大佐]]、[[政治家]]。[[1952年]]から[[衆議院議員]]を四期、[[参議院議員]]を一期務めた。 辻を巡っては、[[陸軍士官学校事件]]、[[ノモンハン事件]]、[[シンガポール華僑虐殺事件]]、[[バターン死の行進]]などにおける責任を追及する意見が多い。また[[ココダ道の戦い|ポートモレスビー攻略作戦]]や[[ガダルカナル島の戦い]]における日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。 == 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 == [[石川県]][[江沼郡]][[東谷奥村]](現在の[[加賀市]][[山中温泉]])で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中[[高等小学校]]から名古屋[[陸軍幼年学校]]に入学し、これを首席で卒業後に中央幼年学校を経て[[陸軍士官学校]] (陸士)(36期) に入学した。予科二年間を終了後には[[士官候補生]]として[[金沢]]に駐屯する[[歩兵第7連隊]]に6ヶ月配属され、その後本科へと進み[[大正13年]]7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、[[恩賜の銀時計]]を拝領している。[[見習士官]]として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に[[少尉]]に任官した。[[1927年]](昭和2年)に[[中尉]]に昇進し、翌年に[[陸軍大学校]](43期)に入学、三年間の学務を経て[[1931年]]([[昭和6年]])11月に陸大を卒業した。卒業時の成績は首席の[[天野正一]]と次席の[[島村矩康]]に続く3番であり、[[恩賜の軍刀]]を拝領している。陸大での同期には[[秩父宮雍仁親王]]がいる。 辻が金沢の第7連隊に戻ってからしばらくして、[[中華民国]]の[[上海]]において[[第一次上海事変]]が発生した。[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に派遣された。翌年5月に[[上海停戦協定]]が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を[[偕行社]]で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には[[陸軍参謀本部]]付となり、第一課に配属された。 == 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件 == 編成および[[動員]]を担当する第一課において当時課長を務めていたのは[[東条英機]][[大佐]]であった。翌年8月に[[大尉]]に昇進し12月に第一部第三課に転籍した。[[1934年]](昭和9年)9月になると、士官学校の幹事(副校長)に任命されていた東条の誘いを受けて本科の[[生徒隊]]中隊長に任命された。この人事は、栄転である[[モスクワ]][[駐在武官]]職を断っての決断であり、また陸大を卒業したエリート将校が生徒隊中隊長を勤めることは前例がなかった。辻がこの人事を望んだのは、陸士本科に入学する予定であった澄宮(後の[[三笠宮崇仁親王]])に接触を図る目的であったとの説が存在する。実際に澄宮は辻が中隊長を勤める第一中隊に配属された。 当時の士官学校は[[1932年]](昭和7年)に発生した[[五・一五事件]]の影響もあって、軍部による国家革新を目指す[[右翼思想]]が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の[[武藤与一]]候補生は、[[皇道派]]に属する陸大の[[村中孝次]]大尉や[[磯部浅一]]一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の[[佐藤勝朗]]候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は彼を皇道派へのスパイとして利用しようと考え、村中大尉との接触を命じた。しばらくして村中大尉らは[[青年将校]]と士官学校生徒による[[クーデター]]計画を打ち明けるようになり、この情報を得た辻は参謀本部の[[片倉衷]]少佐および[[憲兵司令部]]の[[塚本誠]]大尉に通報した。正規の指令系統を経て陸士生徒隊長である[[北野憲造]]大佐(皇道派)に報告しなかったのは、これを政治問題として利用しようとした為であると指摘されている。さらに辻は陸士構内の堀を深夜に乗り越えて、陸軍次官[[橋本虎之助]]中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。[[永田鉄山]][[軍務局長]]の指示によって憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、[[片岡太郎]]中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも[[軍法会議]]にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が[[退学]]処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。村中らのクーデター計画は杜撰かつ曖昧で現実味に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明している。 この[[陸軍士官学校事件]]における辻の行動、特に候補生を自らのスパイとして扱ったことは、利己的であるとして強く批判された。村中と磯部らは辻を[[誣告罪]]で告発し、辻の行動を激しく批判したが、辻への処分は[[謹慎]]30日および[[水戸]]の[[歩兵第2連隊]]への転属のみであった。 これらの処分への不満を募らせた村中と磯部は後に「[[粛軍に関する意見書]]」を公表して免官され、さらに統制派と皇道派の対立は激化し、[[真崎甚三郎]]大将の[[教育総監]]罷免、[[相沢事件]]、[[二・二六事件]]へとつながっていった。 ==関東軍への転出== 二・二六事件後の[[1936年]](昭和11年)4月に辻は片倉少佐の斡旋によって[[関東軍]]参謀部へと転出した。[[兵站]]を担当する第三課に配属され、[[満州事変]]の経過や戦術を詳細に解析している。[[協和会]]の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で[[戦争指導課長]]を務めていた[[石原莞爾]]と面会しており、これを機にして石原を尊敬するようになった。[[1937年]](昭和12年)5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった[[張作霖]]の葬儀を協和会の名で執り行っている。 同年7月7日に発生した[[盧溝橋事件]]をきっかけとして[[中華民国国軍]]と関東軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の東条参謀長や片倉[[高級参謀]]らに同調して戦線拡大を主張した。この際作戦主任の池田中佐に対しては、自身自らが爆撃機にのって中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いて撃ち落とすと話した為これを断念している。 7月末には[[支那駐屯軍]]への転出を自薦し、8月に新たに編成された[[北支那方面軍]]第一課の参謀となったが、ここで高級参謀を務めていた[[下山琢磨]]大佐は以前に辻とトラブルを起こしており、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]への一時的な転出を経て関東軍作戦参謀に栄転した。 ==ノモンハン事件== [[1939年]](昭和14年)4月に関東軍司令官の名で「[[満ソ国境紛争処理要綱]]」が布告された。これは作戦参謀となった辻が策定したものであり、当時国境線が明確に決定されていなかった地点における「現地司令官の自主的な国境線認定」と衝突が発生した際の兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。 同年5月11日、[[外蒙古]]と[[満州国]]が共に領有を主張していた[[ハルハ河]]東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。[[ハイラル]]に駐屯する[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていた[[ソビエト連邦]]でも[[ゲオルギー・ジューコフ|ジューコフ]]中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古の[[タムスク]]航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は[[電報]]で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに[[陸軍刑法]]第37条の[[檀権]](せんけん)の罪に該当する重罪であった。 紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退した。9月16日に日ソ間で停戦協定が成立し、さらに国境線を確定するための会議が12月に[[チタ]]および[[ハルビン]]において開催されたが、妥協直前になってソ連側代表が帰国してしまった。この件に関して、辻が[[白系ロシア人]]を使嗾してソ連代表と外蒙古代表の暗殺を示唆したことが原因であるとの証言が存在する。 自著『ノモンハン』において辻は、[[須見新一郎]]連隊長が第一線で[[ビール]]を飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたと記述している。後に須見はこれに反論しており、自身が下戸であること、当時ビール瓶の空き瓶にハルハ河の水を入れていたことを記している。この記述は須見連隊長の当番兵によっても裏付けられているが、両者の抗議に対しても辻は謝罪をおこなわなかった。 ノモンハン事件において辻とともに関東軍作戦課を取り仕切った主任参謀[[服部卓四郎]]中佐は、一旦は歩兵学校付および教育総監部付に左遷されたが、[[1940年]](昭和15年)10月に参謀本部に戻り作戦班長に任命され、翌年には作戦課長に昇進した。独ソが開戦した翌々日の[[1941年]](昭和16年)[[6月24日]]付で参謀本部部員として返り咲いた。 ==太平洋戦争== 辻は自らが中心になって開戦前に「これだけ読めば戦は勝てる」(1941年)という小冊子を作成している。この小冊子には相手を侮る言葉が満載されており、無謀な作戦の原因となったとして悪名高い。 === シンガポール === この時の参謀本部[[作戦部長]]は[[田中新一]]が、作戦課長は服部卓四郎が務めており、辻はそのもとで作戦課兵站班長に任命された。服部の前に作戦課長を務めていた土居明夫大佐は、辻の呼び戻しを要求する服部作戦班長(当時)と対立し、左遷されたとされている。太平洋戦争開始時の陸軍の作戦は多くが、辻ー服部ー田中のラインで形成されることになった。 [[太平洋戦争]]開戦後は、[[マレー作戦]]で[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行うなど蛮勇を発揮した。ただし作戦参謀としての任務を放棄して第一線で命令系統を無視し指揮をとることにたいして、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]司令官[[山下奉文]]は、マレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と痛烈に批判している。また、市川支隊一千人をタイ国軍に変装させてクアラカンサルまで大突破を図るという作戦を立てたが失敗した。 シンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の集団検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。この[[シンガポール華僑虐殺事件]]を巡っては、東京裁判においては6000人の華僑と最高裁判所長官ホセ・サントスが殺害されたとされる。当時警備本部で嘱託として勤務していた[[篠崎護]]は、この命令は辻が立案したものであると述べている。マレー作戦終了後の[[1942年]](昭和17年)3月に辻は東京に呼び戻され作戦班長に栄転した。 ===フィリピン=== [[フィリピンの戦い_%281941-1942年%29|フィリピン戦線]]を担当していた[[本間雅晴]]中将率いる[[第14方面軍 (日本軍)|第14軍]]は、[[マニラ]]占領後に[[バターン半島]]にこもる米軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の[[大本営]]では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。4月3日に開始された第二次総攻撃によって米軍の陣地は占領され、多くの兵士が投降し[[コレヒドール島]]を残すのみとなった。この後、米軍捕虜の移送において発生した[[バターン死の行進]]を巡っては、当時の日本軍の兵站事情および米軍兵士の多くがマラリアに感染していたことから恣意的な命令ではないとの意見が存在する。その一方で多くの連隊には、「米軍投降者を一律に射殺すべしと」の大本営命令が,兵団司令部から口頭で伝達されていた。大本営はこのような命令を発出しておらず、本間中将も全く感知していなかった。当時歩兵第141連隊長であった今井武夫は、戦後の手記において、この命令は辻が口頭で伝達して歩いていたと述べている。 ===ポートモレスビー=== 辻政信はポートモレスビー作戦で戦略研究命令を受けダバオに行くが、彼が独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとも言われている。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま撤退することになった。 ===ガダルカナル島=== マレー半島攻略作戦において彼は、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[陸軍記念日]]などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いた。さらに、翌年の[[ココダ道の戦い|ポートモレスビー攻略作戦]]を大本営の決定前に独断で決定し、[[ガダルカナル島の戦い]]でも実情を無視した攻撃を強行している。 特に、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の[[川口清健]]少将と対立し、[[参謀本部]]作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合(月齢による夜間に艦隊が運行できる期間)と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口になすりつけ、自著「ガダルカナル」で「K少将」として専ら自分に都合が良いように描写した(当時の「大流行作家」のこの捏造に怒った川口は辻の地元石川県で講演会を開くものの、辻の賛同者によって講演会は怒号とヤジに包まれ講演会は失敗した)。アメリカ軍の基地への総攻撃失敗を体験した兵士は既に「作戦の神様」として有名人だった辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言する。彼は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の死などの報告を聞き呆然としたまま迅速な対応をとることができなかったという。辻はガダルカナル島で「胆力をつける」と称して敵兵の死体から切り取った肝(肝臓)を携行していたという。結局ガダルカナル戦で辻は、重度のマラリアに罹り駆逐艦で戦いの途中撤退している。 ガタルカナル以降は、中国大陸、ビルマを転戦する。ビルマにおいては、「軍は龍稜方面の敵に対し攻勢を企図しあり、『バーモ』『ナンカン』地区の防衛は未完なり、水上少将は『ミイトキーナ』を死守すべし」とミートキーナ守備隊[[水上源蔵]]少将個人に死守命令を発令。水上少将は部下を救うため、辻の命令を口外せずに「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」と部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。その結果、水上部隊の一部は包囲網の突破に成功して生還したが、辻は状況報告をしようとした水上の副官を「死守せよと言ったのに、おめおめ生きて帰りおって」と殴打。その後、[[イラワジ河会戦]]を立案。既に[[第15軍]]が壊滅して劣勢の日本軍であったが、15倍の英、米式中国軍に対する遅滞戦闘により、更に損害を増大。この作戦以後インド国民義勇軍は作戦地図より消滅。大部分のビルマ方面軍はタイ/シャン高原付近へ敗走し終戦を迎える。辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷。後送される。 ==終戦== [[バンコク]]で敗戦を迎えたが、「腹を切ってお詫びするのが道だがアジアの中で民族の再建を図るため」僧侶に変装して逃亡する。この頃、ウィリアム・スティーブンソンの著作『革命の王』(原題:''The Revolutionary King'')によると、当時のタイ国王[[ラーマ8世]]の怪死事件に関与していたとされている。この脱出は[[蒋介石]]の[[特務機関]]である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。帰国後、逃走中の記録「潜行三千里」が[[1950年]]度のベストセラーとなる。(同時に「十五対一」もベストテン入りしている)。 ==戦後== 旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、[[1952年]](昭和27年)に旧石川1区から[[衆議院議員]]に初当選。[[自由党 (日本)]]を経て[[自由民主党]]・[[石橋湛山]]派に所属。衆議院議員4期目の途中だった[[1959年]](昭和34年)に[[参議院議員]]([[全国区]])に鞍替えした。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。 [[CIA]]の資料によると、[[服部卓四郎]]ら旧日本軍幹部の一部が[[1952年]]、国粋勢力に敵対的であった当時の首相[[吉田茂]]を暗殺しようとした際に、辻は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという<ref><!--http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070226it14.htm 出典先のリンクはすぐデットリンクになるので最初からコメントアウト--> 旧日本軍将校ら、吉田首相暗殺を計画…CIA文書 読売新聞による2007年2月26日報道から</ref>。 ==失踪== 辻は[[1961年]](昭和36年)、参議院に対して[[東南アジア]]の視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって[[外務省]]は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮して[[ラオス]]の北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、彼の身におきた詳細については現在でも判明していない。 マスコミにおいては、いくつかの憶測記事が掲載された。その中には、虎に襲われ死亡した、戦犯として訴追されなかったためにイギリス軍が暗殺した、アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した、現地に残留していた元日本兵によって殺害された、現地の共産勢力([[パテトラオ]])に処刑された、などの説が存在するがいずれも証拠は存在しない。現在では、[[1962年]](昭和37年)1月に[[スパイ]]として[[ラオス解放軍]]に捕らえられ、[[カンカイ]]という町で3人の兵士によって銃殺されたという説が採られることが多い。 上記のような死亡説に対して、ベトナムで反共義勇軍で戦った、エジプトの[[ガマール・アブドゥン=ナーセル|ナセル]]大統領の顧問をしているなどの噂も存在した。 辻の失踪については、1962年5月4日の参議院[[議院運営委員会]]で詳細な[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0096/04005040096021c.html 報告・議論]がなされている。 参議院議員としての議席は[[1965年]](昭和40年)の任期切れまで保たれていた。家族の[[失踪宣告]]請求により、[[1969年]](昭和44年)[[6月28日]]に[[家庭裁判所|東京家庭裁判所]]は1968年7月20日付の死亡宣告をおこなった。[[1979年]](昭和54年)には郷里に銅像が建立されている。 ==その他== *娘は[[通商産業大臣]]・[[衆議院議員]]の[[堀内光雄]]に嫁いだ。 *下級将校時代には模範的人物であった。戦場の野営時ムカデ退治に必死になっている姿なども目撃されている。 *『[[週刊新潮]]』[[2006年]][[2月23日]]号で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、研究が待たれている。 *[[1946年]]9月に[[タイ王国]]当時の国王[[ラーマ8世]]が不審な"事故死"を遂げた。[[銃]]の暴発に因るものであると片付けられたが、当時の[[捜査]]に参加した[[英国]]の作家[[ウィリアム・スティーブンソン]]は辻が国王を殺害したという証拠を提示し、確信を持っていたという。いずれにしても真実は未だ謎のままである。 *毀誉褒貶がきわめて大きな人物である。自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言した。また、金や女に潔癖で、女遊びをしている人物はたとえそれが上司であっても糾弾した。同期の人物や親しい人を親身に扱い、後輩の面倒見も良かった。他人に厳しくする態度はあったが、自分にも厳しかった。また、高級参謀ならば通常なら現地視察などまず行わないものであるが、辻は積極的に現場に赴き現場の人間と会話を交わしている。このように当時の価値観で下克上的思想以外の「軍人としてこうあるべき」という徳目は厳然として守っており、それが彼を非難する意見とは別に、多くの人が彼を支持する原因ともなっている。 *変装の名人であり、満州では現地人の姿で各地を視察した。戦犯追及を逃れた際にも彼の変装の能力が発揮された。 *米国立公文書館で2005~2006年に解禁されたCIAの極秘文書によると、CIAなどの米国の情報機関は[[第二次世界大戦後]]、辻政信らに接近したという。辻政信には[[連合国軍総司令部]](GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、辻を「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」([[1954年]]の文書)とした。また、[[1952年]]10月31日付のCIA文書によると、元参謀本部作戦課長の[[服部卓四郎]]らは、[[自由党]]の[[吉田茂]]首相が公職から追放された者や[[国粋主義者]]らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、[[民主党]]の[[鳩山一郎]]を首相に据える計画を立てた。しかし、服部の元部下の辻政信が「今はクーデターを起こす時ではない」と説得し、グループはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという。<ref><!--[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007022600581 デットリンク-->旧軍幹部らが吉田首相暗殺狙う1952年夏、クーデター企て-CIA文書 [[時事通信]]2007年2月26日</ref> ==著書== *『十五対一』(酣灯社、1950年) *『1960年』(東都書房、1956年) *『亜細亜の共感』(亜東書房、1950年) *『ガダルカナル』(養徳社、1950年) *『この日本を』(協同出版、1953年) *『これでよいのか』(有紀書房、1959年) *『シンガポール』(東西南北社、1952年) *『自衛中立』(亜東書房、1952年) *『ズバリ直言』(東都書房、1959年) *『世界の火薬庫をのぞく』(東都書房、1957年) *『潜行三千里』(毎日新聞社、1950年) ==参考文献== *[[高山信武]]『二人の参謀—服部卓四郎と辻政信』(芙蓉書房出版、1999年) ASIN 4829502347 *田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』(芙蓉書房出版、1986年) ASIN 4829500662 *生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社文庫 1993年 ISBN 4769820291 <references/> *津本陽 『八月の砲声 ノモンハンと辻政信』 講談社 ISBN 4062129299 *橋本哲男 『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里 』 光人社NF文庫 ISBN 4769820658 *生出寿 『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』 光人社 ISBN 4769804989 *河田宏 『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』 原書房 ISBN 9784562035267 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年9月29日 (土) 00:28。]    
[[画像:Tuji_Masanobu.jpg|thumb|辻 政信]] [[Image:Memorial statue of Masanobu Tsuji.JPG|thumb|250px|出身地[[東谷奥村]]の中心であった[[加賀市]][[山中温泉]]荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] '''辻 政信'''(つじ まさのぶ、[[1902年]][[10月11日]] - [[1961年]]?)は、日本の[[陸軍軍人]]、[[陸軍大佐]]、[[政治家]]。[[1952年]]から[[衆議院|衆議院議員]]を四期、[[参議院|参議院議員]]を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、[[マレー作戦]]等の辣腕振りが評価される一方、[[陸軍士官学校事件]]、[[ノモンハン事件]]、[[シンガポール華僑虐殺事件]]、[[バターン死の行進]]などにおける責任を追及する意見もある。また[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略作戦]]や[[ガダルカナル島の戦い]]における日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]では「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 [[1961年]]4月に東南アジアの視察のために出国後、[[ラオス]]で行方不明となる。そのまま、[[1968年]][[7月20日]]に死亡宣告がなされた。 == 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 == [[石川県]][[江沼郡]][[東谷奥村]]今立(現在の[[加賀市]][[山中温泉]])で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中[[高等小学校]]から苦学の末、[[1918年]]名古屋[[陸軍幼年学校]]に補欠で入学し、これを首席で卒業後に中央幼年学校を経て[[陸軍士官学校]] (陸士)(36期) に入学した。予科二年間を終了後には[[士官候補生]]として[[金沢]]に駐屯する[[歩兵第7連隊]]に6ヶ月配属され、その後本科へと進み1924年([[大正13年]])7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、[[銀時計#恩賜の銀時計|恩賜の銀時計]]を拝領している。[[見習士官]]として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に[[少尉]]に任官した。[[1927年]]に[[中尉]]に昇進し、翌年に[[陸軍大学校]](43期)に入学、三年間の学務を経て[[1931年]]11月に陸大を卒業した。卒業時の成績は首席の[[天野正一]]と次席の[[島村矩康]]に続く3番であり、[[恩賜の軍刀]]を拝領している。陸大での同期には[[秩父宮雍仁親王]]がいる。 辻が金沢の第7連隊に戻ってからしばらくして、[[中華民国]]の[[上海市|上海]]において[[第一次上海事変]]が発生した。[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に[[上海停戦協定]]が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を[[偕行社]]で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には[[陸軍参謀本部]]付となり、第一課に配属された。 == 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件 == 編成および[[動員]]を担当する第一課において当時課長を務めていたのは[[東條英機]][[大佐]]であった。翌年8月に[[大尉]]に昇進し12月に第一部第三課に転籍した。[[1934年]]9月になると、士官学校の幹事(副校長)に任命されていた東條の誘いを受けて本科の[[生徒隊]]中隊長に任命された。この人事は、栄転である[[モスクワ]][[駐在武官]]職を断っての決断であり、また陸大を卒業したエリート将校が生徒隊中隊長を勤めることは前例がなかった。辻がこの人事を望んだのは、陸士本科に入学する予定であった澄宮(後の[[三笠宮崇仁親王]])に接触を図る目的であったとの説が存在する。実際に澄宮は辻が中隊長を勤める第一中隊に配属された。 当時の士官学校は[[1932年]]に発生した[[五・一五事件]]の影響もあって、軍部による国家革新を目指す[[右翼思想]]が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の[[武藤与一]]候補生は、[[皇道派]]に属する陸大の[[村中孝次]]大尉や[[磯部浅一]]一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の[[佐藤勝朗]]候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は彼を皇道派へのスパイとして利用しようと考え、村中大尉との接触を命じた。しばらくして村中大尉らは[[青年将校]]と士官学校生徒による[[クーデター]]計画を打ち明けるようになり、この情報を得た辻は参謀本部の[[片倉衷]]少佐および[[憲兵司令部]]の[[塚本誠]]大尉に通報した。正規の指令系統を経て陸士生徒隊長である[[北野憲造]]大佐(皇道派)に報告しなかったのは、これを政治問題として利用しようとした為であると指摘されている。さらに辻は陸士構内の堀を深夜に乗り越えて、陸軍次官[[橋本虎之助]]中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。[[永田鉄山]][[軍務局長]]の指示によって憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、[[片岡太郎]]中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも[[軍法会議]]にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が[[退学]]処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。村中らのクーデター計画は杜撰かつ曖昧で現実味に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明している。 この[[陸軍士官学校事件]]における辻の行動、特に候補生を自らのスパイとして扱ったことは、利己的であるとして強く批判された。村中と磯部らは辻を[[誣告罪]]で告発し、辻の行動を激しく批判したが、辻への処分は[[謹慎]]30日および[[水戸]]の[[歩兵第2連隊]]への転属のみであった。 これらの処分への不満を募らせた村中と磯部は後に「[[粛軍に関する意見書]]」を公表して免官され、さらに統制派と皇道派の対立は激化し、[[真崎甚三郎]]大将の[[教育総監]]罷免、[[相沢事件]]、[[二・二六事件]]へとつながっていった。 ==関東軍への転出== 二・二六事件後の[[1936年]]4月に辻は片倉少佐の斡旋によって[[関東軍]]参謀部へと転出した。[[兵站]]を担当する第三課に配属され、[[満州事変]]の経過や戦術を詳細に解析している。[[協和会]]の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で[[戦争指導課長]]を務めていた[[石原莞爾]]と面会しており、これを機にして石原を尊敬するようになった。[[1937年]]5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった[[張作霖]]の葬儀を協和会の名で執り行っている。 同年7月7日に発生した[[盧溝橋事件]]をきっかけとして[[中華民国国軍]]と[[支那駐屯軍]]との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の東條参謀長や片倉[[高級参謀]]らに同調して戦線拡大を主張した。この際作戦主任の池田中佐に対しては、自身自らが爆撃機にのって中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いて撃ち落とすと話した為これを断念している。 7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された[[北支那方面軍]]第一課の参謀となったが、ここで高級参謀を務めていた[[下山琢磨]]大佐は以前に辻とトラブルを起こしており、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]への一時的な転出を経て関東軍作戦参謀に栄転した。 この南京参謀時代、上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様水戸黄門」と評されていた。また、[[汪兆銘政権]]への秘密工作を実行、反日的だった[[李士群]]を暗殺している。 ==ノモンハン事件== [[1939年]]4月に関東軍司令官の名で「[[満ソ国境紛争処理要綱]]」が布告された。これは作戦参謀となった辻が策定したものであり、当時国境線が明確に決定されていなかった地点における「現地司令官の自主的な国境線認定」と衝突が発生した際の兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。 同年5月11日、[[外蒙古]]と[[満州国]]が共に領有を主張していた[[ハルハ河]]東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。[[ハイラル]]に駐屯する[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていた[[ソビエト連邦]]でも[[ゲオルギー・ジューコフ|ジューコフ]]中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古の[[タムスク]]航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は[[電報]]で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに[[陸軍刑法]]第37条の[[檀権]](せんけん)の罪に該当する重罪であった。 紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退した(ソ連崩壊に伴うノモンハン事件に関する資料が流出し、ソ連軍の損害は日本軍を大きく上回ることが明らかになっており、現在ではノモンハン事件は日本軍の敗北とは言えなくなってきている事には注意を要する)。9月16日に日ソ間で停戦協定が成立し、さらに国境線を確定するための会議が12月に[[チタ]]および[[ハルビン]]において開催されたが、妥協直前になってソ連側代表が帰国してしまった。この件に関して、辻が[[白系ロシア人]]を使嗾してソ連代表と外蒙古代表の暗殺を示唆したことが原因であるとの証言が存在する。 自著『ノモンハン』において辻は、[[須見新一郎]]連隊長が第一線で[[ビール]]を飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたと記述している。後に須見はこれに反論しており、自身が下戸であること、当時ビール瓶の空き瓶にハルハ河の水を入れていたことを記している。この記述は須見連隊長の当番兵によっても裏付けられているが、両者の抗議に対しても辻は謝罪をおこなわなかった。 ノモンハン事件において辻とともに関東軍作戦課を取り仕切った主任参謀[[服部卓四郎]]中佐は、一旦は歩兵学校付および教育総監部付に左遷されたが、[[1940年]]10月に参謀本部に戻り作戦班長に任命され、翌年には作戦課長に昇進した。独ソが開戦した翌々日の[[1941年]][[6月24日]]付で参謀本部部員として返り咲いた。 ==太平洋戦争== 辻は台湾第82部隊第2課課長として、自らが中心になり開戦前「これだけ読めば戦は勝てる」(1941年)という小冊子を作成した。この小冊子は後に大本営から全将兵に配布された。この小冊子は南方戦の具体的な戦闘のノウハウを記述したもので緒戦には有効に機能したが、同時に相手側を侮る言葉も満載されており、無謀な作戦の原因となったとして悪名高い。「今度の敵は支那軍に比べると将校は西洋人で…飛行機や戦車や自動車や大砲の数は支那軍より遥かに多いから注意しなければならぬが、旧式のものが多いのみならず折角の武器を使うものが弱兵だから役には立たぬ、従って夜襲は彼等の一番恐れる所である」という記述があり、辻はノモンハン事件で飛行機や戦車などの有効性を身をもって感じているはずなのに、あまりにも物資的威力を軽視し白兵戦を重視しすぎているとの批判が多い。 === シンガポール === この時の参謀本部[[作戦部長]]は[[田中新一]]が、作戦課長は服部卓四郎が務めており、辻はそのもとで作戦課兵站班長に任命された。服部の前に作戦課長を務めていた土居明夫大佐は、辻の呼び戻しを要求する服部作戦班長(当時)と対立し、左遷されたとされている。太平洋戦争開始時の陸軍の作戦は多くが、辻ー服部ー田中のラインで形成されることになった。 [[太平洋戦争]]開戦後は、[[マレー作戦]]で[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行うなど蛮勇を発揮した。ただし作戦参謀としての任務を放棄して第一線で命令系統を無視し指揮をとることにたいして、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]司令官[[山下奉文]]は、マレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と痛烈に批判している。また、市川支隊一千人をタイ国軍に変装させてクアラカンサルまで大突破を図るという作戦を立てたが失敗した。 シンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の集団検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。この[[シンガポール華僑虐殺事件]]を巡っては、東京裁判においては6000人の華僑と最高裁判所長官ホセ・サントスが殺害されたとされる。当時警備本部で嘱託として勤務していた[[篠崎護]]は、この命令は辻が立案したものであると述べている。マレー作戦終了後の[[1942年]]3月に辻は東京に呼び戻され作戦班長に栄転した。 ===フィリピン=== [[フィリピンの戦い_%281941-1942年%29|フィリピン戦線]]を担当していた[[本間雅晴]]中将率いる[[第14方面軍 (日本軍)|第14軍]]は、[[マニラ]]占領後に[[バターン半島]]にこもる米軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の[[大本営]]では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。[[4月3日]]に開始された第二次総攻撃によって米軍の陣地は占領され、多くの兵士が投降し[[コレヒドール島]]を残すのみとなった。この後、米軍捕虜の移送において発生した[[バターン死の行進]]を巡っては、当時の日本軍の兵站事情および米軍兵士の多くが[[マラリア]]に感染していたことから恣意的な命令ではないとの意見が存在する。その一方で多くの連隊には、「米軍投降者を一律に射殺すべしと」の[[大本営]]命令が,兵団司令部から口頭で伝達されていた。大本営はこのような命令を発出しておらず、本間中将も全く関知していなかった。当時歩兵第141連隊長であった[[今井武夫]]は、戦後の手記において、この命令は辻が口頭で伝達して歩いていたと述べている。 フィリピン最高裁判所長官[[ホセ・サントス (フィリピン)|ホセ・サントス]]の処刑も、辻の命令によるものであった。彼を真の愛国者として尊敬していた[[川口清健]]少将は再三その助命を乞うたが、辻は頑として要求を撤回せず、川口はやむなく従った。彼はそのために、戦後数年間[[モンテンルパ]]の牢獄につながれた。 ===ポートモレスビー=== 辻政信は[[ポートモレスビー作戦]]で戦略研究命令を受けダバオに行くが、彼が独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとも言われている。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま撤退、自身も負傷を負った。 ===ガダルカナル島=== マレー半島攻略作戦において彼は、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[陸軍記念日]]などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いた。さらに、翌年の[[ココダ道の戦い|ポートモレスビー攻略作戦]]を大本営の決定前に独断で決定し、[[ガダルカナル島の戦い]]でも実情を無視した攻撃を強行している。 特に、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の[[川口清健]]少将と対立し、[[参謀本部]]作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合(月齢による夜間に艦隊が運行できる期間)と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口になすりつけ、自著「ガダルカナル」で「K少将」として専ら自分に都合が良いように描写した(当時の「大流行作家」のこの捏造に怒った川口は辻の地元石川県で講演会を開くものの、辻の賛同者によって講演会は怒号とヤジに包まれ講演会は失敗した)。アメリカ軍の基地への総攻撃失敗を体験した兵士は既に「作戦の神様」として有名人だった辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言する。彼は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の死などの報告を聞き呆然としたまま迅速な対応をとることができなかったという。辻はガダルカナル島で「胆力をつける」と称して敵兵の死体から切り取った肝(肝臓)を携行していたという。結局ガダルカナル戦で辻は、重度のマラリアに罹り駆逐艦で戦いの途中撤退している。 ガタルカナル以降は、中国大陸、ビルマを転戦する。ビルマにおいては、「軍は龍稜方面の敵に対し攻勢を企図しあり、『バーモ』『ナンカン』地区の防衛は未完なり、水上少将は『ミイトキーナ』を死守すべし」とミートキーナ守備隊[[水上源蔵]]少将個人に死守命令を発令。水上少将は部下を救うため、辻の命令を口外せずに「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」と部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。その結果、水上部隊の一部は包囲網の突破に成功して生還したが、辻は状況報告をしようとした水上の副官を「死守せよと言ったのに、おめおめ生きて帰りおって」と殴打。あまりにも激しい暴力で居合わせた師団長が止めに入るほどだったという。その後、[[イラワジ河会戦]]を立案。既に[[第15軍]]が壊滅して劣勢の日本軍であったが、15倍の英、米式中国軍に対する遅滞戦闘により、更に損害を増大。この作戦以後インド国民義勇軍は作戦地図より消滅。大部分のビルマ方面軍はタイ/シャン高原付近へ敗走し終戦を迎える。辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷。後送される。 ==終戦== [[バンコク]]で敗戦を迎えたが、「腹を切ってお詫びするのが道だがアジアの中で民族の再建を図るため」僧侶に変装して逃亡する。この頃、ウィリアム・スティーブンソンの著作『革命の王』(原題:''The Revolutionary King'')によると、当時のタイ国王[[ラーマ8世]]の怪死事件に関与していたとされている。この脱出は[[蒋介石]]の[[特務機関]]である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。[[1948年]]に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の[[1950年]]に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなる(同時に「十五対一」もベストテン入りしている)。 ==戦後== 旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の[[1952年]]に旧石川1区から[[衆議院議員]]に初当選。[[自由党 (日本)|自由党]]を経て[[自由民主党]]・[[鳩山一郎]]派、[[石橋湛山]]派に所属。衆議院議員4期目の途中だった[[1959年]]に[[岸信介]]攻撃で[[除名]]されて衆議院を辞職し、[[参議院議員]]([[全国区]])に鞍替えして第3位で当選、[[院内会派]]無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。 [[アメリカ中央情報局|CIA]]の資料によると、[[服部卓四郎]]ら旧日本軍幹部の一部が[[1952年]]、国粋勢力に敵対的であった当時の首相[[吉田茂]]を暗殺しようとした際に、辻は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという<ref>「旧日本軍将校ら、吉田首相暗殺を計画…CIA文書」読売新聞2007年2月26日</ref>。 ==失踪== [[1961年]]、参議院に対して[[東南アジア]]の視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用[[旅券]]で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって[[外務省]]は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮して[[ラオス]]の北部の[[ジャール平原]]へ単身向かったことが判明したが、彼の身におきた詳細については現在でも判明していない。 マスコミにおいては、いくつかの憶測記事が掲載された。その中には、虎に襲われ死亡した、[[戦犯]]として訴追されなかったためにイギリス軍が暗殺した、アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した、現地に残留していた元日本兵によって殺害された、現地の共産勢力([[パテトラオ]])に処刑された、などの説が存在するがいずれも証拠は存在しない。現在では、[[1962年]]1月に[[スパイ]]として[[ラオス解放軍]]に捕らえられ、[[カンカイ]]という町で3人の兵士によって[[銃殺]]されたという説が採られることが多い。 上記のような死亡説に対して、ベトナムで反共義勇軍で戦った、エジプトの[[ガマール・アブドゥン=ナーセル|ナセル]]大統領の顧問をしているなどの噂も存在した。 辻の[[失踪]]については、[[1962年]][[5月4日]]の参議院[[議院運営委員会]]で詳細な[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0096/04005040096021c.html 報告・議論]がなされている。 参議院議員としての議席は[[1965年]]の任期切れまで保たれていた。この間、1962年に無所属クラブは[[緑風会|参議院同志会(緑風会より改称)]]と合同して[[第二院クラブ]]となったため、辻は不在のまま二院クラブ所属になった。[[1964年]]、旧同志会が二院クラブを離脱して緑風会に戻ると、辻はどちらの会派にも入れず、便宜上各派に属しない議員(純[[無所属]])とされた。 その後、家族の[[失踪宣告]]請求により、[[1969年]][[6月28日]]に[[家庭裁判所|東京家庭裁判所]]は1968年[[7月20日]]付の死亡宣告をおこなった。[[1979年]]には郷里に銅像が建立されている。 == エピソード・人物像 == * 娘は[[通商産業大臣]]・[[衆議院議員]]の[[堀内光雄]]に嫁いだ。 * 下級将校時代には特に模範的人物であった。戦場の野営時ムカデ退治(本来は士官の仕事ではない)に必死になっている姿なども目撃されている。 * 『[[週刊新潮]]』[[2006年]][[2月23日]]号で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、研究が待たれている。 * [[1946年]]9月に[[タイ王国]]当時の国王[[ラーマ8世]]が不審な“事故死”を遂げた。[[銃]]の暴発に因るものであると片付けられたが、当時の[[捜査]]に参加した[[イギリス|英国]]の作家[[ウィリアム・スティーブンソン]]は辻が国王を殺害したという証拠を提示し、確信を持っていたという。しかしながら辻政信の記録、『潜行三千里』によれば辻は1945年にタイを脱出しており、[[1946年]][[6月9日]]は[[中国]]にいたことから、わざわざ[[バンコク]]まで戻りラーマ8世を暗殺するのは不自然であるともいえる。いずれにしても真実は未だ謎のままである。 * [[ノモンハン事件]]においては、戦死者を置き捨て逃げてくる将校を叱咤し、自ら前進し、遺体を担いで戻ってきた。 * 変装の名人であり、満州では現地人の姿で各地を視察した。戦犯追及を逃れた際にも彼の変装の能力が発揮された。 * 米国立公文書館で2005~2006年に解禁されたCIAの極秘文書によると、CIAなどの米国の情報機関は[[第二次世界大戦後]]、辻政信らに接近したという。辻政信には[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、辻を「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」([[1954年]]の文書)とした。また、[[1952年]]10月31日付のCIA文書によると、元参謀本部作戦課長の[[服部卓四郎]]らは、[[自由党]]の[[吉田茂]]首相が公職から追放された者や[[国粋主義者]]らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、[[民主党]]の[[鳩山一郎]]を首相に据える計画を立てた。しかし、服部の元部下の辻政信が「今は[[クーデター]]を起こす時ではない」と説得し、グループはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという<ref>旧軍幹部らが吉田首相暗殺狙う1952年夏、クーデター企て-CIA文書 [[時事通信]]2007年2月26日</ref>。 * 自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言した。このような態度に出られたのは他に[[石原莞爾]]のみと言われ、言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたとされる。 * また、金や女に潔癖で、女遊びをしている人物はたとえそれが上司であっても糾弾した。同期の人物や親しい人を親身に扱い、後輩の面倒見も良かった。他人に厳しくする態度はあったが、自分にも厳しかった。 * 高級参謀ならば通常なら現地視察などまず行わないものであるが、辻は積極的に(最前線も厭わず)現場に赴き現場の人間と会話を交わしている。このように当時の価値観で下克上的思想以外の「軍人としてこうあるべき」という徳目は厳然として守っていた。 * 冬季の[[演習]]において[[野営]]地において酒気を帯びている上官に対し、「兵隊が震えているのに何事か」と怒り、殴り合いになったこともあった。 * [[平等主義]]に徹し、[[正義感]]が強かった。戦時中、[[連合艦隊]]を訪れたとき、物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て、国民が窮しているときに、軍人のみが贅沢をしていることに憤り声を荒立て抗議した。これに対して海軍側は『客人であるので特別の歓待をしたまでである』と宥めるのにやっとであった。 * [[杉森久英]]は著書『参謀・辻政信』で上記のような辻の数々のエピソードを述べている。また、「彼のする事なす事は、小学校の修身教科書が正しいという意味で正しいので、誰も反対しようがなく、彼の主張は常に、大多数の無言の反抗を尻目にかけて、通るのだった」と記している。しかし、このようなエピソードもある。「辻は新しい部署に配属されると、まず経理部に出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と料亭の支払伝票を調べ上げた。これで弱点を握られた上官は、辻に頭が上がらなくなり、彼の横暴を黙認する結果となった」結局自己の野心のために、このような行為をしていたと辻を評する者もいる。 * 毀誉褒貶がきわめて大きな人物である。例えば[[牟田口廉也‎]]が人格、能力においてほぼ全面的否定の評価が定着しているのに対し、彼を慕い、尊敬し、支持する人々も多くいたことも事実であり、その歴史的評価は正負真っ向に分かれている。しかし、逆に[[半藤一利]]は、少なくとも牟田口は自分の責任を口にしていたが(その後、言い訳が続くにしても)、辻は自分の責任を全く考えていないと評している。 ==著書== *『十五対一』([[酣灯社]]、1950年) *『1960年』(1956年)、『ズバリ直言』(1959年)『世界の火薬庫をのぞく』(1957年 全て[[東都書房]]) *『亜細亜の共感』、『自衛中立』(共に[[亜東書房]]、1950年・1952年) *『ガダルカナル』([[養徳社]]、1950年) *『この日本を』([[協同出版]]、1953年) *『これでよいのか』([[有紀書房]]、1959年) *『シンガポール』([[東西南北社]]、1952年) *『潜行三千里』([[毎日新聞社]]、1950年 2008年に[[毎日ワンズ]]より新装再版) ==参考文献== *[[高山信武]]『二人の参謀—服部卓四郎と辻政信』(芙蓉書房出版、1999年) ASIN 4829502347 *田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』(芙蓉書房出版、1986年) ASIN 4829500662 *生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社文庫 1993年 ISBN 4769820291 *津本陽 『八月の砲声 ノモンハンと辻政信』 講談社 ISBN 4062129299 *橋本哲男 『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里 』 光人社NF文庫 ISBN 4769820658 *生出寿 『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』 光人社 ISBN 4769804989 *河田宏 『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』 原書房 ISBN 9784562035267 *今井貞夫 監修高橋久志 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版 ISBN 9784895142946    

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