同成会

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{{基礎情報 天皇 | 名 =愛新覚羅溥儀 | 画像=[[Image:Puyi-Manchukuo.jpg|240px]] | 説明=満州国皇帝時代 | 在位=[[1908年]]-[[1912年]](清朝皇帝)<br/>[[1934年]]-[[1945年]](満州国皇帝) | 生年=[[1906年]][[2月7日]] | 生地=[[北京]] | 没年=[[1967年]][[10月17日]] | 没地=北京 | 陵墓=華龍陵園 | 先代= | 次代= | 子 = | 皇后=婉容 | 父親= | 母親= |}} '''愛新覚羅溥儀'''(あいしんかくら・ふぎ、[[満州語|満洲語]]名:'''アイシンギョロ''' - <ref>満洲語の本名を名付けていない</ref>、[[簡体字]]:{{lang|zh|'''爱新觉罗溥仪'''}}、[[ピン音|漢語拼音]]:''&#192;ix&#299;nju&#233;lu&#243; P&#468;y&#237;''=アイシンジュエルオ・プーイー、[[1906年]][[2月7日]] - [[1967年]][[10月17日]])は、[[中国]]における[[清|清朝]]の第12代[[皇帝]]'''宣統帝'''(せんとうてい、[[1908年]] - [[1912年]])であり、「'''最後の皇帝'''」として広く知られる。 清朝崩壊後に旧[[日本軍]]の支援を受け[[満州国|満洲国]]の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、'''康徳帝'''([[1934年]] - [[1945年]])を名乗る。[[字]](あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。廟号は'''恭宗'''([[2004年]]に与えられたが、公式ではない)。また、[[辛亥革命]]後の呼称としては、'''廃帝'''と[[中国国民党|国民党]][[政府]]から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは'''遜帝'''(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。'''末皇帝'''(末帝)と呼ばれる場合もある。 ==略歴== [[Image:Forbidden City1.JPG|right|220px|thumb|溥儀が第12代清朝皇帝に即位した紫禁城太和殿]] *1906年:[[醇親王 (第2代)|醇親王]]の子として[[北京]]に生まれる *1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位 *1912年:退位し「大清皇帝」となる *1917年:[[張勲 (清末民初)|張勲]]の復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位 *1922年:正妻の[[婉容]]、[[側室]]の文繍と[[結婚]] *1924年:[[クーデター]]により紫禁城から退去 *1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任 *1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位 *1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の[[捕虜]]になる *1946年:[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の証人として出廷させられる *1950年:[[中華人民共和国]]に身柄を移され政治犯収容所に収容される *1959年:模範囚として釈放され、その後北京文史資料研究委員会に勤務 *1962年:[[李淑賢]]と再婚 *1964年:[[中国共産党]]政治協商会議全国委員に選出される *1967年:[[北京]]で死去 ==経歴== [[Image: Xuantong.jpg|right|220px|thumb|大清皇帝時代の溥儀]] ===第12代清朝皇帝=== [[1906年]]に、清朝の第11代皇帝 [[光緒帝]]の弟である[[醇親王 (第2代)|醇親王載灃]]の子として清国の北京に生まれる。[[1908年]]に、当時強い権力を持っていた事実上の清朝の[[女王]]的存在であった[[西太后]]が周囲の強硬な反対意見を押し切り自ら推薦することで、わずか3歳の時に皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝となり、多くの宦官とともに[[紫禁城]]で暮らすこととなる。 溥儀が即位すると西太后は、溥儀の父の[[醇親王 (第2代)|醇親王]]を[[摂政|監国摂政王]]に任命して政治の実権を委ね、実質的な院政を敷き、醇親王の兄である光緒帝の[[戊戌変法]]を潰したとして[[袁世凱]]を失脚させたが、1908年に光緒帝が[[崩御]]した翌日に74歳で崩御した。 ===退位=== その後溥儀は、清国政府による鉄道の国有化をきっかけに起きた[[1911年]]の[[辛亥革命]]により清国が滅ぼされ、[[袁世凱]]を[[大総統]]とする[[共和制]]国家の[[中華民国]]([[北京政府|北洋軍閥政府]])が設立されたために翌年退位することとなる。しかし、袁世凱との間に交わされた「[[清室優待条件|清帝退位優待条件]]」に基づき「'''大清皇帝'''」の尊号を名乗ることになり、また、引き続き多くの宦官を抱えた上で紫禁城で生活することが許された。また、この頃弟の[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]と初対面を果たす。 なお、その後袁世凱は溥儀に代わり自らが皇帝となるべく奔走し、[[1915年]][[12月12日]]に帝政復活を宣言し皇帝に即位した。その後[[1916年]][[1月1日]]より年号を洪憲と定め、国号を「[[中華帝国]]」に改めた。たが、[[北洋軍閥]]や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。 ===張勲復辟事件=== 袁世凱が死去した翌年の[[1917年]]に、対[[ドイツ]]問題で[[黎元洪]]大総統と政敵の[[段祺瑞]]の確執が激化し、同年[[5月23日]]には黎元洪大総統が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても[[辮髪]]を止めないほどの保守派で革命後も清朝に忠節を尽す[[張勲 (清末民初)|張勲]]が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の[[立憲君主制]]を目指す[[康有為]]を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて[[7月1日]]に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。 [[Image:Puyi's schoolbook - Forbidden City.JPG|right|220px|thumb|溥儀が使用していた英語の教科書]] 張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、[[国会]]及び[[憲法]]を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れ[[オランダ]][[公使]]館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は[[馮玉祥]]や[[蒋介石]]、[[張作霖]]などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。 ===西洋風教育=== [[Image:1922 Puyi.jpg|thumb|220px|right|1922年の溥儀]] その後、側近の勧めによって[[1919年]]5月から[[1924年]]までの間、紫禁城内に[[イギリス]][[拓務省]]の役人であった[[スコットランド]]人の[[レジナルド・ジョンストン]]を[[家庭教師]]として招聘し、近代的な[[西洋]]風の教育と[[英語]]の教育を受けた。この頃溥儀はジョンストンより、'''ヘンリー'''(''Henry'')というクリスチャンネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はクリスチャンネームを持ったものの、クリスチャンネームを持つ多くの中国人と同じく[[クリスチャン]]にはならなかった。 ジョンストンの影響を受けた溥儀は、その後[[洋服]]や[[自転車]]、[[電話]]を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で[[辮髪]]を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、西洋風の生活様式の影響を受けることとなる。 ===結婚=== その後の[[1922年]]には。正妻である[[婉容]]と側室である[[文繍]]と結婚し、紫禁城において結婚式を挙げる。なお結婚後婉容には「エリザベス(''Elizabeth'')」のクリスチャンネームが与えられた。 この頃溥儀は、1924年に教育掛となった総理内務府大臣の[[鄭孝胥]]の薦めを受けて、溥儀経費削減とともに宦官の[[汚職]]や紫禁城内の[[美術品]]の[[横領]]を一掃するために、殆どの宦官を一斉解雇するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりしたものの、中華民国内の混沌とした政情の中にあって正妻と側近らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごしていた。 ===紫禁城追放と日本との接近=== しかし、1924年10月に馮玉祥と[[孫岳]]が起こした[[奉直戦争|第二次奉直戦争]]に伴う[[クーデター]]([[北京政変]])により、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」は反故にされ、紫禁城を追われることとなった。 当初はジョンストンを通じて[[上海租界]]や天津[[租界]]内のイギリス公館に庇護を申し出たが、内政干渉となることを恐れたイギリス政府によって受け入れを拒否されたために、翌[[1925年]]に受け入れを表明した[[天津]]の[[日本]]租界に移り、日本の公館の庇護を受ける。この事をきっかけに、[[日露戦争]]の勝利による[[ロシア]]権益の移譲以降、[[中国大陸]]への本格進出の機会を狙っていた[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]([[関東軍]])と緊密な関係を持ち始める。 その後溥儀と別れたジョンストンは天津港より[[P&O]]の汽船でイギリスに帰国した。帰国後は[[ロンドン大学]]の[[東洋]]学及び[[中国語]]教授に就任し、溥儀の家庭教師時代を綴った「[[紫禁城の黄昏]]」(原題:『''Twilight in the Forbidden City''』)を著した後、イギリスの租借領であるポート・エドワード([[威海衛]])の[[植民地]][[行政]][[長官]](弁務官)に就任したが、すでに日本と密接な関係を持っていた溥儀との再会は果たせなかった。 ===文繍との離婚=== その後溥儀は婉容と文繍、側近らとともに天津で暮らしていたが、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に、[[1931年]]に[[離婚]]することとなる。このことにより溥儀は中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となった。 離婚後文繍は溥儀に対して[[慰謝料]]を求めて[[告訴]]した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情を[[マスコミ]]に暴露し話題を呼んだ。なお文繍は離婚後すべての位を剥奪され[[平民]]となり、[[小学校]]の[[教師]]として[[1950年]]に一生を終える。 なお溥儀は、満州国建国に伴い執政に就任した後の[[1937年]]に関東軍の薦めで[[譚玉齢]]と李玉琴を側室とするが、その後関東軍に対して反抗的な行動を取った譚玉齢は[[1942年]]に不審死を遂げる。 ===満洲事変=== [[画像:Mukden 1931 japan shenyang.jpg|right|220px|thumb|[[奉天]]に入城する日本軍]] [[Image:Manchukuo politician.jpg|right|220px|thumb|満洲国の初代内閣]] 1931年[[9月18日]]に、[[中華民国]]の[[奉天]]郊外の[[柳条湖]]で、関東軍が[[南満州鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]を爆破した事件([[柳条湖事件]])に端を発し[[中国大陸]]に展開する[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]によって[[満州事変]]が発生し、全満州地域を関東軍が占領したが、[[張学良]]は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満州から撤退し、満州は関東軍の支配下に入った。 その後関東軍は満洲に対して永続的な武力占領や[[植民地]]化ではなく、日本の影響力を残した[[傀儡政権|傀儡国家]]の樹立を目論み、親日的な軍閥による[[共和国]]の設立などを画策したものの、この様な形での共和国の設立は正当性に乏しく、満州国国民のみならず[[国際連盟]]加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正当性を持たせるために清朝の皇帝で[[満州族|満洲民族]]出身であった溥儀を「皇帝」に擁くことを画策した。 ===満洲国建国=== この様な目論みを受けて、関東軍の[[特務機関]]長であった[[土肥原賢二]]が同年[[11月2日]]に溥儀の説得にかかった。土肥原ら関東軍による「清朝の復辟」を条件に満州国皇帝への即位を同意した溥儀は、天津の「自宅」を出て[[11月13日]]に営口に到着、[[旅順]]の関東軍の元に留まった。なおこの後、[[川島芳子]]が天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。 その後、遼寧(当時は奉天省)、吉林、黒竜江省の要人が関東軍との協議を開始し、[[1932年]][[2月18日]]に、後に満州国の国務院総理となる[[張景恵]]を委員長とする東北行政委員会が[[蒋介石]]率いる[[中国国民党]]政府からの分離独立を宣言し、「'''大同'''」元年(1932年)[[3月1日]]に、[[新京]]に[[首都]]を置く'''満洲国'''が建国された。なおこの建国に至る協議に溥儀は参加しなかったばかりか、その内容さえも伝えられることはなかった。 ===「執政」就任=== 満洲国の建国を受け溥儀は同年[[3月9日]]に満洲国の「執政」に就任した。この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である「執政」への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、「執政」となった溥儀は、関東軍の日本人[[将校]]から、皇帝へ対する敬称である「[[陛下]]」ではなく、執政に対する呼び方である「[[閣下]]」と呼ばれ激怒したと伝えられている。 なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、[[国際連盟]]から[[柳条湖事件]]及び満州事変と満州国、および日本の調査のために派遣された[[イギリス]]の[[ヴィクター・リットン|ヴィクター・リットン卿]]率いる、いわゆる「[[リットン調査団]]」が満州国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。 ===皇帝即位=== その後[[1934年]][[3月1日]]には満洲国皇帝の座に就き、[[康徳帝]]となる。なお溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が'''満洲帝国'''に改名され、元号も「''康徳''」に変更された(当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛であった鄭孝胥が国務院総理に就任した。 [[Image:Manchukuo palace.jpg|right|220px|thumb|皇宮として建てられた同徳殿]] なお、同日に行われた皇帝即位式の際は、「五族協調」を掲げる上で、満州族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満州国軍の[[軍服]](大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、[[新京]]市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満州族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満州帝国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。 皇宮は「執政」当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の[[長春]])市内に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、皇宮とするには狭く威厳が足りないと考えた満洲国政府により、[[1938年]]に新たに[[同徳殿]](どうとくでん)が皇宮として建てられたものの、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。 ===傀儡=== [[Image:Chu&emperor.jpg|right|220px|thumb|工藤忠と溥儀]] 日本の主導によって作られた満洲国の[[憲法]]上では、皇帝は国務院[[総理]]を始めとする[[大臣]]を任命することができたが、次官以下の[[官僚]]に対しては「[[日満議定書]]」により、関東軍が日本人を満洲帝国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級[[将校]]で「御用掛」である[[吉岡安直]]や[[工藤忠]]が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上日本及び関東軍の[[傀儡]]であっただけでなく、特に吉岡は裏で溥儀のことをバカにするような発言を繰り返していたと伝えられている。 また、国体に関わるような重要事項の決定には溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満州国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は[[軍隊]]や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きく、また日本人側も支配者意識を丸出しにして現地人の土地を強制徴収し日本人入植者に供与するなど、日本が満州国の建国時に掲げた「五族協調」は名ばかりであった。 その上に、1937年2月には、溥儀と関東軍の[[植田謙吉]]司令官の間で「念書」が交わされ、「満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ<ref>[満州帝国と溥儀「歴史群像シリーズ 満州帝国」[[学研]]]</ref>、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による[[暗殺]](と暗殺による皇帝の交代)を恐れるようになって行ったと言われている。 さらに、[[1940年]]7月に溥儀が2度目の訪日を行い[[伊勢神宮]]を訪れた後には、満州帝国内に「建国新廟」が作られ、神体として[[天照大神]]が祀られ満州帝国の国民は東方遙拝や天照大神への崇拝が強制されることとなった。 ===日本国皇室との関係=== [[Image:Aisin-Gioro Pujie and Hiro Saga.jpg|thumb|220px|溥傑と嵯峨浩]] この様な状況下ではあったものの、[[1937年]][[4月3日]]に弟の溥傑が、[[天皇家]]に繋がる名門[[華族]]の[[嵯峨家]](旧姓・[[正親町三条家]])令嬢の[[嵯峨浩]]と結婚した他、これに先立つ[[1935年]]4月には[[昭和天皇]]の招待により日本を公式訪問するなど、溥儀以下満州国の王族は日本及び日本の[[皇族]]と密接な関係を保ち続けた。 この様な親しい関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが[[東京駅]]まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった。なお、訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は日本中の[[マスコミ]]が溥儀の発言を逐一報道し、いわゆる「[[追っかけ]]」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集める。 また、[[1940年]]6月に[[皇紀]]2600年記念行事が東京で行われた際にも奉祝のために再び訪日し、[[横浜港]]で[[高松宮宣仁親王]]の出迎えを受けた後に再度昭和天皇と会見している。 なお、溥儀が初来日から帰国した際には「もし満洲国皇帝に不忠であれば、それは日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満州国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の来日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、日本国の皇室との親しい関係を、自らに対して軽視する態度を持つ関東軍に対する牽制のために利用したとも評されている。 ===日中戦争と大東亜戦争=== 溥儀が皇帝に就任した4年後の[[1937年]][[7月7日]]に、北京西南の[[盧溝橋]]で起きた[[盧溝橋事件]]を契機として日本軍と[[中華民国軍]]の間で[[日中戦争]](支那事変)が勃発した。その後、内戦状態にあった[[中国国民党]]と[[中国共産党]]は、[[日本軍]]に対抗するための抗日民族統一戦線である[[国共合作]]([[第二次国共合作]])を構築した。 その後の[[1941年]][[12月7日]]の[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の開戦により、日本が[[連合国]]と交戦状態に入ると、満洲帝国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をするが、日本軍とイギリス軍や[[アメリカ軍]]、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満州帝国の事実上の[[宗主国]]である日本と隣国ソビエト連邦との間に[[日ソ中立条約]]が存在することから、中華民国軍や中国共産党軍による[[ゲリラ]]攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。 なお日本軍は[[1942年]]中頭頃まで破竹の勢いを保っていたものの、事実上1国だけででアメリカやイギリス、中華民国や[[オーストラリア]]などの連合国と対峙していたこともあり、[[1944年]]に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。[[1945年]]に入ると、満州国内の工業地帯がイギリス領[[インド]]経由で中華民国内陸部の[[成都]][[基地]]から飛来したアメリカ軍機などの攻撃をたびたび受けるようになってゆく。 ===満洲国解体=== その後[[1945年]][[8月8日]]に、先立って行われた[[ヤルタ会議]]での[[イギリス]]やアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府は[[モスクワ]]の[[佐藤尚武]]駐ソ連日本[[特命全権大使]]に対して[[1946年]][[4月26日]]まで有効だった[[日ソ中立条約]]の破棄を通告し、まもなく[[ソ連軍]]の大部隊が北西の外蒙古(現在の[[モンゴル人民共和国]])及び北東の[[沿海州]]、北の孫呉方面及び[[ハイラル]]方面の3方向からソ満国境を越えて、ソ連が国家として承認していなかった(日本の占領地とみなしていた)満洲帝国に侵攻した。 日ソ中立条約の存在に頼り[[1942年]]以降増強が中止され、主力を南方戦線にとられていた関東軍は、同年5月の[[ドイツ]]の敗北以降、対日満開戦に備えてソ満国境付近に集結していたソ連軍に対して一方的に敗走し、溥儀やその家族、満州国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと[[8月10日]]に首都の新京の放棄を決定し、[[8月13日]]に[[朝鮮]]との国境に程近い[[通化県|通化省]]臨江県の大栗子に特別列車で避難していた。 しかし、[[8月15日]]に大東亜戦争に日本が敗北したことにより、その2日後の[[8月17日]]に国務院が満洲帝国の解体を決定、[[8月18日]]未明に大栗子で満洲帝国解体を自ら宣言するとともに満洲帝国皇帝を退位した。 ===ソ連への抑留=== [[Image:Mitsubishi Ki-67-2.jpg|thumb|right|220px|日本陸軍の四式重爆撃機]] 満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への[[亡命]]を打診されたこともあり、 [[8月19日]]朝に満州軍の輸送機で大栗子から[[奉天]]へ向かい、奉天の飛行場で[[岐阜基地]]から[[ソウル特別市|ソウル]]、[[平壌]]経由で送られてくる[[日本陸軍]]の救援機([[四式重爆撃機]])を待機していた<ref>[「溥儀幻の救出劇」[[中日新聞]][[2003年]][[8月4日]]]</ref>。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着前に奉天に進軍して来たソ連軍の空挺部隊に捕らえられた。 その後溥儀や溥傑、吉岡ら満州帝国の首脳陣一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部の[[チタ]]と[[ハバロフスク]]の[[強制収容所]]に収監された。 なお、日本への逃亡の際に当初は平壌へ直行する予定だったのを、より早いタイミングでソ連軍の侵攻を受ける可能性が高い奉天経由に急に変更したことから、この急な変更は「用無しになった溥儀をソ連へ引き渡すために関東軍が故意に行ったものであった」という説を唱える歴史研究家もいる。 ===東京裁判=== なお、ソ連の強制収容所に収監された翌年の[[1946年]]に開廷した[[極東軍事裁判]](東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人として出廷させられ、ソ連に有利な証言を強要された。その際、[[板垣征四郎]](当時は[[大佐]])から「[[本庄繁]]司令官の命令として」満州国における領軸になって欲しい、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」ことを主張した。 [[Image:IMTFE2.jpg|right|220px|thumb|東京裁判]] 溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の[[羅振玉]]は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満州を[[植民地]]化し、[[神道]]による[[宗教]]侵略を行おうとした」と証言した。 それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに、満州問題に関する責任は全て日本にあると強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満州国建国当時の[[南次郎]][[陸軍大臣|陸相]]に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。 後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。 ===「戦犯」=== その後の[[1950年]]には、ソ連と同じく[[連合国]]の1国であった[[中華民国]]ではなく、ソ連の援助を受けて前年に[[中国大陸]]に建国された[[中華人民共和国]]へ身柄を移され、「戦犯」として[[撫順]]と[[ハルビン]]の政治犯収容所に、弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満州国の[[閣僚]]や軍の上層部らとともに収監された。 その後は撫順とハルビンの政治犯収容所で、溥傑や満州国の閣僚らとともに「再教育(中国共産党による[[共産主義]]の[[洗脳]]教育)」を受けることとなった。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。 ===一市民へ=== [[Image:ZhouAndDeng.jpg|thumb|right|220px|周恩来(右)]] [[1959年]][[12月4日]]に、当時の[[劉少奇]][[中華人民共和国主席|国家主席]]の出した「[[戦争犯罪]]人」に対する特赦令を受け、[[12月9日]]に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も[[1960年]][[11月20日]]に釈放された。 釈放後の1960年[[1月26日]]に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた[[周恩来]][[首相]]と[[中南海]]で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京[[植物園]]での庭師としての勤務を行うこととなった<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm 人民中国「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」]。</ref>なおその後の[[1962年]]には[[看護婦]]をしていた一般人の李淑賢と再婚したものの、育った環境があまりにも違うこともあり、その仲は円満ではなかったと言われている。  [[1964年]]には政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う傍ら、満州族と[[漢族]]の[[民族]]間の調和を目指す周恩来の計らいで、満州族の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に選出された。なお、[[毛沢東]]や多くの[[中国共産党]]幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であった溥儀に対して常に同情的だったと言われている。 ===死去=== しかしその後、[[1960年代]]半ばに発生した中国共産党内部の権力闘争に端を発する「[[文化大革命]]」の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、[[癌]]の治療を「元皇帝である」との理由で受けられなかったことにより、[[1967年]]に北京の病院で死去した。 死ぬ間際には、好物である「[[チキンラーメン]]を食べたい」と言っていたことが弟、[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]の夫人である[[嵯峨浩|浩]]の伝記により伝えられている。清朝皇帝という「反[[革命]]的」な出自であったことから「文化大革命により粛清された」という説も存在しており、実際に末期症状により病院に搬送されたものの、「反革命」とのレッテルを[[紅衛兵]]たちに張られることを恐れた[[医師]]らが、積極的に溥儀の治療行為を行わなかったという証言もある。 ===死後=== 墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると、[[改革開放]]の時代の空気と相俟って、[[1995年]]に「皇帝」として改葬することになった。現在の墓所は北京郊外の易県にある、[[清朝]]の歴代皇帝の陵墓のある[[清西陵]]の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。 それに関連して[[2004年]]に「愍皇帝」の[[謚号]]と「恭宗」の[[廟号]]が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。 ==家族== 正妻である[[婉容]]と側室である[[文繍]]と[[1922年]]に結婚するが、後に文繍と離婚、その後[[アヘン]]中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京出身の[[譚玉齢]](他他拉氏、祥貴人)、長春出身の[[李玉琴]](福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。 1959年に特赦された後、[[1962年]]に[[看護婦]]をしていた李淑賢([[1924年]] - [[1996年]])と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。また、宮中の召使いの少年を寵愛するなど、[[同性愛]]傾向があったとも言われている。 ==自伝== 『'''我が半生'''』(原題:我的前半生、[[英語]]題:''The former half of my life'')は、唯一の[[自伝]]である。執筆は、1957年後半から1年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本でも翻訳本が出版されている。その内容は十分な[[文献批判]]が必要ではあるが、当時の状況を自ら語った第一級の資料である。また、残された日記の断片が『溥儀日記』として出版されている。 2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。 中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、'''序言'''≪{{lang|zh|'''中国人的骄傲'''}}(中国人の誇り)≫、{{lang|zh|'''第六章'''《伪满十四年》的第一节≪“'''同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述'''”}}(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫、{{lang|zh|'''第七章'''《在苏联的五年》的第四节≪“'''远东国际军事法庭'''”}}(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫、{{lang|zh|'''第十章'''《一切都在变》的第四节≪“'''离婚'''”}}(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫、などを含んでいる。 なお、溥儀には継承者がおらず死去した際にも遺言書もなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。 ==愛新覚羅溥儀を題材にした諸作品== *映画 **『[[ラストエンペラー]]』([[ベルナルド・ベルトルッチ]]) **:この映画は、幾つかの脚色された要素を含んではいるが、溥儀の人生をもっともらしく描くために熟考された作品である。史実もしくは、一人の人間としての溥儀の生涯を見るには、テレビドラマ『[[末代皇帝]]』及び映画『[[火龍 (中国映画)|火龍]]』を視聴するのが妥当であろう。 **『[[火龍 (中国映画)|火龍]]』(1987年 中華人民共和国・[[香港]]合作) *[[宝塚歌劇]] **「[[紫禁城の落日]]」 *[[テレビドラマ]] **『[[末代皇帝]]』 **『[[流転の王妃・最後の皇弟]]』(2003年、[[テレビ朝日系列]]にて放送) **:弟である[[愛新覚羅溥傑]]とその妻・[[嵯峨浩]]の視点から描かれた。 *書籍 **『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版) **:実際に溥儀に仕え信任厚かった[[工藤忠]]による回想録、歴史的価値が高い。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <references/> ==参考図書== *李淑賢『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(学習社、1997)ISBN 978-4-311-60326-6 (4-311-60326-6) *『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0) *[[レジナルド・ジョンストン ]]『[[紫禁城の黄昏]]―完訳』(祥伝社、2005)ISBN 978-4-396-65032-2 (4-396-65032-9) *[[入江曜子]]『溥儀』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3 (4-00-431027-X) *[[レジナルド・ジョンストン ]]『新訳 [[紫禁城の黄昏]]』(本の風景社、2007)ISBN 978-4-939154-04-1 *太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』([[ビジネス社]]、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2 ==関連項目== *[[愛新覚羅氏]] *[[日中戦争]] *[[徳王]] *[[第二次世界大戦]] *[[張作霖爆殺事件]] *[[張学良]] *[[袁世凱]] *[[工藤忠]] *[[蒋介石]] *[[川島芳子]] *[[南満州鉄道|南満洲鉄道]] *[[立命館大学]]:現在の[[京都]]衣笠[[キャンパス]]の用地は溥儀の寄付による。当時のお金で50万円という巨額の寄付を受けた。そのうち20万円で、衣笠の6万坪の土地を購入し、校舎を建て、さらに学生向けの奨学金の基金も創設できた。 == 外部リンク == *[http://episode.kingendaikeizu.net/23.htm 系図でみる近現代 第23回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月19日 (火) 02:26。]     
'''同成会'''(どうせいかい)とは、[[大正時代|大正]]・[[昭和時代]]に存在した[[貴族院_(日本)|貴族院]]の[[院内会派]]([[1919年]][[11月15日]]-[[1947年]][[5月2日]])。主として[[勅選議員]]と[[多額納税議員]]によって構成された。 1919年、[[男爵]]議員が合同して[[公正会]]を結成すると、既存の会派は大打撃を受けた。特に[[院内交渉団体]]の資格である25名を割った[[土曜会]]と[[無所属団|第1次無所属]]は会派存亡の危機に陥った。そこで土曜会の14名は11月15日土曜会を解散して、そのまま新会派である同成会を結成し、10日後に第1次無所属15名と純無所属2名が参加した。この会派は[[侯爵]]が1名いる以外は全員非[[華族]](勅選23・多額納税7)であった事に特徴があった。また、[[憲政会]]を率いる[[加藤高明]]のシンパであった[[伊沢多喜男]]と[[江木翼]]が主導したことから、[[超然主義]]色の強い旧来の院内会派と違い憲政会→[[立憲民政党]]の別働隊的役目を担った。 特に[[立憲政友会]]と貴族院最大会派[[研究会_(貴族院)|研究会]]が連携を強めると、[[茶話会]]・公正会と組んで[[幸三派]]([[無所属団|第2次無所属]]を加えて[[幸四派]]とも)と呼ばれる「反政友会・反研究会」連合を築いた。だが、茶話会と第2次無所属が合同して[[同和会]]を結成して親民政党系議員が入会するようになると、両会派の勢力の重なりが見られ最盛期でも35名、常時ほぼ20台と勢力はさほど伸びなかった。それでも[[日本国憲法]]公布による貴族院廃止まで存続して、同和会の[[幣原喜重郎]]が[[内閣総理大臣|首相]]を務めた[[幣原内閣]]では同和会とともに事実上の[[与党]]であった。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%90%8C%E6%88%90%E4%BC%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月11日 (金) 06:13。]    

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