上海天長節爆弾事件

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[[Image:Yoon Bong-Gil in Lu Xun Park 01.JPG|thumb|thumb|250px|魯迅公園にある事件現場の記念碑(2008年)]] [[Image:Japanese VIP before Hongkew Park Bombing Incident.JPG|thumb|250px|事件直前の要人]] '''上海天長節爆弾事件'''とは、[[上海事変]]の末期の[[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月29日]]に発生した[[爆弾]][[テロ]][[事件]]である。また事件があった場所をとって'''虹口公園爆弾事件'''とも呼称される。 == 事件の背景 == 1932年、[[日本]]と[[中華民国]]の両軍が上海国際共同租界周辺において軍事衝突する[[上海事変]]が発生していた。この事変は日本の[[関東軍]]が引き起こした[[満州事変]]とその後樹立された[[満州国]]に対する欧米列強の関心をそらすかのように発生したものであった。しかしその事が中国国内の[[反日]]感情を激化させることになり、著しく状況を悪化させていた。 欧米4ヶ国による停戦交渉中であった4月29日は[[天皇誕生日|天長節]]([[昭和天皇]][[誕生日]])であり、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は上海の虹口公園(現在の[[魯迅公園]])において'''大観兵式'''と'''天長節祝賀会'''を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった。しかしながら、日本の軍事的制圧下にある地域とはいえ、事変中に要人が集まる式典を執り行う事は、非常に危険な行為であり恰好の標的をさらすことに他ならなかった。そのため、テロを警戒して上海派遣軍司令官[[白川義則]]大将は会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換する用心をしていた。しかし開催会場が上海中に明らかになっているうえに市内でも有数の大きさの公園であり、出入りする群衆も多いため完全にチェックするのは難しかった。結果、テロの危惧は案の定、現実になってしまった。 == 事件の概略 == [[Image:Yfj.jpg|thumb|300px|韓国旗の下で宣誓する尹奉吉]] このテロ実行の恰好の機会に、[[朝鮮半島]]からの日本による支配を駆逐する事を目的とする[[大韓民国臨時政府]]([[亡命政権]])の首班[[金九]]は[[尹奉吉]]をテロの実行犯として差し向ける事にした。またこのテロ計画には中華民国行政院代理院長(日本の[[内閣総理大臣]]代理に相当)であった[[陳銘樞]]などが、朝鮮人側の要人であった[[安昌浩]]に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を[[中国人]]は一切禁止されていたため、[[日本語]]が上手で[[日本人]]に見える実行犯を使うことにしていた。そのため日本の軍事力に蹂躙されていた中国と朝鮮が抗日で一致して中朝協力の下で実行したといえる。 先の1月に大韓民国臨時政府傘下の抗日武装組織韓人愛国党の党員であった[[李奉昌]]が、[[東京]]で昭和天皇を暗殺しようとしたが、爆弾の威力が弱く失敗していた(詳細は[[桜田門事件]]を参照)。その教訓から今回の爆弾はより威力あるものを使う事にした。李と同じ組織のメンバーであった尹は弁当箱に偽造した爆弾を持って入場することに成功した。 午前10時始まった式典は、午前11時40分ごろに天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射されるなか海軍軍楽隊の演奏で一同[[君が代]]を斉唱していた。当時国歌は2回斉唱されていたのだが、2回目の「さざれ石の」の所で、尹が水筒の形をしたものを白川大将の足元に、弁当の形をしたものを上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次の足元に投げつけた。その直後に爆弾は炸裂し居並ぶ日本側要人がなぎ倒された。 この爆発で、[[河端貞次]]が即死、第9師団長[[植田謙吉]]中将・第3艦隊司令長官[[野村吉三郎]]海軍中将・在上海公使[[重光葵]]・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は[[5月26日]]に死亡した。 犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を、検挙され[[軍法会議]]を経て12月19日午前7時に[[金沢刑務所]]で[[銃殺刑]]となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明を[[ロイター通信]]に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。 == 梅亭 == [[Image:Yoon Bong-Gil in Lu Xun Park 02.JPG|thumb|thumb|250px|尹奉吉の資料館・梅亭(2008年)]] 事件が発生した地点は現在の魯迅公園北側にある池のほとりである。中韓国交正常化以後に事件現場を示す石碑と尹を記念する梅亭が建立された。梅亭は尹の号が「梅軒」に因んで命名されたものであり、実際に梅が植樹されている。梅亭にある建物では尹の生涯や事件の概要を展示した資料館となっており、尹の処刑の際に使用された木杭などの資料が展示されている。そのため、現在では韓国人観光客の主要な上海観光スポットとなっている。なお、梅亭のあるエリアは入場料15元(日本円で約225円、[[2008年]]1月現在)が徴収される。 == 参考文献 == * 上海ニ於ケル天長節式中ノ爆弾兇変事件(上海事件附連盟調査委員会 松本記録 第二巻) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:B02030474600 * 上海爆弾事件犯人に関し上海に於ける出先官憲は協議の上本六日午后三時左の如く発表せり(国立公文書館 各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A03023776600 * 外事警察報第119号(内務省警保局 昭和7年6月) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A04010420400 : 外国事情 〔中華民国〕 上海に於ける爆弾投擲事件の概況 p30~p34 * 上海爆弾事件に関する北京天津タイムス社説の件(昭和7・7・11~7・7・13 満受大日記(普) 其16 2/2) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04011339200 * 虹口公園爆弾事件犯人尹奉吉に対する判決書写送付の件(海軍省公文備考 昭和7年 D 外事 巻6) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05022017600 * 重光葵『外交回想録』(日本図書センター、1997年) ISBN 4-8205-4246-X : 八 爆 弾 <small>-「隻脚記」より-</small> p159~p186 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月17日 (日) 13:20。]     
[[Image:Yoon Bong-Gil in Lu Xun Park 01.JPG|thumb|thumb|250px|魯迅公園にある事件現場の記念碑(2008年)]] '''上海天長節爆弾事件'''とは、[[上海事変]]の末期の[[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月29日]]に発生した[[爆弾]][[テロ]][[事件]]である。また事件があった場所をとって'''虹口公園爆弾事件'''とも呼称される。 == 事件の背景 == [[Image:Japanese VIP before Hongkew Park Bombing Incident.JPG|thumb|250px|事件直前の要人]] 1932年、[[日本]]と[[中華民国]]の両軍が上海国際共同租界周辺において軍事衝突する[[上海事変]]が発生していた。この事変は日本の[[関東軍]]が引き起こした[[満州事変]]とその後樹立された[[満州国]]に対する欧米列強の関心をそらすかのように発生したものであった。しかしその事が中国国内の[[反日]]感情を激化させることになり、著しく状況を悪化させていた。 欧米4ヶ国による停戦交渉中であった4月29日は[[天皇誕生日|天長節]]([[昭和天皇]][[誕生日]])であり、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は上海の虹口公園(現在の[[魯迅公園]])において'''大観兵式'''と'''天長節祝賀会'''を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった。しかしながら、日本の軍事的制圧下にある地域とはいえ、事変中に要人が集まる式典を執り行う事は、非常に危険な行為であり恰好の標的をさらすことに他ならなかった。そのため、テロを警戒して上海派遣軍司令官[[白川義則]]大将は会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換する用心をしていた。しかし開催会場が上海中に明らかになっているうえに市内でも有数の大きさの公園であり、出入りする群衆も多いため完全にチェックするのは難しかった。結果、テロの危惧は案の定、現実になった。 == 事件の概略 == [[Image:Yfj.jpg|thumb|300px|太極旗の下で宣誓する尹奉吉]] このテロ実行の恰好の機会に、[[朝鮮半島]]からの日本による支配を駆逐する事を目的とする[[大韓民国臨時政府]]([[亡命政権]])の首班[[金九]]は[[尹奉吉]]をテロの実行犯として差し向ける事にした。またこのテロ計画には中華民国行政院代理院長(日本の[[内閣総理大臣]]代理に相当)であった[[陳銘樞]]などが、朝鮮人側の要人であった[[安昌浩]]に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を[[中国人]]は一切禁止されていたため、[[日本語]]が上手で[[日本人]]に見える実行犯を使うことにしていた。そのため日本の軍事力に蹂躙されていた中国と朝鮮が抗日で一致して中朝協力の下で実行したといえる。 先の1月に大韓民国臨時政府傘下の抗日武装組織[[韓人愛国団]]の団員であった[[李奉昌]]が、[[東京]]で昭和天皇を暗殺しようとしたが、爆弾の威力が弱く失敗していた(詳細は[[桜田門事件]]を参照)。その教訓から今回の爆弾はより威力あるものを使う事にした。李と同じ組織のメンバーであった尹は弁当箱に擬装した爆弾を持って入場することに成功した。 午前10時始まった式典は、午前11時40分ごろに天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射されるなか海軍軍楽隊の演奏で一同[[君が代]]を斉唱していた。当時国歌は2回斉唱されていたのだが、2回目の「さざれ石の」の所で、尹が水筒の形をしたものを白川大将の足元に、弁当の形をしたものを上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次の足元に投げつけた。その直後に爆弾は炸裂し居並ぶ日本側要人がなぎ倒された。 この爆発で、[[河端貞次]]が即死、第9師団長[[植田謙吉]]中将・第3艦隊司令長官[[野村吉三郎]]海軍中将・在上海公使[[重光葵]]・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は[[5月26日]]に死亡した。 犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を、検挙され[[軍法会議]]を経て12月19日午前7時に[[金沢刑務所]]で[[銃殺刑]]となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明を[[ロイター通信]]に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。 == 類似する事件 == 同じ虹口公園では、一ヶ月前にB.T.P(黒色恐怖団)の朝鮮人[[白貞基]](韓人愛国団とは無関係)一行が在華日本公使であった[[有吉明]]を襲撃しようとするテロ事件が発生しており、失敗し検挙されていた。このように日本人要人が狙われるテロ事件が実際に発生していたが、それにもかかわらず同じ場所で式典は開催された。 == 梅亭 == [[Image:Yoon Bong-Gil in Lu Xun Park 02.JPG|thumb|thumb|250px|尹奉吉の資料館・梅亭(2008年)]] 事件が発生した地点は現在の魯迅公園北側にある池のほとりである。中韓国交正常化以後に事件現場を示す石碑と尹を記念する梅亭が建立された。梅亭は尹の号が「梅軒」に因んで命名されたものであり、実際に梅が植樹されている。梅亭にある建物では尹の生涯や事件の概要を展示した資料館となっており、尹の処刑の際に使用された木杭などの資料が展示されている。そのため、現在では韓国人観光客の主要な上海観光スポットとなっている。なお、梅亭のあるエリアは入場料15元(日本円で約225円、[[2008年]]1月現在)が徴収される。 == 参考文献 == * 上海ニ於ケル天長節式中ノ爆弾兇変事件(上海事件附連盟調査委員会 松本記録 第二巻) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:B02030474600 * 上海爆弾事件犯人に関し上海に於ける出先官憲は協議の上本六日午后三時左の如く発表せり(国立公文書館 各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A03023776600 * 外事警察報第119号(内務省警保局 昭和7年6月) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A04010420400 : 外国事情 〔中華民国〕 上海に於ける爆弾投擲事件の概況 p30~p34 * 上海爆弾事件に関する北京天津タイムス社説の件(昭和7・7・11~7・7・13 満受大日記(普) 其16 2/2) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04011339200 * 虹口公園爆弾事件犯人尹奉吉に対する判決書写送付の件(海軍省公文備考 昭和7年 D 外事 巻6) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05022017600 * 重光葵『外交回想録』(日本図書センター、1997年) ISBN 4-8205-4246-X : 八 爆 弾 <small>-「隻脚記」より-</small> p159~p186 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 02:34。]     

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