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[[Image:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg|thumb|250px|終戦の決定をした御前会議(昭和20年8月14日)]]
'''御前会議'''('''ごぜんかいぎ''')とは、[[天皇]]が臨席し、国の重要な政策を[[閣僚]]・[[元老]]と共に決定するために開催される会議の通称である。この御前会議で天皇が決定することは「[[聖断]]」として高い権威を持った。
御前会議は戦争遂行等を決定するときに開かれた。主な例では[[明治時代]]の[[1904年]]2月4日、[[日露戦争]]開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、[[京成電鉄]]が[[恩賜公園]]である[[上野恩賜公園|上野公園]]の敷地の地下を経由して[[京成上野駅|上野]]に乗り入れる際にも御前会議が招集された。
==大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議==
[[昭和|昭和時代]]では、[[1941年]]7月2日、[[独ソ不可侵条約]]破棄して[[独ソ戦]]が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦が[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]有利に戦況が進んだ場合、[[ソビエト連邦|ソ連]]に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]開始を決めた。
同年9月6日、御前会議が開かれて「[[帝国国策遂行要領]]」が決議された。これは、「[[大日本帝国]]が対米戦争を辞さぬ決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「並行して、米英と外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までに目処が立たねば、対米開戦決定」というものであった。これに対し、[[昭和天皇]]は「この草案は、戦争が主で外交が従ではないか」と非難し、「四方の海、みなはらからと、思う世に、など波風の、立ちさはぐらむ」と、[[明治天皇]]が作った[[和歌]]を詠んだ。しかし、結局のところ「帝国国策遂行要領」は「苦渋の決断」で決議され、12月1日に御前会議が開かれて、対米開戦が決定された。
[[1945年]]、[[ポツダム宣言]]受諾に対して[[鈴木貫太郎]]内閣は受諾か否かで分裂したが、天皇が終戦する聖断を下し、受諾することとなった。現在の[[日本国憲法]]下のもとでは、[[日本]]の[[象徴]]である天皇が御前会議を開き、なんらかの政治決断をする事は不可能とされている。
==御前会議の構成員==
[[Image:Gozen-kaigi 1 January 1945.jpg|thumb|250px|最高戦争指導会議([[小磯内閣]]の頃)]]
*[[天皇]]
*[[内閣総理大臣]]
*[[国務大臣]]
*[[枢密院議長]]
*[[枢密顧問官]]
*[[参謀総長]]
*[[参謀次長]]
*[[軍令部総長]]
*[[軍令部次長]]
*[[宮内大臣]]
==関連項目==
*[[鈴木貫太郎]]
*[[東郷茂徳]]
*[[米内光政]]
*[[豊田副武]]
*[[阿南惟幾]]
*[[梅津美治郎]]
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