松岡洋右

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{{政治家 |各国語表記 = まつおか ようすけ |画像 = Yōsuke Matsuoka.jpg |画像説明 = 松岡 洋右 |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1880年]][[3月4日]] |出生地 = [[山口県]][[光市]]室積 |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1880|3|4|1946|6|27}} |死没地 = [[東京都]] |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第63代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |内閣 = [[第2次近衛内閣]] |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1935年 |退任日 = 1939年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} '''松岡 洋右'''(まつおか ようすけ、[[明治]]13年([[1880年]])[[3月4日]] - [[昭和]]21年([[1946年]])[[6月27日]])は[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。日本の[[国際連盟]]脱退、[[日独伊三国同盟]]の締結、[[日ソ中立条約]]の締結など[[第二次世界大戦]]前夜の日本[[外交]]の重要な局面に代表的な外交官ないしは[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として関与した。敗戦後、[[東京裁判]]の公判中に病死。 == 生涯 == === アメリカ留学 === 明治13年(1880年)に[[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]](現在の[[光市]])にて、廻船[[問屋]]の四男として生まれる。 洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから明治26年([[1893年]])に留学のため渡米する。[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]、[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]などで勉学の末、[[オレゴン大学]][[法学部]]に入学、明治33年([[1900年]])に卒業する。オレゴン大学と並行して[[早稲田大学]]の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、[[ポーカー]]の名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、[[アイヴィー・リーグ]]等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる<ref>三輪(1989)、p.33。</ref>が、母親の健康状態悪化などを理由に明治35年([[1902年]])、9年振りに帰国する。 === 外務省時代 === 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校([[明治大学]]の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした<ref>豊田(2003) 上巻 p.68、『松岡洋右 その人と生涯』pp.49-50。</ref>。しかし帝国大学の授業内容を調べ物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意。明治37年([[1904年]])に外交官試験に首席で合格し、[[外務省]]に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの[[日露戦争]]に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある<ref>三輪(1989)、p.42-44。</ref>。外務省では、はじめ領事官補として[[中華民国]][[上海市|上海]]、その後[[関東都督府]]などに赴任。その頃、[[南満州鉄道|満鉄]]総裁だった[[後藤新平]]や[[三井物産]]の[[山本条太郎]]の知遇を得る。松岡の[[中国大陸]]での勤務が長かったのは、一説には一旦は[[ベルギー]]勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間の[[ロシア]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]勤務の後、[[寺内内閣]](外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特に[[シベリア出兵]]に深く関与した。[[大正]]8年([[1919年]])からの[[パリ講和会議]]には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして[[英語]]での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった[[近衛文麿]]とも出会う。帰国後は[[総領事]]として再び中華民国勤務となるが、大正10年([[1921年]])、外務省を41歳の若さで退官。 === 満鉄から代議士へ === 退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、[[南満州鉄道]](満鉄)に理事として着任、昭和2年([[1927年]])には副総裁となる(総裁は山本)。<!--満鉄が単なる鉄道会社から、「満州経営」の国策会社へと脱皮しつつあった重要な時期であり(満鉄は設立当初から「単なる鉄道会社」ではなく日本の「満州経営」の中心としての国策会社であり、松岡が副総裁であった時期に国策会社となったわけではない。詳細は[[南満州鉄道]]を参照のこと)-->松岡本人も[[撫順]]炭鉱での[[石炭]]液化プラント拡充などを指導していた。 昭和5年([[1930年]])、満鉄を退職。2月の[[第17回衆議院議員総選挙]]に郷里山口2区から立候補([[立憲政友会|政友会]]所属)、当選する。議会内では、外務大臣[[幣原喜重郎]]の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。なお[[イタリア]]を訪問した際に、同国で独裁体制を確立していた[[ベニート・ムッソリーニ]]と会見しているが、このころから親[[ファシズム]]の論調をとり始め、「[[ローマ進軍]]ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。 === ジュネーブ総会派遣 === 昭和6年([[1931年]])の[[満州事変]]をうけて、昭和7年([[1932年]])、[[国際連盟]]は[[リットン調査団]]を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。報告書の内容は日本の[[満州]]における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかった。が、「9月18日以前原状復帰は現実にそぐわないという認識・満洲の自治・日本権益の有効性を認め」ながらも結果として「満洲を国際管理下に置く事」を提案し、満洲を満洲国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。 このような中の10月、松岡は同総会に日本首席全権として派遣。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだ。 日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。それは「[[十字架]]上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は[[20世紀]]の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、[[イエス・キリスト|イエス]]が後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特に[[キリスト教]]国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。 聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのはヨーロッパ小国であった。スペイン、スイス、チェコ、植民地蘭印を有するもオランダ。松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満洲視察」という満鉄弘報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め訳600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満洲開発姿勢に日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛。と共に日本の対外宣伝の不足を感じるほどであった。 当時の文芸春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。 日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定([[1933年]]2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現[[タイ王国|タイ]])、投票不参加1国([[チリ]])の圧倒的多数で可決された。松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、[[日本語]]で「さいなら!」と叫んで議場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。 === 議員辞職・再び満鉄へ === 帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋[[将軍]]のように大歓迎された。言論界でも、[[清沢洌]]など一部の識者を除けば、松岡の総会での[[パフォーマンス]]を支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。帰国後は「国民精神作興、[[昭和維新]]」などを唱え、昭和8年([[1933年]])12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたというが、特にみるべき政治活動もないまま昭和10年([[1935年]])8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する([[1939年]]2月まで)。 === 外務大臣就任 === 昭和15年([[1940年]])7月22日に成立した[[第2次近衛内閣]]で、松岡は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任した。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の[[東條英機]]陸軍中将、[[吉田善吾]]海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる「[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]会談」で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したという。 20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの[[重光葵]](駐イギリス[[特命全権大使]])以外の主要な在外外交官40数名を更迭、[[代議士]]や[[軍人]]など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた[[白鳥敏夫]]を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐[[ソビエト連邦|ソ連]]大使を更迭された[[東郷茂徳]]らは辞表提出を拒否して抵抗した。 === 三国同盟・日ソ中立条約 === [[Image:Matsuoka visits Hitler.jpg|thumb|250px|ドイツ総統府でヒトラーとの会談に臨む松岡]] 松岡の外交構想は、[[大東亜共栄圏]](この語句自体、松岡が[[ラジオ]]談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいる[[ドイツ]]の仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊と[[ユーラシア大陸]]を横断する[[枢軸国]]の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は[[日独伊三国軍事同盟]]および[[日ソ中立条約]]の成立に邁進する。 日独伊三国軍事同盟は昭和15年9月27日成立し、松岡外相はその翌年の昭和16年([[1941年]])[[3月13日]]、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、[[アドルフ・ヒトラー]]と[[ベニート・ムッソリーニ]]の両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途[[モスクワ]]に立ち寄り、4月13日には[[日ソ中立条約]]を電撃的に調印。[[シベリア鉄道]]で帰京する際には、異例なことに[[ヨシフ・スターリン]]首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。 === 日米交渉 === 一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使[[野村吉三郎]]とアメリカ[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[コーデル・ハル]]の会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。同案には、[[日本軍]]の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。 ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかったとの評がある。しかし昭和16年[[6月22日]]に開戦した[[独ソ戦]]によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解することになる。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」をアメリカに提案するなど、その外交施策も混乱を招くこととなる。日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は[[7月16日]]内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で[[第3次近衛内閣]]を発足させた。 === その後 === 対米強硬論を唱えていたが、数十年ぶりに米国の留学先を訪れた際、「余はかつて人生の発育期をこの地で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情を持つに至った」と発言しているように、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、昭和16年[[12月6日]]、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。しかし、開戦二日目に[[徳富蘇峰]]に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記ている。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。このことは、開戦前と後では、松岡の気持ちが変化したことが伺える。 その後[[結核]]に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後は[[A級戦犯]]容疑者として[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に向かった。しかし、結核悪化のため[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。昭和21年(1946年)6月27日、駐留[[アメリカ軍]]病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。 辞世の句は次のとおりであった。 :「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」 == 逸話 == * [[山田風太郎]]は自著『人間臨終図鑑』の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている[[麻雀]]打ちであった。彼は[[役満貫|ヤクマン]]を志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。 * [[細川護貞]]によれば、外務大臣時、松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたということである。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにまた書類を持って帰ったということもあったという。また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していたということである。話が途中でも、時間がくれば一時間なら一時間で話し相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという([[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]編『語りつぐ昭和史』第二巻)。松岡の饒舌は、アメリカ留学時より愛好していた[[コカイン]][[中毒]]による覚醒症状によるものとする説もある。 * この饒舌さは相手が誰であろうと変わることはなかった。同じような饒舌さで知られるヒトラーの通訳であったP・シュミットは、ヒトラーと真っ向から対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」のみであったと述べている。 * [[瀧澤一郎]]は、雑誌『[[治安フォーラム]]』平成18年2月号で、松岡が、[[クレムリン]]宮殿で開催された[[日ソ中立条約]]成立の祝賀会の座上、[[ウォッカ]]に酔い、お世辞を込めて「私は[[共産主義]]者だ」と語ったとされる逸話を紹介している。 *友人でもあった[[吉田茂]]は、戦後松岡が結核で衰弱しているという話を聞き、少ない物資の中からミルクを送ったとされる。 * [[昭和天皇]]は松岡を嫌っていたといわれる。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること([[イルクーツク]]まで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれている。[[1978年]]に[[靖国神社]]が[[A級戦犯]]らを合祀した際、[[昭和天皇]]の意を汲んだ[[宮内庁]]が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の[[白鳥敏夫]]と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある(詳細は[[富田メモ]]を参照)。 *満州事変以降よく使われたスローガンである「'''満蒙は日本の生命線'''」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった[[濱口内閣]]の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、[[龍角散]]の[[キャッチコピー]]に引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。 * 在カウナス日本領事代理、[[杉原千畝]]が行ったユダヤ人向け通過ビザ発給に対して、松岡は「黙認」していたのではないか、との説があるが、真相は未だ不明である。 *アメリカ留学時にキリスト教に関心を持ち、プロテスタントの信者となったクリスチャンである。しかし、戦後に肺結核を発病したまま収監された際、主治医の井上泰代(ベタニア修道女会所属の女医)の影響でカトリックへの関心を強めてカトリックへの改宗を決意し、臨終のわずか数時間前、井上医師の手によって洗礼を受けた。洗礼名は「ヨゼフ」である。 *長男の[[松岡謙一郎|謙一郎]]は、父親の[[ファシズム|超国家主義]]的な思想を嫌い、秘かに[[アナーキズム]]にシンパシーを感じていたという。 == 家族・親族 == * 妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する) - 佐藤松介は[[佐藤栄作]]元[[首相]]、[[岸信介]]元[[首相]]の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・[[佐藤寛子 (首相夫人)|寛子]]は佐藤栄作に嫁いだ。寛子、栄作の次男が元[[通産大臣]]の[[佐藤信二]]。 * 妻:龍(工学博士[[進経太]]長女) * 長男:[[松岡謙一郎|謙一郎]](実業家) - [[山口淑子]]の恋人 * 長女:周子(愛知県、元宮内庁長官[[田島道治]]の長男譲治に嫁する) * 甥:[[松岡三雄]](政治家・元[[山口県]][[光市]]市長) - 三雄の長男は元[[参議院議員]]の[[松岡満寿男]]である。 == 関連項目 == *[[岩畔豪雄]] *[[加瀬俊一 (1925年入省)]] *[[弐キ参スケ]] == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * [[豊田穣]] 『松岡洋右 : <small>悲劇の外交官</small>』上・下、新潮社、2003年OD版。 ** 上 ISBN 4108652444、下 ISBN 4108652452 * [[三輪公忠]] 『松岡洋右 : <small>その人間と外交</small>』 中央公論社〈中公新書〉、1989年。ISBN 4121002598 * 松岡洋右伝記刊行会編 『松岡洋右 その人と生涯』 講談社、1974年。ASIN: B000J9IK7W == 外部リンク == {{wikiquote|松岡洋右}} * [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/333.html 松岡洋右 | 近代日本人の肖像] * [http://www.c20.jp/p/myosuke.html 松岡 洋右 / クリック 20世紀] * [http://episode.kingendaikeizu.net/7.htm 系図でみる近現代 第7回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月13日 (月) 23:37。]    

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