上野戦争

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{{Battlebox |battle_name=上野戦争 |campaign=戊辰戦争 |image=[[Image:UenoSenso.jpg|300px]] |caption=上野戦争の図。『タイトルは『[[本能寺の変|本能寺合戦]]の図』となっているが、実際には[[上野寛永寺]]の戦闘を描いている。[[袴]]姿の兵(おもに画面左側)が彰義隊、[[洋装]]の兵(おもに画面右側)が官軍。なお[[赤熊]](しゃぐま。赤毛の長髪[[かつら (装身具)|カツラ]])は[[土佐藩]]兵を示す。 |conflict=[[戊辰戦争]] |date=[[慶応]]4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1868年]][[7月4日]]) |place=[[武蔵国]][[江戸]][[上野]] |result=新政府軍の勝利 |combatant1=[[官軍|新政府軍]] |combatant2=[[江戸幕府|旧幕府軍]] |commander1=[[大村益次郎]](兵站参謀) |commander2=[[天野八郎]] |strength1= |strength2=4,000 |casualties1= |casualties2=[[彰義隊]]ほぼ全滅 |}} '''上野戦争'''('''うえのせんそう''', [[慶応4年]][[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1868年]][[7月4日]]))は、[[戊辰戦争]]の戦闘の1つ。[[江戸]][[上野]]([[東京都]][[台東区]])において[[彰義隊]]ら旧幕府軍と[[薩摩藩]]、[[長州藩]]を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。 == 背景 == [[慶応]]4年([[1868年]])、[[鳥羽伏見の戦い]]で旧幕府軍が新政府軍に敗れると、[[徳川慶喜]]は[[大坂城]]を脱出して江戸の上野[[寛永寺]]大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の[[小栗忠順]]や[[榎本武揚]]らと恭順派とが対立するが、慶応4年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]](1868年[[4月5日]])に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の[[西郷隆盛]]と旧幕府陸軍総裁の[[勝海舟]]が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[5月3日]])の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。 抗戦派の幕臣や[[一橋家]]家臣の[[渋沢成一郎]]、[[天野八郎]]らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧[[新選組]]の残党([[原田左之助]]が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の[[上野恩賜公園|上野公園]]内[[東京国立博物館]])に集結して、輪王寺公現入道親王(後の[[北白川宮能久親王]])を擁立した。 == 経過 == 新政府軍は長州藩の[[大村益次郎]]が指揮した。大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に[[神田川 (東京都)|神田川]]や[[隅田川]]、[[中山道]]や[[日光街道]]などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。 [[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[7月4日]])、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式の[[スナイドル銃]]の操作に困惑するなどの不手際もあったが、[[加賀藩]]上屋敷(現在の[[東京大学]]構内)から[[不忍池]]を越えて[[佐賀藩]]の[[アームストロング砲]]や四斤半砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台([[西郷隆盛]]銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解する。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。 == 影響 == [[Image:Entsuji kuromon.JPG|thumb|250px|[[円通寺 (東京都荒川区)|円通寺]]に残る黒門]] 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により[[北白川宮能久親王|輪王寺宮]]とともに隠棲し、[[榎本武揚]]の艦隊に乗船し、平潟港(現[[茨城県]][[北茨城市]])に着船。[[春日左衛門]]率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は[[会津]]へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は[[関東地方|関東]]の北の要塞であった[[宇都宮城|宇都宮]]や、旧幕府勢力が温存されていた[[北陸地方|北陸]]、[[東北地方|東北]]へ移った。 戦闘が行われた黒門は[[荒川区]]の[[円通寺 (東京都荒川区)|円通寺]]に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。 == 関連項目 == *[[日本史の出来事一覧]] *[[日本の合戦一覧]] *[[憑神]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月7日 (日) 04:20。]     

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