石原莞爾

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{{Infobox 軍人 |name=石原 莞爾 |lived=[[1889年]][[1月18日]] - [[1949年]][[8月15日]] |placeofbirth= |placeofdeath= |image=[[image:Kanji Ishiwara.jpg|200px]] |caption=石原莞爾(1945年8月) |nickname= |allegiance=[[大日本帝国陸軍]] |serviceyears= |rank=[[陸軍中将]] |commands=満州国武官<br/>関東軍[[参謀|参謀副長]]<br/>舞鶴要塞司令官<br/>京都第16師団長 |unit=[[関東軍]] |battles=[[満州事変]] |awards= |laterwork=[[立命館大学]][[教授]] }} '''石原 莞爾'''('''いしわら かんじ'''<ref>読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』([[日本経済新聞社]] ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」と[[ルビ]]が振られている。</ref>、[[1889年]][[1月18日]] ([[戸籍]]の上では17日)- [[1949年]][[8月15日]])は、[[昭和]]の[[大日本帝国陸軍]][[軍人]]、満州派の領袖。[[立命館大学]]講師(1941~42年)。 軍歴は[[関東軍]]作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、[[参謀本部]]作戦課長、同第一部長、関東軍[[参謀|参謀副長]]兼駐[[満州国]][[駐在武官|武官]]、[[舞鶴要塞]][[司令官]]、[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]長などを歴任し、最終階級は[[陸軍中将]]。 ==生涯== === 幼少年時代 === [[1889年]][[1月18日]]に[[山形県]][[鶴岡市]]で旧[[庄内藩]]士、[[飯能警察署|飯能警察]]署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、石原は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、次男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する<ref>1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。祝阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照されたい</ref>。五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して1976年まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊は、四女の貞は24歳でなくなっている。 父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると[[読書]]や[[算数]]、[[作文]]の成績が優れていた<ref>阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)12項</ref>。また病弱でもあり、[[東北大学|東北帝国大学]]付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に[[麻疹]]にかかり[[種痘]]を何度か受けている<ref>阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)14項</ref>。石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた<ref>阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)15項</ref>。 === 軍学校時代 === 1902年に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特に[[ドイツ語]]、[[数学]]、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で[[体操競技|器械体操]]や[[剣術]]などの術科は不得意であった。 1905年には東京陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や[[武器]]の分解結合、[[乗馬]]練習などの教育訓練が施された。また中央幼年学校では地方幼年学校とは異なり暴力などの私的制裁が横行していたが、石原は学校の勉強だけでなく[[戦史]]や[[哲学]]などの書物をよく読んでいた。田中智学の[[法華経]]に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また[[東京]]に在住していたため、[[乃木希典]]や[[佐藤鉄太郎]]に会っている。 1907年、[[陸軍士官学校]]に入学し、ここでも[[軍事学]]の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は[[図書館]]に通って戦史や哲学、[[社会科学]]の自習や名士を訪問した。成績は区隊長への反抗や侮辱のため学科成績は350名の中で3位だったが、卒業成績は6位であった。 士官学校卒業後は原隊に復帰して[[見習士官]]の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や[[歴史]]の勉学にも励んでいる。[[南部次郎]]よりアジア主義の薫陶を受けていたため、1911年の春川駐屯時には[[孫文]]大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。 連隊長命令で不本意ながら[[陸軍大学校]]を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、[[地形学]]、交通学、軍制学、[[語学]]、[[数学]]、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、1915年に入学することになる。ここでは戦術学、[[戦略]]、[[軍事史]]などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を[[思想]]や[[宗教]]の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして[[1918年]]に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。[[卒業論文]]は[[北越戦争]]を作戦的に研究した[[論文]](「[[長岡藩]]士・[[河井継之助]]」)であった。 === 在外武官時代 === [[ドイツ]]へ留学([[南部氏]][[ドイツ]]別邸宿泊)する。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]や[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]らの[[伝記]]を読みあさった。また、[[日蓮宗]]系の新宗教[[国柱会]]の熱心な信者として知られる。[[1923年]]、国柱会が政治団体の[[立憲養正會]]を設立すると、国柱会の[[田中智學]]は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる[[国立戒壇]]建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。 ===関東軍参謀時代=== [[1928年]]に関東軍作戦主任[[参謀]]として[[満州]]に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。[[1931年]]に[[板垣征四郎]]らと[[満州事変]]を実行、23万の[[張学良]]軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の[[占領]]を実現した。[[満州事変#柳条湖事件|柳条湖事件]]の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原の[[レリーフ]]が掲示されている。満州事変をきっかけに行った[[満州国]]の建国では「[[王道楽土]]」、「[[五族協和]]」を[[標語|スローガン]]とし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。石原が構想していたのは、今日「偽満」と呼ばれるような、偽装植民地などではなく、[[大日本帝国|日本]][[中国]]を父母とした[[国家|独立国]]であった。そして[[日本人]]も[[国籍]]を離脱して満州人になるべきだと語った。石原が目指した満州国は「[[東洋]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]」だったとも言われるが、実際は最終戦争に備えるための準備であり、それを実現するための民族協和だったのである。関東軍の役割は飽くまで[[ソビエト連邦|ソ連]]の南下を防ぐ為のもので、満州国の政治に携わっていることを厳しく非難していた。 ===二・二六事件の鎮圧=== [[1936年]]の[[二・二六事件]]の際には戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧に当たっている。この時の石原について[[昭和天皇]]は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している<ref>『昭和天皇独白録』</ref>。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は敵か味方か判らなかった。安藤大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけて参謀本部に入った。 === 左遷 === [[1937年]]の[[日中戦争]]開始時には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]作戦部長。[[内モンゴル自治区|内蒙古]]での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった[[武藤章]]に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍参謀長[[東條英機]]ら陸軍中枢と対立し、1937年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。 === 関東軍 === 1937年9月に関東軍参謀副長を任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東条も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからずもの」と思っていた。1938年に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに1939年には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし[[太平洋戦争]]開戦前の1941年3月に現役を退いて[[予備役]]へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。 === 立命館大学講師 === 現役を退いた石原は1941年4月に[[立命館大学]]中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、[[政治学]]や[[経済学]]を教える大学には[[軍事学]]の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井中将、ナポレオン戦史の伊藤少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東条による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。 === 評論・政治活動 === 太平洋戦争に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われる[[ハルノート]]とほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、[[サイパン島|サイパン]]の要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、[[重光葵]]や[[米内光政]]の反対にあい失敗した<ref>なお、この工作の失敗を機に、当時の内閣であった[[小磯内閣]]も瓦解している。</ref>。 『[[世界最終戦論]]』(後、[最終戦争論]と改題)を唱え[[東亜連盟]](日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の[[右翼]][[思想]]にも影響を与える。熱心な[[日蓮宗|日蓮主義]]者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、[[核兵器]]クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と[[地球]]を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。[[修辞技法|比喩]]として挙げられているのは[[織田信長]]で、[[火縄銃|鉄砲]]の存在が、日本を統一に導いたとしている。 石原の評価は現在でも毀誉褒貶相半ばしている。 ===戦後の活動=== 東條との対立が有利に働き、[[極東国際軍事裁判]]においては[[戦犯]]の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながら[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]や[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]らを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は[[日本国憲法第9条]]を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。 実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。 東亜連盟は[[日本人]]のみならず、[[中国人]]や[[朝鮮民族|朝鮮人]]からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに *[[牛島辰熊]](全日本2連覇の柔道家、[[木村政彦]]の師匠) *[[大山倍達]]([[極真会館]]の創設者) *[[武田邦太郎]](農政と平和研究所所長、[[参議院議員]]) *[[橘撲]]([[ジャーナリスト]]・中国研究家、中国社会研究の先駆者) *[[曹寧柱]]([[在日本大韓民国民団]]会長、[[剛柔流空手道]]師範) *[[木村武雄]]([[政治家]]、[[建設大臣]]) *[[小澤開作]]([[歯科医師]]、指揮者[[小澤征爾]]の父、ミュージシャン[[小沢健二]]の祖父) *[[辻政信]](陸軍参謀、参議院議員) 等がいる。 元衆議院議員の加藤精三、その息子で現衆議院議員の[[加藤紘一]]は親戚にあたる。 ==エピソード== 幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。<ref>阿部博行『石原莞爾(上)(下) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)を参考にした。</ref> *1895年、子守のため姉二人が石原を[[学校]]に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。 *仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、[[代数学]]・[[植物学]]・[[ドイツ語]]が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。 *当時、将校には[[スケッチ|写生]]の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。 *石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。 *陸軍士官学校でも[[軍事学]]よりも[[歴史学]]や[[哲学]]の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。 *石原は[[酒]]や[[喫煙|タバコ]]をたしなまなかった。将校団の[[宴会]]の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。 *若松連隊にいた頃には[[銃剣術]]の教育を激しく行い、訓練を受けた中隊全員が石原に殴られ、上官と意見が衝突して論争した。 *第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった為に石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。 *石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。 *陸大入試の口頭試問で「[[機関銃]]の有効な使用法」を聞かれ、「[[飛行機]]に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については[[黒板]]に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。 *陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人づつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになる。ところが最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。 *陸大学生時代は成績は本来は主席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったたと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説があり、明らかではない。 *[[ドイツ]]滞在中は、どこに行くのも[[羽織]][[袴]]で押し通した。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評された[[ライカ]]の[[カメラ]]を購入し愛用していた。 石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とは言え相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した<ref>[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2007年6月号「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」112頁 座談会 [[半藤利一]]の発言より。</ref>。 歩兵第4連隊([[第2師団 (日本軍)|第2師団]]所属。本拠地は[[仙台]])長に就任すると、貧しい[[東北]]出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラ[[ウサギ]]の飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、[[酒保]]を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。 また[[演習]]に際しては、兵士達が[[農地]]を踏み荒らさないように、[[畦道]]を一列にして突撃させた。それを咎めた検閲官が、「こんな馬鹿な突撃があるか、連隊長の決心いかん?」と問うと、石原は「連隊長戦死!」と叫んで、路上にひっくり返ったという。 == 年譜 == *[[1889年]]([[明治]]22年)[[1月18日]]誕生。 *[[1894年]](明治28年)温海尋常高等小学校尋常科に2年に編入。 *[[1897年]](明治30年)狩川尋常高等小学校尋常科4年に転入。 *1898年(明治31年)狩川尋常高等小学校高等科1年に入学。 *1899年(明治32年)藤島高等小学校2年に転入。 *1900年(明治33年)鶴岡朝暘高等小学校3年に転入。 *1901年(明治34年)山形県立荘内中学校に入学。 *同年[[山形県立鶴岡南高等学校|荘内中学]]中退。 *[[1902年]](明治35年)9月仙台[[陸軍幼年学校|仙台陸軍地方幼年学校]]に入校。(第六期) *[[1905年]](明治38年)9月東京[[陸軍中央幼年学校]]に入校。 *1906年(明治39年)慢性胃カタルに罹る。 *[[1907年]](明治40年)5月、中央幼年学校を卒業。(第6期) *同年6月、士官候補生として山形歩兵第32連隊附。入営中に胃腸病で自宅療養。 *同年10月、秋季演習で分隊長を勤め、その後軍曹に昇進。 *同年12月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入校。 *[[1909年]](明治42年)[[5月27日]]陸軍士官学校を卒業。(第21期) *同年[[12月25日]]陸軍歩兵少尉・若松歩兵第65連隊附。 *[[1910年]](明治43年)4月、韓国守備のため春川に駐屯。6月には漢城へ移動。 *1912年(明治45年)4月、朝鮮から帰国。第4中隊付。 *[[1913年]]([[大正]]2年)2月、陸軍歩兵中尉に進級。 *[[1915年]](大正4年)11月、[[陸軍大学校]]に入校。 *[[1917年]](大正5年)7月、清水泰子と結婚。9月に離婚。 *[[1918年]](大正7年)11月、陸軍大学校卒業。(第30期)原隊復帰。 *[[1919年]](大正8年)4月、陸軍歩兵大尉・歩兵第65連隊中隊長。 *同年7月、[[教育総監部]]附勤務。 *同年8月、国府銻子と結婚。 *[[1920年]](大正9年)4月、中支那派遣隊司令部附。同月、国柱会会員となる。 *同年5月、漢口に着任する。 *[[1921年]](大正10年)5月に帰国。 *同年7月、陸軍大学校兵学教官に任命。 *[[1922年]](大正11年)8月、陸軍大学校附仰付。(ドイツへ出張) *同年9月、ドイツ駐在。 *[[1923年]](大正12年)2月、ベルリンに到着。 *[[1924年]](大正13年)8月、陸軍歩兵少佐。 *[[1925年]](大正14年)10月、陸軍大学校教官になり、古戦史を担当。 *[[1928年]]([[昭和]]3年)8月、陸軍歩兵中佐。 *同年5月、中耳炎が悪化して軍医学校付属病院に入院し、7月に退院。 *同年[[10月10日]]、関東軍の作戦主任参謀。 *[[1931年]](昭和6年)9月18日、[[満州事変]]勃発。東北三省の制圧を指揮。 *同年[[10月5日]]、関東軍作戦課長。 *同年10月8日、司令機に搭乗して錦州爆撃を指揮。 *同年11月4日、馬占山軍との戦闘で作戦指導。 *[[1932年]](昭和7年)[[8月8日]]、陸軍歩兵大佐。[[陸軍兵器本廠]]附。([[ジュネーブ会議]]随員)欧州滞在中に血尿悪化。 *[[1933年]](昭和8年)[[8月1日]]、[[仙台]]の歩兵第4[[連隊長]]となる。 *同年10月、膀胱内の乳頭腫摘出のため入院。 *[[1935年]](昭和10年)[[8月1日]]、参謀本部作戦課長となる。 *[[1936年]](昭和11年)[[二・二六事件]]で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる。 *[[1936年]](昭和11年)[[6月19日]]参謀本部戦争指導課長。 *[[1937年]](昭和12年)[[1月7日]]参謀本部第1部長心得。 *同年[[3月1日]]、[[陸軍少将]]。参謀本部第1部長。[[盧溝橋事件]]に際して、不拡大方針を唱え9月27日関東軍参謀副長に転出。 *[[1938年]](昭和13年)[[8月18日]]兼[[満州国]]在勤帝国[[大使館]]附陸軍武官。 *同年満州支配方式について参謀長東條英機[[中将]]を批判し、罷免される。 *[[1938年]](昭和13年)[[12月5日]]舞鶴要塞司令官。 *[[1939年]](昭和14年)[[8月1日]]任[[陸軍中将]]・留守第16師団司令部附。 *[[1939年]](昭和14年)[[8月30日]]第16師団長。 *[[1941年]](昭和16年)参謀総長[[東條英機]]に罷免されて[[3月1日]]待命、[[8月31日]][[予備役]]編入。 *同年4月、[[立命館大学]]講師、国防学研究所所長に就任し、国防学を教える。 *同年9月、立命館大学講師を辞職。 *1944年(昭和19年)11月、「怪文章事件」に関連して軍法会議に召喚される。 *同年12月、東條暗殺未遂事件に関連して軍法会議に召喚される。 *1945年(昭和20年)8月15日、内閣顧問への就任を断る。 *[[1946年]](昭和21年)1月、治療を受けるため上京。東京帝大病院に入院。 *同年2月、東京逓信病院に入院。 *同年3月、東京軍事裁判に関連して連合国検事による臨床尋問を受ける。 *同年4月、戦犯最終リストから除外される。 *同年8月、退院して帰郷。 *同年10月、[[山形県]][[飽海郡]]高瀬村(現在、[[遊佐町]])に転居。手術とワクチン投与を受ける。 *[[1947年]](昭和22年)鶴岡市の荘内病院で手術を受ける。 *同年[[5月1日]]から[[5月2日]]にかけて東京裁判[[酒田市|酒田]]出張法廷に証人として出廷。重ねて、満州事変と自衛であり、侵略ではないと持論を主張する。<ref>「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」石原莞爾平和思想研究会編</ref> また、恣意的な戦犯の訴追を苦々しく思っていたためか、本法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と意見を述べている<ref>(講談社『写真秘録 東京裁判』、中央公論社 児島襄『東京裁判』)</ref> *1948年(昭和23年)1月、軍国主義者として公職追放される。 *[[1949年]](昭和24年)春に[[肺炎]]になり、[[肺水腫]]などを併発。病状は悪化。 *同年[[8月15日]]、死去。 == 参考文献 == *石原莞爾監修『戦術学要綱』国防研究会編 たまいらぼ(1985年11月) *『戦争史大観』中公文庫BIBLIO 中央公論新社 ISBN 4122040132 *『最終戦争論』中公文庫BIBLIO20世紀 中央公論新社 ISBN 4122038987 *『石原莞爾選集』(1~10)玉井禮一郎編 たまいらぼ(1986年11月) *『嫉妬の世界史』、山内昌之、新潮新書(2004年11月) *『石原莞爾(上)(下)生涯とその時代』阿部博行(法政大学出版局、2005年) *歴史群像シリーズ『満州帝国』(学研、2006年) == 関連項目 == ;人物 :[[東條英機]] :[[板垣征四郎]] :[[斎藤元宏]] ;側近 :[[浅原健三]] :[[辻政信]] :[[宮崎正義]] *[[Portal:大東亜共栄圏]] *[[特務機関]] *[[国柱会]] *[[満州国協和会]] *[[満州事変]] *[[日蓮宗]] *[[遊佐町]] - [[吹浦駅]] - [[吹浦漁港]] *[[世界最終戦論]] ==脚注== <references/> == 外部リンク == *[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person230.html 石原 莞爾:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) **[http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/card1154.html 『最終戦争論・戦争史大観』:新字新仮名]([[青空文庫]]) *[http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara-1.htm 石原莞爾はかく語りき] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月1日 (木) 01:35。]    
{{Infobox 軍人 |name=石原 莞爾 |lived=[[1889年]][[1月18日]] - [[1949年]][[8月15日]] |placeofbirth= |placeofdeath= |image=[[Image:Kanji Ishiwara2.JPG|200px]] |caption=石原莞爾(1934年) |nickname=帝国陸軍の異端児 |allegiance=[[大日本帝国陸軍]] |serviceyears= |rank=[[陸軍中将]] |commands=満洲国武官<br/>関東軍[[参謀|参謀副長]]<br/>舞鶴要塞司令官<br/>京都第16師団長 |unit= |battles=[[満州事変]] |awards= |laterwork=[[立命館大学]][[教授]] }} '''石原 莞爾'''(いしわら かんじ<ref>読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』([[日本経済新聞社]] ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」と[[ルビ]]が振られている。</ref>、[[明治]]22年([[1889年]])[[1月18日]] ([[戸籍]]の上では17日)- [[昭和]]24年([[1949年]])[[8月15日]])は、[[昭和]]の[[大日本帝国陸軍]][[軍人]]、[[満州派 (大日本帝国陸軍)|満州派]]の領袖。[[立命館大学]]国防学研究所長(1941-42年)。通称「'''帝国陸軍の異端児」'''。 軍歴は[[関東軍]]作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、[[参謀本部]]作戦課長、同第一部長、関東軍[[参謀|参謀副長]]兼駐[[満州国]][[駐在武官|武官]]、[[舞鶴要塞]][[司令官]]、[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]長などを歴任し、最終階級は[[陸軍中将]]。 == 生涯 == === 幼少年時代 === 明治22年([[1889年]])[[1月18日]]に[[山形県]][[西田川郡]][[鶴岡市|鶴岡]]<!-- 鶴岡町:1889年4月1日~、鶴岡市:1924年10月1日~ -->で旧[[庄内藩]]士、[[飯能警察署|飯能警察]]署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、次男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する<ref>1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照</ref>。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊は、四女の貞は24歳でなくなっている。 父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると[[読書]]や[[算数]]、[[作文]]の成績が優れていた<ref name="石原莞爾(上)">阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)</ref>。 また病弱でもあり、[[東北大学|東北帝国大学]]付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に[[麻疹]]にかかり[[種痘]]を何度か受けている<ref name="石原莞爾(上)"/>。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた<ref name="石原莞爾(上)"/>。 === 軍学校時代 === 明治35年([[1902年]])に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特に[[ドイツ語]]、[[数学]]、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で[[体操競技|器械体操]]や[[剣術]]などの術科は不得意であった。 明治38年([[1905年]])には東京陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や[[武器]]の分解結合、[[乗馬]]練習などの教育訓練が施された。また中央幼年学校では地方幼年学校とは異なり暴力などの私的制裁が横行していたが、石原は学校の勉強だけでなく[[戦史]]や[[哲学]]などの書物をよく読んでいた。田中智学の[[法華経]]に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には[[横山勇]]、島本正一などがいる。また[[東京]]に在住していたため、[[乃木希典]]や[[佐藤鉄太郎]]に会っている。 明治40年([[1907年]])、[[陸軍士官学校]]に入学し、ここでも[[軍事学]]の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は[[図書館]]に通って戦史や哲学、[[社会科学]]の自習や名士を訪問した。成績は区隊長への反抗や侮辱のため学科成績は350名の中で3位だったが、卒業成績は6位であった。 士官学校卒業後は原隊に復帰して[[見習士官]]の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や[[歴史]]の勉学にも励んでいる。[[南部次郎]]よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年([[1911年]])の春川駐屯時には[[孫文]]大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。 連隊長命令で不本意ながら[[陸軍大学校]]を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、[[地形学]]、交通学、軍制学、[[語学]]、[[数学]]、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、[[大正]]4年([[1915年]])に入学することになる。ここでは戦術学、[[戦略]]、[[軍事史]]などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を[[思想]]や[[宗教]]の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年([[1918年]])に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。[[卒業論文]]は[[北越戦争]]を作戦的に研究した[[論文]](『[[越後長岡藩|長岡藩]]士・[[河井継之助]]』)であった。 === 在外武官時代 === [[ドイツ]]へ留学([[南部氏]][[ドイツ]]別邸宿泊)する。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]や[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]らの[[伝記]]を読みあさった。また、[[日蓮宗]]系の新宗教[[国柱会]]の熱心な信者として知られる。大正12年([[1923年]])、国柱会が政治団体の[[立憲養正會]]を設立すると、国柱会の[[田中智學]]は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる[[国立戒壇]]建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。 === 関東軍参謀時代 === 昭和3年([[1928年]])に関東軍作戦主任[[参謀]]として[[満州]]に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年([[1931年]])に[[板垣征四郎]]らと[[満州事変]]を実行、23万の[[張学良]]軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の[[占領]]を実現した。[[満州事変#柳条湖事件|柳条湖事件]]の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原の[[レリーフ]]が掲示されている。満州事変をきっかけに行った[[満州国]]の建国では「[[王道楽土]]」、「[[五族協和]]」を[[標語|スローガン]]とし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。[[日本人]]も[[国籍]]を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは[[大日本帝国|日本]]及び[[中国]]を父母とした[[国家|独立国]](「東洋の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]」)であったが、その実は石原独自の構想である[[世界最終戦論|最終戦争]]たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。 === 二・二六事件の鎮圧 === 昭和11年([[1936年]])の[[二・二六事件]]の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について[[昭和天皇]]は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している<ref>『昭和天皇独白録』</ref>。 この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。[[安藤輝三]]大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、[[栗原安秀]]中尉にピストルを突きつけられるものの事なきを得ている。 === 左遷 === 昭和12年([[1937年]])の[[日中戦争]]([[支那事変]])開始時には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。[[内モンゴル自治区|内蒙古]]での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった[[武藤章]]に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、[[トラウトマン工作]]にも関与したが、当時関東軍参謀長[[東條英機]]ら陸軍中枢と対立し、同年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。 === 関東軍 === [[Image:Manchukuo Decoration Diploma for Kanji Ishiwara.JPG|thumb|250px|1940年に満洲国から贈られた勲記]] 昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東条も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年([[1938年]])に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年([[1939年]])には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし[[太平洋戦争]]開戦前の昭和16年([[1941年]])3月に現役を退いて[[予備役]]へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。 === 立命館大学講師 === 現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に[[立命館]]・[[中川小十郎]][[総長]]が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、[[政治学]]や[[経済学]]を教える大学には[[軍事学]]の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井中将、ナポレオン戦史の伊藤少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東条による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。 === 評論・政治活動 === 太平洋戦争([[大東亜戦争]])に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われる[[ハルノート]]とほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、[[サイパン島|サイパン]]の要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の[[繆斌]]を通じ和平の道を探るが、[[重光葵]]や[[米内光政]]の反対にあい失敗した<ref>なお、この工作の失敗を機に、当時の内閣であった[[小磯内閣]]も瓦解している。</ref>。 『[[世界最終戦論]]』(後、『最終戦争論』と改題)を唱え[[東亜連盟]](日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の[[右翼]][[思想]]にも影響を与える。熱心な[[日蓮宗|日蓮主義]]者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、[[核兵器]]クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と[[地球]]を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。[[修辞技法|比喩]]として挙げられているのは[[織田信長]]で、[[火縄銃|鉄砲]]の存在が、日本を統一に導いたとしている。 === 戦後の活動 === [[Image:Kanji Ishiwara.jpg|thumb|200px|1945年頃の石原莞爾]] 東條との対立が有利に働き、[[極東国際軍事裁判]]においては[[戦犯]]の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながら[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]や[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]らを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は[[日本国憲法第9条]]を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。 元衆議院議員の加藤精三は従兄弟であり、その息子は現衆議院議員の[[加藤紘一]]。 ====東亜連盟==== [[東亜連盟]]は[[日本人]]のみならず、[[中国人]]や[[朝鮮民族|朝鮮人]]からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに * [[牛島辰熊]](全日本2連覇の柔道家、[[木村政彦]]の師匠) * [[大山倍達]]([[極真会館]]の創設者) * [[武田邦太郎]](農政と平和研究所所長、[[参議院議員]]) * [[橘撲]]([[ジャーナリスト]]・中国研究家、中国社会研究の先駆者) * [[曹寧柱]]([[在日本大韓民国民団]]会長、[[剛柔流空手道]]師範) * [[木村武雄]]([[政治家]]、[[建設大臣]]) * [[小澤開作]]([[歯科医師]]、指揮者[[小澤征爾]]の父、ミュージシャン[[小沢健二]]の祖父) * [[辻政信]](陸軍参謀、参議院議員) 等がいる。 ====東京裁判での主張==== 東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した<ref>「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」石原莞爾平和思想研究会編</ref>。 また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和三十年に手記を公表してからである <ref>(講談社『写真秘録 東京裁判』、中央公論社 児島襄『東京裁判』、「石原莞爾宣誓供述書」(石原莞爾平和思想研究会編「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」展転社に収録)</ref>。 == エピソード == 幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。<ref>阿部博行『石原莞爾(上)(下) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)を参考にした。</ref> * 明治28年([[1895年]])、子守のため姉二人が石原を[[学校]]に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。 * 仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、[[代数学]]・[[植物学]]・[[ドイツ語]]が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。 * 当時、将校には[[スケッチ|写生]]の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の[[男根]]を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。 * 石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。 * 陸軍士官学校でも[[軍事学]]よりも[[歴史学]]や[[哲学]]の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。 * 石原は[[酒]]や[[喫煙|タバコ]]をたしなまなかった。将校団の[[宴会]]の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。 * 若松連隊にいた頃には[[銃剣術]]の教育を激しく行い、訓練を受けた中隊全員が石原に殴られ、上官と意見が衝突して論争した。 * 第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった為に石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。 * 石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。 * 陸大入試の口頭試問で「[[機関銃]]の有効な使用法」を聞かれ、「[[飛行機]]に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については[[黒板]]に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。 * 陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになる。ところが最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。 * 陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったたと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説があり、明らかではない。 * [[ドイツ]]滞在中は、どこに行くのも[[羽織]][[袴]]で押し通したとされているが、あくまで正装のときであり、普段はスーツを着用していた。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評された[[ライカ]]の[[カメラ]]を購入し愛用していた。 * 石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とは言え相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した<ref>[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2007年6月号「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」112頁 座談会 [[半藤利一]]の発言より。</ref>。 * 歩兵第4連隊([[第2師団 (日本軍)|第2師団]]所属。本拠地は[[仙台]])長に就任すると、貧しい[[東北]]出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラ[[ウサギ]]の飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、[[酒保]]を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。 * 聨隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしている。突然、にわか雨が降ってきても、中隊長は訓示を止めない。そのとき、石原は「中隊長のバカヤロー、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴った。 * [[演習]]に際しては、兵士達が[[農地]]を踏み荒らさないように、[[畦道]]を一列にして突撃させた。それを咎めた検閲官が、「こんな馬鹿な突撃があるか、連隊長の決心いかん?」と問うと、石原は「連隊長戦死!」と叫んで、路上にひっくり返ったという。 == 年譜 == * [[明治]]22年([[1889年]])[[1月18日]]、誕生。 * 明治28年([[1895年]])、温海尋常高等小学校尋常科に2年に編入。 * 明治30年([[1897年]])、狩川尋常高等小学校尋常科4年に転入。 * 明治31年([[1898年]])、狩川尋常高等小学校高等科1年に入学。 * 明治32年([[1899年]])、藤島高等小学校2年に転入。 * 明治33年([[1900年]])、鶴岡朝暘高等小学校3年に転入。 * 明治34年([[1901年]])、山形県立荘内中学校(現・[[山形県立鶴岡南高等学校]])に入学するも同年に中退。 * 明治35年([[1902年]])9月、仙台[[陸軍幼年学校|仙台陸軍地方幼年学校]]に入校。(第六期) * 明治38年([[1905年]])9月、東京[[陸軍中央幼年学校]]に入校。 * 明治39年([[1906年]])、慢性胃カタルに罹る。 * 明治40年([[1907年]]) ** 5月、中央幼年学校を卒業。(第6期) ** 6月、士官候補生として山形歩兵第32連隊附。入営中に胃腸病で自宅療養。 ** 10月、秋季演習で分隊長を勤め、その後軍曹に昇進。 ** 12月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入校。 * 明治42年([[1909年]]) ** [[5月27日]]、陸軍士官学校を卒業。(第21期) ** [[12月25日]]、陸軍歩兵少尉・若松歩兵第65連隊附。 * 明治43年([[1910年]])4月、韓国守備のため春川に駐屯。6月には漢城へ移動。 * 明治45年([[1912年]])4月、朝鮮から帰国。第4中隊付。 * [[大正]]2年([[1913年]])2月、陸軍歩兵中尉に進級。 * 大正4年([[1915年]])11月、[[陸軍大学校]]に入校。 * 大正5年([[1917年]])7月、清水泰子と結婚するも9月に離婚。 * 大正7年([[1918年]])11月、陸軍大学校卒業。(第30期)原隊復帰。 * 大正8年([[1919年]]) ** 4月、陸軍歩兵大尉・歩兵第65連隊中隊長。 ** 7月、[[教育総監部]]附勤務。 ** 8月、国府銻子と結婚。 * 大正9年([[1920年]] ** 4月、中支那派遣隊司令部附。国柱会会員となる。 ** 5月、漢口に着任する。 * 大正10年([[1921年]]) ** 5月、帰国。 ** 7月、陸軍大学校兵学教官に任命。 * 大正11年([[1922年]]) ** 8月、陸軍大学校附仰付。(ドイツへ出張) ** 9月、ドイツ駐在。 * 大正12年([[1923年]])2月、ベルリンに到着。 * 大正13年([[1924年]])8月、陸軍歩兵少佐。 * 大正14年([[1925年]])10月、陸軍大学校教官になり、古戦史を担当。 * [[昭和]]3年([[1928年]]) ** 8月、陸軍歩兵中佐。 ** 5月、中耳炎が悪化して軍医学校付属病院に入院し、7月に退院。 ** [[10月10日]]、関東軍の作戦主任参謀。 * 昭和6年([[1931年]]) ** 9月18日、[[満州事変]]勃発。東北三省の制圧を指揮。 ** [[10月5日]]、関東軍作戦課長。 ** 10月8日、司令機に搭乗して錦州爆撃を指揮。 ** 11月4日、馬占山軍との戦闘で作戦指導。 * 昭和7年([[1932年]])[[8月8日]]、陸軍歩兵大佐。[[陸軍兵器本廠]]附。([[ジュネーブ会議]]随員)欧州滞在中に血尿悪化。 * 昭和8年([[1933年]]) ** [[8月1日]]、[[仙台]]の歩兵第4[[連隊長]]となる。 ** 10月、膀胱内の乳頭腫摘出のため入院。 * 昭和10年([[1935年]])[[8月1日]]、参謀本部作戦課長となる。 * 昭和11年([[1936年]])[[二・二六事件]]で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる。 ** [[6月19日]]、参謀本部戦争指導課長。 * 昭和12年([[1937年]]) ** [[1月7日]]、参謀本部第1部長心得。 ** [[3月1日]]、[[陸軍少将]]。参謀本部第1部長。 ** [[盧溝橋事件]]に際して、不拡大方針を唱え9月27日関東軍参謀副長に転出。 * 昭和13年([[1938年]]) ** [[8月18日]]、兼[[満州国]]在勤帝国[[大使館]]附陸軍武官。満州支配方式について参謀長東條英機[[中将]]を批判し、罷免される。 ** [[12月5日]]、舞鶴要塞司令官。 * 昭和14年([[1939年]]) ** [[8月1日]]、任[[陸軍中将]]・留守第16師団司令部附。 ** [[8月30日]]、第16師団長。 * 昭和16年([[1941年]])参謀総長[[東條英機]]に罷免されて[[3月1日]]待命。 ** 4月、[[立命館大学]]講師、国防学研究所所長に就任し、国防学を教える。 ** [[8月31日]][[予備役]]編入。 ** 9月、立命館大学講師を辞職。 * 昭和19年([[1944年]]) ** 11月、「怪文章事件」に関連して軍法会議に召喚される。 ** 12月、東條暗殺未遂事件に関連して軍法会議に召喚される。 * 昭和20年([[1945年]])8月15日、内閣顧問への就任を断る。 * 昭和21年([[1946年]]) ** 1月、治療を受けるため上京。東京帝大病院に入院。 ** 2月、東京逓信病院に入院。 ** 3月、東京軍事裁判に関連して連合国検事による臨床尋問を受ける。 ** 4月、戦犯最終リストから除外される。 ** 8月、退院して帰郷。 ** 10月、[[山形県]][[飽海郡]]高瀬村(現在、[[遊佐町]])に転居。手術とワクチン投与を受ける。 * 昭和22年([[1947年]])鶴岡市の荘内病院で手術を受ける。 ** [[5月1日]]から[[5月2日]]にかけて東京裁判[[酒田市|酒田]]出張法廷に証人として出廷。 * 昭和23年(1948年)1月、軍国主義者として公職追放される。 * 昭和24年([[1949年]])春に[[肺炎]]になり、[[肺水腫]]や[[膀胱癌]]などを併発。病状は悪化。 ** [[8月15日]]、死去。 墓所は山形県飽海郡遊佐町菅里に所在。 == 参考文献 == * 石原莞爾監修『戦術学要綱』国防研究会編 たまいらぼ(1985年11月) * 『戦争史大観』中公文庫BIBLIO 中央公論新社 ISBN 4122040132 * 『最終戦争論』中公文庫BIBLIO20世紀 中央公論新社 ISBN 4122038987 * 『石原莞爾選集』(1~10)玉井禮一郎編 たまいらぼ(1986年11月) * 『石原莞爾旧蔵書目録』酒田市立図書館編(1988年3月) * 『嫉妬の世界史』、[[山内昌之]]、新潮新書(2004年11月) * 『石原莞爾 生涯とその時代』(上下)阿部博行(法政大学出版局、2005年) * 歴史群像シリーズ『満州帝国』(学研、2006年) :ほかに伝記は多数あるが、文庫・近年刊行をあげると *『石原莞爾 満州国を作った男』別冊宝島編集部編 (宝島SUGOI文庫、2008年) *『石原莞爾』 [[青江舜二郎]] (中公文庫 1992年) *『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』 [[福田和也]] (文春文庫上下 2004年) *『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』[[田中秀雄]] (芙蓉書房出版 2008年)  == 石原莞爾が登場する作品 == ;小説 * 『英雄の魂 小説石原莞爾』阿部 牧郎 ;漫画 * 『[[虹色のトロツキー]]』[[安彦良和]] * 『[[ジパング (かわぐちかいじ)|ジパング]]』[[かわぐちかいじ]] * 『[[国が燃える]]』[[本宮ひろ志]] * 『[[木島日記]]』[[大塚英志]]原作、[[森美夏]]画 ;映画 * 『[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]]』第1部・第2部(1970年・1971年、演:[[山内明]]) * 『[[落陽 (映画)|落陽]]』(1992年、演:[[嵐圭史]]) == 関連項目 == ; 人物 : [[東條英機]] : [[板垣征四郎]] : [[斎藤元宏]] ; 側近 : [[浅原健三]] : [[辻政信]] : [[宮崎正義]] * [[Portal:大東亜共栄圏]] * [[特務機関]] * [[国柱会]] * [[満州国協和会]] * [[満州事変]] * [[日蓮宗]] * [[遊佐町]] - [[吹浦駅]] - [[吹浦漁港]] * [[世界最終戦論]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person230.html 石原 莞爾:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) ** [http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/card1154.html 『最終戦争論・戦争史大観』:新字新仮名]([[青空文庫]]) * [http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara-1.htm 石原莞爾はかく語りき] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月1日 (日) 23:06。]    

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