張作霖

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[[Image:Zhang Zuolin2.jpg|frame|若き日の張作霖]] '''張 作霖'''(ちょう さくりん、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|张作霖}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|張作霖}}'''、[[ピン音|ピンイン]]:{{lang|zh|Zhāng Zuòlín}}、[[1875年]][[3月19日]] - [[1928年]][[6月4日]])は、[[中華民国]]初期の[[軍閥]][[政治家]]で、[[北洋軍閥]]の流れを汲む奉天派の[[総帥]]。[[満州]]の統治者であり[[張学良]]・[[張学銘]]・[[張学思]]の父。盛京省(現在の[[遼寧省]])海城県の出身。 == 生涯 == === 若き日は馬賊 === [[遼東半島]]の付け根に位置する海城県で生まれる。生家は余り豊かではない上に早くに父を亡くし、更に母が新たに迎えた夫(義父)と気が合わず、家を飛び出したと言われている。その後、[[吉林省]]に渡り、[[馬賊]]に身を投じた。当時の[[東三省]]は、広大な面積に比べて警察力があまりにも低く、非合法組織が数多く存在した。張はその中でたちまち頭目となり、[[朝鮮人参]]や、[[アヘン]]の密売で利益を得ていたと考えられる。彼の仲間には後に[[満州国]]の国務総理となった[[張景恵]]などがいた。 === 日本との関係の始まり === そうした中に[[光緒]]30年([[1904年]])、東三省を戦場として[[日露戦争]]が勃発。張作霖は[[ロシア帝国|ロシア]]の[[スパイ]]として活躍するが、[[日本軍]]に捕縛される。危うく処刑されるところであったが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・[[兒玉源太郎]]に助命された。この時、児玉の命令を受けて張の助命を伝令したのが、後に[[内閣総理大臣|首相]]として張と大きく関わることとなる[[田中義一]](当時は少佐)である。その後は転じて日本軍のスパイとしてロシアの駐屯地に忍び込み、多くの情報を伝えた。彼の[[大日本帝国|日本]]との関係はここから始まる。 === 清朝に降り、北洋軍閥の知遇を得る === 日露戦争後の光緒31年([[1905年]])、東三省の統治体制を引き締める為に派遣されたのが[[八旗兵]]の出身である[[趙爾巽]]である。彼は[[満州族]]ながらも行政手腕を以て知られ、財政収入の確保に奔走するとともに、地域の治安向上に努め、馬賊に対しては帰順すれば軍隊に任用する旨を頭目たちに伝えた。<br/>こうした状況の変化に張はいち早く対応し、清朝に帰順して2千程度の軍勢の部隊長となった。だが、この時の帰順は形のみのものに過ぎなかった。既に馬賊として盛名を得ていた張作霖の下に更に多くの馬賊が集まり、隠然たる一勢力を形成した。 更に東三省は大きく変化する。この時期の東三省は、急激な中国内地からの[[漢族]]の移住とロシア・日本による開発のため急激に開けていき、目覚しい発展を遂げていた。これに目を付け、自らの勢力圏とすることを考えたのが[[清|清朝]]中央にあって[[北洋軍閥|北洋軍]]を率いる[[直隷総督|直隷総督兼北洋大臣]]の[[袁世凱]]であった。彼は事実上の清朝の支配者である[[西太后]]に運動し、光緒33年([[1907年]])には腹心の[[徐世昌]]を[[東三省総督]]にすることに成功、更に自らの北洋軍の一部を割いて東三省に送り込んだ。 徐世昌も東三省の治安の確保に苦しむが、張作霖は[[内モンゴル]]との境に近い[[鄭家屯]]にあって、地域の安全の確保に大きく貢献し、徐に認められた。これは彼が北洋軍との関係を持ち、更に東三省駐留の北洋軍を吸収する手掛かりとなった。 === 巧みに権力を奪い、軍閥として自立する === [[宣統]]3年([[1911年]])10月、[[辛亥革命]]勃発。東三省でも革命勢力が蜂起したが、再び東三省を統治する任にあたっていた趙爾巽は軍事力を行使して弾圧に成功した。張作霖も兵を率いて多くの革命派を殺害した。結局、翌年には清朝が滅び[[中華民国]]が成立するのだが、東三省においては趙爾巽が横滑りで奉天都督となり、旧勢力が温存された。こう言った中で張は革命勢力を弾圧した功績で[[中将]]・[[陸軍]][[師団長]]に昇進した。<br/>ところが趙爾巽は[[満州族]]で清の遺臣という立場から、まもなく都督の地位を辞してしまった。しばらくして袁の配下である[[段芝貴]]が東三省を総管する地位に就くが、[[安徽省]]出身である彼は在地とのつながりがうすかった。それに反して既に発言力を得つつあった在地勢力の利益を代表する存在として、張作霖の価値は高まっていった。また、東三省での権益拡大を目論む日本とも巧みに協力関係を取り付けた。この時期の張は中央の大総統袁世凱に表向き従っていたが、袁の方が張作霖の力を恐れたか[[子爵]]に任じている。 民国5年([[1916年]])、袁世凱が皇帝就任に失敗して権威を失墜した上で死去。張はこれを好機と見て巧みな策略で段芝貴を[[失脚]]させ、奉天省の支配権を取得した。さらに勢力を広げ、民国8年([[1919年]])には[[黒龍江省]]・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、満洲の覇者として君臨した。彼の率いる勢力は、彼が本拠地とした都市の名を採って[[奉天]]派と呼ばれた。張は満洲王と呼ばれるほどの威勢を誇り、前途は洋々たるものと見えた。<br/> === 軍閥闘争の進展 === その後は東三省を足場に中国内地に勢力を伸ばし、[[安直戦争]]に[[直隷派]]に味方する形で介入した。両軍は[[安徽派]]の駆逐に成功するものの、日本を背後に持つ張作霖率いる奉天派と、英米を背景に持つ[[呉佩孚]]ら直隷派は仲違いし、泥沼の戦いを繰り広げた。結局、張作霖が勝利して[[北京]]を占拠するが、既に時代は大きく変わりつつあり、[[国共合作]]を成し遂げた[[国民革命軍]]が「[[北伐]]」と称して華北への侵攻を開始した。慌てた張は再び直隷派と共同して国民軍と戦ったが、この戦いで直隷派が壊滅し、張の奉天派だけが残された。 === 共産主義者との対決 === しかし、当時国民革命軍の背後で暗躍する[[ソビエト連邦|ソ連]]を嫌った欧米勢力は国民革命軍を支持せず、張作霖に好意的な姿勢を取った。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。張作霖は民国15年([[1926年]])12月、北京で[[大元帥]]に就任し、自らが中華民国の主権者であることを宣言した。 ====張作霖による北京のソ連大使館捜索==== 民国16年([[1927年]]3月)に起こった[[南京事件 (1927年)|南京事件]]の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に中国共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、北京のソ連大使館官舎を奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が入り込み、それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった<ref name=as020407m2>『東京朝日新聞』1927年4月7日付朝刊、F版、2面</ref>。張作霖がソ連大使館官舎を家宅捜索したことについては日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの承認を得ていた<ref>ソ連は「[[北清事変]]」議定書を破棄していたので、中国側の捜査を拒むことができないとされた。</ref>。また[[南京事件 (1927年)|南京事件]]は共産主義者により起こされたとされ<ref name=as020329m2>『東京朝日新聞』1927年3月29日付朝刊、F版、2面</ref>、そのため各国の共産主義に対する警戒心は高まっていた。 ====ソ連大使館捜索の影響==== このことを機として4月10日ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交は断絶した。この一方、ソ連は張作霖に圧力をかけるためにモンゴルに大砲、弾薬、毒ガス、航空機を集中させた<ref name=as020411m2>『東京朝日新聞』1927年4月11日付朝刊、E版、2面</ref>。北京のソ連大使館で押収された書類には北京において工作活動、あるいは暴力に訴えるための四千百二十名に及ぶ宣伝部員等の名簿や[[イギリス]]、[[フランス]]、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示すものがあり、その内容はイギリス下院においても[[オースティン・チェンバレン|チェンバレン]]外相から発表された<ref name=as020413e2>『東京朝日新聞』1927年4月13日付夕刊、B版、1面</ref>。捕らえられた共産党員は軍法会議にかけられ[[北京大学]]教授[[李大釗]]らは処刑された。 なお4月12日には[[蒋介石]]が[[上海クーデター]]を起こし共産主義者への弾圧を開始した。 === 張作霖の敗北と日本の保護 === 民国17年([[1928年]])4月、改めて国民革命軍を組織しなおし、欧米の支持を得た蒋介石が再び北伐を始めた。今回はさらに他の軍閥勢力である[[馮玉祥]]・[[閻錫山]]なども自らの勢力下に加え、万全なものであった。張は防戦するが、今度は欧米の支持を失ってしまった。日本政府も反復常なき張作霖を扱いかねており、[[山東出兵]](第2次)によって[[済南]]で蒋介石軍と衝突するものの([[済南事件]])、蒋介石から「[[山海関]]以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、張に積極的な支持を与えなくなった。 === 張作霖爆殺事件とその後の東三省 === [[Image:Zhang_zuolin_car.jpg|right|thumb|250px|爆破された車両]] 同年[[6月4日]]、国民革命軍との戦争に敗れた張はついに北京を逃れ、[[列車]]で根拠地である奉天へ向かった。時の日本政府の首相田中義一は張に未だ利用価値を認め、東三省で再起させることを考えた。しかし既に[[満州国]]の建国計画を立てていた現地の[[関東軍]]にとっては、張の東三省復帰は迷惑かつ不快なものでしかなかった。その後、関東軍の参謀・[[河本大作]]大佐の策略で、奉天近くの皇姑站で張の乗っていた列車を爆破した。張は爆発で[[重体]]となり、[[自動車]]で私邸に担ぎ込まれたが、程なく死亡した。 [[張作霖爆殺事件]]は当初から関東軍の犯行であるとの説が有力であり、日本は大きな批判にさらされた。[[小川平吉]][[鉄道省|鉄道大臣]]が事件の後始末に躍起になったが、[[外務省]]・[[陸軍省]]・[[関東庁]]の「特別調査委員会」によって事件の概要が判明し、また現地に派遣された峯憲兵司令官の調査により、事件が河本大作大佐の指揮により行われたことが判明。日本の内閣は言を左右にして事件を曖昧にしたものの、[[昭和天皇]]の不快を蒙った田中義一は総理大臣を辞職した。 なお、小川鉄道大臣自身、河本から直接「事件」についての告白を聞いている(小川平吉関係文書)。 その後、張作霖の支配地域を継いだのは一子の張学良であった。若年な彼を操縦しやすいと考えて張作霖を殺害した日本であったが、張学良が父の仇である日本に好意的な訳はなく、彼は国民政府と結び、さらに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などと共同して[[南満州鉄道|満鉄]]の利権の回復に乗り出した。また父から引き継いだ幕僚のうち、日本と近い関係にある[[楊宇霆]]らを[[粛清]]した。 民国20年([[1931年]])[[9月18日]]、ついに事態を持て余した日本は[[満州事変]]を起こし、東三省全土を制圧。張学良を同地から追放した。さきに粛清されなかった軍人や在地有力者出身の幕僚層の多く(例えば[[于冲漢]]・張景恵)は日本の利権と結びつきを持っており、そのまま日本に従い、翌年の満洲国の成立にあっては要職に就任することとなったのである。領土を失った張学良は国民党政府に庇護を求めた。 ==脚注== <references /> == ゆかりの史跡 == * [[張氏帥府]]([[瀋陽]]市中心部) == 関連項目 == * [[北洋軍閥]] * [[奉天派]]の軍人:[[郭松齢]]、[[楊宇霆]]、[[湯玉麟]]、[[呉俊陞]]、[[張作相]]、[[張宗昌]]、[[張景恵]]、[[韓麟春]] * [[伊達順之助]] - [[1916年]]、張作霖爆殺を計画 * 『[[中原の虹]]』 浅田次郎の小説 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月9日 (木) 21:38。]    

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