相沢事件

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'''相沢事件'''(あいざわじけん)は、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[8月12日]]に、[[皇道派]]青年[[将校]]に共感する[[相沢三郎]]陸軍中佐が[[陸軍省]]において、[[統制派]]の[[永田鉄山]]軍務局長を殺害した事件である。 == 概要 == [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]においては[[皇道派]]と[[統制派]]が対立し、[[1931年]]の[[三月事件]]、1935年7月の皇道派の[[真崎甚三郎]][[教育総監]]の更迭問題が起こる。[[林銑十郎]]陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。 義憤を感じたとされる相沢は、[[台湾]]転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は[[二・二六事件]]により一時中断され、翌1936年の7月に[[第1師団 (日本軍)|第1師団]][[軍法会議]]による公開裁判が行われ、相沢は[[死刑]]となる。 なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、[[兵務課長]]・[[山田長三郎]]大佐と[[憲兵 (日本軍)|東京憲兵隊長]]・[[新見英夫]]大佐が在室していた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。この事情について山田大佐は事件後、「自分の[[軍刀]]を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った。このため、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で[[自決]]した。 == 関連項目 == *[[日本史の出来事一覧]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月17日 (水) 16:01。]     

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