満州国

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[[1931年]]の[[満州事変]]から[[日中戦争]]を経て[[1945年]]の[[ポツダム宣言]]受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して'''十五年戦争'''と呼ぶ。[[鶴見俊輔]]が[[1956年]]にこの言葉を使用したのが最初とされ、[[1960年代]]後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による[[侵略戦争]]であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、[[イデオロギー]]上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は[[塘沽協定]]([[1933年]])で一応、停戦が成立しており、[[盧溝橋事件]]を発端とする[[日中戦争]]([[1937年]] - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 == 略年表 == '''日本の大陸介入''' * [[1925年]]([[大正]]14)[[1月]] [[蒋介石]]の広東政府、[[北伐]]を開始 * [[1927年]]([[昭和]]2) ** [[5月]] 北伐が[[山東省]]の日本利権に迫り、日本軍第一次[[山東出兵]] * [[10月]] [[毛沢東]]、[[江西省]]に革命根拠地樹立 * [[1928年]](昭和3) ** [[4月]] 蒋介石の北伐再開、日本軍反発し第二次山東出兵 ** 5月 [[済南事件]] ** [[6月]] 北伐完了 ** [[6月4日]] [[張作霖爆殺事件]] ** [[7月]] [[アメリカ合衆国]]政府、蒋介石の[[国民政府]]を承認。 ** [[10月]] 蒋介石、国民政府主席に就任 * [[1929年]][[4月]] [[世界恐慌]]起こる * [[1930年]] 日本、金輸出解禁により金流出、輸出不振。 '''[[1931年]]''' * '''[[9月18日]] - [[満州事変]]勃発''' * 12月 - 日本金輸出再禁止 '''[[1932年]]''' * [[1月28日]] [[上海事変|第一次上海事変]] * 2月 - 9月 [[リットン調査団]]、柳条湖事件を調査 * [[3月1日]] [[満州国]]建国宣言 * [[5月15日]] [[五・一五事件]]発生 * [[イギリス]]が[[ブロック経済]]を形成する * [[9月15日]] [[日満議定書]]調印 * [[10月]] [[リットン調査団]]、国際連盟に報告 '''[[1933年]]''' * [[1月]]~[[3月]] 日本軍、[[熱河]]に侵入。 * 2月21日 - 国際連盟総会でリットン報告を採択(反対票は日本のみ)、日本に対し満州からの撤退が勧告される。日本は不服として連盟脱退を表明。 * 3月4日 - [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大統領に就任、[[ニューディール政策]]を実施(~1936年)。 * 3月24日 - [[ドイツ]]、「[[全権委任法]]」を制定、[[アドルフ・ヒトラー]]が総統に就任。 * 3月27日 - [[日本]]、[[国際連盟]]から正式に脱退する。 * 日本、[[中華民国]]と[[塘沽協定]]を結ぶ。 '''[[1934年]]''' * [[10月]] 毛沢東の[[長征]]はじまる(36年10月まで)。 '''[[1935年]]''' * [[天皇機関説]]問題。[[美濃部達吉]]の著書発禁、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員辞職を強いられる。 * 8月1日 - [[中国共産党]]、[[八・一宣言]]([[抗日救国宣言]])で、[[国共合作]]をよびかける。 * 11月 [[冀東防共自治政府]]成立 '''[[1936年]]''' * [[1月]] 日本、[[ロンドン軍縮会議]]を脱退。 * [[二・二六事件]] * [[日独防共協定]]、締結される。 * [[12月]] [[西安事件]]([[張学良]]、蒋介石を拉致監禁) '''[[1937年]]''' * 7月7日 - [[盧溝橋事件]](蘆溝橋事件)。これより[[中華民国]]との[[日中戦争]](日華事変、日支事変)勃発。 * 7月 - 日本軍、北京・天津地域を占領。[[通州事件]]発生。 * 8月13日 - [[第二次上海事変]] * 9月 - [[第二次国共合作]] * 12月13日 - 日本軍、[[国民政府]]の首都南京を占領。「[[南京大虐殺]]」(または「南京事件」)発生(規模、事件の性格をめぐっては諸説あり)。 * 国民政府、[[重慶]]に首都移転。 '''[[1938年]]''' * 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる'''近衛声明'''発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。 * 4月1日 - 日本、[[国家総動員法]]公布。 * 5月5日 - 国家総動員法、施行。 * 12月 - [[汪兆銘]]、重慶を脱出。 '''[[1939年]]''' * 5月 - [[ノモンハン事件]] * 9月 - [[第二次世界大戦]]勃発。ドイツ軍が[[ポーランド侵攻]]開始、これに対して英仏が宣戦。 '''[[1940年]]''' * [[汪兆銘]]、[[国民政府|南京国民政府]]樹立。 * 6月14日 - ドイツ軍、パリに入城。 * 6月 - [[フランス]]の[[ヴィシー政権]]がドイツに降伏。[[自由フランス政府]]は抵抗を続行。 * 9月 - 日本、北部仏印に進駐。 * 9月 - [[日独伊三国軍事同盟]]締結。 * 10月 - [[大政翼賛会]]、結成。 * 11月 - [[大日本産業報国会]]、結成 '''[[1941年]]''' * 3月1日 - ドイツ軍、ブルガリアに進駐。 * 4月13日 - [[日ソ中立条約]]調印。 * 6月22日 - ドイツ軍、ソ連に侵攻開始([[バルバロッサ作戦]])。[[独ソ戦]]始まる。 * 7月2日 - 対ソ戦準備・南部仏印進駐を[[御前会議]]で決定。 * 7月 - 日本、南部仏印に進駐。 * 10月2日 - ドイツ軍、モスクワ攻略作戦([[モスクワの戦い|タイフーン作戦]])開始。30日に中断、翌月19日に再開。 * 11月 - アメリカ、日本に、[[ハル・ノート]]を提案。 * 12月8日 - [[真珠湾攻撃]]以降[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])。 * 12月11日 - ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。 * 12月16日 - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]、竣工。 '''[[1942年]]''' * 1月2日 - [[マニラ]] (フィリピン進攻作戦) * 1月 - 日本軍、マニラ占領。 * 2月15日 - [[シンガポール]] (マレー進攻作戦) * 3月8日 - [[ラングーン]]占領。 * 3月9日 - [[ジャワ島]]のオランダ軍を降伏させる。 * 5月7~8日 - [[珊瑚海海戦]] * 5月 - 日本軍、フィリピンのコレヒドール島占領。 * 6月5~7日 - [[ミッドウェー海戦]] * 8月 - [[ガダルカナル島の戦い]]始まる。 '''[[1943年]]''' * 2月1~7日 - 日本軍[[ケ号作戦|ガダルカナル島から撤退]]。 * 2月 - ソ連軍が[[スターリングラード]]でドイツ第6軍を降伏させる。 ([[スターリングラード攻防戦]]) * ドイツ[[東部戦線]]、[[ハリコフ攻防戦#第三次ハリコフ攻防戦|第三次ハリコフ攻防戦]]。 * 4月18日 - [[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]、[[ブーゲンビル島]]上空にて戦死。(「[[海軍甲事件]]」) * 7月4日 - ドイツ東部戦線、[[クルスクの戦い]]。(~8月27日) * 7月10日 - 連合軍、[[シチリア島]]に上陸。([[ハスキー作戦]]) * 9月3日 - 連合軍がイタリア半島に上陸。([[イタリアの戦い]]) * 9月8日 - [[イタリア|イタリア王国]]、連合国に降伏。 * 9月23日 - ドイツに救出された[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]が[[イタリア社会共和国]]を建国。日本は承認。イタリアは内戦状態に。 '''[[1944年]]''' * 日本[[学童疎開]]始まる。 * 一号作戦([[大陸打通作戦]])始まる。 * 10月 - [[レイテ沖海戦]] * 12月 - ドイツ軍、[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]。 '''[[1945年]]''' * 2月18日 - [[硫黄島の戦い]]始まる。 * 3月10日 - [[東京大空襲]] * 3月22日 - 硫黄島が陥落。 * 3月26日 - 米軍、[[沖縄]]上陸。 * 4月6日 - 天一号作戦([[菊水作戦]])開始。 * 4月7日 - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]、沈没。 * 4月12日 - アメリカ、[[ルーズベルト大統領]]、死去。 * 4月28日 - ムッソリーニが[[パルチザン]]に処刑される。イタリア社会共和国は崩壊。 * 5月2日 - [[ベルリンの戦い|ベルリンが陥落]]。 * 5月8日 - ドイツ[[無条件降伏#第2次世界大戦後のドイツ|無条件降伏]]。 * 7月26日 [[ポツダム宣言]]。 * 8月6日 - [[広島市]]へアメリカが[[原子爆弾]]を使用。 * 8月8日 - [[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ヤルタ協定]]に基づき[[日ソ中立条約]]を破棄し、[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦布告、日本保護領満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻]]。 * 8月9日 - [[長崎市]]へアメリカが原子爆弾を使用。 * 9月2日 - 日本、[[無条件降伏#第2次世界大戦後の日本|降伏文書に調印]]、[[太平洋戦争]]終結。 * 9月下旬 - 中国大陸の日本軍全面降伏、[[日中戦争]]終結。 # ''1937年から1945年までは[[日中戦争]]も参照'' # ''1941年から1945年までは[[太平洋戦争の年表]]も参照'' === 日中摩擦 === [[日中戦争]](支那事変、日華事変)が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。 [[第一次世界大戦]]後、日本は'''『[[対華21ヶ条要求|21か条の要求]]』'''を中国につきつけ、侵略の意図をあらわにした。それに対し中国人は反発し[[五四運動]]、前後して日貨排斥運動が起こった。[[1928年]]、日本は[[北伐]]から[[山東省]]権益を守るべく[[山東出兵]]を行い、[[済南事件]]で日中双方は衝突する。 == 背景 == [[関東大震災]]、[[金融恐慌]]、[[世界恐慌]]、その後の[[ブロック経済]]化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、 日本は満州進出、後には南方進出([[大東亜共栄圏]])で取り戻そうとした。 しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「'''満州は日本の生命線'''」として、また、 朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、 [[満州国]]を承認しない列強との対立が深刻化し、遂には全面戦争にいたる。 == 経過 == [[1931年]]満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、[[関東軍]]は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。 [[1933年]]日本は満州国を承認しない他の[[国際連盟]]加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。 [[1937年]]、[[盧溝橋事件]]勃発。日本は1931年の満州事変によって満州国という緩衝国家を得たが、それが同国を日本によって作られた傀儡政権とみなす国際連盟各国、特に[[民族主義]]を刺激された[[中国]]の[[国民政府]]との関係を悪化させていた。 この年7月に勃発した盧溝橋事件以後、両国の険悪の度合いは増し、 8月の[[第二次上海事変]]を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。 12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。 [[1938年]]1月、[[近衛文麿]]首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表。日本は[[蒋介石]]の重慶政権を否定した。同年、[[国家総動員法]]が成立し、日本は日中戦争に全力を投入、国力を磨り潰して行く。 [[1939年]][[ノモンハン事件]]勃発、日本は[[ソビエト連邦|ソ連]]の脅威と陸軍装備の劣勢を認識するも、事実を隠匿したために、結局日本軍の得た教訓は、「対戦車攻撃には火炎瓶が有効」といった程度だった。(初期型の戦車以外には、火炎瓶は有効とは言えない) [[1940年]]には、 日本は[[汪兆銘]]の南京政府を中国における正当な政権として承認。 同年9月、日本は、英米が[[ナチス・ドイツ]]の傀儡政権と認識する[[ヴィシー政権|ヴィシーフランス]]との合意に基づき、北部仏印に進駐した。同時期、日本は、[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。 ドイツと同盟し、軍事力を背景にアジア諸国に対する勢力拡大を図る日本に、警戒心を刺激されたイギリスやオランダ、アメリカなどの周辺諸国は、[[石油]]や[[鉄|鉄クズ]]などの日本への輸出を制限し([[ABCD包囲網]])、日本に経済的圧力をあたえた。 その後も[[近衛文麿]]首相などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、[[1941年]]、日本の南部仏印の占拠を機に日米関係は絶望的に悪化、[[ABCD包囲網]]が完成し、石油や鉄クズの日本への輸出が完全に停止した。こうした状況が続き、次第に日本の世論は「対米開戦やむなし」に傾いていく。 11月、[[中国]]および[[仏領インドシナ]]からの全面撤退や[[日独伊三国軍事同盟]]の即刻破棄などを要求したアメリカの'''「[[ハル・ノート]]」'''に対して反発した日本は、モスクワに迫るドイツ軍の成功を見て、同年[[12月8日]]、英米蘭と開戦、英米蘭の[[太平洋]]や[[東南アジア]]にある領土を攻撃し、 [[太平洋戦争]]が勃発した。条約上の義務はなかったが、同盟国のドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告した。 日本軍首脳部は、膨大な国力差のあるアメリカとの戦争を、[[真珠湾攻撃]]などの緒戦で戦果を挙げた時、もしくは同盟国ドイツが欧州で勝利した時に、[[スイス]]や[[バチカン]]等の中立国を通じて講和する、という(甘い)見通しで始めた。 しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、 [[1945年]]5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年[[8月8日]]、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年[[9月2日]]、日本も降伏文書に調印した。 == 結果・犠牲 == 十五年戦争では、日本において軍、民間人あわせて'''三百万人'''の犠牲者(死者)が出た。アメリカにおいては、太平洋戦争期、主に軍人に'''9万人'''の戦死者を出している。 中国側の犠牲者数については諸説あるが、1951年9月6日の沈釣儒報告「戦犯の検挙と懲罰について」の中で、「中国軍民の蒙った生命の損失は一千万人以上である」との言及が見られ、しばらくはこの数字がしばしば引用されていた。 その後『中国新民主主義革命時期通史』に「確かな統計によっただけでも、人民の死傷者は1,800万人に達し(軍隊の死傷者数は含めず)」との記述が見られ、負傷者も含めた死傷者数ではあるが、これが、「統計」をもとに算出した、と主張する最初の数字である(当文献の初版は1961年だが、現在知られているものは1979年の第三版)。 軍人の死傷者については1985年8月11日付「[[人民日報]]」宋時輪論文にて「380万人余」との数字が提出された。これ以降、中国軍民の死傷者2,168万5千人」という数字が「中国人民革命軍事博物館」に展示されるようになる。 さらに1987年には、劉大年・中国社会科学院名誉所長により、「現存する戦争当時の戸籍簿をすべて洗い直」すなどの作業の結果、従来「ほとんど計上されていなかった」一般民衆の餓死者や病死者を含めて、「死者だけで2000万人以上」とする推計が発表された。 (以上、[[石井明]]氏論文『日中戦争における中国の人的・物的損失について』による) その後1995年には、「死傷者3500万人以上」という数字が提出されたが、この数字の根拠は不明。以上、死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。ただし、日中戦争によって中国の軍人及び一般民衆に多大な被害が生じたことは疑い得ない。 == 総括 == [[明治]]から[[昭和]]にかけて日本は飛躍的な発展を遂げたが、[[富の再分配]]が適切に行われなかったので社会階層が固定化され貧富差が拡大した。また、急激に増加した人口を国内だけで養うことが困難になり、海外移民等を積極的に進めるが、[[黄禍論]]の台頭により厳しい状況におかれた。このような社会背景のもと立て続けに起きた[[金融恐慌]]と[[昭和恐慌]]は、社会不安を増大し閉塞感を蔓延させた。無力で失策を続ける政府に多くの国民は失望し、逆に[[軍部]]への期待が高まった([[徴兵制]]のため軍部では下層階級の意見が通りやすかった)。ここに至って、もはや国内的な努力のみでは問題を解決できない状況となり、国外に活路を求める以外に無いという考えが台頭してくる。軍部は国民的支持を背景に自らが得意とする'''力'''による解決方法を探り、イギリスなどの[[ブロック経済]]を模して、他地域への進出によって恐慌を乗り切ろうとした。これが'''十五年戦争'''の始まりと考えられる。 日本は[[満州事変]]によって[[満州]]という新たな殖民国家を得たが、それは[[中国]]の[[民族主義]]を刺激し日中関係の悪化を招いた。険悪の度合いは増し、[[盧溝橋事件]]を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。日本の拡大主義はイギリスや[[オランダ]]などの周辺諸国、特にアメリカの警戒心を刺激し、[[石油]]や[[鉄クズ]]などの禁輸([[ABCD包囲網]]の発動)という日本にとって極めて厳しい経済制裁を加えられる。その後も[[近衛文麿]]などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、[[1941年]]、[[中国大陸]]からの全面撤退や[[日独伊三国軍事同盟]]の即刻破棄などを要求したアメリカの最後通牒([[ハル・ノート]])に反発した日本は、逆に欧米の太平洋や[[東南アジア]]にある領土を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。 日本軍首脳部は、アメリカとの膨大な国力差を[[真珠湾攻撃]]による緒戦の勝利と精神主義による早期講和で乗り切ろうとする。しかし、緒戦こそ善戦したものの戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、[[1945年]][[8月15日]]、敗戦を迎える。 この戦争は、 : 社会不安→軍部台頭→膨張政策→諸国との摩擦→破滅的戦争→軍部崩壊→[[民主化]] という[[発展途上国]]の[[近代化]]・民主化の典型的なパターンに沿っているものとも言える。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月18日 (月) 07:53。]    
{{基礎情報 過去の国 |略名 =満州国 |日本語国名 =満洲国 |公式国名 =<b lang="zh">滿洲國</b> |建国時期 =[[1932年]] |亡国時期 =[[1945年]] |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Flag of Manchukuo.svg |国章画像 =Manchukuo Coat Of Arms.svg |国章幅 = 100px |標語 =五族協和の王道楽土 |国歌名 =滿洲國國歌 |国歌追記 ={{mn|Infobox_01|1}} |位置画像 =China-Manchukuo-map.png |公用語 =[[中国語]]([[中国官話|北京官話]])、[[モンゴル語]]、[[日本語]] |首都 =[[新京]] |最大の都市 =[[奉天]] |元首等肩書 =[[元首]]([[満州国皇帝|皇帝]]) |元首等年代始1 =1934年 |元首等年代終1 =1945年 |元首等氏名1 =康徳帝([[愛新覚羅溥儀]]){{mn|Infobox_02|2}} |首相等肩書 =[[国務総理大臣]] |首相等年代始1 =1932年 |首相等年代終1 =1935年 |首相等氏名1 =[[鄭孝胥]] |首相等年代始2 =1935年 |首相等年代終2 =1945年 |首相等氏名2 =[[張景恵]] |面積測定時期1 = |面積値1 =1,133,437 |人口測定時期1 =1937年 |人口値1 =36,933,206 |変遷1 =建国宣言 |変遷年月日1 =[[1932年]][[3月1日]] |変遷2 =皇帝退位宣言 |変遷年月日2 =[[1945年]][[8月18日]] |通貨 =[[満州国圓]] {{mn|Infobox_03|3}} |時間帯 =+9 |夏時間 = |時間帯追記 ={{mn|Infobox_04|4}} |注記 = * {{mnb|Infobox_01|1}} 1942年 - 1945年。それ以前は「滿洲國國歌」(別曲)(1933年 - 1942年) * {{mnb|Infobox_02|2}} 1934年迄は執政。 * {{mnb|Infobox_03|3}} 1圓=10角=100分 * {{mnb|Infobox_04|4}} [[1937年]]以降。[[1936年]]以前はUTC+8。 * 満洲帝国の基礎情報は基本的に1945年当時に基づく。 }} '''満州国'''('''満洲国'''、まんしゅうこく、{{Lang-en-short|Manchukuo}}、{{ピン音|Mǎnzhōu Guó}})は、[[1932年]]から[[1945年]]の間、'''[[満州]]'''([[南満洲]]:現在の[[中華人民共和国|中国]]東北部)に存在した、事実上[[大日本帝国|日本]]の[[傀儡政権]]とされている[[国家]]である。 [[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国(朝鮮領土)]]および[[中華民国]]、[[ソビエト連邦]]、[[モンゴル人民共和国]]、[[蒙古自治邦政府]]と国境を接していた。 == 概要 == [[満州]](現在の[[中華人民共和国]][[東北地区]]および[[内モンゴル自治区]]北東部)は 、歴史上おおむね[[女真|女真族]](後に[[満州民族|満州族]]と改称)の支配区域であった。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、[[金 (王朝)|金]]や[[後金]](後の[[清]])がある。 [[1931年]](昭和6年)柳条湖事件に端を発した[[満州事変]]が勃発。[[関東軍]]([[大日本帝国陸軍]])は満洲全土を占領、[[1932年]](昭和7年)満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の[[皇帝]][[愛新覚羅溥儀]]を迎えた。溥儀は当初は[[満州国皇帝#執政|執政]]、後に[[満州国皇帝|皇帝]]となった。 [[Image:Puyi-Manchukuo.jpg|right|220px|thumb|愛新覚羅溥儀]] 満洲国は国家理念として、[[満州民族]]と[[漢民族]]、[[モンゴル|モンゴル民族]]からなる「'''満洲人'''、'''満人'''」による[[民族自決]]の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による'''五族協和'''([[日本人]]・漢人・[[朝鮮民族|朝鮮人]]・満洲人・蒙古人)を掲げた[[国民国家]]であることを宣言した。 しかし満洲国は依然、関東軍の強い影響下にあった。当時の[[国際連盟]]加盟国の多くは、「満洲地域は[[中華民国]]の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、[[1933年]](昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。 1945年(昭和20年)8月15日の[[第二次世界大戦]]の日本の敗戦により満洲国は崩壊する。その6日前の8月9日に侵攻してきた[[ソビエト連邦|ソ連]]の支配下となり、次いで、満洲地域は[[中華民国]]の[[国民政府]]に返還された。 満洲国の存在した地域は、古くは満洲([[南満州]])と呼ばれていたが、現在この地域を統治している[[中華人民共和国]]や[[中華民国]]は満洲という呼称を避け、同地域を「[[中国東北部|東北]]」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。 === 日本の影響力 === 満洲国は、日本の影響下にあったことから、事実上日本の[[傀儡政権]]とされている国家である<ref>満洲国については、「日本ないし[[関東軍]]の傀儡国家と規定するものも少なくない」([[山室信一]]『キメラ-満州国の肖像-』[[中公新書]]1138、[[1993年]]、p.6、1993年[[吉野作造賞]]受賞)</ref>。[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]では、満洲国を正式な[[独立国]]として見なさず、否定的文脈では「偽満州国」と記述される<ref>姜念東・解学詩ほか『偽満州国史』(吉林人民出版社、[[1980年]])など</ref>。しかし、現在[[歴史学]]上では受け入れられていないが、傀儡国家ではなかったと位置づける説もある<ref name=nakamura>[[中村粲]]『[[大東亜戦争への道]]』(展転社、[[1990年]])・[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワックBUNKO、[[2005年]])など</ref>。 == 国名 == [[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「'''滿洲國'''」と定められている。日本では第二次世界大戦後、[[当用漢字]]字体表(1949年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(1946年11月16日内閣告示)に含まれていないため、[[文部科学省検定済教科書]]など教育用図書では[[同音の漢字による書きかえ]]に基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。 この国号は、[[1934年]]([[康徳]]元年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。ただし、同日施行された組織法の第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。なお、1934年(康徳元年)4月6日の外交部佈告第5号により、帝政実施後の英称は正称が“Manchoutikuo”または“The Empire of Manchou”、略称が“Manchoukuo”または“The Manchou Empire”と定められている。 * [[満州]]の語源として、[[後金]]時代に[[五行思想]]に基づいて''火''である[[明]]王朝を継承する''水''王朝である[[清]]を構成する民族名として[[女真]]、[[モンゴル|蒙古]]、[[漢民族|漢族]]の統合の象徴として「さんずい」で構成される'''満洲'''が選ばれた経緯もあり、少なくとも文化的に'''満州'''を使用する場合は'''満洲'''と記載されるべきとの立場もある。 == 元号 == # [[大同_(満州)|大同]]([[1932年]][[3月1日]]-[[1934年]][[2月28日]]) # [[康徳]]([[1934年]][[3月1日]]-[[1945年]][[8月18日]]) == 歴史 == === 建国の背景 === ==== 前史 ==== 日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。[[経世家]]の[[佐藤信淵]]は、[[文政]]6年([[1823年]])に著した『[[混同秘策]]』で「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」と満洲領有を説いた。また、幕末の尊皇攘夷家[[吉田松陰]]は『[[幽囚録]]』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と似た主張をしている。 ==== 日本の生命線 ==== [[20世紀]]初頭の日本では、すでに[[外満州]]([[沿海州]]など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企画する[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の[[南下政策]]が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。[[1900年]](明治33年)、ロシアは[[義和団事変]]に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などとともに満洲の各国への開放を主張し、さらに[[イギリス]]と同盟を結んだ([[日英同盟]])。ついにロシアと日本は[[1904年]](明治37年)から翌年にかけて[[日露戦争]]を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め、[[ポーツマス条約]]で朝鮮半島における自国の優位の確保や、[[遼東半島]]の租借権と[[東清鉄道]]南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国の権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった。この状況について当時日本に在住していた[[ポルトガル]]の外交官[[ヴェンセスラウ・デ・モラエス]]は、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている<ref>[http://www.kufs.ac.jp/toshokan/hearn&moraes/heamor-fra2.htm ヴェンセスラウ・デ・モラエス『日本通信』] 京都外国語大学付属図書館</ref>。 [[1917年]](大正6年)、[[第一次世界大戦]]中に[[ロシア革命]]が起こり、[[ソビエト連邦]]が成立する。日本は[[シベリア出兵]]で満洲の北にあるロシア極東に内政干渉を行うも失敗。[[共産主義]]の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、'''日本の生命線'''と見なされるようになった。 ==== 満洲における状況 ==== 満洲は清朝時代には帝室の故郷として[[漢民族]]の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって[[直隷]]・[[山東省|山東]]から多くの移民が発生し、急速に[[漢化]]と開拓が進んでいた。これに目をつけたのが清末の有力者・[[袁世凱]]であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った[[馬賊]]上がりの将校・[[張作霖]]が台頭、張は袁が任命した奉天都督の[[段芝貴]]を追放し、在地の郷紳などの支持の下[[軍閥]]として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。さらに中国内地では[[蒋介石]]率いる[[中国国民党|国民党]]が戦力をまとめあげて[[南京市|南京]]から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、[[1920年代]]の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の[[石原莞爾]]らによって[[万里の長城|長城]]以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。 === 満洲事変 === [[Image:Zhang zuolin car.jpg|right|220px|thumb|張作霖爆殺事件の現場]] ''詳しくは[[満州事変]]を参照。'' [[1928年]](昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民軍に敗れて満洲へ撤退した。[[田中義一]]首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀[[河本大作]]ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断、独自の判断で張作霖を殺害したとされる([[張作霖爆殺事件]])。関東軍は自ら実行した事を隠蔽するものの公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子[[張学良]]は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして、日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、[[1931年]](昭和6年)[[9月18日]]、[[満州事変]]を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。 また、日本国内の問題として、昭和恐慌([[1930年]]:昭和5年)以来の不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカや[[ブラジル]]などへの国策的な[[移民]]によってこの問題の解消が図られていた。ところが[[1924年]](大正13年)にアメリカで[[排日移民法]]が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ'''満洲事変'''が発生すると、当時の[[若槻禮次郎]]内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。 === 建国 === [[Image:Inauguration Ceremony of Chief Executive of Manchukuo.JPG|right|220px|thumb|「執政」就任式典]] [[Image:Signature of Japan-Manchukuo Protocol.JPG|right|220px|thumb|日満議定書の調印式]] [[1931年]]9月、満洲事変を起こして全満洲を日本の関東軍が占領すると、翌[[1932年]][[2月]]に、[[遼寧省|遼寧]](当時は[[奉天省]])・[[吉林省|吉林]]・[[黒竜江省]]の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする'''[[東北行政委員会]]'''を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。元首として清朝最後の皇帝'''愛新覚羅溥儀'''が'''満洲国執政'''として即位し、1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された(元号は[[大同_(満州)|大同]])。[[首都]]には[[長春]]が選ばれ、'''[[新京]]'''と改名された。 その後1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した([[元号]]は[[康徳]]に改元(当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更))。[[国務総理大臣]]([[首相]])には[[鄭孝胥]](後に[[張景恵]])が就任した。 === 満洲国をめぐる国際関係 === 一方、満洲事変の端緒となる[[柳条湖事件]]が起こると、[[国際連盟]]理事会はこの問題を討議し、[[1931年]][[12月]]に、[[イギリス]]人の[[ヴィクター・リットン]][[卿]]を団長とする[[リットン調査団]]を派遣することを決議した。[[1932年]][[3月]]から[[6月]]まで中国と満洲を調査したリットン調査団は、[[10月2日]]に至って満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する報告書を提出した。 [[9月15日]]に[[斎藤内閣]]のもとで政府としても満洲国の独立を[[国家の承認|承認]]、[[日満議定書]]を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、[[松岡洋右]]を主席全権とする代表団を[[ジュネーヴ]]で開かれた国際連盟に送り満洲国建国の正当性を訴えたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後の[[タイ王国]])で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として[[1933年]]3月に国際連盟を脱退する。 === 第二次世界大戦 === [[Image:Showa Steel Works.JPG|220px|thumb|鞍山製鉄所]] [[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の開戦直前の[[1941年]][[12月4日]]、日本の[[大本営政府連絡会議]]は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上適性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止しする一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。 しかし、日本の敗戦の色の濃くなった[[1944年]]に入ると、同年7月29日に鞍山の[[昭和製鋼所]](鞍山製鉄所)など重要な工業基地が[[連合国|連合軍]]、特に[[アメリカ軍]]の[[ボーイング]][[B-29 (爆撃機)|B29]]爆撃機の盛んな[[空襲]]を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。 1945年5月には同盟国の[[ドイツ]]が降伏し、日本はたった1国でアメリカ、中華民国、イギリス、[[フランス]]、[[オランダ]]などの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めを迎え、[[太平洋]]戦線では前年の[[フィリピン]]に続き3月には[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]が、6月には[[沖縄本島|沖縄]]が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題となっていた。 === 崩壊 === {{中国の歴史}} そんな中、[[ソビエト連邦]]は[[ヤルタ会談]]において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、[[1946年]][[4月26日]]まで有効だった[[日ソ中立条約]]を破棄して、8月8日に日本に[[宣戦布告]]し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイの[[ゾルゲ]]から得ていた[[関東軍特殊演習]]の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍は満洲国に対しても西の[[モンゴル人民共和国|外蒙古(モンゴル人民共和国)]]及び東の[[沿海州]]、北の[[孫呉]]方面及び[[ハイラル]]方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。なお、ソ連は参戦にあたり、日本政府に対しては宣戦を布告したが、満洲国に対しては、そもそも国家として承認していなかったことから、何の外交的通告も行われなかった。また、満洲国は満洲国防衛法を発動し戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱等により最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。 一方、満洲国を防衛する日本の[[関東軍]]は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、[[1942年]]以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかった。兵力の数的な不足と同時に、精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった([[ソ連対日参戦]]を参照)。 そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は[[8月10日]]、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に[[満蒙開拓移民]]団員([[#満蒙開拓移民|後述]])をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。 ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生したとされる(但し被害を証明する文献は少ない)。また日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ満洲族や漢族、朝鮮族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、[[中央アジア]]等に連行・抑留された者もいる。 この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の[[中華民族|中国人]]に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った[[中国残留日本人|中国残留日本人孤児]]が数多く発生した。その後、日本人は[[新京]]や[[大連市|大連]]などの大都市に集められたが、日本本国への[[引き揚げ]]作業は遅れ、漸く46年から開始された([[葫芦島在留日本人大送還]])。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。 一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては『解放』であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。 皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、[[8月15日]]の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の[[8月17日]]、国務院は満洲国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。 なお溥儀は退位宣言の翌日、[[通化]]飛行場から飛行機で日本に逃亡する途中、[[奉天]]でソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕され、[[通遼]]を経由してソ連・[[チタ]]の収容施設に護送された。 === その後の満洲地域 === ==== 日本兵と日本人入植者 ==== 戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除させ捕虜とし、シベリアや中央アジア等の極北の僻地に強制連行して抑留し、過酷な労働を強要した。更には民間人も18歳から45歳までの男性を有無を言わさず逮捕収用し、65万からの日本人が極度の栄養失調状態のうえ極寒の環境にさらされた、この[[シベリア抑留]]によって帰国を待たずその地で命を落とす者が25万人以上出たといわれる。 一方、逃避行の果てに、ようやく[[内地]]の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「[[引揚者]]」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が[[満蒙開拓移民]]団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。 ==== 統治 ==== 満洲は翌[[1946年]]4月までソ連軍に占領され、彼らは[[東ヨーロッパ|東欧]]地域同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪してソ連本国に持ち帰ったりした。5月には完全に撤退し、[[蒋介石]]率いる中華民国に返還された。 しかし、その頃から農村部を拠点とする[[八路軍]]による[[中華民国軍]]へのゲリラ戦が活発化し、[[1948年]]秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた[[中国共産党]]の[[人民解放軍]]が都市部も含む満洲全域を制圧した。[[毛沢東]]は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「''中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる''」として、満洲の制圧に全力を注ぎ、[[八路軍]]きっての猛将・[[林彪]]と当時の[[中国共産党]]ナンバー2・[[高崗]]が満洲での解放区の拡大を任されていた。 中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。その後、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、ソ連からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北し、中華民国政府は[[台湾島]]に遷都した。その後の[[1949年]]に設立された[[中華人民共和国]]は、満洲国のあったエリアに新たに[[内モンゴル自治区]]を新設した。 ====現在==== 満洲国の崩壊から60年を経た現在では、[[満州族]]も数ある周辺少数民族の1つという位置付けになり、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内でも多用されない言葉になっている。今日、満洲国の残滓は歴史資料や文学、そして一部の残存建築物などの中にだけ存在し、政治的に有用な歴史的遺構は「日本統治時代の残虐行為の証拠」として中国共産党政権のプロパガンダに使用されている。 == 地理 == [[Image:Manchukuo Hsinking avenue.jpg|right|250px|thumb|新京・大同大街]] [[Image:Manchuria.jpg|right|250px|thumb|満洲国地図]] === 主な都市 === {| |Valign=top| * [[新京]](現:[[長春]]) * [[奉天]](現:[[瀋陽]]) * [[満州里]] * [[吉林]] * [[通化]] * [[ハルビン]] |Valign=top| * [[チチハル]] * [[営口]] * [[丹東|安東]] * [[敦化]] * [[ハイラル区|ハイラル]] |} === 行政区分 === {| |Valign=top| * [[新京|新京特別市]] * [[吉林省 (満州国)|吉林省]] * [[四平省]] * [[通化省]] * [[間島省]] * [[龍江省]] **([[吉林省]]) |Valign=top| * [[浜江省]] * [[牡丹江省]] * [[東安省]] * [[三江省]] * [[北安省]] * [[黒河省]] **([[黒龍江省]]) |Valign=top| * [[安東省]] * [[奉天省]] * [[錦州省]] * [[関東州]] **([[遼寧省]]) |Valign=top| * [[興安省]] * [[熱河省]] **([[内モンゴル自治区]]) **([[河北省]]) |} :<small>上記の括弧に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。</small> * [[関東州]] - 満洲国建国以前から日本の中国からの[[租借地]]であったが、満洲国建国後は満洲国の領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。 == 人口 == 1908年の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに[[移民国家]]としての側面が強かったことがうかがえる。 1934年の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、 {|border="0" cellpadding="3" |満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) |align="right" |30,190,000人 |align="right" |(97.8%) |- |日本人 |align="right" |590,760人 |align="right" |(1.9%) |- |ロシア人・モンゴル人等の他人種 |align="right" |98,431人 |align="right" |(0.3%) |} 上記の『満洲人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。 日本側の資料によると、1940年の満洲国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。 主要都市の人口は下記のとおり。 {|border="0" | [[営口]]||: |align="right" |119,000人||もしくは |align="right" |180,871人||(1940年) |- | [[奉天]]||: |align="right" |339,000人||もしくは |align="right" |1,135,801人||(1940年) |- | [[新京]]||: |align="right" |126,000人||もしくは |align="right" |544,202人||(1940年) |- | [[ハルビン]]||: |align="right" |405,000人||もしくは |align="right" |661,948人||(1940年) |- | [[大連市|大連]]||: |align="right" |400,000人||もしくは |align="right" |555,562人||(1939年) |- | [[丹東|安東]]||: |align="right" |92,000人||もしくは |align="right" |315,242人||(1940年) |- | [[吉林]]||: |align="right" |119,000人||もしくは |align="right" |173,624人||(1940年) |- | [[チチハル]]||: |align="right" |75,000人|| |align="right" | ||(1940年) |} 統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満洲国に[[国籍]]というものがなく、[[国勢調査]]が実質実施不能だったという事によるものである。また、満洲国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。 === 国籍法の不存在 === 満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては、満洲「国民」は存在しなかった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題などがあったと考えられる。 === 日本人の人口 === 1931年から1932年、満洲には59万人の在満洲の日本人がいて、うち10万人は農家だった。営口では人口の25%が日本人だったという。 日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が[[日本海]]及び[[黄海]]の制空権・制海権を失った段階で停止した。([[#満蒙開拓移民|後述]]) 終戦時、ソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、実に85万人の日本人移住者を捕獲した。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送り返されている。 === ユダヤ人自治州 === 日本政府は[[ユダヤ教徒]]による[[ユダヤ人]][[自治州]]を企図しており、明らかにユダヤ人を必要としない[[ナチス党]]率いる[[ドイツ]]政府に対し、その受け入れを打診していた([[河豚計画]])。それは一種の亜流[[シオニズム]]とも言えるが、満洲国にユダヤ人自治州ができれば、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]財界の中核をなすユダヤ人の巨額な支援が得られる事を狙ったものだという向きが強い。 同じ様な施策・構想として、[[ソビエト]]政府の[[ユダヤ自治州]]、[[ドイツ]]政府が検討していた[[マダガスカル]]強制移住構想があるが、既に戦時中であった日独両国については計画を遂行する余裕は無く、少数のユダヤ人が満洲国に移住しただけだった。 後半は、[[満州国-2]]参照 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月18日 (土) 17:44。]    

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