満州国-2

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'''満州国'''(満洲国、まんしゅうこく、[[英]]Manchukuo、[[ピン音]]、Mǎnzhōu Guó)は、[[1932年]]から[[1945年]]の間、'''[[満州]]'''([[南満洲]]:現在の[[中華人民共和国]][[東北地区]]および[[内モンゴル自治区]]北東部)に存在した[[国家]]で、[[日本]]の[[傀儡国家]]である。[[日本統治時代の朝鮮]]、[[中華民国]]、[[ソビエト連邦]]、[[モンゴル人民共和国]]と国境を接していた。 {{基礎情報 過去の国 |略名 =満州国 |日本語国名 =満州国 |公式国名 =<b lang="zh">滿洲國</b> |建国時期 =[[1932年]] |亡国時期 =[[1945年]] |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Flag of Manchukuo.svg |国章画像 =Manchukuo Coat Of Arms.svg |国章幅 = 100px |標語 =五族協和の王道楽土 |国歌名 =滿洲國國歌 |国歌追記 ={{mn|Infobox_01|1}} |位置画像 =China-Manchukuo-map.png |公用語 =[[中国語]](北京官話)、[[北京語]]、[[モンゴル語]]、[[日本語|日語]] |首都 =[[新京]] |最大の都市 =[[奉天]] |元首等肩書 =[[元首]]([[皇帝]]) |元首等年代始1 =1934年 |元首等年代終1 =1945年 |元首等氏名1 =康徳帝([[愛新覚羅溥儀]]){{mn|Infobox_02|2}} |首相等肩書 =[[満州国の首相|国務総理大臣]] |首相等年代始1 =1932年 |首相等年代終1 =1935年 |首相等氏名1 =[[鄭孝胥]] |首相等年代始2 =1935年 |首相等年代終2 =1945年 |首相等氏名2 =[[張景恵]] |面積測定時期1 = |面積値1 =1,133,437 |人口測定時期1 =1937年 |人口値1 =36,933,206 |変遷1 =建国宣言 |変遷年月日1 =[[1932年]][[3月1日]] |変遷2 =皇帝退位宣言 |変遷年月日2 =[[1945年]][[8月18日]] |通貨 =圓 {{mn|Infobox_03|3}} |時間帯 =+9 |夏時間 = |時間帯追記 ={{mn|Infobox_04|4}} |注記 = * {{mnb|Infobox_01|1}} 1942年 - 1945年。それ以前は「滿洲國國歌」(別曲)(1933年 - 1942年) * {{mnb|Infobox_02|2}} 1934年迄は執政。 * {{mnb|Infobox_03|3}} 1圓=10角=100分 * {{mnb|Infobox_04|4}} [[1937年]]以降。[[1936年]]以前はUTC+8。 * 満州帝国の基礎情報は基本的に1945年当時に基づく。 }} == 概要 == この地域は、歴史上おおむね女真族の支配区域であった。女真族の中には皇帝にまでなるものもあらわれ、遼国や金国や清国を建国した。満州国は元首として、滅亡した[[清]]の最後の[[皇帝]][[愛新覚羅溥儀]]を迎えた。清は[[満州民族]]の建てた[[帝国]]であり、溥儀は当初は[[執政]]、のちに皇帝となった。 満州国は国家理念として、[[満州民族]]と[[漢民族]]、[[モンゴル|モンゴル民族]]からなる「'''満州人'''、'''満人'''」による[[民族自決]]の原則に基づき、また、満州国に在住する主な民族による'''五族協和'''([[日本人]]・[[漢人]]・[[朝鮮人]]・[[満州人]]・[[蒙古人]])を掲げた[[国民国家]]であることを宣言した。 しかし現実には満州国は[[満州事変]]([[1931年]])以降この地域を実効[[占領]]している[[大日本帝国]]の[[関東軍]]の強い影響下にあった。当時の[[国際連盟]]加盟国の多くは、「満州国は日本の[[傀儡政権]]であり、満州地域は[[中華民国]]の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、[[1933年]]に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。 1945年8月15日の[[第二次世界大戦]]([[大東亜戦争]])の日本の敗戦により満州国は崩壊する。その6日前の8月9日に侵攻してきた[[ソビエト連邦|ソ連]]の支配下となり、次いで、満州地域は[[中華民国]]の[[中国国民党|国民党]]政権に返還された。 「満州国」は現在の中華民国や、現在この地域を統治している[[中華人民共和国]]では'''偽満州国'''あるいは'''偽満'''と呼ばれ、正当な国家ではないとしており、この地域一帯も「[[中国東北部|東北]]」と呼んでいる。日本では通常、この地域のことを公の場では「[[中国東北部|東北部]]」かまたは注釈として'''旧満州'''という呼称を用いている。 == 国名 == 1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。日本では戦後、当用漢字字体表(1949年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(1946年11月16日内閣告示)に含まれていないため、文部省検定済教科書など教育用図書では当用漢字表の趣旨(使用する漢字の制限)に基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記した。 この国号は、1934年(康徳元年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。ただし、同日施行された組織法の第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。なお、[[英語]]では <strong lang="en">Manchukuo</strong> である。 * [[満州]]の語源として、[[後金]]時代に[[五行思想]]に基づいて'''火'''である[[明]]王朝を継承する'''水'''王朝である[[清]]を構成する民族名として[[女真]]、[[蒙古]]、[[漢族]]の統合の象徴として「さんずい」で構成される'''満洲'''が選ばれた経緯もあり、少なくとも文化的に'''満州'''を使用する場合は'''満洲'''と記載されるべきとの立場もある。 == 元号 == # [[大同_(満州)|大同]]([[1932年]][[3月1日]]-[[1934年]][[2月29日]]) # [[康徳]]([[1934年]][[3月1日]]-[[1945年]][[8月18日]]) == 歴史 == === 建国の背景 === [[20世紀]]初頭の日本では、すでに[[外満州]]([[沿海州]]など)を領有し、残る満州全体を影響下に置くことを企画する[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の[[南下政策]]が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。[[1900年]]、ロシアは[[義和団事変]]に乗じて満州を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などとともに満州の各国への開放を主張し、さらに[[イギリス]]と同盟を結んだ([[日英同盟]])。ついにロシアと日本は[[1904年]]から翌年にかけて[[日露戦争]]を満州の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め、[[ポーツマス条約]]で朝鮮半島における自国の優位の確保や、[[遼東半島]]の租借権と[[東清鉄道]]南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満州の権益の確保に乗り出すようになり、アメリカなどの反発を招いた。 [[1917年]]、[[第一次世界大戦]]中に[[ロシア革命]]が起こり、[[ソビエト連邦]]が成立する。日本は[[シベリア出兵]]で満州の北にあるロシア極東に内政干渉を行うも失敗。[[共産主義]]の拡大に対する防衛基地として満州の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。 一方、満州は清朝時代には帝室の故郷として[[漢民族]]の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって[[直隷]]・[[山東省|山東]]から多くの移民が発生し、急速に[[漢化]]と開拓が進んでいた。これに目をつけたのが清末の有力者・[[袁世凱]]であり、彼は満州の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満州で生まれ育った[[馬賊]]上がりの将校・[[張作霖]]が台頭、張は袁が任命した奉天都督の[[段芝貴]]を追放し、在地の郷紳などの支持の下[[軍閥]]として独自の勢力を確立した。満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満州における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。さらに中国内地では[[蒋介石]]率いる[[中国国民党|国民党]]が戦力をまとめあげて[[南京]]から北上し、この影響力が満州に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、[[1920年代]]の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の[[石原莞爾]]らによって[[万里の長城|長城]]以東の全満州を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。 === 満州事変 === [[Image:Zhang zuolin car.jpg|right|220px|thumb|張作霖爆殺事件の現場]] [[1928年]]5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民軍に敗れて満州へ撤退した。[[田中義一]]首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀[[河本大作]]ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断、独自の判断で張作霖を殺害したとされる([[張作霖爆殺事件]])。関東軍は自ら実行した事を隠蔽するものの公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子[[張学良]]は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして、日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、[[1931年]][[9月18日]]、[[満州事変]]を起こして満州全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満州から撤退し、満州は関東軍の支配下に入った。 また、日本国内の問題として、昭和恐慌([[1930年]])以来の不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカや[[ブラジル]]などへの国策的な[[移民]]によってこの問題の解消が図られていた。ところが[[1924年]]にアメリカで[[排日移民法]]が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ'''満州事変'''が発生すると、当時の[[若槻礼次郎]]内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。 === 建国 === [[画像:満州.JPG|right|220px|thumb|満州国建国宣言文]] [[1931年]]9月、満州事変を起こして全満州を日本の関東軍が占領すると、翌[[1932年]][[2月]]に、[[遼寧省|遼寧]](当時は[[奉天省]])・[[吉林省|吉林]]・[[黒竜江省]]の要人が関東軍司令官を訪問し、満州新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする'''[[東北行政委員会]]'''を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。元首として清朝の最後の皇帝'''愛新覚羅溥儀'''を担いで'''満州国執政'''とし、1932年3月1日に満州国の建国が宣言された(元号は大同)。[[首都]]には[[長春]]が選ばれ、'''[[新京]]'''と改名された。 その後[[1934年]][[3月1日]]には溥儀が皇帝として即位し、満州国は帝制に移行した。([[元号]]は[[康徳]]に改元〈当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更〉)。首相には[[鄭孝胥]](後に[[張景恵]])が就任した。 しかし帝政とは言っても重要事項の決定には関東軍の認証が必要であり、また官職の約半分が日本人で占められ、軍隊や国籍法が存在しないことなど、日本の影響力は大きく、国際的には日本の「傀儡国家」とみなされていた。また日本側も支配者階級を丸出しにして現地人の土地を強制徴収し、日本人入植者に供与するなど、五族協調は名ばかりでもあった。 === 満州国をめぐる国際関係 === 一方、満州事変の端緒となる[[柳条湖事件]]が起こると、[[国際連盟]]理事会はこの問題を討議し、[[1931年]][[12月]]に、[[イギリス]]人の[[ヴィクター・リットン]][[卿]]を団長とする[[リットン調査団]]を派遣することを決議した。[[1932年]][[3月]]から[[6月]]まで中国と満州を調査したリットン調査団は、[[10月2日]]に至って満州事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満州に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満州における特殊権益を認め、満州に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する報告書を提出した。 [[9月15日]]に[[斎藤実]]内閣のもとで政府としても満州国の独立を[[国家の承認|承認]]、[[日満議定書]]を締結して満州国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、[[松岡洋右]]を主席全権とする代表団を[[ジュネーヴ]]で開かれた国際連盟に送り満州国建国の正当性を訴えたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後の[[タイ王国]])で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として[[1933年]]3月に国際連盟を脱退する。 === 第二次世界大戦 === [[1941年]][[12月8日]]の真珠湾攻撃後に、日本と歩調を合わせて[[連合国]]に対し[[宣戦布告]]したものの、日本軍が[[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]と戦っていた南方戦線からは遠かった上、[[日ソ中立条約]]が存在していたためにソビエト連邦の間とは戦闘状態にならなかったため平静が続いた。 しかし、日本の敗戦の色の濃くなった[[1944年]]に入ると、同年7月29日に鞍山の[[昭和製鋼所]]([[鞍山製鉄所]])など重要な工業基地が[[連合軍]]、特に[[アメリカ軍]]の[[ボーイング]][[B-29 (爆撃機)|B29]]爆撃機の盛んな[[空襲]]を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満州飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。 1945年5月には同盟国の[[ドイツ]]が降伏し、日本はたった1国で中華民国、イギリス、アメリカ、[[フランス]]、[[オランダ]]などの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めを迎え、[[太平洋]]戦線では前年の[[フィリピン]]に続き3月には[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]が、6月には[[沖縄]]が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題となった。 === 崩壊 === そんな中ソビエト連邦は[[ヤルタ会談]]において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、[[1946年]][[4月26日]]まで有効だった[[日ソ中立条約]]を破棄して、8月8日に日本に[[宣戦布告]]し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイの[[ゾルゲ]]から得ていた[[関東軍特殊演習]]の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍は満州国に対しても西の[[モンゴル人民共和国|外蒙古(モンゴル人民共和国)]]及び東の[[沿海州]]、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。それに対して満州国を防衛する[[関東軍]]は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、[[1942年]]以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持たないこと、また関東軍自体の戦闘力の水準の低さ、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった([[ソ連対日参戦]]を参照)。 そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の軍属(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は[[8月10日]]、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に[[満蒙開拓移民]]団員([[#満蒙開拓移民|後述]])をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満州領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。 ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生したとされる(但し被害を証明する文献は少ない)。また日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ満州族や漢族、朝鮮族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、[[中央アジア]]等に連行・抑留された者もいる。 この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の[[中華民族|中国人]]に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った[[中国残留日本人|中国残留日本人孤児]]が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが引き揚げ作業は遅れ、漸く46年から開始されるが、その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。 一方ソ連軍の侵攻は満州国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては『解放』であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満州国軍や関東軍の朝鮮人・中国人・蒙古人部隊からもソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。 皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、[[8月15日]]の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の[[8月17日]]、国務院は満州国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満州帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。 なお溥儀は退位宣言の翌日、[[通化]]飛行場から飛行機で日本に逃亡する途中、[[奉天]]でソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕され、[[通遼]]を経由してソ連・[[チタ]]の収容施設に護送された。 === その後の満州地域 === ==== 日本兵と日本人入植者 ==== 戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除させ捕虜とし、シベリアや中央アジア等の極北の僻地に強制連行して抑留し、過酷な労働を強要した。更には民間人も18歳から45歳までの男性を有無を言わさず逮捕収用し、65万からの日本人が極度の栄養失調状態のうえ極寒の環境にさらされた、この[[シベリア抑留]]によって帰国を待たずその地で命を落とす者が25万人以上出たといわれる。 一方、逃避行の果てに、ようやく[[内地]]の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「[[引揚者]]」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が[[満蒙開拓移民]]団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いづれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。 ==== ソ連から中華民国、中華人民共和国へ ==== 満州は翌[[1946年]]4月までソ連軍に占領され、彼らは[[東欧]]地域同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪してソ連本国に持ち帰ったりした。5月には完全に撤退し、[[蒋介石]]の[[国民政府]]に返還されたが、その頃から農村部を拠点とする[[八路軍]]のゲリラ戦が活発化し、[[1948年]]秋の遼瀋戦役で[[人民解放軍]]が都市部も含む満州全域を制圧した。[[毛沢東]]は満州国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「'''中国本土を国民政府に奪回されようとも、満州さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる'''」として、満州の制圧に全力を注ぎ、[[八路軍]]きっての猛将・[[林彪]]と当時の中国共産党ナンバー2・[[高崗]]が満州での解放区の拡大を任されていた。 国民政府は、行政区分を満州国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。後の[[1949年]]に設立された[[中華人民共和国]]は、新たに[[内モンゴル自治区]]を新設した。 満州国の崩壊から60年を経た現在では、[[満州族]]も数ある周辺少数民族の1つという位置付けになり、「満州」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内でも多用されない言葉になっている。今日、満州国の残滓は歴史資料や文学、そして一部の残存建築物などの中にだけ存在し、政治的に有用な歴史的遺構は「日本統治時代の残虐行為」の証拠として活用されている。 == 地理 == === 主な都市 === [[Image:Manchukuo Hsinking avenue.jpg|right|220px|thumb|新京・大同大街]] * [[新京]](現:[[長春]]) * [[奉天]](現:瀋陽) * [[満州里]] * [[吉林]] * [[通化]] * [[ハルビン]] * [[チチハル]] * [[営口]] * [[丹東|安東]] * [[敦化]] * [[ハイラル区|ハイラル]] === 行政区分 === * [[新京|新京特別市]] * [[吉林省 (満州国)|吉林省]] * [[四平省]] * [[通化省]] * [[間島省]] * [[龍江省]] (上記は現在の中華人民共和国では[[吉林省]]となる) * [[浜江省]] * [[牡丹江省]] * [[東安省]] * [[三江省]] * [[北安省]] * [[黒河省]] (上記は現在の中華人民共和国では[[黒龍江省]]となる) * [[安東省]] * [[奉天省]] * [[錦州省]] (上記は現在の中華人民共和国では[[遼寧省]]となる) * [[興安北省]] * [[興安東省]] * [[興安南省]] * [[興安西省]] * [[熱河省]] (上記は現在の中華人民共和国では[[内モンゴル自治区]]となる。なお、熱河省の南部は、現在の[[河北省]]の一部である) [[関東州]](現在の遼寧省の一部)は、満州国建国以前から日本が中国から租借していたが、満州国建国後は満州国の領土の一部とされ、満州国からの[[租借地]]として扱われた。 == 人口 == 1908年の時点で、満州の人口は1583万人だったが、満州国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに[[移民国家]]としての側面が強かったことがうかがえる。 1934年の初めの満州国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、 {|border="0" cellpadding="3" |中国人(満州人) |align="right" |30,190,000人 |align="right" |(97.8%) |- |日本人 |align="right" |590,760人 |align="right" |(1.9%) |- |ロシア人・モンゴル人等の他人種 |align="right" |98,431人 |align="right" |(0.3%) |} 上記の『中国人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。 日本側の資料によると、1940年の満州国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。 主要都市の人口は下記のとおり。 {|border="0" | [[営口]]||: |align="right" |119,000人||もしくは |align="right" |180,871人||(1940年) |- | [[奉天]]||: |align="right" |339,000人||もしくは |align="right" |1,135,801人||(1940年) |- | [[新京]]||: |align="right" |126,000人||もしくは |align="right" |544,202人||(1940年) |- | [[ハルビン]]||: |align="right" |405,000人||もしくは |align="right" |661,948人||(1940年) |- | [[大連]]||: |align="right" |400,000人||もしくは |align="right" |555,562人||(1939年) |- | [[丹東|安東]]||: |align="right" |92,000人||もしくは |align="right" |315,242人||(1940年) |- | [[吉林]]||: |align="right" |119,000人||もしくは |align="right" |173,624人||(1940年) |- | [[チチハル]]||: |align="right" |75,000人|| |align="right" | ||(1940年) |} 統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満州国に[[国籍]]というものがなく、[[国勢調査]]が実質実施不能だったという事によるものである。また、満州国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。 === 国籍法の不存在 === 満州国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては、満州「国民」は存在しなかった。国籍法が制定されなかった背景として、日本人が統治する傀儡国家であったこと、朝鮮人を「日本人」として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題などがあったと考えられる。 === 日本人の人口 === 1931年から1932年、満州には59万人の在満州の日本人がいて、うち10万人は農家だった。営口では人口の25%が日本人だったという。 日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が[[日本海]]及び[[黄海]]の制空権・制海権を失った段階で停止した。([[#満蒙開拓移民|後述]]) 終戦時、ソビエト連邦が満州に侵攻した際には、実に85万人の日本人移住者を捕獲した。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送り返されている。 === ユダヤ人自治州 === 日本政府は[[ユダヤ教徒]]による[[ユダヤ人]][[自治州]]を企図しており、明らかにユダヤ人を必要としない[[ナチス党]]率いる[[ドイツ]]政府に対し、その受け入れを打診していた([[河豚計画]])。それは一種の亜流[[シオニズム]]とも言えるが、満州国にユダヤ人自治州ができれば、[[アメリカ]]財界の中核をなすユダヤ人の巨額な支援が得られる事を狙ったものだという向きが強い。 同じ様な施策・構想として、[[ソビエト]]政府の[[ユダヤ自治州]]、[[ドイツ]]政府が検討していた[[マダガスカル]]強制移住構想があるが、既に戦時中であった日独両国については計画を遂行する余裕は無く、少数のユダヤ人が満州国に移住しただけだった。 == 政治 == [[Image:Manchukuo politician.jpg|right|220px|thumb|満州国の初代内閣]] 満州国は公式には'''[[五族協和]]の[[王道楽土]]'''を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、[[アジア]]での多民族共生の実験国家であるとされていた。'''五族協和'''とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、'''王道楽土'''とは、西洋の「[[覇道]]」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満州国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満州にはこの五族以外にも、[[ロシア革命]]後に[[共産主義]]政権を嫌いソビエトから逃れてきた[[白系ロシア人]]等も居住していた。その中でも特に、[[ボリシェヴィキ]]との戦争に敗れて亡ぼされた[[緑ウクライナ]]の[[ウクライナ人]]勢力と満州国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、[[1937年]]にはウクライナ人組織にかわって[[ロシア人]]のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断行した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、[[太平洋]]方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。 満州国は建国の経緯もあって日本の計画的支援のもと、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満州国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満州国の人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は豊かな資源を持つ満州国が日本帝国にとっての『フロンティア』であったことを示している。 その一方で日本内地人や日本の植民地統治に服していた朝鮮人などには日本国籍を維持させ、日本内地人は満州国でも当然のように他民族に優越する指導者民族としての地位を付与されるなど満州国の国民形成が十分に行われなかったことはこの国が傀儡国家視される所以である。 猶日本にとっての植民地民族である朝鮮人・台湾人と満州国土着の満州人・漢人は共に大和民族(日本内地人)より劣位に置かれたが、日本の支配に服した年数の長い朝鮮人・台湾人が(内地人の地位を脅かさない限りに留まるものの)『第二日本人』として後者に比してやや優越する地位を与えられていた。これは満州で人口的に圧倒的な漢人・満人を朝鮮人・台湾人に牽制させ、両者が協力して日本の支配に対抗することを防ぐ狙いもあった。そして実際に少なからぬ親日派の台湾人・朝鮮人が中級官僚・軍人などの中間管理層として、満州に配属された。(新京市長になった台湾人も存在する) また日本人の為の農地は中国人や朝鮮族の農地を強制的に取り上げて用意された場合が多かったことは中国人その他の恨みを買い、後の満州国崩壊時における報復へと繋がる。これらの建前と本音の乖離を正当化する理論としては台湾や朝鮮の植民地支配同様各民族の『皇民度』の違いが使われ、後の『大東亜共栄圏』に繋がっていった。 * [[満州国の国旗]]及び[[満州国の国歌|国歌]]はそれぞれの項目を参照。 === 国家機関 === 満州国政府は、[[国家元首]]として'''執政(後に皇帝)'''、諮詢機関として'''[[満州国参議府|参議府]]'''、行政機関として'''[[満州国国務院|国務院]]'''、司法機関として'''[[満州国法院|法院]]'''、立法機関として'''[[満州国立法院|立法院]]'''、監察機関として'''[[満州国監察院|監察院]]'''を置いた。建国当初は[[中華民国の政治|中華民国の国家機関]]に似通っていたが、次第に[[大日本帝国|日本]]色が強くなっていった。 国務院には'''[[総務庁 (満州国)|総務庁]]'''が設置され、官制上は[[国務院総理]]の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満州国行政の実質的な中核として機能した。 === 元首 === [[Image:Manchukuo palace.jpg|right|220px|thumb|皇宮として建てられた同徳殿]] 元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀が就任し、[[康徳]]4年3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝陛下の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。また、帝位継承法の想定外の事態に備えて、日本大使兼[[関東軍]]司令官との会談で、皇帝は自身に帝男子が無いときは日本の天皇の叡慮によって皇位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。 === 行政 === [[康徳]]2年(1935年)に満州の独立宣言を発した東北行政委員会の委員長の[[張景恵]]が、'''国務総理大臣'''([[首相]])に就任した。しかし実際の政治運営は、満州帝国駐箚大日本帝国[[特命全権大使]]兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満州国高級官吏、特に日本人が主に就任する[[総務庁 (満州国)|総務庁]]長や各部次長([[次官]])などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。関東軍は満州国政府をして日本人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを'''[[内面指導]]'''と呼んだ([[#二キ三スケ|二キ三スケ]]の節を参照)。 ==== 弐キ参スケ ==== 満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者を指した。彼らの名前から「弐キ参スケ」(又は「二キ三スケ」)などと俗称された。 * [[東條英機]](関東軍参謀長) * [[星野直樹]](国務院総務長官) * [[鮎川義介]](満州重工業開発株式会社社長) * [[岸信介]](総務庁次長) * [[松岡洋右]](満鉄総裁) このうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右を'''満州三角同盟'''ともいう。 === 選挙・政党 === 憲法に相当する'''組織法'''には、[[一院制]][[議会]]であるとして'''[[満州国立法院|立法院]]'''の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、'''[[協和会]]'''という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。 == 外交 == [[画像:満州承認国地図.png|thumb|right|350px|満州国を承認していた国。自由インド仮政府、汪兆銘政権、蒙疆連合自治政府は丸印]] 1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、その後承認を行った国も多く存在し、第二次世界大戦の終結以前に満州国は[[枢軸国]]を中心として、日本の同盟国と傀儡国、[[中立国]]など、以下の23ヶ国の承認を受けていた。(枢)のついている国は枢軸国(離脱した国を含む)。 * [[大日本帝国]]([[日満議定書]]によって承認・枢) * [[中華民国]]南京国民政府([[汪兆銘政権]]・枢) * [[タイ王国|タイ]](枢) * [[ビルマ国|ビルマ]](枢) * [[フィリピン]](枢) * [[蒙古聯合自治政府]]([[内モンゴル]]・枢) * [[自由インド仮政府]](枢) * [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]([[独満修好条約]]によって承認・枢) * [[イタリア王国|イタリア]](後に[[日満伊貿易協定]]を締結・枢) * [[スペイン]] * [[バチカン]] * [[ポーランド]] * [[クロアチア独立国|クロアチア]](枢) * [[ハンガリー王国|ハンガリー]](枢) * [[スロバキア]](枢) * [[ルーマニア]](枢) * [[ブルガリア]](枢) * [[フィンランド]](枢) * [[デンマーク]] * [[エルサルバドル]] == 軍事 == '''[[日満議定書]]'''によって[[関東軍]]の駐留を認めた。[[満州国軍|満州国の国軍]]は、1932年4月15日公布の陸海軍条令をもって成立した。満州国自体の性質上「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から、実質的な国軍化が進められたが、ソ連の対日参戦の際はソ連側に離反する部隊が続出し関東軍の防衛戦略を破綻させた。 == 経済 == [[Image:Manchukuo-poppy harvest.jpg|220px|thumb|満州国内の綿農家]] {{main|満州国の経済}} 政府主導・日本資本導入による[[重工業]]化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による[[農業]]開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、[[日中戦争]](日華事変)による経済的負担、そしてその影響による[[インフレーション]]は、満州国体制に対する満州国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を廃するため一業界につき一社を原則とした。 === 通貨 === 法定通貨は[[満州中央銀行]]が発行した圓(元、yuan)で、1元=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満州国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。現在の中華人民共和国の通貨は人民幣([[人民元]])と呼ばれる。なお中国語では口語で元を塊 (kuai)、角を毛と置き換える事が多く、満州在住の日本人は一般的に「エン」と呼んだ。 国幣は中国の通貨と同じく[[銀本位制]]でスタートし、国幣1元=法幣1元であったが、[[1935年]]11月に日本と同じ[[金本位制]]に移行し、日本円と等価となった。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった[[朝鮮銀行]]発行の日本円も使用された。 満州国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、[[1947年]]に国民政府の中央銀行が発行した東北流通券に交換され、流通停止となった。 === 南満州鉄道 === [[image:満鉄特急あじあ.jpg|220px|thumb|満鉄のシンボル、特急あじあ]] [[Image:Manchukuo SMR headquarters.jpg|220px|thumb|大連満鉄総部]] 日本の半官半民の国策会社[[南満州鉄道]](満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満州国の成立後は特に満州国の経済発展に大きな役割を果たした。 同社は鉄道経営を中心に[[満州航空]]、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などの[[インフラ]]整備も行った。 === 満蒙開拓移民 === 満州国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「[[満蒙開拓移民]]団」と称する移民組織を大々的に募集し多数の日本人を満州に送った。この政策は、[[世界恐慌]]や凶作で経済が疲弊した日本国内から消費人口を減らす、いわば国家レベルでの「口減らし」という側面をもつ一方、徐々に世界から孤立し戦時体制へと歩んでいく日本への食料供給基地として、この開拓団に満州を農地として開拓させることも意図していた。 法律上、「[[外地]]」ではなく「外国」であった満州へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人[[コミュニティ]]の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満州国人」として同化することはまずなかった。 また満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。 「集団部落」反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。 このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員との対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏線となってゆく。 == 交通 == === 鉄道 === [[Image:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg|220px|thumb|満鉄の機関車]] 設立当時は日本の半官半民の国策会社であった南満州鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を基礎に路線を拡張し、沿線各駅一帯に広大な鉄道付属地を抱え、首都[[新京]](現在の[[長春]])や[[奉天]](現在の瀋陽)など主要都市の市街地も大半が鉄道付属地で、満州国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。都市在住の日本人の多くは鉄道付属地に住み、日本企業も鉄道付属地を拠点として治外法権の特権を享受し続けたため、満州国の自立を阻害する結果となり、[[1937年]]に鉄道付属地の行政権は満州国へ返還された。 なお、その路線は新京~大連・旅順間の南満州鉄道のほか、満州国が1935年にソ連から譲渡された北満鉄道(東清鉄道)の運営および新線建設を受託していた。また、一時は[[朝鮮半島]]の鉄道経営を委託されたこともあった。 「[[超特急]]」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車[[あじあ号]]の運行など、主に日本から導入された[[南満州鉄道の車両]]の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。 === 航空 === 1931年に南満州鉄道の系列会社として設立された[[満州航空]]が、満州国内と日本、日本の植民地であった朝鮮半島を結ぶ定期路線を運航していた。なお、満州航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。 == 教育 == 満州国の教育の根本は、建国当初の院令第2号(1932年3月25日公布)に「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」と定められているように、儒教精神の徹底であった。 なお、高等教育機関については [[満州国・関東州の高等教育機関]]を参照 == 文化 == === 映画 === [[1928年]]に南満州鉄道が広報部広報係[[映画]]班、通称「満鉄映画部」を設け、広報([[プロパガンダ]])用記録映画を製作していた。その後[[1937年]]に設立された国策[[映画]]会社である[[満洲映画協会]]が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。 === 漫画 === [[田河水泡]]の当時の大人気漫画「[[のらくろ]]」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜の為、大陸建設の夢の為、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。 序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、[[東洋]]は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった、[[朝鮮]]生まれの犬、[[シナ]]生まれの豚、[[満州]]生まれの羊、[[蒙古]]生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していた所の「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。 === 雑誌 === [[新京]]の藝文社が1942年1月から、満州国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満州公論」に改題。 == 満州国を扱った映画・ドラマ == * [[ラストエンペラー]] - ''The Last Emperor''(1987年):[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督の[[アカデミー賞]]受賞[[映画]]『ラストエンペラー』は、愛新覚羅溥儀の目から見た満州国の建国から滅亡までを描いている。 * [[ノスタルジック・ジャーニー満州]] - 現存する写真や動画をもとに繁栄期を紹介するDVD3枚組BOX 150分 [[ポニーキャニオン]]2004/02/18発売 * [[流転の王妃・最後の皇弟]] - [[テレビ朝日]]開局45周年記念作品として製作されたドラマ。満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑とその妻・浩の視点から満州の歴史と満州滅亡後の“流転の日々”が描かれているが、「“大陸支配の足がかり”としての満州支配」を目論む関東軍を一方的な悪役にしようとせず、「清朝の復活・愛新覚羅一族の再興」という野望を成就させるために関東軍を利用しようと目論む皇帝・溥儀(兄)の姿も描かれている。 == 関連項目 == {{commons|Manchukuo}} {{wikisource|國號ヲ滿洲國トナスヲ佈吿ノ件|国号ヲ満洲国トナスヲ佈告ノ件}} * [[中華民国の歴史]] * [[満州国・関東州の高等教育機関]] * [[十五年戦争]] * [[南満州鉄道]] * [[協和語]] * [[のらくろ]] * [[大地の子]] * [[満州関係記事の一覧]] * [[消滅した政権一覧]] * [[ミュージカル李香蘭]] * [[ミュージカル異国の丘]] * [[工藤忠]] * [[川島芳子]] * [[笹川良一]] * [[間島特設隊]] * [[紫禁城の黄昏]] * [[731部隊]] *[[リットン調査団]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月24日 (水) 06:20。]    
前半は[[満州国]]参照 == 政治 == [[Image:Manchukuo politician.jpg|right|250px|thumb|満洲国の初代内閣]] {{wikisource|王道立國之要旨宣示ノ件|王道立国之要旨宣示ノ件}} 満洲国は公式には'''[[五族協和]]の[[王道楽土]]'''を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、[[アジア]]での多民族共生の実験国家であるとされていた。'''五族協和'''とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、'''王道楽土'''とは、西洋の「[[覇道]]」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、[[ロシア革命]]後に[[共産主義]]政権を嫌いソビエトから逃れてきた[[白系ロシア人]]等も居住していた。 その中でも特に、[[ボリシェヴィキ]]との戦争に敗れて亡ぼされた[[緑ウクライナ]]の[[ウクライナ人]]勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、[[1937年]]にはウクライナ人組織にかわって[[ロシア人]]のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断行した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、[[太平洋]]方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。 満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援のもと、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は豊かな資源を持つ満洲国が日本帝国にとっての『フロンティア』であったことを示している。 なお日本にとっての植民地民族である朝鮮人・台湾人と満洲国土着の満洲人・漢人は共に大和民族(日本内地人)より劣位に置かれたが、日本の支配に服した年数の長い朝鮮人・台湾人が(内地人の地位を脅かさない限りに留まるものの)『第二日本人』として後者に比してやや優越する地位を与えられていた。これは満洲で人口的に圧倒的な漢人・満人を朝鮮人・台湾人に牽制させ、両者が協力して日本の支配に対抗することを防ぐ狙いもあった。そして実際に少なからぬ台湾人・朝鮮人が中級官僚・軍人などの中間管理層として、満洲に配属された(日本国籍を離脱し初代外交部総長に親任された[[謝介石]]を始め、新京市長にまでなった台湾人も存在した)。 * [[満州国の国旗]]及び[[満州国の国歌|国歌]]はそれぞれの項目を参照。 === 国家機関 === 満洲国政府は、[[国家元首]]として'''[[満州国皇帝#執政|執政]]'''(後に'''[[満州国皇帝|皇帝]]''')、諮詢機関として'''[[満州国参議府|参議府]]'''、行政機関として'''[[満州国国務院|国務院]]'''、司法機関として'''[[満州国法院|法院]]'''、立法機関として'''[[満州国立法院|立法院]]'''、監察機関として'''[[満州国監察院|監察院]]'''を置いた。 国務院には'''[[総務庁 (満州国)|総務庁]]'''が設置され、官制上は[[国務総理大臣|国務院総理]]の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。 === 元首 === [[Image:Manchukuo palace.jpg|right|220px|thumb|皇宮として建てられた同徳殿]] 元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀が就任し、康徳4年(1937年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。 また、帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国[[特命全権大使]]兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。 === 行政 === 1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では'''国務院総理'''、帝政移行後は'''[[国務総理大臣]]''')として[[鄭孝胥]]が就任し、1935年(康徳2年)には満洲の独立宣言を発した東北行政委員会委員長の[[張景恵]]が首相に就任した。 しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国[[特命全権大使]]兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する[[総務庁 (満州国)|総務庁]]長や各部次長([[次官]])などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。 また官職の約半分が日本人で占められ、国籍法が存在しないなど、政治的な欠陥があった。関東軍は満洲国政府をして日本人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを'''内面指導'''と呼んだ([[弐キ参スケ]])。 このように民族協和ではなく、日本の勢力に加えようとしたとする見方<ref>「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』([[講談社]]、2005年、p.313)、[[宮脇淳子]]『世界史のなかの満洲帝国』([[PHP新書]]387、[[2006年]]、p.220)。</ref>がされるが、日本の研究家の中には、アジアの合衆国として'''五族協和'''を称える見方<ref name=nakamura/>もある。 === 選挙・政党 === 憲法に相当する'''組織法'''には、[[一院制]][[議会]]であるとして'''[[満州国立法院|立法院]]'''の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、'''[[満州国協和会|協和会]]'''という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。 == 外交 == [[画像:満州承認国地図.png|thumb|right|300px|満洲国を承認していた国。<br/>自由インド仮政府、汪兆銘政権、蒙古聯合自治政府は丸印]] 1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、満洲国はその後少なからぬ国家から承認を受けた。第二次世界大戦の終結以前には[[枢軸国]]を中心として、日本の同盟国と傀儡国、[[中立国]]など、以下の20ヶ国が承認をし、[[ドミニカ共和国]]([[ラファエル・トルヒーヨ]]の独裁政権)、[[エストニア]]、[[リトアニア]]は正式承認しなかったが国書の交換を行った。また、[[ソビエト連邦|ソ連]]は[[日ソ中立条約]]締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、事実上承認していたと言える。 {| |Valign=top| * [[大日本帝国]](枢) - [[日満議定書]]によって承認 * [[エルサルバドル]] - 日本に続いて二番目の承認国 * [[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]](枢) * [[タイ王国|タイ]](枢) * [[ビルマ国|ビルマ]](枢) * [[フィリピン]](枢) * [[蒙古聯合自治政府]](枢) * [[自由インド仮政府]](枢) * [[ナチス・ドイツ|ドイツ]](枢) - [[独満修好条約]]によって承認 * [[イタリア王国|イタリア]](枢) - 後に[[日満伊貿易協定]]を締結 |Valign=top| * [[スペイン]] * [[バチカン]] * [[ポーランド]] * [[クロアチア独立国|クロアチア]](枢) * [[ハンガリー王国|ハンガリー]](枢) * [[スロバキア]](枢) * [[ルーマニア]](枢) * [[ブルガリア]](枢) * [[フィンランド]](枢) * [[デンマーク]] |} <small>(枢)のついている国は枢軸国(その後離脱した国を含む)。</small> == 軍事 == '''[[日満議定書]]'''によって[[関東軍]]の駐留を認めた。[[満州国軍|満州国の国軍]]は、1932年4月15日公布の陸海軍条令をもって成立した。満洲国自体の性質上「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から、実質的な国軍化が進められたが、ソ連の対日参戦の際はソ連側に離反する部隊が続出し関東軍の防衛戦略を破綻させた。 == 経済 == [[Image:Central Bank of Manchou.JPG|220px|thumb|満洲中央銀行]] [[Image:Manchukuo-poppy harvest.jpg|220px|thumb|満洲国内の綿農家]] {{main|満州国の経済}} 政府主導・日本資本導入による[[重工業]]化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による[[農業]]開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、[[日中戦争]](日華事変)による経済的負担、そしてその影響による[[インフレーション]]は、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を廃するため一業界につき一社を原則とした。 === 通貨 === 法定通貨は[[満州中央銀行]]が発行した[[満州国圓]](元、yuan)で、1元=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満洲国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。現在の中華人民共和国の通貨は人民幣([[人民元]])と呼ばれる。なお中国語では口語で元を塊 (kuai)、角を毛と置き換える事が多く、満洲在住の日本人は一般的に「エン」と呼んだ。 国幣は中国の通貨と同じく[[銀本位制]]でスタートし、国幣1元=法幣1元であったが、[[1935年]]11月に日本と同じ[[金本位制]]に移行し、日本円と等価となった。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった[[朝鮮銀行]]発行の朝鮮円も使用された。 満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、[[1947年]]に国民政府の中央銀行が発行した東北流通券に交換され、流通停止となった。 === 郵政事業 === [[Image:Stamp Manchukuo 1935 15f.jpg|right|thumb|150px|皇帝溥儀を描く15分普通切手(1934年11月発行)]] 従来[[台湾郵政|中華郵政]]が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日から「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。しかし、中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「[[満華通郵切手]]」が発行されていた。 同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手<ref>中国語では「紀念」と表記するが、「建国一周年記念」切手は日本語の「記念」表記となっている</ref>も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、[[1935年]]の「皇帝訪日紀念」や[[1942年]]の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。[[1944年]]の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。また、郵便貯金事業も行っており、[[1941年]]には「貯金切手」も発行している。 満洲国で最後の発行となった郵便切手は、戦闘機3機を購入するための[[寄附金付切手]]だったが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。しかし第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。 === 南満洲鉄道 === [[image:Super_Express_Asia.jpg|220px|thumb|満鉄のシンボル、特急あじあ]] [[Image:Manchukuo SMR headquarters.jpg|220px|thumb|大連満鉄総部]] 日本の半官半民の国策会社[[南満州鉄道]](満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。 同社は鉄道経営を中心に[[満州航空]]、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などの[[インフラストラクチャー]]整備も行った。 === 満蒙開拓移民 === 満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「[[満蒙開拓移民]]団」と称する移民組織を大々的に募集し多数の日本人を満洲に送った。この政策は、[[世界恐慌]]や凶作で経済が疲弊した日本国内から消費人口を減らす、いわば国家レベルでの「口減らし」という側面をもつ一方、徐々に世界から孤立し戦時体制へと歩んでいく日本への食料供給基地として、この開拓団に満洲を農地として開拓させることも意図していた。 「外国」の満洲へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人[[コミュニティ]]の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満洲国人」として同化することはまずなかった。 また満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。「集団部落」反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。 このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員との対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏線となってゆく。 == 交通 == [[Image:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg|200px|thumb|満鉄の機関車]] === 鉄道 === 設立当時は日本の半官半民の国策会社であった南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を基礎に路線を拡張し、沿線各駅一帯に広大な鉄道付属地を抱え、首都[[新京]](現在の[[長春]])や[[奉天]](現在の瀋陽)など主要都市の市街地も大半が[[鉄道附属地|鉄道付属地]]で、満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。都市在住の日本人の多くは鉄道付属地に住み、日本企業も鉄道付属地を拠点として治外法権の特権を享受し続けたため、満洲国の自立を阻害する結果となり、[[1937年]]に鉄道付属地の行政権は満洲国へ返還された。 なお、その路線は新京~大連・旅順間の南満洲鉄道のほか、満洲国が1935年にソ連から譲渡された北満鉄道(東清鉄道)の運営および新線建設を受託していた。また、一時は[[朝鮮半島]]の鉄道経営を委託されたこともあった。 「[[超特急]]」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車[[あじあ号]]の運行など、主に日本から導入された[[南満州鉄道の車両]]の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。 [[Image:Manchukuo Airlines Tag.jpg|200px|thumb|満洲航空の新型機([[ユンカース]]86)の就航を祝う荷札]] === 航空 === 1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立された[[満州航空]]が、満洲国内と日本、日本の植民地であった朝鮮半島を結ぶ定期路線を運航していた。 なお、満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。 == 教育 == 満洲国の教育の根本は、建国当初の院令第2号(1932年3月25日公布)に「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」と定められているように、儒教精神の徹底であった。 なお、高等教育機関については [[満州国・関東州の高等教育機関]]を参照 == 文化 == === 映画 === [[1928年]]に南満洲鉄道が広報部広報係[[映画]]班、通称「満鉄映画部」を設け、広報([[プロパガンダ]])用記録映画を製作していた。その後[[1937年]]に設立された国策[[映画]]会社である[[満洲映画協会]]が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。 === 漫画 === [[田河水泡]]の当時の大人気漫画「[[のらくろ]]」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜の為、大陸建設の夢の為、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。 序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、[[東洋]]は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった、[[朝鮮]]生まれの犬、[[シナ]]生まれの豚、[[満州]]生まれの羊、[[蒙古]]生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していた所の「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。 === 雑誌 === [[新京]]の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。 === 祝祭日 === {{main|満州国の祝祭日}} == 満洲国を扱った作品 == * [[流転の王妃]] - (1960年) [[大映]]映画 原作:[[愛新覚羅浩]]、制作:[[永田雅一]]、監督:[[田中絹代]]、脚本:[[和田夏十]] 出演……[[京マチ子]]([[愛新覚羅浩]])、[[船越英二]]([[愛新覚羅溥傑]])、竜様明([[愛新覚羅溥儀]])、[[金田一敦子]]([[婉容|皇后]]) * [[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]] 3部作 - (1970~1973年) [[日活]]映画。[[五味川純平]]の同名大河小説を映画化。ある新興財閥を中心に、[[張作霖爆殺事件]]から[[ノモンハン事件]]までを描いている。 * [[悲劇の皇后 ラストエンプレス]] - (1985年) 愛新覚羅溥儀の皇后[[婉容]]を主人公として満洲国を描いた中国・香港合作映画。 * [[ラストエンペラー]] ''The Last Emperor'' - (1987年)[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督の[[アカデミー賞]]受賞[[映画]]。愛新覚羅溥儀の目から見た満洲国の建国から滅亡までを描いている。 * [[末代皇帝]] - (1988年) 愛新覚羅溥儀の生涯を描いた中国の連続テレビドラマ。溥儀の誕生から[[東京裁判]]までを描いている。 * [[落陽 (映画)|落陽]] - (1992年) [[にっかつ]]80周年記念映画。大陸浪人を主人公に、満洲事変から満洲国崩壊までを国際的キャストで描いている。 * [[流転の王妃・最後の皇弟]] - (2003年) [[テレビ朝日]]開局45周年記念作品として製作されたドラマ。満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑とその妻・浩の視点から満洲の歴史と満洲滅亡後の“流転の日々”が描かれているが、「“大陸支配の足がかり”としての満州支配」を目論む関東軍を一方的な悪役にしようとせず、「清朝の復活・愛新覚羅一族の再興」という野望を成就させるために関東軍を利用しようと目論む皇帝・溥儀(兄)の姿も描かれている。 * [[赤い月]] - [[なかにし礼]]の実際の体験を下にした自伝的小説を原作とした映画・ドラマ。戦前・戦中の満洲を舞台に、一人の女性の生き様を描いた物語で、2002年に[[NHK-FM]]でラジオドラマ化、2004年に[[東宝]]系で映画化・[[テレビ東京]]系列でテレビドラマ化された。 * [[ノスタルジック・ジャーニー満州]] - 現存する写真や動画をもとに繁栄期を紹介するDVD3枚組BOX 150分 [[ポニーキャニオン]]2004/02/18発売 == 満洲国生まれの人物 == 建国から消滅までの期間に出生した人物 * [[池田満寿夫]] 画家 * [[稲川誠]] 野球選手 * [[岩見隆夫]] * [[草野仁]] アナウンサー * [[沢村忠]] キックボクサー * [[ジェームス三木]] 脚本家 * [[田勢康弘]] ジャーナリスト * [[なかにし礼]] 小説家 * [[橋達也]] 芸人 * [[板東英二]] 野球選手 * [[藤原正彦]] 数学者 * [[冬柴鐵三]] 政治家 * [[水野忠夫]] 文学者 * [[矢ノ浦国満]] 野球選手 * [[山崎拓]] 政治家 * [[山下典子]] * [[小澤征爾]] 音楽家 * [[加藤登紀子]] 音楽家 === 俳優 === * [[浅丘ルリ子]] * [[富山敬]] * [[中真千子]] * [[松島トモ子]] * [[宮尾すすむ]] === 漫画家 === * [[上田トシ子]] * [[赤塚不二夫]] * [[古谷三敏]] * [[ちばてつや]]・[[ちばあきお]]・[[七三太朗]] * [[森田拳次]] * [[北見けんいち]] * [[山内ジョージ]] * [[横山孝雄]] * [[高井研一郎]] * [[石子順]] * [[広岡球志]] == 脚注 == <references/> == 関連項目 == {{Commonscat|Manchukuo}} {{wikisource|國號ヲ滿洲國トナスヲ佈吿ノ件|国号ヲ満洲国トナスヲ佈告ノ件}} {{wikisource|本國國名英文制定ノ件|本国国名英文制定ノ件}} {| |Valign=top| * [[中華民国の歴史]] * [[満州国・関東州の高等教育機関]] * [[十五年戦争]] * [[南満州鉄道]] * [[協和語]] * [[満州関係記事の一覧]] * [[消滅した政権一覧]] * [[工藤忠]] * [[川島芳子]] * [[笹川良一]] * [[731部隊]] * [[リットン調査団]] * [[満州事変]] * [[石原莞爾]] * [[満州国臨時政府]] * [[蒙古自治邦政府]] |Valign=top| * [[のらくろ]] * [[大地の子]] * [[ミュージカル李香蘭]] * [[ミュージカル異国の丘]] * [[紫禁城の黄昏]] * [[塘沽停戦協定]] * [[大東亜会議]] * [[日独伊防共協定]] |} == 外部リンク == * [http://www.manchukuo.org/index31.htm#bairennge/ 満州国臨時政府](満州国時代の写真、資料など閲覧可) * [http://ww2db.com/battle_spec.php?battle_id=18 WW2DB: Mukden Incident and Manchukuo] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月18日 (土) 17:44。]    

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