華族

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{{日本の旧華族}} '''華族'''(かぞく)とは、[[1869年]]から[[1947年]]まで存在した[[日本]]近代の[[貴族]]階級のことである。[[公家]]に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを勲功華族、[[臣籍降下]]した元皇族を'''皇親華族'''、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、[[公卿]]の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、[[清華家]]の別称であった。 == 概説 == [[1869年]][[7月25日]]([[明治]]2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]])、[[版籍奉還]]と同日に出された行政官布達54号により、それまで藩主だった大名たちを知藩事とし、従来の身分制度で[[公卿]]([[公家]])・[[諸侯]](旧[[藩主]])の称を廃し、公卿142家・諸侯285家合計427家が共に新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかった。明治2年11月20日、華族(元武家)は東京に住居させることになった。ただし地方官として赴任のものはこの限りでなかった。また同月、華族(元堂上)ならびに旧官人の禄制が定められ、旧官人らは士族、卒とし、華族以下すべて地方官の貫属とする旨布告された。 [[1871年]]には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ち、その模範となることが求められた。また諸藩の大名は同年の[[廃藩置県]]で領主としての地位を失った。明治4年2月20日、華族(元武家)をすべて東京府の貫属とした。 [[1874年]]6月に華族の団結と交友のため[[霞会館|華族会館]]が創立された。また、華族の子弟教育のために[[1877年]]には[[学習院]]が開校された。また、同年には華族銀行とよばれた[[十五銀行|第十五国立銀行]]が設立された。華族会館・国立十五銀行設立を主導したのは、自らも公家である[[右大臣]][[岩倉具視]]であった。彼は政治的には[[伊藤博文]]と協力関係にあったが、伊藤が構想した将来の[[上院|議会上院]]形成のために華族を増員(具体的には維新の功労者を華族を加える)構想には強い拒否反応を示した。だが、[[国会開設の詔]]が出されると岩倉も漸く伊藤の方針に同意、岩倉の死後は伊藤を中心に設置された[[制度取調局]]で準備が進められた。 [[1878年]][[1月10日]]、東西京に華族部長局を置き、宮内省に隷属させた。[[1882年]]、これは廃され、宮内省に華族局が置かれ、華族のことを管掌させた。 [[1884年]]の[[華族令]]が制定され、華族は[[公爵]]・[[侯爵]]・[[伯爵]]・[[子爵]]・[[男爵]]の五階の[[爵位]]に叙された。これらの爵位は、公卿は、[[摂家]]を公爵、[[清華家]]を侯爵とし、平公卿のうち、[[従一位]][[大納言|権大納言]]を伯爵、その他の平公卿は子爵に、庶流、分家は男爵といった基準だった。一方、諸侯の方の爵位のランク付けは、公卿ほど家格を明確に表す基準はなかったが、目安としては、将軍家(徳川家)が公爵、禄米15万石以上の国守、大名が侯爵、5万石以上が伯爵、5万石未満が子爵、そして維新後華族に列せられた者と、国守の分家および付家老公が男爵と決められた。このように華族は[[家格#公家の家格|家格]]、大名華族は[[石高]]を基に決められた<ref>このとき三條家([[三條實美]]、本来なら侯爵のところ公爵)、岩倉家([[岩倉具視]]、本来なら子爵のところ公爵)、島津家([[島津忠義]]、本来なら侯爵のところ公爵)、毛利家([[毛利元徳]]本来なら侯爵のところ公爵)の四家は維新の功績により例外的に本来相応な爵位より高い爵位を授かっている。</ref>。また明治政府の中心人物をはじめ、明治維新の勲功者<ref>ただし、大久保家([[大久保利通|利通]]の子孫)・木戸家([[木戸孝允|孝允]]の子孫)・広沢家([[広沢真臣|真臣]]の子孫)は、華族令制定以前に既に明治天皇の特旨(木戸家・大久保家は1878年5月23日、広沢家は1879年12月27日)によって特に華族に列せられている。華族令以前に士族からの華族昇格はこの3家のみであった。</ref>や、歴史上天皇家に対して忠節を尽くした人物の子孫<ref>天皇の特旨により新田家([[新田義貞]]の子孫、男爵)、名和家([[名和長年]]の子孫、男爵)、菊池家([[菊池武光]]の子孫、男爵)など、主に[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の南朝方忠臣の子孫が爵位を授けられている。</ref>が新たに新華族(勲功華族)として列せられた。 [[1886年]]に第3者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来る[[華族世襲財産法]]([[1947年]][[3月13日]]廃止)が制定されたことにより、財産保全などの特典が与えられた。学歴面でも、1922年(大正11年)以前は、[[帝国大学]]に欠員があれば無試験で入学できた。また華族の子弟の多くが入学した[[学習院]]は、落第はあっても[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]までの進学が保証されていた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったので、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。 [[1889年]]の[[大日本帝国憲法]]により、華族は[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「[[皇室]]の藩屏」としての役割を果たすものとされた。また同年定められた[[旧皇室典範]]により、[[皇族]]との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者<ref>ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。[[大正天皇]]第二皇子の[[雍仁親王|雍仁親王(秩父宮)]]が[[松平恒雄]]長女の[[雍仁親王妃勢津子|節子(勢津子妃)]]と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(会津松平家の当主は恒雄の兄の[[松平容大]]子爵)。</ref>に限定された。 華族のうち爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されず、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。なお、華族とされる者は家督を有する者及び同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻等により分籍した者は、平民の扱いを受けた。 1947年[[5月3日]]、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法14条1項)を定めた[[日本国憲法]]の施行とともに廃止された。なお、華族の総数は1011家である(小田部による)。 == 注釈 == {{reflist}} == 関連書 == * 小田部雄次 『華族:近代日本貴族の虚像と実像』 [[中公新書]]1836 [[中央公論新社]] ISBN 4121018362 * 浅見雅男 『華族誕生:名誉と体面の政治』 [[中公文庫]] ISBN 4122035422([http://homepage2.nifty.com/muraji/non-fiction/kazoku.htm 華族誕生]) * 酒井美意子 『ある華族の昭和史:上流社会の明暗を見た女の記録』 [[講談社]] ISBN 4061835289 * 千田稔 『明治・大正・昭和華族事件録』 [[新潮文庫]] [[新潮社]] ISBN 4101246416 * 森岡清美 『華族社会の家戦略』 [[吉川弘文館]] ISBN 4642037381 == 関連項目 == * [[皇室]] * [[皇族]] * [[士族]] * [[平民]] * [[爵位]] * [[新家]] * [[貴族院 (日本)|貴族院]] * [[王公族]] * [[朝鮮貴族]] * [[霞会館]] * [[家憲]] * [[斜陽]] * [[豊饒の海]] * [[日本の華族一覧]] * [[華族ゆかりの人物・団体]] == 外部リンク == {{wikisource|華族令|華族令}} * [http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html 華族一覧表] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%8F%AF%E6%97%8F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月16日 (火) 05:10。]     
'''華族'''(かぞく)とは、[[1869年]]から[[1947年]]まで存在した[[日本]]近代の[[貴族]]階級のことである。[[公家]]に由来する華族を[[公家華族]]、江戸時代の藩主に由来する華族を[[大名華族]]、国家への勲功により華族に加えられたものを[[新華族]](勲功華族)、[[臣籍降下]]した元皇族を'''[[皇親華族]]'''、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、[[公家]]の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、[[清華家]]の別称であった。 == 前史 == [[明治]]2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])、[[版籍奉還]]と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の[[公卿]]・[[諸侯]]の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家<ref>[[松崎家]]・[[玉松家]]([[玉松操]]家)・[[岩倉具経]]家(岩倉具視の三男)・[[北小路家]]・[[若王子家]]</ref>・維新後に諸侯とされた家16家<ref>徳川[[御三卿]]の3家([[一橋徳川家]]・[[清水徳川家]]・[[田安徳川家]])、[[徳川御三家]]の[[附家老]]家5家([[成瀬氏|成瀬家]]・[[竹腰氏|竹腰家]]([[尾張徳川家]])、[[三河安藤氏#三河安藤氏嫡流|安藤家]]・[[水野氏#新宮藩水野家|水野家]]([[紀伊徳川家]])、[[中山氏|中山家]]([[水戸徳川家]]))、[[毛利氏]]の家臣扱いであった[[岩国藩]]主[[吉川氏|吉川家]]、1万石以上の所領を持つ[[交代寄合]]6家([[山名氏|山名家]]、[[福本藩|池田家]]、[[成羽藩|山崎家]]、[[平野氏|平野家]]、[[本堂氏|本堂家]]、[[生駒氏|生駒家]])、1万石以上の所領を持つ[[高家]]であった[[堀江藩|大沢家]]。ただし、大沢家は所領が1万石以下であると確認され、華族の身分を剥奪され士族に編入された。</ref>の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していた。 11月20日、華族(元武家)は東京に住居することが定められた。ただし地方官として赴任のものはこの限りでなかった。また同月、華族(元堂上)ならびに旧官人の禄制が定められ、旧官人らは士族、卒とし、華族以下すべて地方官の貫属とする旨布告された。 また、この後も新たな華族が加えられた。特に大寺院の門跡であった公家の子弟が還俗し、新たな華族となった26家は[[奈良華族]]と総称される。また、大久保家([[大久保利通]]の功)・木戸家([[木戸孝允]]の功)<ref>木戸・大久保家は1878年5月23日に華族に列せられる。</ref>・広沢家([[広沢真臣]]の功)<ref>広沢家は1879年12月27日に華族に列せられる。</ref>は、明治天皇の特旨によって華族に列せられているが、華族令以前に華族に昇進した元勲の家系はこの3家のみである。また、歴史上天皇家に対して忠節を尽くした人物の子孫<ref>天皇の特旨により新田家([[新田義貞]]の子孫、男爵)、名和家([[名和長年]]の子孫、男爵)、菊池家([[菊池武光]]の子孫、男爵)など、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の南朝方忠臣の子孫が華族とされている。</ref>もこの時代に華族となっている。 明治4年([[1871年]])には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ち、その模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の[[貫属]]となった。[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]には[[廃藩置県]]が行われ、[[知藩事]]としての地位も失った。 明治7年([[1874年]])には華族の団結と交友のため[[霞会館|華族会館]]が創立された。また、明治10年([[1877年]])には華族の子弟教育のために[[学習院]]が開校された。同年華族銀行とよばれた[[十五銀行|第十五国立銀行]]も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは、自らも公家華族である[[右大臣]][[岩倉具視]]であった。 明治9年([[1876年]])全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公卿の区別無く系図上の血縁ごとに76の『類』として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。明治11年にはこれをまとめた『[[華族類別録]]』が刊行されている。 明治11年([[1878年]])[[1月10日]]、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族達は不満を持ち、部長局の廃止を求めた。明治15年([[1882年]])、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。 岩倉は政治的には[[伊藤博文]]と協力関係にあったが、伊藤が構想した将来の[[上院|議会上院]]形成のために華族を増員(具体的には維新の功労者を華族を加える)構想には強い拒否反応を示した。しかし、明治14年([[1881年]])に[[国会開設の詔]]が出されると岩倉も漸く伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は伊藤を中心に設置された[[制度取調局]]で華族制度の整備が進められた。 == 叙爵 == [[1884年]]7月7日、[[華族令]]が制定された。これにより華族は[[公爵]]・[[侯爵]]・[[伯爵]]・[[子爵]]・[[男爵]]の五階の[[爵位]]に叙された<ref>ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家は叙爵が遅れた。</ref>。この基準は、明治17年(1884年)5月7日に[[賞勲局]]総裁[[柳原前光]]から[[太政大臣]][[三条実美]]に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。同時に[[伊藤博文]]ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、爵位を受けている。叙爵は7月中に三度行われ、509人の有爵者が生まれた。 ; 公爵 *公家からは[[五摂家]]、武家からは[[徳川将軍家|徳川家宗家]]が公爵相当とされた。 *また「国家に偉功ある者」として公家からは[[三条家]](三条実美の功)、[[岩倉家]]([[岩倉具視]]の功)、武家からは[[島津氏|島津家宗家]]([[薩摩藩]]主[[島津忠義]]の功)、[[玉里島津家]]([[島津久光]]の功)が公爵に叙せられた。 ; 侯爵 *公家からは[[清華家]]、武家からは[[徳川御三家]]と現米<ref>大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。</ref>15万石以上の大名家が侯爵相当とされた。 *[[琉球国]]王であった[[第二尚氏|尚氏]]も侯爵とされている。 *また「国家に勲功ある者」として、[[木戸家]]([[木戸孝允]]の功)、[[大久保家]]([[大久保利通]]の功)が侯爵とされた。さらに[[大臣家]]であった[[中山家]]は「勲功により特に」侯爵が授けられた。これは[[中山忠能]]が[[明治天皇]]の[[外祖父]]であったことが考慮されたと見られている。 ; 伯爵 *公家からは[[大納言]]の宣任の例が多い<ref>[[中納言]]を一旦辞任することなく、大納言に任ぜられることを「直任」といい、一時中納言を辞職してから大納言に任ぜられるより格上とされた。「宣任の例が多い」は、一度でも直任の例があることを指す。(浅見政男『華族誕生』)</ref>堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当とされた。 *公家のうち[[東久世家]]は[[東久世通禧]]の功が考慮され、伯爵とされた。また、武家のうち[[対馬藩]]主[[宗家|宗氏]]は[[李氏朝鮮|朝鮮]]外交の担当者であることが考慮され、[[平戸藩]]主[[松浦氏|松浦家]]は本来は算入されない分家の所領も計算に入れた上で伯爵とされた。これは中山忠能夫人が松浦家の出身であり、明治天皇の[[外戚]]に当たることが考慮されたと見られている。 *[[東本願寺]]・[[西本願寺]]の世襲[[門跡]]家であった両[[大谷家]]も伯爵となった。 *また「国家に勲功ある者」として、[[伊藤博文]]・[[黒田清隆]]・[[井上馨]]・[[西郷従道]]・[[山県有朋]]・[[大山巌]]等といった維新の元勲達が伯爵相当とされた。 ; 子爵 *公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家、武家からは維新前に諸侯であった家が子爵相当とされた。 *また「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者の家が子爵に叙せられた。 ; 男爵 *明治維新後に華族とされた家(附家老家、奈良華族等)が男爵相当とされた。 *大社の世襲神職家14家<ref>[[北島家]]・[[千家家]]([[出雲大社]])、[[到津家]]・[[宮成家]]([[宇佐神宮]])、[[河辺家]]・[[松木家 (伊勢神宮社家)|松木家]]([[伊勢神宮]])、[[津守氏|津守家]]([[住吉大社]])、[[阿蘇氏|阿蘇家]]([[阿蘇神社]])、[[紀伊国造|紀家]]([[日前神宮・國懸神宮]])、[[高千穂家]]([[英彦山神社]])、[[小野家]]([[日御碕神社]])、[[金子家]]([[物部神社 (大田市)|物部神社]])、[[西高辻家]]([[太宰府天満宮]])</ref>、[[浄土真宗]]系の世襲門跡家4家<ref>[[渋谷家]]([[仏光寺]])、[[華園家]]([[興正寺]])、[[常磐井家]]([[専修寺]])、[[木辺家]]([[錦織寺]])。ただし、いずれの門跡も当時は皇族や摂家から養子となった者であった。</ref>も男爵となった。 *琉球王家の分家であった尚氏の分家である[[今江家]]、[[今帰仁家]]の2家も男爵相当とされた。 *また「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者の家が男爵に叙せられた。 公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家以外は家格が考慮されず、石高のみが選定基準となった。また、この内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。維新前に公家や諸侯でなかった華族は[[新華族]]や[[勲功華族]]と呼ばれている。 また、この後も陞爵(爵位の昇進)や授爵、皇族の臣籍降下によって爵位は変動した。また、後に終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることも無かったために全ての華族は永世華族となった。 == 華族の特権 == [[1886年]]に第3者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来る[[華族世襲財産法]]([[1947年]][[3月13日]]廃止)が制定されたことにより、財産保全などの特典が与えられた。学歴面でも、1922年(大正11年)以前は、[[帝国大学]]に欠員があれば無試験で入学できた。また華族の子弟の多くが入学した[[学習院]]は、落第はあっても[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]までの進学が保証されていた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったので、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。 [[1889年]]の[[大日本帝国憲法]]により、華族は[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「[[皇室]]の藩屏」としての役割を果たすものとされた。また同年定められた[[旧皇室典範]]により、[[皇族]]との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者<ref>ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。[[大正天皇]]第二皇子の[[雍仁親王|雍仁親王(秩父宮)]]が[[松平恒雄]]長女の[[雍仁親王妃勢津子|節子(勢津子妃)]]と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(会津松平家の当主は恒雄の兄の[[松平容大]]子爵)。</ref>に限定された。 == 華族の身分 == 華族のうち爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されず、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。なお、華族とされる者は家督を有する者及び同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻等により分籍した者は、平民の扱いを受けた。 == 華族の実態 == 皇室の藩屏として期待された華族であったが、奈良華族や下級公家などの経済基盤が貧弱であった華族は生活に困窮した。しかし一方で華族としての体面を保つためには出費が必要であった。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家も現れた。[[清水徳川家]]や[[北小路家]]がその例である。 == 華族制度の廃止 == 1947年[[5月3日]]、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法14条1項)を定めた[[日本国憲法]]の施行とともに廃止された。なお、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は1011家である(小田部による)。 == 注釈 == {{reflist}} == 関連書 == * 小田部雄次 『華族:近代日本貴族の虚像と実像』 [[中公新書]]1836 [[中央公論新社]] ISBN 4121018362 * 浅見雅男 『華族誕生:名誉と体面の政治』 [[中公文庫]] ISBN 4122035422([http://homepage2.nifty.com/muraji/non-fiction/kazoku.htm 華族誕生]) * 酒井美意子 『ある華族の昭和史:上流社会の明暗を見た女の記録』 [[講談社]] ISBN 4061835289 * 千田稔 『明治・大正・昭和華族事件録』 [[新潮文庫]] [[新潮社]] ISBN 4101246416 * 森岡清美 『華族社会の家戦略』 [[吉川弘文館]] ISBN 4642037381 == 関連項目 == * [[皇室]] * [[皇族]] * [[士族]] * [[平民]] * [[爵位]] * [[新家]] * [[貴族院 (日本)|貴族院]] * [[王公族]] * [[朝鮮貴族]] * [[霞会館]] * [[家憲]] * [[斜陽]] * [[豊饒の海]] * [[日本の華族一覧]] * [[華族ゆかりの人物・団体]] == 外部リンク == {{wikisource|華族令|華族令}} * [http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html 華族一覧表] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%8F%AF%E6%97%8F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月24日 (水) 09:05。]     

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