chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「お見合い」で検索した結果

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  • 香淳皇后
    ...意思を尊重するためのお見合いやデートをすすめた。その一方で、皇太子と平民出身である美智子との婚約が決定された際には秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、側近の松平信子らと共に強い不快感を示している。入江相政日記においては、松平信子が宮崎白蓮などと示し合わせて結婚に反対する右翼団体と連絡を取ったと記されており、この問題は後々まで尾を引くことになった。表だって美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されている。美智子妃との関係は礼宮文仁親王の出生後、文仁親王の容貌が自身によく似ていたことから氷解に向かったという。 1960年(昭和35年)11月、降嫁した東久邇成子が病に倒れる。すでに末期がんで、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れた。しかし7月に成子が死去。天皇ともども、愛娘の死...
  • ゴーストップ事件
    ゴーストップ事件(―じけん)は、1933年に大阪市の天六交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と日本警察の大規模な抗争。満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。ゴーストップとは信号機を指す。別名は天六事件。 事件の経過 発端 1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。その際中村一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論したためつかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治一週間の怪我を負った。 この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し...
  • 国立銀行条例
    国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)は、1872年に制定された日本の法律である。 制定までの経緯 それまで日本は兌換貨幣(金との交換が保証された通貨)を使用していた。だが海外流出などで金不足が深刻化しており、兌換制度を止める必要があった。1871年に新貨条例が出され、「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度が導入された。しかし金本位制のため金貨不足のせいで銀貨がよく使われるようになった。その後伊藤博文が発券銀行制度を導入しているアメリカ合衆国のナショナル・バンク制度(国法銀行制度)を参考に建議し、国立銀行条例として1872年に制定した。これにより、渋沢栄一が1873年に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現 みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間が数多くの国立銀行を設立した。 制定当時の内容 兌換制度を止める。 そして、国立銀行が発行する銀行券には金貨などの兌換硬貨との...
  • 貞明皇后
    Template 基礎情報 君主? 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、日本の皇族。大正天皇の皇后。旧名、九条 節子(くじょう さだこ)。お印は藤。 生涯 少女時代 明治17年(1884年)6月25日、旧摂家、公爵 九条道孝の四女として誕生。母は野間幾子。 学齢まで農家の家に里子に出され、“九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。 皇太子妃時代 明治33年(1900年)2月11日 、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、神前で挙式。御成婚祝の新居として赤坂離宮(現・迎賓館)が建造される。 成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素...
  • 憲政党
    憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系 1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 概要 憲政党 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強め...
  • 更新blog-5
    最近更新したblog一覧 その5 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-6 # 世に倦む日日 # 引っ越ししました。 大晦日に - 朝日の投書 「日中は戦争になるのですか」 仲井真弘多にリコールを - 12/27のNHKの異様な奉祝報道 安倍晋三の靖国参拝と米国の批判 - その政治の分析 安倍晋三と仲井真弘多の茶番会議とNHKの脱力報道 「東アジアの安全保障環境の激変」の言説と防空識別圏 都知事選の提案 - 若いリベラル候補で安倍晋三を倒す リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 都知事選でSTOP THE ABE - リベラル統一候補の擁立を 「反日」、「テロリスト」、「スパイ」 - 内務省、憲兵、軍法会議 秘密保護法を招いた通路 - マスコミは政治報道の反省を 秘密保護法の成立 - 闘い...
  • 済物浦条約
    Template 朝鮮の事物? 済物浦条約(さいもっぽじょうやく)とは、1882年8月30日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。 壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の為に結ばれた。 主な内容は、公使館襲撃事件の犯人の逮捕と処刑、日本側被害者の遺族、負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。 また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。 当初は巨済島または鬱陵島の割譲を要求していたが、軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着する6日前に、既に清国が反乱を鎮圧し、主導権を握っていたことと、アメリカが軍艦を派遣し威圧をかけてきた事から交渉担当の花房義質...
  • 井上日召
    井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。 出身地 群馬県利根郡川場村 学歴 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校) 東洋協会専門学校(現拓殖大学)中退 略歴 群馬県の医師の家に生まれる。 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1909年東洋協会専門学校(現拓殖大学)入学も翌年中退。 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。 1920年 帰国し、日蓮宗の僧侶となる。 1925年 護国聖社に入る 1928年 茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。  その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 宋慶齢
    Template 中華圏の人物? 宋慶齢(そう けいれい、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1893年1月27日 - 1981年5月29日)は、孫文の妻。中華人民共和国名誉国家主席。 プロフィール 客家の宋耀如(宋嘉樹、チャーリー宋)の次女として清国の上海で生まれた。母は倪桂珍。「宋氏(家)三姉妹」の次女で、宋靄齢の妹、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)の姉。妹の美齢と同じくアメリカのウエスレイアン大学に留学。 孫文とは父が支援者であったことから知り合い、結婚前には孫文の英文秘書を務めていた。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年~1916年とされる。孫文の没後もその遺志を継いで革命活動に従事、1926年には中国国民党執行委員に就任している。 国民党左派で容共的立場をとり、1927年の上...
  • 相馬事件
    相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院し...
  • 廃刀令
    Template 日本の法令? 廃刀令(はいとうれい)とは、Template 和暦?3月28日に発せられた大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告の略称。いわゆる帯刀禁止令のことである。 概略 すでに1869年(明治2年)ころから廃刀の議論はおこなわれていた。明治2年3月、公議所がひらかれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。はやく蛮風をのぞくべしというものであったが、王政復古からまもないころであったから、公議所の公議人らは反対意見で、廃刀をもって武士の精神をなくし、皇国の元気を消滅させるものとして否決された。明治3年(1870年)には庶民の帯刀を禁止、明治4年8月9日(1871年9月23日)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、Template 和暦?3月28日、廃刀令の発布をみた。 発布の直接の因となったのは、Templat...
  • アメリカ本土空襲
    アメリカ本土空襲は、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)中の大日本帝国海軍(以下、日本海軍という)の艦載機や風船爆弾によるアメリカ合衆国本土への空襲のことである。 経緯 空襲計画 1941年12月に行われた日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃以降、日本海軍は太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていたものの、その最中の1942年4月に行われたアメリカ海軍の航空母艦搭載機のアメリカ陸軍航空隊のノースアメリカンB-25爆撃機による史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を受けて、軍令部は巡潜乙型潜水艦「伊号第二五潜水艦」(以下伊25とする)に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を計画した。 なお、アメリカ陸軍機による日本本土空襲に先立つ2月24日に行われた、伊25と同じ乙型大型潜水艦...
  • 宇垣軍縮
    宇垣軍縮(うがきぐんしゅく)とは、加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成により、1925年(大正14年)に行われた陸軍の軍縮を指す。 概要 第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって海軍力の軍縮が主要国で協議されたが、陸軍でも極東における軍事的脅威が薄らいだことから議会の追及を受けて山梨半造陸軍大臣のもと、二度にわたり軍備の整理・縮小を実施した(山梨軍縮)が、これではまだ不足であるとした政府・国民の不満と、1923年(大正12年)8月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため、1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。当時の陸軍省経理局は三井清一郎主計総監である。 廃止 具体的には21個師団のうち 第13師団(高田) 第15師団(豊橋) 第17師団(岡山) 第18師団(久留米) 連隊区司令部16ヶ所。 ...
  • 地租改正
    地租改正(ちそかいせい)とは、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 旧貢租・田租について 地租の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調」のうちの「租」にさかのぼる。ここでいう租とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。 豊臣秀吉の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。 地租は収穫量を今日でいう課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって徴収された(物納)。なお、この納...
  • 内大臣府
    内大臣府(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 元老院 (日本)
    元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。 概説 1875年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。 議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が...
  • 田中上奏文
    thumb|300px|田中上奏文 田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。しかし、田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する服部龍二「「田中上奏文」と日中関係」、劉傑・...
  • 仮45
    無産政党(むさんせいとう)とは、日本の戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の合法的社会主義政党の総称。有産階級に対する、労働者などの無産階級のための政党と位置づけられる。「当時非合法であった、日本共産党を除く」意味合いがある。 現代ならば社会民主主義政党と呼ばれる位置にある党派が多い。労働農民党や社会大衆党などの全国的無産政党の他、地方に存在する千葉労農党や岩手無産党などの地方的無産政党などがあり、分裂期には30余りの政党が乱立していた。 概要 無産政党の消長 日本の無産政党は、明治中頃の東洋社会党など、社会主義とはほとんど無縁の政党も存在した。しかし本格的な無産政党は幸徳秋水などを中心とする社会主義者によって結成された社会民主党を以て濫觴とする(1901年5月)。 社会民主党ははじめて社会主義的宣言をしたことで知られているが、時の伊藤内閣は即日結社禁止とした。その後も社会主義者...
  • 三国協商
    三国協商(さんごくきょうしょう、英:Triple Entente、仏:Triple-Entente、露:Антанта)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 事前の経緯 当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890...
  • 無産政党
    無産政党(むさんせいとう)とは、日本の戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の合法的社会主義政党の総称。有産階級に対する、労働者などの無産階級のための政党と位置づけられる。「当時非合法であった、日本共産党を除く」意味合いがある。共産主義政党・社会主義政党は存在自体が非合法とされていたので(具体的には、治安警察法の規定により結社として届け出ると、即日禁止された)、これらの用語を避けるため「無産」の呼称が生まれた。 現代ならば社会民主主義政党と呼ばれる位置にある党派が多い。労働農民党や社会大衆党などの全国的無産政党の他、地方に存在する千葉労農党や岩手無産党などの地方的無産政党などがあり、分裂期には30余りの政党が乱立していた。 概要 無産政党の消長 日本の無産政党は、明治中頃の東洋社会党など、社会主義とはほとんど無縁の政党も存在した。しかし本格的な無産政党は幸徳秋水などを中心とする社会主...
  • 台湾出兵
    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 背景 琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難。漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは交流ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々に殺害し54名を馘首した。12名の生存者は、漢...
  • 更新blog-2
    最近更新したblog一覧 その2 更新blog-1 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # 日中戦争スタディーズ  # 更新中止のお知らせ オーラル・ヒストリー研究会・講演のお知らせ 「虐殺」とはなにか 第二次上海事変~南京戦の戦場(再掲) イベント:南京事件70周年・国際シンポジウム 5 item(s) Last-Modified 2010/03/17 16 34 25 # 法華狼の日記  # 『相棒 Season20』第8話 操り人形 弁護士の太田啓子氏が「真空パックAV」を知った経緯は、簡単な調べ物をしたことがあると不思議には思えない テレビ朝日系列のワイドショー番組「モーニングショー」で、旧統一協会系メディアを肯定的に引いていたらしい はてなブログが強制的に非表示された件について注意喚起 『...
  • 田中義一
    Template 日本の内閣総理大臣? 田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日) - 昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。立憲政友会第5代総裁。第26代内閣総理大臣(在任 昭和2年(1927年)4月20日) - 昭和4年(1929年)7月2日)。陸軍大将 勲一等 男爵。 生涯 軍人として 萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。 若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍。その後、ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した...
  • 山東出兵
    山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、日本(大日本帝国)が1927年(昭和2年)と1928年(昭和3年)に、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。 背景 日本は第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、山東省については1919年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、五・四運動となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約...
  • 鶴見騒擾事件
    鶴見騒擾事件(つるみそうじょうじけん)とは、1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件である。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は一度に500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(法改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件と呼ばれる。 なお鶴見駅周辺から見た場合、鶴見川対岸の潮田地区が主な闘争の現場であるため、本来は事件を別の名称で呼ぶべきであったとする向きもある(注)。当時は橋一つの「川向こう」でも風土や歴史には大きな違いがあり、そこには日本の資本主義の成長の歪みがあった。 (注)事件当時の行政区域は市制施行前の「橘樹郡鶴見町」であるが、事件現場となる「橘樹郡潮田町」と合併した直後であり、その町境が鶴見川であったことから。 大正電力戦争 未曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍...
  • 汪兆銘
    汪 兆銘(おう ちょうめい、Wāng Zhàomíng、 1883年5月4日 - 1944年11月10日)は、知日派として知られた中国の政治家。字は季新。号は精衛。 日本留学から東南アジアでの活動まで 1884年、10人兄弟の末子として広東省番禺県に生まれる。1904年9月、清朝の官費生として日本の法政大学に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、1905年、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。 1906年6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、ペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳壁君も運動に参加している。 やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りに...
  • 宮中顧問官
    宮中顧問官(きゅうちゅうこもんかん)は、皇室または王室制度が存在する国の官職。多くの場合名誉職的な意味合いが強い。 日本の宮中顧問官 日本では、大日本帝国憲法下で宮内大臣の諮問に応じる職であった。 内閣制度創設の際に、明治18年太政官達第68号により内閣とは別に宮内大臣・内大臣と並んで設置された。名称中に「宮中」とあるように、戦前の日本では皇室・皇族関連を宮中、内閣以下政府を府中とし、宮中の制度に政府は関与できなかった。勅任官で、国家に勲功のあった者の中から選ばれた。1945年11月24日に廃止された。 主な任官者 池田謙斎(陸軍一等軍医正男爵医学博士、侍医局長) 伊地知正治(伯爵、修史館総裁、一等侍講、宮内省御用掛) 伊藤博文(内閣総理大臣、枢密院議長:1889年10月30日~1891年6月30日?) 井上馨(侯爵、大蔵大臣、明治20年9月-明治21年7月...
  • 高砂義勇隊
    高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は大東亜戦争(太平洋戦争)末期、台湾原住民をフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。隊員は軍属であり軍人ではないが、戦闘にも参加した。もともと台湾原住民等は狩猟採集を得意としたため、南方戦線にあって高い戦闘力、食料収集能力を発揮し、崩壊寸前の大日本帝国陸軍を助けた。戦後、日本国民では無くなったとの理由から、生存者や遺族は長らく恩給や補償を得られていなかったがTemplate 要出典?、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払らわれた。 7度にわたって編成され、合計1,800名が参加した。参加者は全て台湾特別志願兵制度もしくは高砂特別志願兵制度に基づく志願兵であったため、皇民化教育の成果として謳われた。台湾の志願兵制度は同じく大日本帝国統治下の朝鮮に遅れ、昭和17年(1942年)に実施さ...
  • 両班
    兩班(りょうはん、양반(ヤンバン・大韓民国)、량반(リャンバン・朝鮮民主主義人民共和国))は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。なお、朝鮮半島の身分制度は韓国併合後に廃止された。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のような労働を忌み嫌う精神構造の事を両班精神、両班意識などと呼んだりする。 しかし、高麗時代に両班が作られた時は身分階級では無く官僚制度を指す言葉だった。 なお、両班の家系を自称する韓国人は多いとされるが、真偽は不明である。 両班の始まり 高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用した。...
  • 生麦事件
    生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。 事件の概要 thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 大阪会議
    大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 会議に至る背景 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、ほぼ大久保専制体制となる。 大久保主導政府の急進的な改革に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児...
  • 安田財閥
    安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現...
  • 十五年戦争
    1931年の満州事変から日中戦争を経て1945年のポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。鶴見俊輔が1956年にこの言葉を使用したのが最初とされ、1960年代後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による侵略戦争であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、イデオロギー上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で一応、停戦が成立しており、盧溝橋事件を発端とする日中戦争(1937年 - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 略年表 日本の大陸介入 1925年(大正14)1月 蒋介石の広東政府、北伐を開始 19...
  • 霧社事件
    霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件。 背景 背景として、日本の警察官(当時2名のタイヤル族警察官がいたほかは全て日本人警察官)が、地元のタイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していたことなどが指摘されている。 蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に吉村克己巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、吉村巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(タイヤル族の村落の一つマヘボ社のリーダー)の息子、タダオ・モーナが吉村巡査の手を取ったところ、巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握...
  • 頭山満
    Template Infobox Celebrity? 頭山 満(とうやま みつる、1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日、幼名:乙次郎)は、アジア主義の立場で活動した国家主義者、著述家、政治運動家。その政治的活動から政財界に太いパイプを持ちながら、実業家(鉱山経営者)であり、篤志家としての側面ももっていた。 箱田六輔や平岡浩太郎らと設立した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在となり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いた。また教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在となった。 条約改正交渉に関しては一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張。大正年間から昭和の初めにかけて韓国の金玉均、中国の孫文や...
  • 犬養毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 犬養 毅(いぬかい つよし、時に いぬかい つよき 或いは いぬかい こわし、1855年6月4日(安政2年4月20日)- 1932年5月15日〉)は、日本の政治家。第29代内閣総理大臣。立憲政友会第6代総裁。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。 経歴 備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。 郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18...
  • バンザイ突撃
    バンザイ突撃(ばんざいとつげき)は、太平洋戦争中の日本軍兵士による米軍に対して敢行された突入攻撃。自滅的攻撃と解釈されるのが一般的である。 主に戦闘の最終段階(日本軍敗色濃厚時)に行われ、米軍からは『バンザイ・アタック』(banzai attack)、もしくは『バンザイ・チャージ』(Banzai charge)と呼ばれ、狂信的な兵士達の理解不能な自殺行為として恐れられた。銃剣や軍刀を振りかざし、鬨の声を上げて突進してくる日本兵の姿に恐怖し、精神に深いダメージを負う米兵もいた。 実際の突撃時に全ての日本兵が『バンザイ!』と叫びながら突進したとは限らず、日本兵の言葉にならない雄叫びを耳にした米兵が、日本人が叫ぶ詞で一番米国で知られていた『万歳!』を当て嵌め、名付けたものと推測される。他に、突撃決行の前に全員で「天皇陛下万歳」を唱和した事からこう呼ばれるようになったとする説もある。 バンザ...
  • 小磯國昭
    Template 日本の内閣総理大臣? 小磯 國昭(こいそ くにあき、「國」は「国」の正字体、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の第41代内閣総理大臣。陸軍大将、従二位、勲一等、功二級。 経歴 栃木県宇都宮に山形県士族で警察署警部・小磯進の長男として生まれる。山形県中学校・陸軍士官学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。 朝鮮軍司令官時代に、大命が降下された宇垣一成から陸相入閣要請があった。この要請は軍部大臣現役武官制のため、陸軍が陸相候補を擁立拒否をしたため、現役武官だった小磯を入閣させて、宇垣内閣を発足させることを意図したものであった。結局、小磯は入閣しなかったため、宇垣内閣は組閣流産となった。 1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の...
  • 全体主義
    全体主義(ぜんたいしゅぎ、totalitarianism)とは、民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理、およびその原理からなされる主張のことである。歴史的には近現代において国カを全て総動員する戦間期にこうした主張があらわれたとされるが、今日でも、個人の自由や利益を制約する傾向が顕著な国家について「全体主義国家」あるいは「全体主義体制」の呼称があたえられている。個人主義や民主主義の対語として良く使われる。 背景 Template 雑多な内容の箇条書き? 「全体主義」totalitarismoの語はジョヴァンニ・アメンドラによって1923年に初めて用いられた。これを気に入ったジョヴァンニ・ジェンティーレが全体主義を称するようになる。また、ムッソリーニ体制下のイタリアが、1929年11月2日の「ロンドンポスト」によって最初に全体主義国家と評せ...
  • 枢密院 (日本)
    thumb|right|300px|Template 和暦?[[10月29日、「修正帝国憲法改正案」 (日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] 日本における枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。Template 和暦?創設、Template 和暦?に廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。 沿革 Template 和暦?に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、Template 和暦?に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は、伊藤博文。 国政に隠然たる権勢を誇っていたが、Template 和暦?の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法施行によ...
  • ハーグ密使事件
    ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権保護を訴えるも国際社会から完全に拒絶された事件。 経緯 日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次...
  • 教育ニ関スル勅語
    『教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。 内容 教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。 これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日...
  • 世界恐慌
    thumb|200px|right|[[ニューヨーク・ウォール街の群衆]] 世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。 背景 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。 1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化によ...
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