chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「イギリス軍」で検索した結果

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  • バー・モウ
    ...を創設。日本軍と共にイギリス軍と戦い、1942年3月にラングーンを陥落させ、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ国防軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えビルマに軍政を敷き、1943年8月、ビルマ国の独立を宣言、国家元首に就任し、対連合国への宣戦布告を行う。 1943年11月には東京で開かれた大東亜会議に参加した。しかし、1944年末に日本の敗色が濃くなると、ビルマ国民軍がクーデターを起こしてイギリス側に寝返った。その後1945年5月にイギリス軍やアメリカ軍が日本軍を放逐し、日本軍はラングーン(現ヤンゴン)から撤退した。 1945年8月に日本へ亡命し、新潟県南魚沼郡塩沢町(現南魚沼市)の薬照寺に身を潜めていたが、12月に自ら連合国の占領軍(イギリス軍)に出頭した。しかし翌年に特赦されビルマに帰国した。 1948年1月...
  • マレー作戦
    ...襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを基幹とするイギリス東洋艦隊の根拠地であり、またイギリスのアジア植民地支配の中心拠点として、イギリスの抵抗に手を焼くナチス・ドイツも日本軍による攻略を切望するところであった。 シンガポールは日英同盟の破棄以降、イギリスによって防御設備の強化が進められ、「東洋のジブラルタル」...
  • インパール作戦
    ...は、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。こうした問題点を内包していたことで、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部総てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可さ...
  • 南方作戦
    ...マ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。 フィリピンの戦い Template main? 12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし米比軍(アメリカ軍・フィリピン軍)のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。 香港の戦い Template main? 12月9日、第23軍によるイギ...
  • 日英関係
    ...、異国船打払令発布。イギリス軍艦を警戒し、あらゆる外国船を砲撃・追い返そうとする内容。その一方で、この頃から清朝に輸入されたイギリスの物産が現地の商人によって日本に再輸出されたケースも確認されている。 1835年 イギリス人に救助された尾張国出身の船乗り音吉、日本人として初めてロンドンを訪問。その後、イギリスに帰化。 1840年 アヘン戦争。イギリスが清朝に勝利し、香港を獲得した事を知った徳川幕府は、異国船打払令を1842年に撤廃。 1854年 10月14日、日英和親条約が調印。徳川幕府を代表している長崎奉行とジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)により締結。イギリス側の通訳は音吉が務める。不平等条約。 1858年 7月18日、日英修好通商条約が徳川幕府とエルギン卿の間で調印。 関税自主権の制限や治外法権承認(領事裁判権)など、日...
  • 第一次世界大戦
    ....III複葉機、同右イギリス軍のMk.IV戦車、下段左ガスマスクを装着する兵士とヴィッカース重機関銃、同右ガリポリの戦いで沈むイギリス戦艦イレジスティブル。 | conflict = | date = 1914年7月28日 - 1918年11月11日 | place = ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋 | result = 連合国(協商国)の勝利 | combatant1 = 連合国Template GBR?Template Flagicon? フランスTemplate RUS1883?Template ITA1861?Template USA1912?Template SRB1882?Template Flagicon? 日本など | combatant2 = 中央同盟国Template DEU1871?Template AUT1867?Template OT...
  • 木村兵太郎
    ...0年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。 4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らか...
  • 薩英戦争
    ...制攻撃を開始。 イギリス軍は応戦が遅れたが14時、100門の砲(うち21門が最新式のアームストロング砲)を使用し、陸上砲台(沿岸防備砲)と鹿児島城北の市街地を艦砲射撃で反撃した。薩摩藩側は陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館を破壊された。また鹿児島湾内沖小島付近には、集成館にて製造した水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、艦隊は近寄らず失敗した。 薩摩藩の陸上砲台によるイギリス艦隊の損害は甚大で大破1隻・中破2隻の他、旗艦ユーリアラスの艦長・副長の戦死を含む死傷者63人にも及んだ。イギリス側の戦傷者の被害状況は死亡者の殆どは頭部などへの破裂弾(榴弾)の被害を多く受けており、戦闘の様子を伝える当時の新聞挿絵などもイギリス艦隊の頭上で砲弾が炸裂する様子を描いており、薩摩はイギリス艦隊に対して榴弾砲を多用した攻撃を行なったことがうかがわれる。 旗艦ユーリ...
  • 太平洋戦争
    ...この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。 日本陸軍は真珠湾攻撃と同時にマレー半島へ上陸。当初の計画を上回る驚異的な山下奉文陸軍大将率いる日本陸軍は2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールを陥落させた。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも日本海軍は連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊は大損害を受け、印蘭方面の制海権は潜水艦による連合軍の通商破壊が本格化する大戦末期まで日本海軍が保持することとなった。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。印蘭方面の制圧により、日本軍は南方作戦の最大目標であった戦争遂行に必要な資源獲得に成功した。 アメリカの植民地であったフィリピン占領は対米戦を勝ち...
  • ヴィシー政権
    ...ンス全土を占領した。イギリス軍がフランス軍艦艇を攻撃(メルセルケビール海戦、ドイツに渡さないための攻撃)したため、初期において反英気分があった。1940年9月にダカール沖海戦、11月にイギリス、自由フランス連合軍がガボンに侵攻、1941年7月にはシリア、レバノンに侵攻、1942年5月から11月にはマダガスカルに侵攻した。トーチ作戦の際には対ヴィシー政権軍への配慮により自由フランス軍は作戦からはずされた。このとき、ヴィシー政府軍がほとんど抵抗せず米英軍の北アフリカ上陸を許したため、ドイツ軍は南フランスにも進駐した。その後、政変で親独性が強まると反独機運が高まった。 枢軸国との関係 日本や満州国、イタリアなどの枢軸国各国はヴィシー・フランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフラ...
  • シベリア出兵
    ...だけは、アメリカ軍やイギリス軍が撤退しても駐留を続けた。連合国の目的はドイツの目を東部に向けさせることであったが、大日本帝国陸軍参謀本部の考えは当初から日本政府のそれとも異なっていた。 日本陸軍は当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、赤軍のボルシェビキ、ゲリラや民兵との戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに攻略し、シベリア奥地のバイカル湖東側までを占領した。各国よりも数倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に沿海州共和国、極東共和国の建設を画策。日本はロシア共和国ばかりでなく、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。 1920年には、アムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)において、ロシアの共産パルチザンによって日本軍守備隊と日本人居留民が虐殺されるという尼港事件が発生した。一...
  • 青島の戦い
    ...54、負傷46 イギリス軍 陸軍(指揮官:バーナジストン少将) 参加部隊:歩兵1個大隊基幹、印度兵2個中隊 海軍:戦艦1隻、駆逐艦1隻 損害:戦死160、負傷23 独墺連合軍 ドイツ軍(総指揮官:アルフレート・マイヤー・ヴァルデック海軍大佐(青島総督)) オーストリア軍 損害:戦死183、負傷150、捕虜4,715 参考文献 斎藤聖二『日独青島戦争』ゆまに書房、2001年。ISBN 4-87802-058-X 関連項目 膠州湾租借地 第一次世界大戦下の日本 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 20 16。     
  • 第一次世界大戦下の日本
    ...月7日に、日本陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。日本海軍は太平洋のドイツの植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島、当時はドイツ領ニューギニアと呼ばれた)を攻略した。 船団護衛 英仏露から欧州の戦線へ帝国陸軍の派遣要請があったがこれを拒絶した。また、英国より要請があった日本海軍の地中海出兵も断った。 しかし、日本海軍は、連合国からの再三の要請を受け、世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により輸送船の撃沈が続いていたインド洋と地中海で、連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。特に、...
  • 大本営発表
    ...洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり 発表の回数及びその形式 大本営発表は846回行われている出典:保阪正康『大本営発表は生きている』 はじめに、p.5より。 発表の形式としては、報道の形でアナウンサーが読み上げるものと、陸海軍の報道部長が読み上げるものとの2種類があった残されている大本営発表の放送録音は、アナウンサーによるものと、陸海軍報道部長によるものの両方が残存している。両者には、言い回しの部分で微妙な差異がある。例えば、第一回の発表(開戦の第一報)における「アメリカ・イギリス軍」という表現と「米英軍」という表現の差である)。。ラジオ発表では、放送前後などに楽曲が演奏された。戦勝を報じる時には「陸軍分列行進曲」(陸軍部発表:陸戦)、「軍艦行進曲」(海軍部発表:海戦)、「敵は幾万」(陸海軍部共同発表)が、敗走等の悲壮な戦果を報じる時には「海ゆかば」であった。...
  • 太平洋戦争の年表
    ...香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。 1942年(昭和17年) thumb|200px|[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト米大統領]] 200px|thumb|[[珊瑚海海戦で日本軍の攻撃を受け炎上する米空母レキシントン]] 200px|thumb|[[連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将]] 1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。 1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。 1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。 日本、オランダに宣戦布告。 1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。 1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。 1月24日 バリクパパン沖海戦。 1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。 1月27日 エンドウ沖海戦。 1月31日 ...
  • ジョン・ラーベ
    ...ことを理由にソ連軍とイギリス軍に相次いで逮捕されるが、中国での人道的行為を考慮され、非ナチ化の審査を受けた後釈放された。中華民国政府から、少額の年金を支給されていたが、戦中・戦後の混乱の影響で貧しい生活を余儀なくされることになり、長らく糖尿病に苦しんだ末、1950年に脳卒中のため死去。 死後と顕彰 1996年、南京大虐殺当時の日記が孫によって出版された。英語、中国語及び日本語に翻訳されているが、日本語訳は誤訳が多い。 南京でラーベが暮らしていた住居は、2006年にドイツ政府の資金拠出(225万元)によって修理・保存されており、彼の銅像も置かれている。ラーベのドイツでの知名度は低いが、ヨハネス・ラウ大統領は中国訪問の際に記念碑を訪れてその功績を顕彰した。ハイデルベルクにもラーベの名を冠した施設と胸像がある。 ラーベを主人公に南京大虐殺をテーマとしたドイツ・中国合作映画の撮影...
  • 日英同盟
    ...艦船の護衛に当たり、イギリス軍艦21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員約70万人の護衛に当たった。そして、被雷船舶より7,075人を救助している。日本海軍が護衛に当たった「大輸送作戦」により、連合国側はアフリカにいた兵員をアレクサンドリア(エジプト)からマルセイユ(フランス)に送り込むことに成功し、西部戦線での劣勢を挽回している。 特に、地中海での作戦を開始した1917年4月9日から1か月と経たない5月3日、駆逐艦松と榊はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した。これ以前、救助活動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助し...
  • 下関戦争
    ...た。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻(砲164門)、フランス軍艦3隻(砲64門)、オランダ軍艦4隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦1隻(砲4門)からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。 8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通行を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。 下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤根武人)など2000人、砲約120門であり、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製の砲をつくってダミーとすることもしていた。 5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台...
  • 太平洋戦争-2
    ...日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたため、ソ連との間は戦闘状態にならず、開戦以来平静が続いていたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めるようになった。 同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国民軍の一部が、日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させ、即座に日本軍に対しての攻撃を開始した。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。 4月、連合軍は沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島...
  • 第一次世界大戦-2
    ...917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。 1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド1世は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。 ロシア革命 right|thumb|220px|[[10月革命におけるウラジーミル・レーニンペトログラード 1917年]] Template main? 戦争が長期化するにつれて、ロシア政府の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンド...
  • ウィンストン・チャーチル
    ...戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。 1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。 1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。 1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この...
  • 牟田口廉也
    ...。しかし、牟田口は「イギリス軍は弱い、必ず退却する」と強硬に主張、やがて南方軍も大本営も作戦を承認することになった。しかし、危惧通り作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。一介の中将に過ぎない牟田口が本来親補職(天皇より任免される職)である師団長を独断で更迭することは、前代未聞の事態であった。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将はこうした惨状を前に「こんなことで作戦がうまくいくのか?」と疑問を呈したというが、口を差し挟むことは行わなかった(河辺は盧溝橋事件の際も牟田口の上官であった)。またこのとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。なお、補給については牟田口は、牛に荷物を運ばせて食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を実施させたが、もともとビルマの牛は低湿地を好み、長時...
  • 生麦事件
    ...ール代理公使が7隻のイギリス軍艦を引き連れて薩摩に出向く以前に、すでにガウアーは、「薩摩は幕府を介して事件を解決することをいやがっているだけで、独立を確保するために、イギリスと友好条約を結びたがっている」という情報を公使館にもたらし、幕府の中でも事情通の若年寄・酒井飛騨守は、薩摩とイギリスの接近を怖れて、薩摩行きを取りやめるよう、直接ニールに訴えている。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 薩英戦争後の薩摩とイギリス公使館の急接近は、すでにそれ以前から用意されていたもので、戦闘の勃発も、結局それを妨げることなく、むしろ促進することになった、ともいえるだろう。結果論ではあるが、生麦の惨劇は、幕藩体制の矛楯を、諸外国に向けて露呈させるきっかけとなった。 脚注 Template reflist? 参考文献 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史 中』(明治百年史叢書 原書房...
  • 特務機関
    ...た。当初はインド駐在イギリス軍の内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいてはインドを独立させることでイギリスのアジア戦線からの離脱を狙った。 同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ、同国民軍の指導、宣伝などを行った。機関は6班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班があった。 機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、...
  • BC級戦犯
    ...者を逮捕・起訴した。イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。 戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(陸軍元帥)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。 朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人 BC級戦犯の中には、旧植民...

  • ...強力な近代兵器をもつイギリス軍に大敗した清は、1842年イギリスと南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。 対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年アロー戦争を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年に公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・アヘ...
  • コードトーカー
    ...kinews)。 イギリス軍では、ウェールズ語を用いた似たようなシステムを採用していたが、広くは用いられていなかった。 2002年には、ニコラス・ケイジ、アダム・ビーチ、クリスチャン・スレイター(Christian Slater)が出演したコードトーカーを題材にした映画『ウィンドトーカーズ(Windtalkers)』が公開されているが、全てが歴史的に正確に描写されているわけではなく、また元コードトーカーの兵士からも批判された。 脚注 参考文献 Kenji Kawano(河野謙児)『Warriors Navajo Code Talkers』 Northland Pub (1990/09)ISBN 978-0873585132 関連項目 暗号史 野村直邦海軍中将 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3...
  • 日英通商航海条約
    日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)は、1894年7月16日に日本の駐英公使青木周蔵と、イギリス外相キンバレーによって調印された条約のことである。1941年(昭和16年)7月26日、イギリスおよびイギリス連邦各国より破棄を通告され効力を失う。 日本政府が明治の初めから取り組んでいた各国との不平等条約改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約。安政五カ国条約締結以来日本政府の悲願だった領事裁判権の撤廃がなされ、以降同内容の条約をアメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、オランダ、イタリアなど14ヵ国とも調印する。 しかし、もうひとつの悲願である関税自主権回復はできず、イギリスからの輸入品の約70パーセントは協定税率の束縛を受けることになる。しかし、この時点では治外法権の撤廃を主目的とし、その妥協案の関係から関税自主権は一部回復を目指したので、目的は達成されたことになる...
  • 交換船
    thumb|right|330px|[[横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸]] 交換船(こうかんせん、戦時交換船や抑留者交換船などとも呼ばれる)は、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された船のことである。 いきさつ 1941年12月8日の日本とイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とのいわゆる大東亜戦争/太平洋戦争の開戦に伴い、両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族など)の帰国方法が問題になった。 しかし、開戦後に両陣営の国家同士の国交が断絶され、それぞれの国に駐在する外交官の資格が停止されたことに伴い、政府間の直接交渉が不可能になったことから、まずアメリカの国務省が、12月17日に中立国で...
  • 枢密院
    枢密院(すうみついん)は、国家の主権者(典型的には君主)の諮問機関である。 枢密院(すうみついん)は、中国歴代王朝の国家機関の一。主として軍制を掌った。「枢密院」の語源。→中国の節へ。 枢密院(すうみついん、Template lang?)は、イギリス国王の諮問機関。→イギリスの節へ。 枢密院(すうみついん)は、日本においてTemplate 和暦?からTemplate 和暦?まで存在した、天皇の諮問機関の一。→枢密院 (日本)を参照。 中国 中国における枢密院は、唐王朝(7世紀初めから10世紀初め)の中頃に生まれた機構で、主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、北宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。 元王朝の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年(中統3年)に設置された軍事を司る...
  • 援蒋ルート
    援蒋ルート(えんしょうるーと)は、日中戦争において大日本帝国の侵略に対し対決姿勢を強めていた中国(国民政府)を主にアメリカ、イギリス、ソ連が軍事援助するための輸送路である。名前の由来は蒋介石を援助するためのルート。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。 日本では単に援蒋ルートと言った場合後述のビルマルートを想定していることが多い。 経路 援蒋ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。 香港からのルートは、...
  • ワシントン会議 (1922年)
    ワシントン会議(ワシントンかいぎ、1921年11月12日 - 1922年2月6日)とは、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍事会議。 概要 国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義があるTemplate fact?。 このワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼ぶ。 アメリカ ヒューズ国務長官に率いられたアメリカ代表団にとって、会議の主な目的は、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島...
  • ヤルタ会談
    320px|thumb|ヤルタ会談(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル・ルーズベルト・スターリン)]] ヤルタ会談(ヤルタかいだん)は、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソ連)による首脳会談。 なおクリミア半島は歴史的にはタタール人とスラブ系により争われてきた土地であるが、18世紀末以降(会談当時も)ロシア・ソ連が占領していた。のち、冷戦期初期にウクライナに割譲され、現在に至る。地理的にはウクライナの半島に他ならない。 またヤルタはクリミア諸島の南端、黒海を臨むリゾート地。このソ連唯一のリゾート地に米英首脳を迎えたのであった。 概要 連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるド...
  • ノルマントン号事件
    ノルマントン号事件(Normanton Incident)とは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、ノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、紀州沖(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬沖)で座礁沈没した事から始まった事件である。 概要 沈没したノルマントン号にはイギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、日本人らが乗船していたが、事故の際、船員であったイギリス人、ドイツ人ら白人はほぼ全員が生存した一方で、乗客であった日本人25名全員が死亡した(また、インド人の乗組員も全員死亡した)。さらに、助かった船員らは救命ボートで避難していたため、船長が適切な避難誘導をせずに、乗客である日本人を取り残したのではないかとの疑念から当時の世論が沸騰した。これは当時の欧米(白人社会)に広まっていた人種差別の考えがあったと思われる。 事実検証について...
  • 三国干渉
    三国干渉(さんごくかんしょう)は、下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が1895年4月23日に行った日本に対する勧告のことである。 日清戦争と欧州列強 日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。 更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「中国の分割」を進めてきたが、中国国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本のこの要求はこの列強間の「...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • 三国協商
    三国協商(さんごくきょうしょう、英:Triple Entente、仏:Triple-Entente、露:Антанта)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 事前の経緯 当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890...
  • 仏印進駐
    仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、フランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年(昭和15年)の北部仏印進駐と、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐に分けられる。 北部仏印進駐 1940年(昭和15年)9月、日中戦争(支那事変)によって日本と敵対していた蒋介石の中国国民党政権に対するイギリス・アメリカ合衆国などによる援助ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する目的で行われた。これは、フランスの親独的中立政府であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果とされ、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、実際には進駐開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で戦闘日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。 進駐後は、統治権はフランス側に残され、フランス...
  • 露仏同盟
    露仏同盟(ろふつどうめい)とは、フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。 背景 1890年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。一方、フランス側...
  • 明治十四年の政変
    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、1881年(明治14年)自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すドイツ憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文が、後者を支持する大隈重信を政府から追放した政治事件をさす。この事件により後に制定される大日本帝国憲法は君主大権を残すドイツ憲法を範とされることが決まったといえる。 概要 立憲体制の導入を巡る議論 大久保利通亡き後、明治政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、消極論者の右大臣岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。大隈重信は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対...
  • 連合国_(第二次世界大戦)
    第二次世界大戦における連合国 (聯合国、Allies, United Nations) とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と戦った国家連合。 元来、第一次世界大戦の連合国と同じく Allies と呼んだが、1941年12月、ルーズベルトが United Nation と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言 (Declaration by United Nations) 以来この呼び名が広まった。中国語では「Template lang?」が Allied Powers、戦前の諸国連合 (United Nations) の名称としても用いられる。また、「国際連合 (United Nations)」には「Template lang?(日本で用いられている漢字に直すと連合国、または聯合国)」が主に用いられている。 現在の国際連合 (United Nations) は、この連合国が...
  • 普通選挙
    普通選挙(ふつうせんきょ)とは、ある組織において選挙の際に年齢・性別以外で信条・財産等の制限を設けずに選挙権を行使できる選挙形式を指す。とりわけ、国政選挙において財産(納税額)等の制限を設けずに選挙権を行使できる選挙形式を指す場合が多い。 現在の日本では、供託金が諸外国に比べて極めて高額で、事実上、資産が無い人間が立候補できない状態に置かれているとして、被選挙権が制限された制限選挙の状態にあるとの意見もある。 狭義には性別制限なく選挙権を持つ完全普通選挙のみをさし、広義には男性だけが選挙権を持つ男子普通選挙を含む。 歴史 1792年 フランス革命期の国民公会において、世界初の男子普通選挙が実施された。有権者は25歳以上とされた。 1870年 アメリカで男子普通選挙が実施された。 1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。 1919年 ドイツ共和政において、世界初の完...
  • 日英和親条約
    日英和親条約(にちえいわしんじょうやく、 Anglo-Japanese Friendship Treaty)は1854年、日本とイギリスの間で締結された最初の条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。日英約定(にちえいやくじょう)とも。 1854年9月7日、ジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)率いるイギリス東洋艦隊が長崎に来港、日本との通航を要求した。 砲艦外交の圧力の下、江戸幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳及び同目付永井尚志が同年10月14日(嘉永7年8月23日)、条約に調印した。 日本は先の日米和親条約で米国に下田と箱館の開港を認めていたが、この条約では長崎と箱館を英国に開放(条約港の設定)し、薪水の供給を認めた。また、治外法権・最恵国待遇などの規則も定められた。ただし通商規定...
  • 幣原外交
    幣原外交(しではらがいこう)とは、大正末期から昭和初期の両大戦間期に、幣原喜重郎が外務大臣となって行なわれた穏健な対外協調外交をいう。 自主的な外交による日本の国際社会における地位向上に貢献した、との評価がある。一方で地政学の立場からは、協調外交の結果として日英同盟などの軍事同盟の維持が不可能になり、大恐慌後の軍人による対外拡張政策に歯止めを与える存在を無くしてしまう結果になった、などの指摘もある。 第一次 幣原は大正13年(1924年)から昭和2年(1927年)、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣と若槻禮次郎内閣の外相として、ワシントン海軍軍縮条約を尊重し、アメリカ・イギリスとの協調、中国への内政不干渉を唱え、経済的には中国市場拡大、満州の特殊権益の維持を図った。このため大正14年(1925年)には日ソ基本条約を結んで日ソの国交を樹立し、また昭和2年(1927年)、中国で国民革命...
  • 条約改正
    条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。 概説 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ)内容であった。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を...
  • 陸奥宗光
    {{政治家 |各国語表記 = むつ むねみつ |画像 = Munemitsu Mutsu 2.jpg |画像説明 = 陸奥宗光 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年8月20日 |出生地 = 紀伊国名草郡(現・和歌山県和歌山市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 西ヶ原本邸(現・東京都北区西ヶ原) |出身校 = 神戸海軍操練所 |前職 = 海援隊隊士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位勲一等伯爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 陸奥蓮子陸奥亮子 |サイン = |国旗 = 日本 |職名 = 第8代外務大臣 |内閣 = 第2次伊藤内閣 |当選回数 = |就任日 = 1892年8月8日 |退任日 = 1896年5月30日 |退任理由 = 肺結核...
  • 大東亜会議
    thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、昭和18年(1943年)11月5日~11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。 日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された。 概要 この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとら...
  • 天津条約
    天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。 1858年の条約 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 大東亜共栄圏
    thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本が掲げた大義名分である。 概要 「大東亜が日本の生存圏」 日本・満洲国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。 用語としては岩畔豪雄と堀場一雄が作ったもの...
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