chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「エピソード」で検索した結果

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  • 井上日召
    ...後を過ごす。 エピソード 後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月19日 (水) 07 50。   
  • 西郷従道
    ...正式の読みである(#エピソードを参照)。 略歴 薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津斉彬に出仕し、茶坊主となり、竜庵と号す。 文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称は信吾と称す。斉彬を信奉する精忠組に加入、尊王攘夷運動に身を投じる。 文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受ける。従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起ると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。 明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に...
  • 小村壽太郎
    ...霊園にある。 エピソード 仕事は後世の人間が判断することである、として一切日記を付けなかったとされる。 ロシア駐在時、暗い室内で膨大な数の書物を読み込み続けたため、医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告されたが、学習意欲は衰えず書物を読むことを止めなかった。 演じた俳優 小林桂樹「明治の群像 海に火輪を」(1976年、NHK) 石坂浩二「ポーツマスの旗」(1981年、NHKドラマスペシャル) 関連項目 明治の人物一覧 戦前の政治家一覧 外部リンク 小村寿太郎 | 近代日本人の肖像 特集 小村寿太郎 - 日南市観光協会 観光 にちなんの旅(宮崎県) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月10日 (木) 20 22。    
  • 牟田口廉也
    ...って出席した、というエピソードもある。1941年の太平洋戦争開戦直後のシンガポール攻略戦で名を馳せたが、インパール作戦では決定的な敗北を喫した。 第15軍司令官に就任し、昭和19年(1944年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2000m級の山岳が連なる地帯で補給を軽視した作戦を立案した。当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団は補給が不可能という理由でほぼ全員が反対した。しかし、牟田口は「イギリス軍は弱い、必ず退却する」と強硬に主張、やがて南方軍も大本営も作戦を承認することになった。しかし、危惧通り作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。一介の中将に過ぎない牟田口が本来親補職(天皇より任免される職)である師団長を独断で更迭することは、前代未聞の事態であった。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将はこうした惨状を前に「こんなこ...
  • 兒玉源太郎
    ...存在せず、また、このエピソードが広く知られるきっかけとなった司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』以前に、そのような経緯を記した信頼に足る記録も見出せない事から、司馬の創作であるとする意見がある。 一般に知られている説によれば、1904年12月5日、兒玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言専門家の指摘は以下のとおりである。重厚な装甲が施された艦からの報復射撃がされた場合、無防備の観測点及び榴弾砲陣地は一方的に損害を受ける恐れがある。従って、それ相応の防御陣地を構築してから射撃を行う必要がある。...
  • 中野正剛
    ...されていた。 エピソード 弟の中野秀人は画家、詩人・評論家、四男の中野泰雄は亜細亜大学名誉教授である。 1926年に手術ミスで左脚大腿下部切断している。幼年時代の落馬により左足の関節に痛みを覚えるようになったが、学生時代、柔道の稽古中に骨折、手術した。後遺症のため成人後に再手術、結果、血栓により足の血管が詰まり壊疽を起こし、左足の切断に至った。 中学時代に玄洋社の初代社長平岡浩太郎に援助を頼んで仲間と柔道道場を設立するほど柔道を愛好しており、足が不自由ながらその技量も高く、早稲田大学在学中には、史上最強の柔道家といわれ黒澤明の監督作品『姿三四郎』のモデルの一人とされている講道館の徳三宝と試合をして勝ったほどである。 現在、福岡市中央区今川地区の一角に中野の銅像が設置されている。 人物評 緒方竹虎は、「いったん思い込むと、憑かれたようになる」と評し、清瀬一郎...
  • 日本資本主義論争
    ...論争に参加した人物のエピソードや当時の社会的背景にも言及した「論争の社会史」とも言うべき著作。 青木孝平(編) 『天皇制国家の透視;日本資本主義論争I』 〈「思想の海へ[解放と変革]」第29巻〉 社会評論社、1990年 河西勝(編) 『世界農業問題の構造化;日本資本主義論争II』 〈同上第30巻〉 社会評論社、1990年 論争のアンソロジーとしては比較的新しいものの1つ。Iでは国家論を、IIでは地代論を中心に扱う。 関連項目 経済史 日本経済史 ロシア資本主義論争 日本民主革命論争 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月6日 (金) 19 30。    
  • ドーリットル空襲
    ...場を建設した。 エピソード シャングリラ ドーリットル空襲の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、記者会見で空襲の成功を発表したルーズベルト大統領は記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた。シャングリラとは当時の小説で映画化もされた「失われた地平線」に出てくるヒマラヤ付近にあるとされる架空の地名であり、それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。 なお、このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母シャングリラ(CV-38;エセックス級航空母艦の1隻)が就役している。 関連項目 東京大空襲 太平洋戦争の年表 大日本帝国海軍艦艇一覧 第二次世界大戦 - 太平洋戦争 海軍 - 大日本...
  • 昭憲皇太后
    ...評価した(出雲井晶『エピソードでつづる 昭憲皇太后』参照)。 逸話 1884年(明治17年)に宮中改革を巡って明治天皇とギクシャクしていた伊藤博文が病気で倒れた際には、天皇に代わって見舞いの使者を出して両者の仲直りのきっかけを作った。また、同年に宮内大輔の吉井友実が以前に社長を務めていた日本鉄道の上野-高崎間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の宮島誠一郎宛書簡)。 明治になって再び朝廷に政権が返った事により、江戸幕府の大奥や西洋の宮廷の例のように皇后やその周辺の側近が国政に関与する可能性も存在したが、彼女は自らを律して国政に直接関与する事を戒めた。また、香川敬三や下田歌子などの周囲の側近に恵まれて、近代日本の皇后としての役割を確立することができた。 1904年(明治37年)2月、日露戦争...
  • 岡田啓介
    ...にも伝記にふさわしいエピソードが無く、編者の苦労が感じられる。しかしながら、そのことは岡田が常識人であったことをうかがわせる。生涯を清貧で通した人物であり、総理大臣就任の際、記者たちに振舞う酒が買えず、「これで君たちの好きな酒を冷やしてくれ」と氷だけを配ったエピソードがある。また、岡田が就任時に着用したシルクハットも借り物であった。 福井市の中央公園に、岡田の銅像が建てられている。 人脈 二・二六事件のときも官邸に居合わせた、娘婿で総理秘書官の迫水久常は、大蔵官僚出身、後に参議院議員、経済企画庁長官、郵政大臣を歴任する政治家になっている。二・二六事件で死亡した高橋是清蔵相は、共立学校時代岡田の英語の先生だった。 年譜 1889年4月20日 - 海軍兵学校卒業(15期)。同期に、小栗孝三郎、竹下勇、財部彪。 1890年7月9日 - 海軍少尉に任官。 1892年12...
  • 玉音放送
    ...一人居なかったというエピソードがある。 玉音放送において「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(私は米英支ソ4国へ共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが、多くの日本国民においては「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という部分が戦時中の困苦と今後への不安を喚起させ、とくに印象づけられて有名であるこの放送では「敗北」や「降伏」といった言葉を用いることができなかったため、昭和天皇は敢えて明治天皇が1895年(明治28年)の三国干渉に屈服した際に述べた言葉(「堪ヘ難キヲ…」)を繰り返したとされる(B.A.シロニー『天皇陛下の経済学』山本七平監訳、光文社文庫、1986年(昭和61年)。p.153)。。 なおラジオ放送のマイクが天皇の肉声を意図せず拾ってしまい...
  • 田中隆吉
    ...であるが、次のようなエピソードがある。1947年(昭和22年)の暮れ、木戸幸一担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか」と質問をしたところ、東條は「いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。 これを受けて、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、ソ連の検事が正式に天皇追起訴を提言してジョセフ・キーナン主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。東條への工作は成功した。 1948年(昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりと...
  • 白鳥敏夫
    ...合祀される。 エピソード 情報部長時代には、満州国の承認に関して、アメリカ人記者から「日本はいつ承認するのか?」と聞かれた際、白鳥は「日本は急ぎはしない。建設すべき運河をそこにもたないから」と答えたという。これは、パナマ運河を建設するために、アメリカがパナマで軍事革命を起こし、傀儡政権を立て、それをすぐさま承認したことに対する皮肉である。 イタリア赴任前に同盟通信社の岩永裕吉と会議で揉めて、「イタリア大使となる人物」と「国家代表通信社のボス」が背広を脱いで喧嘩を始めるところへ、有田八郎外務大臣が止めに回っている。 巣鴨プリズンに服役中、戦争放棄や軍備撤廃を新憲法の条項に盛り込むべきだとする提案をまとめた書簡を、当時の吉田茂外務大臣を通じて幣原喜重郎首相に送っており、その内容が今日の憲法第9条の原型になったという説もある。 白鳥家は元々日蓮宗の家系で、白鳥自身はキリスト教...
  • 国家総動員法
    ...ぶりを示す以下2つのエピソードがあった。 「黙れ」事件 1938年3月3日、陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐は委員会審議中、政府側説明員として長時間にわたり法案の趣旨説明を行った。そのあまりの長広舌に対して議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ際、佐藤は「黙れ!」と恫喝した。議場は騒然とし、事態収拾のため杉山元陸軍大臣が陳謝したものの佐藤本人に懲罰はなかった。 ただし、質問者であった宮脇長吉議員は元陸軍軍人で佐藤の陸軍士官学校時代の教官であったことから、佐藤と宮脇の個人的な確執が発言につながったとする説もある。また、当時陸軍大臣が直ちに謝罪する例は珍しく、法案審議に際しての軍部の低姿勢ぶりが際立っているとする見方もある。 西尾除名事件 社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。3月16日、...
  • 永田鉄山
    ...英才であった。 エピソード 陸軍大学校の試験の間際、優秀な永田は一人で悠々と科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎が「俺たちが惨めすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれないか」と永田に懇願したという。 年譜 1904年(明治37年)10月 - 陸軍士官学校卒業(16期首席)。 11月 - 少尉に昇進。歩兵第3連隊補充大隊附。 1906年(明治39年)1月 - 歩兵第58連隊附。 1907年(明治40年)12月 - 中尉に昇進。 1911年(明治44年)11月 - 陸軍大学校卒業(23期)。 1912年(明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課)。 1913年(大正2年)8月 - 大尉に昇進。 10月 - ドイツ駐在(~1914年8月)。 1915年(大正4年)3月 - 俘虜情報局御用掛。 6月 - デンマーク駐在。 11月 -...
  • 昭和天皇-2
    前半は、昭和天皇参照 エピソード 皇太子時代 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。1912年(大正元年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問した。乃木の殉死に薄々感づいていたのかもしれ...
  • 大正天皇
    ...ような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのであるという ref name =hara/ 。 この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている 朝日新聞平成13年3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。 ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。。この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはいるが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになったかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯についての...
  • 阿南惟幾
    ...される後述の終戦時のエピソードも相まって評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い人物である。 大分県竹田市出身。終戦時の鈴木貫太郎総理大臣とは、二・二六事件当時、侍従長と侍従武官の関係だった。 太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り、最終的には終戦に同意。軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃。介錯を拒み、翌15日朝絶命。「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書は有名。 日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めて。その後も2007年に松岡利勝農水大臣が自殺するまで、実に62年間も現職閣僚の自殺はなかった。 長男(早世)、次男惟晟(陸軍少尉、昭和18年戦死)、三男惟敬(元防衛大学校教授)、四男惟正(元新日本製鐵副社...
  • 昭和天皇
    ...しく、植物園などでのエピソードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。2007年現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごくわずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。 行幸 thumb|250px|right|[[昭和22年(1947年)石川県で開催の第二回国民体育大会の折り、山中温泉で栢...
  • 枢密院 (日本)
    ...として握りつぶされたエピソードが残る。 枢密院の建物は、Template 和暦?に皇居内に建造されたものが、戦後皇宮警察が使用するなどして今も残っている。 権限 大日本帝国憲法第56条では「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と規定された。 枢密院への諮詢事項は次のとおり。 皇室典範・皇室令において枢密院の権限に属するとされている事項 憲法の条項に関する草案と疑義 憲法附属法令に関する草案と疑義 枢密院の官制と事務規程の改正 緊急勅令・緊急財政処分 国際条約の締結 戒厳の宣告 教育に関する重要勅令 行政各部の官制など官規に関する勅令 栄典・恩赦の基礎に関する勅令 その他、特に諮詢された事項 枢密院は施政に関与することができず(枢密院官制第8条)、大臣以外と公務上の交渉を行うことを禁じられていた(枢密院事務規程第...
  • 閑院宮載仁親王
    ...、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後騎兵第一連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第二旅団長に就任。 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後陸軍中将に進級した。 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなった...
  • 貞明皇后
    ...たというほほえましいエピソードもある。また第二次大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母を気遣ったことが、天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。 しかし皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであったと囁かれる。彼女と宮の誕生日は同じであり、そのことから皇后は強い縁を感じていたとも言われる。上記の秩父宮の婚姻に関しても、妃に朝敵・松平容保の孫でなおかつ平民である勢津子を強く推したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であったと言われる(河原敏明)。 関連項目 Template Commonscat? 園祥子 - 明治天皇の側室で、貞明皇后の女官長 ハンセン病   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月10日 (月) 05 27。 ...
  • 大川周明
    ...に取り組んだ。 エピソード 大川は、東京裁判が始まった時から、「すべて茶番なんだ、こんなもの裁判じゃない」と周囲に漏らしていたなどといわれ、現在でも詐病説が絶えない。 大川の身長(178cm)は、東京裁判の全被告の中では飛び抜けて高かった。 ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。 『大川周明関係文書』柳澤一二宛て書簡(昭和30年4月27日)に云う、「平泉澄博士は、当代の学者中、生(周明)が先生と敬ひて師事する唯一人」とあり、年下の国史学者平泉を評価していたと云う。大川の墓銘は、平泉が書いている。 「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問があり過ぎる」と評された。 代表的著作 『復興亜細亜の諸問題』(1922年、のち中公文庫) 『日本精神研究』(1924年) 『特許植民会社制度研究』(...
  • 東郷平八郎
    ...内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。 死去 昭和9年(1934年)、88歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際にはイギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦ケント、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦のヒューストンやフランス、オランダ、イタリア、中国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた中国の軍艦寧海は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせ、自らは後日弔意を示した。 東郷の遺髪は英海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)に厳重に保管さ...
  • 辻政信
    ...されている。 エピソード・人物像 娘は通商産業大臣・衆議院議員の堀内光雄に嫁いだ。 下級将校時代には特に模範的人物であった。戦場の野営時ムカデ退治(本来は士官の仕事ではない)に必死になっている姿なども目撃されている。 『週刊新潮』2006年2月23日号で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、研究が待たれている。 1946年9月にタイ王国当時の国王ラーマ8世が不審な“事故死”を遂げた。銃の暴発に因るものであると片付けられたが、当時の捜査に参加した英国の作家ウィリアム・スティーブンソンは辻が国王を殺害したという証拠を提示し、確信を持っていたという。しかしながら辻政信の記録、『潜行三千里』によれば辻は1945年にタイを脱出しており、1946年6月9日は中国...
  • 風船爆弾
    ...深刻であったという。エピソードが残されている。製造中の事故により6名の死者を出している。 部隊編制 千葉の気球連隊が母体となり『ふ』号作戦気球部隊が編制された。 昭和19年9月編成。連隊長:井上茂大佐。連隊本部:茨城県大津。総員:約2千名。 連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された。 第1大隊(3個中隊)茨城県大津(現在の北茨城市五浦海岸一帯) 第2大隊(2個中隊)千葉県一宮昭和20年2月以降、頻繁にアメリカ空母艦載機の攻撃を受けるようになり放棄された。人員と機材は第1大隊に合流した。 第3大隊(2個中隊)福島県勿来 1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。 中隊人員:将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった...
  • ヨシフ・スターリン-2
    ...たという臆病さを表すエピソードが多くあり ref name= nhkspecial / 、非常に臆病な人物として知られている。 この性向は晩年に近づくほど酷くなり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前にでることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった(軍隊が攻めてきても、2週間持つほど重装備であった)。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スタ...
  • 吉田茂
    ...親密であった。前述のエピソードに示されているが、吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。 ユーモア 癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に...
  • 伏見宮博恭王
    ...王には皇族らしからぬエピソードが残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者が「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。また嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好みよく食していたという。 軍令部総長として絶大な権力をふるい、いわゆる条約派・欧米協調派を海軍中央から追放し、太平洋戦争開戦、さらには敗戦の遠因を作った事については、戦後に厳しい歴史的評価を受けている。 博恭王自身は「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日...
  • 榎本武揚
    ...明さを象徴するようなエピソードでもある。 著作に『渡蘭日記』『北海道巡回日記』『西比利亜日記』『流星刀記事』など。 曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。 参考文献 『榎本武揚 シベリア日記』講談社学術文庫、2008年。 榎本隆充、高成田亨編『榎本武揚』藤原書店、2008年。 榎本隆充『榎本武揚未公開書簡集』新人物往来社、2003年。 『東京農業大学百年史』東京農業大学、1993-1994年。 加茂儀一『榎本武揚』 中公文庫、1988年。 加茂儀一編『榎本武揚 資料』新人物往来社、1969年。 安部公房『榎本武揚』中央公論社、1965年。のち同文庫 榎本武揚が登場する作品 「大奥」(1968年、フジテレビ、演:波多野博) 「勝海舟」(1974年、NHK大河ドラマ、演:村井国夫) 「獅子の時代」(1980年、NHK大...
  • 板東俘虜収容所
    ...東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。 板東俘虜収容所跡地は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている。また近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができる。最近になって倉庫や牛舎になっている当時の建物が発見された。 第一次世界大戦期のドイツ人俘虜収容所 捕虜収容の経緯 1914年、第一次世界大戦で日本軍はドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した結果、約4700人のドイツ兵が戦争捕虜となった。ドイツ側降伏後すぐに東京では政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”を...
  • 会津戦争
    ...近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも会津戦争の因縁の例として上げられる事が多い。 Template 要出典範囲? Template 要出典範囲? Template 要出典範囲? ただし、実際には第二次世界大戦前夜の陸軍内における長州閥は勢力争いに敗れており、「長州出身と書けば採用や出世に不利になる」のが現実であり、少なくとも第二次世界大戦当時にこのようなことはありえない。 ちなみに、福島県に龍馬会(坂本龍馬に因む会)が結成されたのは、47都道府県の中で最後である。 昭和61年(1986年)には長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので・・・」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。 Template 要出典範囲? 評価 新政府軍は北越戦争に大兵力...
  • 大隈重信
    ...ており、以下のようなエピソードが伝えられている。 1897年に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、1907年には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。 大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。 1919年、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った木村時夫 『知られざる大...
  • 東久邇宮稔彦王
    ...不明である。 エピソード 学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王、北白川宮成久王、北白川宮喜輝王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。また、のちの小説家里見弴もいて親友となる。 陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のトルストイの『復活』を読み、物議をかもした。これが明治天皇の耳に達してしまい、臣籍降下まで検討された。 陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。明治天皇に臣籍降下を直訴したが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。 フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。北白川宮成久王は滞仏中に運転...
  • 鈴木貫太郎
    ...る対応である(詳細はエピソードに記す)。 しかし、ポツダム宣言記者会見を行なった際、新聞記者インタビューにより黙殺するという談話を記事に大きく取り上げられたことは誤算だった。1945年7月27日にポツダム宣言を日本の新聞に論評抜きで公表したとき、7月28日の讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく取り上げられた。 陸軍の突き上げで、7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、昭和20年7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。しかし、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社により「igno...
  • エルトゥールル号遭難事件
    ...コ」のイメージを語るエピソードとしてなくてはならないものになっている。 上記、イラン・イラク戦争時のトルコ政府・トルコ航空による日本人救助活動について、実際は伊藤忠商事イスタンブール支店関係者、在テヘラン日本大使館からのトルコ政府への救援要請に対し、トルコ側が「快諾」し、トルコ航空機の派遣を決定したとも言われる。なお、この事件に関するシンポジウムが2007年10月28日、東京都三鷹市の中近東文化センターで、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら当時の関係者出席の上、行われている。 2008年1~2月、米国・海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。 2008年...
  • 濱口雄幸
    ...って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平が財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省・海軍軍令部は帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特にアメリカ合衆国が国際社会の中で早晩1番の大...
  • 陸奥宗光
    ...どを占める。 エピソード 若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。 後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。 陸奥の言葉…「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」 坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語った...
  • 袁世凱
    ...帝就任への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。 しかし、結果はまったく袁の予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局袁は1916年3月にとうとう退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は尿毒症と伝えられる。 袁の死後、彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入し...
  • 石原莞爾
    ...社に収録)。 エピソード 幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。阿部博行『石原莞爾(上)(下) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)を参考にした。 明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。 仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。 当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この...
  • 川島芳子
    ...本高女まで馬で通ったエピソードは有名である。 1922年に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。断髪の原因は山家亨少尉との恋愛問題であるとも、養父浪速に関係を迫られたためであるともいわれている。 満洲国建国に協力 1927年20歳の時、旅順で蒙古族の将軍パプチャップの息子カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず、2年ほどで離婚。その後上海に渡り、上海駐在武官の田中隆吉少佐と交際したことから特務工作に関わるようになり、上海事変の謀略工作に関わったといわれている。上海での活躍から、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれる。 1931年9月に関東軍により満洲事変が勃発し、11月には、清朝最後の皇帝であった溥儀が関東軍の手引きで天津から満洲に連れ出された。川島芳子は...
  • 西園寺公望
    ...派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。 官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、東京や長崎でフランス語の勉強を始めた。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて大村益次郎の推薦によって明治4年(1871年)、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。京都に来ていた大村に礼を言うために旅館を訪れる直前、親友(万里小路通房)が駆け込んできて長談義となり、その間に大村は襲撃されるという事件が起こっている(明治2年)。 フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。 ...
  • アメリカ本土空襲
    ...されている。 このエピソードは1995年12月29日放送の『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で取り上げられ、藤田飛曹長本人も出演している。しかし日本では余り知られる事がなかった事もあり、ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も「この話は全く知らなかった」と発言している。 関連項目 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃 交換船 1941 (映画) - アメリカで1979年に、日本で1980年に公開された映画。[1] アメリカ爆撃   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月22日 (水) 12 37。    
  • 香淳皇后
    ...うへ」と答えたというエピソードがある。 朝食のひとときにNHKの連続テレビ小説を見るのが好きだった天皇につきあって、この番組をよく見ていた。、 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の違いもあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだともいわれる。 書、刺繍、日本画、謡(観世流)、バラの栽培など多趣味で、バラは皇后自ら鋏をとり、枝の剪定やなどを行っていた。特に、日本画は玄人はだしで、ご成婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後川合玉堂、前田青邨に師事、1956年以降宮内庁職員美術展によく出品した。号を桃苑といい、現在皇居のなかにある桃華楽堂はこの号に由来するもの。画集に「桃苑画集」(1967年)、「錦芳集」(1969年)がある。 皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育にまかせて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは...
  • 日露戦争
    ...」と勘違いしたというエピソードもある捕虜も参照。。 また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論従来は、島国である日本本土の防衛を重視して海軍の充実が主唱されてきたが、アジア大陸最東部の満洲・韓国を支配圏に置いた以上は、日本も大陸国家としての備え(即ち強力な陸軍)が必要であるとする主張のこと。とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。 あまり知られていないが、日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久...
  • 戦陣訓
    ... その他の関連エピソード 訓を垂れた当の東條は、示達の同年10月18日に内閣総理大臣に就任し、1944年7月22日まで務めた。しかし敗戦後に自殺に失敗して占領軍の虜囚となったうえ、占領軍に軍刀を送るなどした。 書籍出版時の著作権は東條が有していたが、印税の受け取りの有無は不明である。当時は軍人や官僚の書籍を出版し、印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮 佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家―』中公新書、2004年。があったが、『戦陣訓』での東條の印税受領の証拠は無い。 参考文献・注釈 参考文献 『帝国陸海軍の光と影』・大原康男・日本教文社 『図説・玉砕の戦場』・森山康平・河出書房新社 『日本軍の捕虜政策』・内海愛子・青木書店 注釈 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedi...
  • 昭和天皇-3
    ...という渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。ただ、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘してはいる。なお、昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇である明仁の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。また海洋生物研究に用いられた御採取船「葉山丸」は、大山祇神社(愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている。 昭和天皇の著書 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 (1967年2月) 天草諸島のヒドロ虫類 (1969年9月) ...
  • 関東大震災
    ...、火災の激しさを示すエピソードである。 190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅した...
  • 日清戦争
    ...い厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。 日本軍の損害 脚気 玄米を主食としていた海軍では脚気による死者はほとんどいなかったが、陸軍の兵士の主食は白米であったため罹患者・約4万人、病死者・数千人だった。陸軍の戦死者は数百人(資料により人数は異なる)であり、脚気による病死のほうが多かった。当時、脚気の原因が解明されておらず、陸軍軍医制度を確立した石黒忠悳や陸軍軍医総監であった森林太郎が脚気の原因は細菌であるという伝染病説に固執していたことなどによる。 日清戦争当時は補給路が確立されておらず、兵站が滞ることがしばしばであった。平壌の戦いでは野津師団長以下が本国では乞食でさえ食わないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。 凍傷 当時...
  • 松岡洋右
    ...に強く抗議したというエピソードもある(詳細は富田メモを参照)。 満州事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、龍角散のキャッチコピーに引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。 在カウナス日本領事代理、杉原千畝が行ったユダヤ人向け通過ビザ発給に対して、松岡は「黙認」していたのではないか、との説があるが、真相は未だ不明である。 アメリカ留学時にキリスト教に関心を持ち、プロテスタントの信者となったクリスチャンである。しかし、戦後に肺結核を発病したまま収監された際、主治医の井上泰代(ベタニア修道女会所属の女医)の影響でカト...
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