chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「ソビエト」で検索した結果

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  • 在華ソビエト軍事顧問団
    在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣されたソ連軍人により構成された顧問団である。 中国革命を目指す孫文が、国民革命軍の創設と強化のために、隣国ソ連から招いたのが始まりである。孫文の死後、跡を継いだ蒋介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル...
  • 日ソ基本条約
    日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は、1925年に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で結ばれた二国間条約。1922年のソ連の建国後、日本との間で初めて結ばれた条約で、1917年のロシア革命以来ロシアを統治するソビエト政権と日本との間で断絶していた日露国交正常化の基本原則を定めた。1月20日締結、2月25日に批准。 締結に至る経緯 1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1...
  • 独ソ戦
    ...中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエトは、イギリス・フランスの煮え切らない態度に対してドイツと手を握ることにした。 ドイツがポーランドと戦争を始めるとソ連は、モロ...
  • 枢軸国
    ...ドイツ軍と交戦した。ソビエト連邦軍が1944年に行ったバグラチオン作戦によってルーマニアでは政変が起き、親独派は逮捕、国内のドイツ軍を壊滅させ、チェコ等へ進軍していった。ブルガリアでは王政が崩壊、ソビエトの傀儡と化してしまった。ヴィシー政権は1944年夏の連合軍によるパリ奪回に伴い事実上崩壊した。イタリア王国が離脱してからは、ムッソリーニがサロに打ち立てたイタリア社会共和国が枢軸国として抗戦を続けたが、ほどなくして戦線は崩壊した。 「枢軸」ということばは、1936年10月、ムッソリーニがイタリアのローマとドイツのベルリンを結ぶ南北の軸(ベルリン・ローマ枢軸)を指すものとして用いたのが始まりとされる。 備考 ユーゴスラビアはドイツの後押しを受けたクロアチア独立国の実効支配のもとで一時日独伊三国同盟に加わった。 スペイン(フランコ政権)は、防共協定に参加したが、第二次世界...
  • 国共合作
    ...った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。 日本による満州の掌握 同時期には日本の関東軍が、1931年9月に勃発した満州事変を契機として満州地域一帯を掌握し、その後の1932年3月1日に、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝の愛新覚羅溥儀を「執政」に推戴する親日国家の満州国を建国した(いわゆる、十五年戦争の始まり)。 これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まっ...
  • 中ソ不可侵条約
    ...月21日、中華民国とソビエト連邦の間で調印された条約である。同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。 関連事項 中ソ友好同盟条約 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月18日 (木) 05 43。    
  • 連合国_(第二次世界大戦)
    ... 中華民国 ソビエト社会主義共和国連邦(白ロシア、ウクライナ) カッコ内は第二次世界大戦時には、植民地もしくはソ連邦内の国 主要5ヶ国またはその「継承国」とされた国(中華民国→中華人民共和国、ソビエト連邦→ロシア連邦)は、国際連合の歴史を通じて、そのまま常任理事国となっている。 ヨーロッパ フランス オランダ ベルギー ルクセンブルグ チェコスロバキア ユーゴスラビア ギリシャ デンマーク ノルウェー ポーランド 英連邦 オーストラリア ニュージーランド エジプト 南アフリカ連邦 カナダ ドミニカ国 南北アメリカ メキシコ キューバ グアテマラ ハイチ ホンジュラス エルサルバドル ニカラグア コスタリカ パナマ コロンビア ベネズエラ エク...
  • 長征
    ...1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。 第1次-第4次囲剿 第1次-第4次までは国民党軍は兵力を小出しにしたこと、また紅軍側は山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。 第5次囲剿 蒋介石は第1次-第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応でき...
  • 戦時体制
    ...本はアメリカ合衆国やソビエト連邦はおろかイギリスやナチス・ドイツにも及ばず、経済政策としては失敗している。 しかしながら、経済統制の手法は戦後の経済政策にも生かされていく。企業構造や財政システムなどにおける日本特有の要素は戦時体制を淵源とするものが多い野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社、1995年。。戦後の日本の社会体制に対しても、戦時総動員体制に起源を持つものを指して「戦時体制」ということがある。 脚注 関連項目 統制 配給 (物資) 戦後体制 総動員 国家総力戦 戦時設計 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月15日 (日) 21 54。     
  • 日露協約
    ...が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。 第一次日露協約 1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確認した。 第三次日露協約 1912年(明治45年)7月8日調印。辛亥革命に対応するため、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを協約した。 第四次日露協約 1916年(大正5年)7月3日調印。第一...
  • ポツダム宣言
    ... 会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたため、宣言に加わらず、アメリカ合衆国、英国、中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表された。英国代表として会談に出席していたウィンストン・チャーチル首相は、本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継首相のクレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在、さらに中華民国代表蒋介石もポツダムにいなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。 ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったためヨシフ・スターリンは激怒したというTemplate 要出典?。8月8日にソ連対日参戦してから宣言に加わった。 概要 宣言の骨子は下記のとおりである。 五條、吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。 六條、日本を世界征服へと導い...
  • 孫文
    ...保を目指し、このためソビエト連邦からの支援を求めて連ソ容共政策が開始された。1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、黄埔軍官学校も設立された。1925年にはソビエト連邦と中国共産党により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。 孫文の遺言...
  • 樺太
    ...ア帝国時代は沿海州、ソビエト時代は当初ハバロフスク地方、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。代表都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。 南樺太 南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年に、外地から内地へと編入された。人口は1945年当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。 南樺太では樺太庁の置かれた豊原市が中心都市。 歴史 氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。 先...
  • 関東軍
    ...により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、革命ソ連の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実にソビエト連邦軍極東軍の増強を続けていた。関東軍は1938年の張鼓峰事件で初めてソビエト連邦軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では大きな損害を被り大日本帝国陸軍内で北進論が弱まる契機となった。 なお戦後のある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は大日本帝国陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソビエト連邦軍側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、北進の意図を挫くというソビエト連邦軍側の目的は達されたのであるか...
  • 中華民国の歴史
    ...の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1949年に中華民国軍は、ソビエト連邦の支援を受ける中国共産党の共産党軍との内戦に敗北し、同年4月に首都の南京を制圧された事で崩壊状態に陥った。その後、中国共産党を率いる毛沢東は同年10月に「中国を統治する国家」として「中華人民共和国」の建国を宣言する。 しかし、蒋介石を中心とする中国国民党右派は、崩壊状態にあった中央政府を1949年12月に台湾島へ避難させる事に成功し、翌年に「中国を統治する国家」としての国民政府を再構築した。なお、内戦によって中華民国の全関係者が台湾島へ避難したわけでは無く、共産党軍の捕虜になったり、蒋介石と袂を分かって共産党と行動をすることを決意したものがいた他、香港やアメリカなどの国外へ避難したりする者もいた。 北京政府期(1912年~1928年...
  • ポツダム会談
    ...アトリーと交代) ソビエト連邦共産党書記長 : ヨシフ・スターリン ポツダム会談の内容 会談では主に第二次世界大戦の戦後処理とソ連の対日参戦を含めた日本の終戦について話し合われた。会談の結果は以下の通りである。 1937年以降のヨーロッパでのすべてのドイツが併呑した領土の返還と、オーストリアのドイツからの分離。 ドイツの民主化、非武装化、非ナチス化。 1945年2月のヤルタ会談での合意を踏まえたドイツ、オーストリアの分割統治とベルリン市とウィーン市の分割統治。(ポツダム協定) ナチスの戦争犯罪の追及。 オーデル・ナイセ線をドイツとポーランドの暫定国境とする。 ドイツ本国外に居住するドイツ人の帰還。 連合国に対するドイツの戦後賠償請求額は2,000億$に上ると計算されるが、ドイツに対しては200億$の返済を要求する。 連合国として日本に対するポツダム宣言の発...
  • 革新倶楽部
    ...作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員も現れるようになる。犬養系とされていた中野正剛の憲政会への移籍もこの時期の事である。 1925年、治安維持法の是非を巡って閣僚としてこれを推進しようとする犬養毅を中心とした右派とこれに反対する尾崎行雄・清瀬一郎・大竹貫一ら左派がこれに強く反対する。このため、犬養は直系の星島二郎・植原悦二郎ら右派議員を連れて立憲政友会への合同を模索する。5月10日の協議会で政友会との合同動議が出されるが、左派はこれに反対...
  • 国定教科書
    ...大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は昭和8年から...
  • 皇道派
    ...につけただけでなく、ソビエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。 折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、 ソビエトが1928年にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が「満州」を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として「満州」を確保しようとする焦り。 軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。 農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。 農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の、実家・...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    ...llegiance=ソビエト軍 |serviceyears= |rank= |commands= |unit=労農赤軍参謀本部第4局 |battles= |awards=ソ連邦英雄勲章 (死後) |laterwork= |Mausoleum=多磨霊園 }} リヒャルト・ゾルゲ(Template lang-ru-short?、Template lang-de-short?、1895年10月4日 - 1944年11月7日)は、1933年(昭和8年)、ナチス党員を名乗りドイツの新聞記者と言う立場の名義を隠れ蓑に日本へ潜入した、ソ連軍のスパイである。 プロフィール スパイになるまで 鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人としてソ連邦・アゼルバイジャン共和国の首都・バクーで生まれる。おじはカール・マルクスの秘書であった。3歳の時に家族とともにベルリン...
  • BC級戦犯
    ...名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。 戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(陸軍元帥)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。 朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人 BC級戦犯の中には、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。 連合国が、日...
  • シベリア出兵
    ...壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。 ロシア共和国は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで連合国から離脱する。このため、ドイツは東部戦線の兵を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はロシアの極東ウラジオストクに「チェコ軍捕囚の救出」を名目に出兵し、ドイツの目を再び東部に向けさせようとした。同時にロシアの社会主義革命勢力に対して楔を打ち込む意味もあった。 すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。連合国は地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。アメリカは日本がシベリアに勢力を伸ばすのではないかと警戒したが、日本の寺内内閣は当初慎重であった。のちに総理大臣となる原敬は臨時...
  • 尼港事件
    ...パルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった。 この事件による日本人犠牲者は約700名にのぼり、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共の気運が強まって、後々まで尾を引くことになった。 日本政府がシベリア出兵を延長したのは、この事件によるものという見方もある。政府は北樺太への駐留を継続し、ソ連に対して賠償を求めたが、結局は取り下げた。 経過 1919年夏 ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派が尼港に潜入して工作を開始。 1920年1月24日 過激派の使者が和議を申込むが守備隊はそれを拒否。 2月24日 過激派軍から休戦の申込み。 2月28日 休戦交渉成立。しかしニコライエフスク港に入った過激派は、協約を無視して反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、日本軍...
  • 新体制運動
    ...、欧米諸国、とりわけソビエト連邦・イタリア・ドイツで一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。 日本の知識人、特に時の首相、近衛文麿はこれを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「ドイツ・イタリア」、「アメリカ」、「大日本帝国」の四大勢力による分割支配されるだろうと予想した。そのため日本では、時流に取り残されることを恐れ、また新体制に諸問題の解決を期待する運動が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使われるようになった。 この思想が広まった国々では共産主義とファシズムが台頭した。あくまで米国からの脅威に対抗しようとのみ考えていた日本においては、ファシズムと呼べるほどの政治思想は生まれなかったが、国...
  • 不戦条約
    ...国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結されたとされるが、一方で欧米列強の自国の植民地を守るために作った国際法だという見方がある。 不戦条約は、期限が明記されていないため、今日においても国際法として有効であるとされる。もっとも、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないためその実効性は乏しい。 当時、日本は田中義一内閣で、山東出兵や張作霖爆殺事件などの中...
  • ヨシフ・スターリン
    ...53年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Template Lang?, グルジア語 იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。 「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。「ジュガシヴィリ」は「ユダヤ人の息子」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)の侵略から祖国を守る英雄として、またソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知られる。 ボリシェヴィキ(ソ連共産党)の書記局長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。...
  • 平沼内閣
    ...(ナチス・ドイツ)がソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したため、衝撃を受けた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して同月末に内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 男爵平沼騏一郎(枢密院) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会)(第1次近衛内閣から留任) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 内務大臣 侯爵木戸幸一(貴族院所属 火曜会) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 大蔵大臣 石渡荘太郎(官僚 大蔵省) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 陸軍大臣 板垣征四郎(軍人 陸軍中将)(第1次近衛内閣から留任) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 海軍大臣 米内光政(軍人 海軍大将)(第1次近衛内閣か...
  • 樺太庁
    ...って、樺太庁管内にはソビエト連邦軍が侵攻し、同月末までに樺太全土が占領された。行政官庁としての樺太庁は、外務省への移管を経て、1949年6月1日、国家行政組織法の施行によって廃止されている(外務省条約局法規課『日本統治下の樺太』〈外地法制誌〉、1969年を参照) 当該地域の領有権及び領土問題に関する詳細は樺太の項目を参照。 地理 南の北海道とは宗谷海峡で隔てられ、北は北緯50度線国境でソ連と接し、西の間宮海峡、東のオホーツク海に囲まれていた。 産業 第一次産業が基盤であり、漁業・林業・農業が主であった。また、後には製紙業・炭鉱も盛んとなった。人口が希少であった事から常に労働人口を欲しており、税法の優遇等により国内他地域からの移住を推進した。 歴史 1907年3月15日 - 樺太民政署の改組により、4月1日樺太庁が発足。 1907年4月 - コルサコフ(...
  • 毛沢東
    ...とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。 国共内戦 1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、蒋介石率いる中国国民党軍との国共内戦となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。 中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1月には北平(北京)に入城する。同年4月23日には国民党政府の根拠地首都の南京を制圧した。 中華人民共和国建国 1949年10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った。同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシ...
  • 極東国際軍事裁判
    ...者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語(日本語と英語)を使用できなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声が特に裁判の対象となった日本を中心として存在している。 インドのヒンドゥー教法哲学の専門家ラダ・ビノード・パール判事は、判決に際して日本無罪論を発表し、「この裁判では、有罪とすることができない」と語ったことで知られている。ただし、この意見は“日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし”あるいは“連合国を裁かないなら日本も裁かれるべきでない”というものであり裁判の公平性を訴えるものである。1952年の来日時にパール博士は以下のように表明した。 『東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ』 また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一...
  • ワシントン会議 (1922年)
    ...ルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義があるTemplate fact?。 このワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼ぶ。 アメリカ ヒューズ国務長官に率いられたアメリカ代表団にとって、会議の主な目的は、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島々の防備に関する日本海軍の拡大を阻止することだった。付随するいくつかの目的には最終的に日本の拡大を制限するのみならず、イギリスとの間に起こり得る対立に対する懸念を軽減する意図があった。それらは 日英同盟の廃止による米英間の緊張を排除 日本に対して劣位に立たない海軍軍備比率で合意 中国における門戸開放政策の継続を日本に正式に受け入れさせる ...
  • 満州国
    ...土)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。 概要 満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。 1931年(昭和6年)柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発。関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲全土を占領、1932年(昭和7年)満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となった。 満洲国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言した。 しかし満洲国は依然...
  • 昭和
    ...戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうしてアメリカ合衆国での呼称太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争とした)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することと...
  • 三国協商
    ...こり、新たに誕生したソビエト連邦は翌年に単独でドイツと講和し、これにより三国協商は消滅した。 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月1日 (日) 21 04。     
  • 加藤高明内閣
    ...も同時に制定された。ソビエト連邦との国交樹立、労働争議調整法の制定、宇垣軍縮の断行などの業績があげられるが、貴族院改革では、帝国学士院選出議員の設置と有爵議員の定数の僅かな削減に留まった。また、前述の宇垣軍縮による陸軍の軍縮を進める一方陸軍現役将校学校配属令、学校教練も創設された。両税委譲に加藤が反対したことに革新倶楽部を統合した政友会が不満を抱き、護憲三派は崩壊する。 憲政会単独内閣となって以後は、野党であった政友本党の取り込みで対抗しようとしたが、その是非を巡って同党が内紛を起こしたために失敗した。 1926年(大正15年)1月28日に加藤が死去したため総辞職。次の内閣発足まで内務大臣若槻禮次郎が首相を臨時兼任し、後に若槻内閣が成立する。 閣僚 内閣総理大臣‐加藤高明 1926年(大正15年)1月28日‐死去 1926年(大正15年)1月28日 - 同年1月30日‐若...
  • 太平洋戦争-2
    ...によって国交のあったソビエト社会主義共和国連邦による和平仲介に期待したが、黙殺される。 既に一国のみでの孤独な戦いを続ける日本の降伏は、もはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による、九州上陸「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、日本軍の軍民を結集した強固な反撃により、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画の実行はされることがなかった。11月に計画されていた「オリンピック作戦」には、福岡、長崎の市街戦において、アメリカ軍としては初めてとなる、化学兵器(毒ガス)の使用が予定されていた。 アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領...
  • 八路軍
    ...の後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。 この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。 誕生 このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。 同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。 消滅 1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。 行動地域 八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北におい...
  • 日ソ中立条約
    ...れたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。 参考文献 工藤美知尋『日ソ中立条約の研究』(南窓社) 関連項目 Template Wikisource? 独ソ不可侵条約 ヨシフ・スターリン 加瀬俊一 (1925年入省) リヒャルト・ゾルゲ 大東亜戦争 占守島の戦い 北方領土 シベリア抑留 ソ連対日参戦 ソ連・ポーランド不可侵条約 外部リンク 条約全文(中野文庫) 東京裁判(部分)   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 16 50。    
  • 大政翼賛会
    ...公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。 この対立は、設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は、首相であり翼賛会総裁の近衛の口からは発表されなかった。 その後も「大政翼賛会違憲論」は収まらず、1941年(昭和16年)1月に開かれた第76帝国議会で頂点に達した。同年2月6日の貴族院予算委員会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認め、続いて内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の政事結社ではなく、公事結社であると宣言した(平沼は観念右翼とのつながりが強...
  • 後藤新平
    ...行い、成立せんとするソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、仲介したのは黎明会を組織した内藤民治と田口運蔵等の社会主義者であった。一部から新平は「赤い男爵」といわれたが、新平はあくまで日本とロシアの国民としての友好を唱え共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れるに足らず、むしろソビエト体制の軟化のために日露関係の正常化が望ましいとしていた。 大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った(大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。 昭和3年(1928年)、新平はソ連を訪...
  • ニコライ2世
    ...山に埋められた。 ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。 人物 若いころのニコライはピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼の花瓶、竹杖、吸物椀、香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など手当たり次第日本の工芸品その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に入れ墨をするなど、たいへん日本好きの青年であったという。 ニコライ2世は、首都ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)を好まず、生地のツァールスコエ・セロー(現プーシキン市)を愛し、そこに居住することが多かった。 ニ...
  • 南満州鉄道
    ...満洲国が1935年にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。 特急「あじあ」 1934年(昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hをはるかに上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシTemplate Smaller?型」がこれを牽引した。1935年(昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。 鉄道付属地の返還 しかし、満洲全土が日本の勢力下...
  • ゾルゲ事件
    ...私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。 関連書籍 ゾルゲに関するものはリヒャルト・ゾルゲおよびリヒャルト・ゾルゲを参照。 山村八郎(中村絹次郎) 『ソ連はすべてを知つていた』 紅林社、1949年。 チャールズ・ウィロビー著、福田太郎訳 『赤色スパイ団の全貌  ゾルゲ事件』 東西南北社刊、1953年。 みすず書房編集部編 『現代史資料 ゾルゲ事件』(全3巻)、みすず書房、1962年。 尾崎秀実 『ゾルゲ事件 上申書』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2003年。ISBN 4006030754 尾崎秀樹 『生きているユダ』 角川書店〈角川文庫〉。ISBN 4...
  • 樺太・千島交換条約
    ...含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。 脚注 参考 条約日本語訳文(正文はフランス語)  関連項目 Template wikisource? Template wikisource? アイヌ 先住民 日露関係史 日露和親条約 日露修好通商条約 日露間樺太島仮規則 ポーツマス条約 サンフランシスコ講和条約 北方領土問題   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 20 05。   
  • 南京攻略戦
    ...員会の発会式。南京のソビエト大使館が全焼、この事件は1月5日に逮捕した中国人の取調べにより敗残兵によるものと判明 ref name=mainichi16/ 。 1月11日大本営における政府首脳による御前会議は支那事変(日中戦争)処理根本方針を決定。国民政府が和平を求めてこない場合は、以後これを相手にせずとし、新政権の成立を援助等。 1月15日参謀本部は、大本営政府連絡会議において政府の和平交渉打切り案に激しく反対。しかし、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見におれ、中国との和平交渉打切り決定南京戦史資料集(偕行社、1989年)。 1月26日南京市内において日本兵による米国大使館のアリソン三等書記官殴打事件が起こる。 2月14日大本営は中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍の戦闘序列を下命。 3月28日中華民国維新政府が中...
  • 張学良
    ...め1929年8月にはソビエト連邦が持っていた東中国鉄道を接収したことを切っ掛けに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。 満州事変 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。 満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取材で述べている。 いずれにせよ、日本と積極的に戦...
  • ロシア革命
    ...の協力、ポーランド・ソビエト戦争、シベリア出兵などを通じて干渉を加えた。ウクライナでは社会主義を掲げる民族主義者が十月革命に反対して独立国家を樹立した。中央アジアではバスマチ運動が活発に行われた。 こうした反対派の動きに対し、ボリシェヴィキは、秘密警察チェーカーを活用してメンシェヴィキ、社会革命党(エスエル)などの他派を裁判なしに大量処刑して政権を固めると共に、次第に数を増して強力なものとなった赤軍の武力により各地の敵対勢力を屈服させ、列強諸国に部隊を撤退させた。また、ボリシェヴィキが得意としたのがプロパガンダ政策で、全ての非ボリシェヴィキ系新聞を完全に発禁にした。 なお退位後、監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日に、レーニンの命令を受けたチェーカーの処刑隊により、裁判なしに全員銃殺された。 1922年、ボリシェヴィキは全国ソヴィエト大会で国家樹立を宣言...
  • 日本近代史
    ...的な戦闘を行った際、ソビエト連邦軍の戦車部隊に大敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相と中華民国の蒋介石がアメリカ合衆国の参戦を要望し、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が大日本帝国海軍の艦隊行動に激怒したことからコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地を返還する事などを要求する交渉案を提示され(通称ハル・ノート)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。このようにして太平洋戦争(当時の大日本帝国は戦争中一連の戦争を聖戦であるとみなし大東亜戦争と呼称した)が始まり、大日本帝国も第二次世界大戦に参戦することとなった。 ...
  • 東郷茂徳
    ...チェスラフ・モロトフソビエト外相と日ソ中立条約の交渉を開始。第2次近衛内閣の外務大臣となった松岡洋右により帰朝命令が出され、日本に帰国 昭和16年(1941年) 東條内閣の外務大臣に就任。日米交渉決裂し、太平洋戦争開戦。日独伊単独不講和協定、日泰攻守同盟条約締結 昭和17年(1942年) 大東亜省設置に反対し、外務大臣を辞任。貴族院議員に任ぜられる(1942年9月1日-1946年4月13日)。 12月24日、無所属倶楽部(院内会派)入会。 昭和18年(1943年) 長女いせと本城文彦が結婚、本城文彦が東郷家に入籍し東郷文彦となる 文彦は戦後外務事務次官や駐米大使を歴任する 昭和20年(1945年) 鈴木貫太郎内閣の外務大臣兼大東亜大臣に就任。ポツダム宣言受諾により鈴木内閣が総辞職し、外務大臣を辞任 昭和21年(1946年) 「A級戦犯」として指定され、巣鴨拘...
  • リットン調査団
    ...益に合致すること ソビエト連邦の利益尊重 現行の多辺的条約と調和し得ること 満洲における日本の利益の承認 日中間における新たな条約関係の設定 将来の紛争解決について効果的施設をなすこと 中国の主権および行政的保全と調和する範囲内で満洲に自治を許す 内部的秩序は能率ある地方的憲兵隊により、外部的侵略に対する安全保障はすべての軍隊の撤退および不侵略条約による 日中間の経済的提携の促進 中国の改造に対する国際的協力等を紛争解決の条件とし 第10章では上の解決方法を例示的に示すために理事会に対して若干の提議を行ない、日中両国が上の解決を討議することを承認するならば、諮問会議を招集すべきこと、ならびにその会議で到達されるべき協定の形態、解決されるべき諸点を説き、満洲自治政府には一般条約締結、外交関係設定、税関、郵便、塩税、印紙税、煙草税の管理、ならびに行政長官の任命権を与...
  • @wiki全体から「ソビエト」で調べる

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