chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「ロシア海軍」で検索した結果

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  • 聯合艦隊解散之辞
    ...できた。日本海軍は、ロシア海軍に対抗するために、開戦時に常備艦隊を再編成し、連合艦隊を編成した。連合艦隊は旅順や日本海海戦でロシア艦隊を撃破し、日本の勝利に貢献した。 終戦後、戦時編成の連合艦隊を解散し、平時編成に戻すこととなり、解散式が1905年12月21日に行われた。その解散式において連合艦隊司令長官・東郷により聯合艦隊解散之辞が読まれることとなった。訓示は東郷の筆であるが、文面の起草は参謀秋山真之と言われている。 訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ国家における海軍の大事を説き、平時における海軍や海軍軍人のあり方について指し示し、有事に備える心構えの重要さを示している。 アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトはこの訓示に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。 原文は神奈川県横須賀市の記念艦三笠に所蔵されている。 Template Wikisource...
  • 海軍記念日
    海軍記念日(かいぐんきねんび)は、世界各国で独自に祝われる海軍のための記念日。 インド インドでは12月4日。1971年の第三次印パ戦争において、カラチ港爆撃に成功したことにちなむ。 オーストラリア 王立オーストラリア海軍においては、3月中に行われる。 チリ チリでは、Día de las Glorias Navalesとして、5月21日に祝われる。太平洋戦争におけるイキケの海戦での勝利を記念して制定された。 ロシア ロシアでは7月の最終日曜日に祝われる。 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったセオドア・ルーズベルトの誕生日を記念して、1922年に10月27日が制定された。1949年に国防総省の指示により、合衆国海軍は海軍記念日を取りやめ、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)を祝うようになった。...
  • 日比谷焼打事件
    ...八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介のもと、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行なわれることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。 しかし、相手は強大国・ロシアである。当時の日本には戦争を継続するだけの余力は既になかった。そうした内情を知らされていなかった国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると踏んでいたが、ロシア側は賠償金の支払いを拒否する。ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないからだ。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで講和条約であるポーツマス条約...
  • 日英同盟
    ...装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。 thumb|left|280px|日英同盟の影響で[[ガーター勲章を授与された明治天皇(1906年)]] 第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。 第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。 大戦後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ...
  • 樺太
    ...。 1806年、ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。 1807年、樺太南部が再び幕府の直轄地となる。ロシア海軍士官らが択捉島礼文島などとともに留多加を襲撃する。 1808年、江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。 1809年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とした。 1821年、樺太が松前藩領になる。 1848年、ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。タタール海峡を始めて船舶で通過した。 1853年、ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネ...
  • ロシア帝国
    Template 基礎情報 過去の国? ロシア帝国(ロシア語:Template lang?、英語:Russian Empire)は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体のことである。「帝政ロシア」とも言われる。 厳密には1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を「帝国」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリ(これも「皇帝」と訳しうる)の称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、「ロシア帝国」という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。 歴史 ロシアの歴史を参照。 国土 領土は、1...
  • 日本海海戦
    ...日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いた。 背景 バルチック艦隊 ロシア海軍は日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊をバレンツ海、バルト海、黒海、太平洋の各方面に分散させていたため、開戦時に対日戦に投入できたのは旅順およびウラジオストクを母港とする太平洋艦隊(正式には第1太平洋艦隊)のみであった。ロシア指導部は太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できないと判断し、バルト海艦隊から主力艦艇を抽出して極東海域へ増派することを決定した。派遣部隊として...
  • ロシア革命
    ロシア革命(ロシアかくめい)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。 なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。 thumb|right|340px|[[防護巡洋艦アヴローラ10月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献した。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈又は鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクのネヴァ川に保存されている。]] 経緯 前史 Template USSR? ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対...
  • 日本海海戦-2
    ...頻繁に見られた。 ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明かでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。 バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった ref name = 双葉社 日本海海戦 / 。 指揮統率 バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の...
  • 日露戦争
    ...主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。 セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、これは皇帝達によって退けられた。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。 日本側では、この提案では朝鮮が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が複線化されるとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の...
  • 旅順攻囲戦
    ...た。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 開戦後、日本側からの何度にもわたる挑発にも乗らず、旅順艦隊は港を出ることなく、戦力は保全され続けた。日本海軍は旅順港の封鎖を狙って旅順港閉塞作戦を実施し、三度に渡り計16隻の船を旅順港口で自沈させたが、悪天候と陸上からの砲撃などにより不成功に終わった。以後、旅順艦隊の行動の自由を制限するために日本海軍は旅順港口に張り付かざるを得なくなり、陸上から旅順を攻撃する必要性が増していくことになる。この直接封...
  • 奉天会戦
    Template Battlebox? 奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。 背景 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。 日...
  • ポーツマス条約
    ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく)は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 交渉の経緯 thumb|270px|ポーツマス会議。写真中の会議で使われたテーブルは[[博物館明治村にて展示されている]] 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。 当初ロ...
  • 大日本帝国海軍
    thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋...
  • イルティッシュ号投降事件
    イルティッシュ号投降事件(イルティッシュごうとうこうじけん)は、日本海海戦で損傷を受けたロシアのバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号が航行不能となり、1905年(明治38年)5月28日午後2時頃、島根県那賀郡都濃村和木(現・江津市和木町)で投降した事件。 イルティッシュ号 イルティッシュ号は、ドイツ海軍の石炭運送船ベリギヤ号(7,500トン)として1903年にドイツで建造された。1904年にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万ルーブルをかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西シベリアを流れるオビ川左岸の支流エルティシ川(全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士...
  • 帝国国防方針
    帝国国防方針(ていこくこくぼうほうしん)とは、大日本帝国における軍事戦略についての基本的な方針を定めたもの。 概要 帝国国防方針は国防の基本戦略を記した軍事機密文章である。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)64項帝国国防方針、国防に要する兵力、帝国軍の用兵要領の三部から構成されている。第一部の国防方針は国家目標と国家戦略、また導かれる国防目的と国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備などについて述べられている。 第二部には所要兵力、即ち軍事政策の具体的な目標としての師団数、軍艦数などの数値目標が定められている。第三部には日本の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年) 67項 - 68項 日本陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとな...
  • 東郷平八郎
    Template Infobox 軍人? 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1847年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督とし...
  • 李鴻章
    李 鴻章(り こうしょう、リ・ホンチャン、Li Hung Chang、1823年2月15日 - 1901年11月7日)は、中国清代の政治家。字は少筌(しょうせん)。 日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 来歴 安徽省合肥出身。1847年(道光27年)の進士となる。太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の捻軍鎮圧にも功績を上げ、1870年曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍と呼ばれるようになった。 1876年、江華島事件に関連して、李氏朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。 その後は清の最高為政者として西太后の信任を得て清の洋務運動に尽力した。この時期には...
  • 山梨軍縮
    山梨軍縮(やまなしぐんしゅく)とは、加藤友三郎内閣の陸軍大臣山梨半造により、Template 和暦?8月と翌年4月の二度にわたって行われた陸軍史上初の軍縮のこと。 概要 第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって海軍力の軍縮が主要国で協議され、ワシントン海軍軍縮条約において一応成功した形になった。 この結果、アメリカとの衝突の可能性も当面無くなり、一方ロシアについても1917年に起きたロシア革命の結果、国内の政治的混乱に未だ収拾のめどはついていない状態であったため、日本に直接大きな脅威を与える国は、当面の間は見当たらない状況になった。 そうした状況下で海軍が大規模な軍縮に着手している以上、陸軍としても議会の軍縮要求にまったく耳を貸さないでいることは許されなくなる。 そこで、時の陸軍大臣・山梨半造は、ついに軍備の整理・縮小に着手することになり、1922年8月に第一次軍備整理、...
  • 第一次世界大戦-2
    前半は第一次世界大戦参照 イタリア戦線 Template main? イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。 伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)の...
  • 第一次世界大戦
    {{Battlebox | battle_name = 第一次世界大戦 | campaign = | colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = 上段より西部戦線の戦場、中段左ドイツ軍のアルバトロスD.III複葉機、同右イギリス軍のMk.IV戦車、下段左ガスマスクを装着する兵士とヴィッカース重機関銃、同右ガリポリの戦いで沈むイギリス戦艦イレジスティブル。 | conflict = | date = 1914年7月28日 - 1918年11月11日 | place = ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋 | result = 連合国(協商国)の勝利 | combatant1 = 連合国Template GBR?Template Flagicon? フランスTemplate RUS1883...
  • 東方会議 (1921年)
    東方会議(とうほうかいぎ)は、1921年5月16日から26日まで東京市で開催された会議。資料によっては時局会議(じきょくかいぎ)とも呼ばれているが、外務・陸軍・海軍省における公式名称は東方会議である。 背景 1917年11月にロシア十月革命が発生すると寺内内閣は警戒感を強め、翌年1月に居留民の保護のためにウラジオストクに兵を送った(シベリア出兵)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランスなどと協調して本格的なシベリア派兵に踏み切って、ロシア革命への本格的な干渉に乗り出した。9月に成立した原内閣も出兵継続を決めたが、あくまでも各国との合意の範疇に留める考えであり、当時の陸軍大臣田中義一もその方針であった。 ところが、ロシア革命では革命政府(ボリシェヴィキ、後のソ連共産党)が次第と優勢となり、また朝鮮半島における三・一独立運動、中華民国における五四運動など、日本に大陸進出に対する反対運...
  • 加藤友三郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、文久元年2月22日(1861年4月1日) - 大正12年(1923年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。第21代内閣総理大臣。元帥海軍大将・正二位・大勲位・功二級・子爵。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。 生涯 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町(現在の中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔...
  • 大津事件
    大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件である。行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件。  事件の内容 シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 そして5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコ...
  • 米内光政
    Template 日本の内閣総理大臣? 米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は日本の海軍軍人。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将・従二位・勲一等・功一級。 生涯 生い立ち 1880年(明治13年)旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、1901年(明治34年)旧制盛岡第一中学校を卒業、海軍兵学校へ進む。 1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年(大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポー...
  • 日露協約
    日露協約(にちろきょうやく)は日露戦争後に締結した日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った4次にわたる協約。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。 第一次日露協約 1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確...
  • 日露和親条約
    日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露:Симодский трактат)は、1855年2月7日(安政元年12月21日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本、ロシア帝国の間で締結された条約。 概説 日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲、勘定奉行川路聖謨。ロシア側全権は提督プチャーチン。 日露和親条約締結によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』、P6)。。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ、全て無効になった。 現在、日本では条約の締結された2月7日(新暦)は「北方領土の...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • シベリア出兵
    シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1924年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したロシア共和国に対し、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でシベリアに出兵した事件。 背景 第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。...
  • ニコライ2世
    {{基礎情報 君主 | 人名 =ニコライ2世 | 各国語表記 =Template lang? | 君主号 =ロシア皇帝 | 画像 =Nicholas II of Russia, photograph.jpg | 画像サイズ =200px | 画像説明 =ニコライ2世 | 在位 =1894年11月1日 - 1917年3月15日 | 戴冠日   =1896年5月26日(ユリウス暦5月14日) | 別号 =ポーランド王、フィンランド大公 | 姓名 =ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ | 継承者 =ミハイル・アレクサンドロヴィチ | 継承形式 =皇太弟 | 配偶者1 =アレクサンドラ・フョードロヴナ | 子女 =オリガ・ニコラエヴナタチアナ・ニコラエヴナマリア・...
  • 三国干渉
    三国干渉(さんごくかんしょう)は、下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が1895年4月23日に行った日本に対する勧告のことである。 日清戦争と欧州列強 日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。 更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「中国の分割」を進めてきたが、中国国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本のこの要求はこの列強間の「...
  • 露仏同盟
    露仏同盟(ろふつどうめい)とは、フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。 背景 1890年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。一方、フランス側...
  • 寺内内閣
    {{日本の内閣記事|てらうち ないかく|18|寺内正毅|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|9月29日|立憲政友会|第13回衆議院議員総選挙|1917年(大正6年)1月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、...
  • 田中義一
    Template 日本の内閣総理大臣? 田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日) - 昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。立憲政友会第5代総裁。第26代内閣総理大臣(在任 昭和2年(1927年)4月20日) - 昭和4年(1929年)7月2日)。陸軍大将 勲一等 男爵。 生涯 軍人として 萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。 若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍。その後、ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した...
  • 海軍工廠
    海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。ほかに海軍が直営する軍需工場としては、航空機の修理整備(末期には製造)を担当する航空本部所管の「空廠」、火薬製造・充填を担当する艦政本部所管の「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管の「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する軍需局所管の「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する医務局所管の「療品廠」がある。 日本の海軍工廠 日本においては、1931年の満州事変勃発までは横須賀、呉、広(呉市)、佐世保鎮守府に併設されていたが、1936年に舞鶴が工作部から海軍工廠に復帰、第二次世界大戦期間中は軍備増強により、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置した。 海軍工廠は造船所を中心に発足し...
  • 三国協商
    三国協商(さんごくきょうしょう、英:Triple Entente、仏:Triple-Entente、露:Антанта)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 事前の経緯 当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890...
  • 樺太・千島交換条約
    樺太千島交換条約(からふと ちしま こうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。千島樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルグ条約と表記する場合もある。 経緯 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。 1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるい...
  • 明治十四年の政変
    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、1881年(明治14年)自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すドイツ憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文が、後者を支持する大隈重信を政府から追放した政治事件をさす。この事件により後に制定される大日本帝国憲法は君主大権を残すドイツ憲法を範とされることが決まったといえる。 概要 立憲体制の導入を巡る議論 大久保利通亡き後、明治政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、消極論者の右大臣岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。大隈重信は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 独立協会
    独立協会(どくりつきょうかい)は、1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。甲午農民戦争を率いた徐載弼が李完用とともに創設し、朝鮮における立憲君主制導入を目指した。 当時、李氏朝鮮は清の属国から解放されたものの、李氏朝鮮に対するロシアの支配力が強くなった。このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、1896年に独立協会を設立。同年4月より独立新聞を発行し、協会の主張を啓蒙している。 独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言。後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の皇帝に即位し(別名 光武皇帝)、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。 また独立協会は、日本と清との日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で清に朝...
  • 無鄰菴
    無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸。 「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。 第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。 第二無鄰菴 第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、鴨川近くにあった。明治24年。 第三無鄰菴 山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。その庭園で名高く、国の名勝に指定されている。現在は遺族から寄贈されて京都市が管理している。 数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成http //www.city.k...
  • 西郷従道
    Template Infobox 軍人? thumb|180px|旧西郷従道住宅(国の[[重要文化財。東京都目黒区上目黒にあったものを明治村へ移設)]] 西郷 従道(さいごう じゅうどう、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家、軍人。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功三級・侯爵。元老。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄弟に兄の西郷隆盛ほか。幼名竜助。のち、出家して茶坊主になった時は竜庵、通称は慎吾。本名は隆興、隆道。 なお名前の読みとして、「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家の子孫によると「じゅうどう」が正式の読みである(#エピソードを参照)。 略歴 薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津...
  • 高宗 (朝鮮王)
    {{基礎情報 君主 | 人名 = 高宗 | 各国語表記 = Template lang? | 君主号 = 朝鮮国王・大韓帝国皇帝 | 画像 = Korea-Portrait of Emperor Gojong-01.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 『高宗皇帝御眞』(作者未詳、国立故宮博物館蔵) | 在位 = 朝鮮国王:1863年12月12日-1897年10月12日大韓帝国皇帝:1897年10月12日-1907年7月20日 | 戴冠日 = | 別号 = 大韓帝国光武大皇帝大韓帝国太皇帝徳寿宮李太王 | 全名 = 李熈 | 出生日 = 1852年9月8日(旧暦7月25日) | 生地 = 李氏朝鮮、漢城、雲Template lang?宮 | 死...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 大輝丸事件
    大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)におこった、日本の海賊によるロシア人殺害事件である。 概要 大正11年9月、茨城県結城町の江連力一郎(当時34歳)は、神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船 大輝丸740トンを用船し、オホーツク海に砂金採取に行くと称して、人夫60名を募集した。 9月26日、北海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 ...
  • 日露修好通商条約
    日露修好通商条約(にちろしゅうこうつうしょうじょうやく)は、幕末の日本とロシアとの間に結ばれた通商条約。1858年8月(安政5年7月)に調印され、1859年8月(安政6年7月))批准された。日露修好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となっている。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になった。 関連項目 日露関係史 ロシアの歴史 条約 条約の一覧 日露和親条約 日米修好通商条約 日露間樺太島仮規則 樺太・千島交換条約 ポーツマス条約   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 18 56。     
  • 第一次日韓協約
    第一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。 このときの日本側の代表は特命全権公使林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊。 日露戦争中ではあるが、この条約が結ばれた時期には朝鮮半島での戦闘は終了し、韓国は事実上日本の占領下に入っていた。しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に...
  • 天津条約
    天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。 1858年の条約 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後...
  • 日ソ基本条約
    日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は、1925年に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で結ばれた二国間条約。1922年のソ連の建国後、日本との間で初めて結ばれた条約で、1917年のロシア革命以来ロシアを統治するソビエト政権と日本との間で断絶していた日露国交正常化の基本原則を定めた。1月20日締結、2月25日に批准。 締結に至る経緯 1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
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