chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「ロールス・ロイス」で検索した結果

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  • マレー作戦
    ...でもイギリス空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と日本航空部隊を見くびっていたという。しかし、旧式機は支那事変で実戦経験を積んだ零戦や隼を相手に苦戦させられることになった。 作戦開始時刻 大本営はマレー上陸と真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での奇襲に期待をかけていた。しかし一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。マレーとハワイとでは約6時間の時差がある。双方を両立させるのがマレーの深夜、ハワイの早朝という作戦開始のタイミングであった。1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。真珠湾攻撃に先立つこと1時間50分、大東亜戦争(太平洋戦争)はこのとき開始されたのである。この上陸作戦は宣戦布告予定...
  • エドガー・スノー
    エドガー・スノー(Edgar Snow、1905年7月17日 - 1972年2月15日)はアメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品により著名である。 来歴 250px|thumb|right|左からスノー、[[周恩来、鄧穎超]] エドガー・スノーはミズーリ州カンザスシティで生まれた。ミズーリ大学コロンビア校でジャーナリズムを専攻したが、父の学費負担を苦痛に感じて1年で退学、ニューヨークの兄のもとに移り、コロンビア大学に入学した。その後、広告代理店勤務を経てルーズベルト汽船(セオドア・ルーズベルトの息子が経営)の船のデッキボーイになり、1928年から世界一周の旅に出かけ、日本に密航したりした。同年、世界恐慌前の中華民国へ渡り、蒋介石ら国民党幹部らに会って記事を書く。 1929年には「コンソリデーティッド・プレス・アソシエーション (Conso...
  • ナチス・ドイツ
    Template 基礎情報 過去の国? ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。 国名 正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reich(ドイツ国)である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国(962年–1806年)、帝政ドイツ(1871年–1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (Drittes Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。またナチス・ドイツは帝政(帝国)ではなく共和政(共和国)であることから、英語では帝政でない国を Third Empire とは言えないのでドイツ語のまま Third Reich といった。日本では戦後に...
  • 更新blog-5
    最近更新したblog一覧 その5 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-6 # 世に倦む日日 # 引っ越ししました。 大晦日に - 朝日の投書 「日中は戦争になるのですか」 仲井真弘多にリコールを - 12/27のNHKの異様な奉祝報道 安倍晋三の靖国参拝と米国の批判 - その政治の分析 安倍晋三と仲井真弘多の茶番会議とNHKの脱力報道 「東アジアの安全保障環境の激変」の言説と防空識別圏 都知事選の提案 - 若いリベラル候補で安倍晋三を倒す リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 都知事選でSTOP THE ABE - リベラル統一候補の擁立を 「反日」、「テロリスト」、「スパイ」 - 内務省、憲兵、軍法会議 秘密保護法を招いた通路 - マスコミは政治報道の反省を 秘密保護法の成立 - 闘い...
  • 第一次世界大戦
    {{Battlebox | battle_name = 第一次世界大戦 | campaign = | colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = 上段より西部戦線の戦場、中段左ドイツ軍のアルバトロスD.III複葉機、同右イギリス軍のMk.IV戦車、下段左ガスマスクを装着する兵士とヴィッカース重機関銃、同右ガリポリの戦いで沈むイギリス戦艦イレジスティブル。 | conflict = | date = 1914年7月28日 - 1918年11月11日 | place = ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋 | result = 連合国(協商国)の勝利 | combatant1 = 連合国Template GBR?Template Flagicon? フランスTemplate RUS1883...
  • ヴェルサイユ条約
    ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、Template lang-fr-short?)とは、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦の講和条約。ヴェルサイユ宮殿・鏡の間で調印されたことからこの名がある。ベルサイユ条約とも表記される。 この条約によりもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制という。 概要 thumb|220px|right|パリ講和会議における各国首脳、左から順に[[ロイド・ジョージ(イギリス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)]] ヴェルサイユ条約は、6か月に渡るパリ講和会議の結果として締結され、この条約により第一次世界大戦は公式に終了した。敗戦国であるドイツの条約調印式は1919年6月28日に行われた。 ヴェルサイユ条約は1920年...
  • セオドア・ルーズベルト
    Template 大統領? セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt, Jr. , 1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国の第25代副大統領および第26代大統領。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。愛称はテディ (幼少時は Teedie 、成人してからはTeddy)。 生い立ちおよび政治経歴 ルーズベルトは1858年10月27日にセオドア・ルーズベルトおよびマーサ・ブロックの息子としてニューヨーク市で生まれた。幼少時は病弱で、それを克服するため運動を好むようになり、グランド・キャニオンのような自然の地域に通い、アウトドアスポーツに熱中した。彼の精力的な規範は20世紀初頭、都市のスポーツ・ブームの中で運動の流行に影響を及ぼした。 ルーズベルトは1880年にハーバード大学を卒業し、コロンビア大学ロースクールに入...
  • ニコライ2世
    {{基礎情報 君主 | 人名 =ニコライ2世 | 各国語表記 =Template lang? | 君主号 =ロシア皇帝 | 画像 =Nicholas II of Russia, photograph.jpg | 画像サイズ =200px | 画像説明 =ニコライ2世 | 在位 =1894年11月1日 - 1917年3月15日 | 戴冠日   =1896年5月26日(ユリウス暦5月14日) | 別号 =ポーランド王、フィンランド大公 | 姓名 =ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ | 継承者 =ミハイル・アレクサンドロヴィチ | 継承形式 =皇太弟 | 配偶者1 =アレクサンドラ・フョードロヴナ | 子女 =オリガ・ニコラエヴナタチアナ・ニコラエヴナマリア・...
  • ハリー・S・トルーマン
    {{大統領 | 人名=ハリー・S・トルーマン | 各国語表記=Harry S. Truman | 画像=Harry S Truman, bw half-length photo portrait, facing front, 1945.jpg | 代数=33 | 職名=大統領 | 国名=アメリカ合衆国 | 副大統領職=あり | 副大統領=アルバン・W・バークリー | 就任日=1945年4月12日 | 退任日=1953年1月20日 | 代数2=34 | 職名2=副大統領 | 就任日2=1945年1月20日 | 退任日2=1945年4月12日 | 国名2=アメリカ合衆国 | 元首2=フランクリン・ルーズベルト | 出生日=1884年5月8日 | 生地=ミズーリ州ラマー | 生死=死去 | 死亡日=Template 死亡年月日と没年齢? | 没地=ミズーリ...
  • ウィンストン・チャーチル
    {{大統領 | 人名 = ウィンストン・スペンサー=チャーチル | 各国語表記 = Sir Winston Leonard Spencer-Churchill | 画像 = Churchill portrait NYP 45063.jpg | 画像サイズ = | 国名 = Template GBR? | 代数 = 第61 | 職名 = 首相 | 就任日 = 1940年5月10日 | 退任日 = 1945年7月27日 | 元首 = | 国名2 = Template GBR? | 代数2 = 第63 | 職名2 = 首相 | 就任日2 = 1951年10月26日 | 退任日2 = 1955年4月7日 | 元首2 = ...
  • お雇い外国人
    お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)とは、幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。江戸幕府や各藩、明治以降は新政府や各府県、または民間によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもある。 広義では在外公館で雇用されていた者や、外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、本項では日本が欧米から新しい技術や知識を学ぶために雇用した人物について述べる。 概要 お雇い外国人は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産官学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。もっとも江戸時代初期からヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、彼らが幕府の外交顧問や技術顧問を務めているほか、後にはシーボルトなども一時期幕府顧問になって...
  • 三国協商
    三国協商(さんごくきょうしょう、英:Triple Entente、仏:Triple-Entente、露:Антанта)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 事前の経緯 当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890...
  • シベリア出兵
    シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1924年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したロシア共和国に対し、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でシベリアに出兵した事件。 背景 第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。...
  • 大東亜共栄圏
    thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本が掲げた大義名分である。 概要 「大東亜が日本の生存圏」 日本・満洲国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。 用語としては岩畔豪雄と堀場一雄が作ったもの...
  • 太平洋戦争の年表
    thumb|開戦時の日本首相[[東條英機]] 太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争は日中戦争を参照のこと。 開戦までの経緯(簡略) 1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止など...
  • 日英関係
    Template 日本の国際関係? 日英関係(にちえいかんけい)は、日本とイギリスの関係のこと。 年表 right|thumb|[[ウィリアム・アダムス]] 18世紀以前 1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ(en)、スペイン領バハ・カリフォルニア(現在のメキシコ領カリフォルニア半島)沖でスペイン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人(クリストファー(20歳)とコスマス(16歳)(en))を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となったが、1592年に遭難死。 1600年 ウィリアム・アダムスが九州に上陸したのが公式な日英関係の始まり。後にアダムスの仲介によって東インド会社が平戸に商館を設置する。 1623年 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖、日英関係は事実上断絶する。 1673...
  • マイナー・シール・ベイツ
    マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates、1897年5月28日-1978年10月)アメリカ合衆国-オハイオ州ニューアーク出身の歴史学者。イェール大学で博士号を取得、金陵大学副学長を歴任。1937年12月、南京攻略戦において、南京安全区国際委員会の一員として中国市民を保護する活動に従事した。 略歴 1916年 ハイラム学院において文学士号を得る オックスフォード大学に入学 第一次世界大戦中に世界YMCAの書記としてインドやメソポタミヤに派遣され、戦時中の民衆救済活動に参加 1920年 オックスフォード大学卒業 1920年 基督会によって宣教師に任命、南京の金陵大学の歴史学教授に就任 1923年 金陵女子文理学院教師リリア・ロビン(Lilliath Robbins)と結婚 1934年-1935年 ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学ぶ...
  • スバス・チャンドラ・ボース
    スバス・チャンドラ・ボース (Subhas Chandra Bose, デーヴァナーガリー文字:सुभाष चन्द्र बोस, ベンガル文字:সুভাষ চন্দ্র বসু, 1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネタージ(指導者:नेताजी, Netaji)の敬称で呼ばれる。 プロフィール 独立運動家 1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のオリッサ州に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でケンブリッジ大学に留学したが、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。 1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出...
  • 帝国主義
    thumb|350px|[[1898年当時の帝国主義列強勢力図]] 帝国主義(ていこくしゅぎ、Template lang-en?)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、もしくは同時に、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを押し進めようとする思想や政策。本来は19世紀中葉以降の移民を主目的としない植民地獲得を指して使われる用語であるが、歴史学以外の分野ではしばしば文学的・政治的修辞として単純に膨張主義を指して使われる場合もある。また、レーニンは植民地再分割を巡る列強の衝突から共産主義革命に繋げようとする立場から更に限定し、『帝国主義論』(1916年)の中で20世紀初頭以降を帝国主義として論じているが、ソビエト連邦も崩壊後はそのような問題設定がなされることは少なくなっている。 概要 帝国主...
  • 枢軸国
    枢軸国(すうじくこく、Template lang-de?、Template lang-it?)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉。アドルフ・ヒトラーがベニト・ムッソリーニのイタリアと同盟を結んだ際、これを「ヨーロッパの枢軸」と称した事に由来する。 同盟を結んでいたナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国の3カ国が中心であり、ブルガリア王国、ハンガリー王国、タイ王国(終戦後の外交手腕により敗戦国としての扱いを免れる)、フィンランド共和国、ルーマニア王国などもこれにあたる。また、フランスのヴィシー政権、独立スロバキア、満洲国、蒙古聯合自治政府なども枢軸国の影響下で連合国と戦ったが、いずれも今日では傀儡政権と見なされている。 戦況の悪化により、イタリアは1943年に、ブルガリア・フィンランド・ルーマニアは1944年に枢軸国を離脱した。フィンランドはその後ラップランド戦争を行...
  • エルトゥールル号遭難事件
    エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。 現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。 事件の経過 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。 1889年7月、イスタンブルを出港。数々の困難に遭...
  • ヤルタ会談
    320px|thumb|ヤルタ会談(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル・ルーズベルト・スターリン)]] ヤルタ会談(ヤルタかいだん)は、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソ連)による首脳会談。 なおクリミア半島は歴史的にはタタール人とスラブ系により争われてきた土地であるが、18世紀末以降(会談当時も)ロシア・ソ連が占領していた。のち、冷戦期初期にウクライナに割譲され、現在に至る。地理的にはウクライナの半島に他ならない。 またヤルタはクリミア諸島の南端、黒海を臨むリゾート地。このソ連唯一のリゾート地に米英首脳を迎えたのであった。 概要 連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるド...
  • A級戦犯
    A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、ア...
  • フランクリン・ルーズベルト
    Template 大統領? フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。ローズベルト、ローズヴェルトとも(アメリカ英語音は「ローズヴェルト」に近い)。民主党出身の第32代アメリカ大統領(1933年 - 1945年)。アメリカ史上唯一、4選された大統領で、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。ウィンストン・チャーチル、ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。 人物 ルーズベルトは、任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験し、20世紀の国際政治における中心人物の一人だった。ルーズベルトのニューディール政策はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させた。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、枢軸国に対する「民主主義の...
  • 独ソ戦
    Template Battlebox? 独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエト...
  • ニュルンベルク裁判
    Template 観点? thumb|right|240px|ニュルンベルグ裁判での被告席にて(前列奥から[[ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル)]] ニュルンベルク裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日~1946年10月1日)。最初で主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal(IMT))と、それに続く12の裁判(Nuremberg Military Tribunals(NMT))で構成。  概要 この裁判はナチス党の党大会が開催されていた因縁の街・ニュルンベルクで行われた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。 ...
  • 日米修好通商条約
    日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。 この不平等条約の改正は、日本が日清戦争において清に勝利した後で、明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。 経緯 日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかし、ハリスの強硬な主張により、交渉担当者の間で通商条約やむを得ずという雰囲気が醸成されると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲...
  • 第一次世界大戦-2
    前半は第一次世界大戦参照 イタリア戦線 Template main? イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。 伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)の...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • プラグイン/ニュース
    ニュース @wikiのwikiモードでは #news(興味のある単語) と入力することで、あるキーワードに関連するニュース一覧を表示することができます 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_174_ja.html たとえば、#news(wiki)と入力すると以下のように表示されます。 【グランサガ】リセマラ当たりランキング - グランサガ攻略wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【まおりゅう】八星之紋章交換のおすすめ交換キャラ - AppMedia(アップメディア) Among Us攻略Wiki【アマングアス・アモングアス】 - Gamerch(ゲーマチ) マニュアル作成に便利な「画像編集」機能を提供開始! - ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」:時事ドットコム - 時事通信 マニ...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • ロシア帝国
    Template 基礎情報 過去の国? ロシア帝国(ロシア語:Template lang?、英語:Russian Empire)は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体のことである。「帝政ロシア」とも言われる。 厳密には1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を「帝国」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリ(これも「皇帝」と訳しうる)の称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、「ロシア帝国」という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。 歴史 ロシアの歴史を参照。 国土 領土は、1...
  • 三国干渉
    三国干渉(さんごくかんしょう)は、下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が1895年4月23日に行った日本に対する勧告のことである。 日清戦争と欧州列強 日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。 更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「中国の分割」を進めてきたが、中国国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本のこの要求はこの列強間の「...
  • 世界恐慌
    thumb|200px|right|[[ニューヨーク・ウォール街の群衆]] 世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。 背景 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。 1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化によ...
  • 日系人の強制収容
    Template 加筆? 330px|right|thumb|[[マンザナール強制収容所]] 330px|right|thumb|アメリカ軍により発せられた強制立ち退き令を報じる[[羅府新報]] 日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう)とは、太平洋戦争/大東亜戦争時において大日本帝国の対戦国であったアメリカ合衆国政府によって行われた日系アメリカ人や日本人移民、及びペルーやブラジルなどの中南米の連合国に在住する日系人と日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。 強制収容開始までの経緯 日系人に対する監視 大日本帝国陸軍による仏領インドシナや中国大陸への軍事行動に対して、アメリカ合衆国政府は1941年7月に自国内の日本人資産の凍結、通商航海条約の一方的破棄を通告。その後8月1日には大日本帝国への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度...
  • 大輝丸事件
    大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)におこった、日本の海賊によるロシア人殺害事件である。 概要 大正11年9月、茨城県結城町の江連力一郎(当時34歳)は、神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船 大輝丸740トンを用船し、オホーツク海に砂金採取に行くと称して、人夫60名を募集した。 9月26日、北海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 ...
  • ヨシフ・スターリン
    Template 大統領? ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Template Lang?, グルジア語 იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。 「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。「ジュガシヴィリ」は「ユダヤ人の息子」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)の侵略から祖国を守る英雄として、またソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知...
  • 日独伊三国軍事同盟
    日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito、英:Three-Power Pact)とは、1940年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約を指す。 1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、対米関係は極端に悪化した。 締結に至る経緯 ドイツ側の利害関係  アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の...
  • 北京議定書
    北京議定書(ぺきんぎていしょ)とは、1901年9月7日に北京で調印された義和団事変における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約、辛丑和約(しんちゅうじょうやく、-わやく)ともいう。欧米では Boxer Protocol の呼び名が一般的である。 なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。 調印国と全権 列国側 ドイツ・シュワルツェンシュタイン オーストリア・ハンガリー・ワールボルン ベルギー・ジュースタンス スペイン・コロガン アメリカ・ロックヒル フランス・ボー イギリス・アーネスト・...
  • リットン調査団
    リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。 概要 調査団派遣の経緯 1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 調査団の要員構成 1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。 リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド総督 アンリ・クローデル陸軍中将(フ...
  • 南京安全区国際委員会
    南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)とは、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、市外に避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。第二次上海事変に際して南市に設立された安全区を手本に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。 略歴 1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国・日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。 11月22日 ...
  • ロシア革命
    ロシア革命(ロシアかくめい)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。 なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。 thumb|right|340px|[[防護巡洋艦アヴローラ10月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献した。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈又は鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクのネヴァ川に保存されている。]] 経緯 前史 Template USSR? ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対...
  • BC級戦犯
    B級戦犯(ビーきゅうせんぱん)およびC級戦犯(シーきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。 A級と同様に、B、Cは罪の重さのことではない。 日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった人があった。 由来 ナチス・ドイツのポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロ...
  • 真珠湾攻撃
    真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾 Pearl Harbor を「真珠湾」と訳すことには異論もある。詳細は真珠湾を参照。にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。 当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。世界史的には、この攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。 背景 作戦構想 オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオ...
  • 極東国際軍事裁判
    極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)は東京裁判(とうきょうさいばん)ともいい、第2次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。 概要 1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、裁判が行われた。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は、日本政府が支出した。 連合国(戦勝国)からの判事としては、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国が...
  • 日本海海戦-2
    前半は日本海海戦参照 バルチック艦隊の敗因 長途の航海 バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復元力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。 長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入ら...
  • ハロルド・J・ティンパーリ
    ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記 田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリアバンベリー出身のジャーナリスト。 略歴 ハロルド・ジョン・ティンパーリー(Harold John Timperley)は、1898年6月22日、 ウェスタン・オーストラリア、バンベリーで生まれる。幼くしてパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵され、フランスとベルギーに従軍。1919年に帰国後、前職に戻るが、1921年に香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。 1924年、北平(1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニター、APなど様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙の特派員となる。1934年からASIA誌の顧問編集者...
  • 義和団の乱-2
    前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近...
  • 交換船
    thumb|right|330px|[[横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸]] 交換船(こうかんせん、戦時交換船や抑留者交換船などとも呼ばれる)は、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された船のことである。 いきさつ 1941年12月8日の日本とイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とのいわゆる大東亜戦争/太平洋戦争の開戦に伴い、両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族など)の帰国方法が問題になった。 しかし、開戦後に両陣営の国家同士の国交が断絶され、それぞれの国に駐在する外交官の資格が停止されたことに伴い、政府間の直接交渉が不可能になったことから、まずアメリカの国務省が、12月17日に中立国で...
  • ゾルゲ事件
    ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、1941年9月から1942年4月にかけて山村八郎 (1949)、21頁。リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして逮捕された事件。この組織の中には近衛内閣のブレーンとして活動した尾崎秀実もいた。 経緯 逮捕 太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱ったゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。。 まず1941年6月に日本共産党員であった伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供、警視庁は北林を9月28日に逮捕。さらに北林がアメリカ共産党の同志...
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