chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「三菱重工業」で検索した結果

検索 :
  • 三菱財閥
    ...官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。 炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。 1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。 1916(大正5)年に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。 1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々...
  • 満州重工業開発
    満州重工業開発株式会社(まんしゅうじゅうこうぎょうかいはつ かぶしきかいしゃ)は、満州国の特殊法人で、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的に設立された持株会社。通称は満業(まんぎょう)。 概要 満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本鉱業(現・新日鉱ホールディングス)や日立製作所、日産重工業(現・日産自動車)を傘下に持つ日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が、満州全土の鉱業から各種製造まで一貫した計画の元に生産することを目的に、1937年にグループの持株会社である日本産業を満州に移転・改組させて設立した。総裁は鮎川が勤め、傘下に満鉄から譲渡を受けた昭和製鋼所や満州炭鉱などの鉱工業会社を置き、これらの会社を統制したが、次第に関東軍や満州国政府の経営干渉を盛んに受けるようになった。鮎川は当初、アメリカ資本の導入を検討していたが、軍需物資の...
  • 財閥
    財閥(ざいばつ)とは、財閥解体以前の非常に大きい独占的な資本家または企業の事であるが、一般的には、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸会社(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占めると定義される。また別名ではコンツェルンとも呼ばれる。 なお、近代以前には財閥という言葉は、多数の豪商を生み出した地域に付けられる事もあった。例:甲州財閥、阪神財閥 日本の財閥 日本では第二次世界大戦前に三井・三菱・住友・安田などの財閥があったが、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により分散させられた(財閥解体)。海外ではZaibatsuとも呼ばれる。 四大財閥 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 上記の3つを特に三大財閥と呼ぶ。 安田財閥(金融財閥) 江戸時代...
  • 鈴木商店
    鈴木商店(すずきしょうてん)は、戦前の日本の財閥。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。第一次世界大戦の戦争成金の代表格。 歴史 創業期 1874年、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。 1886年、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが金子直吉と柳田富士松の両番...
  • 東條英機-2
    ...計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。 三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。 他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。 家族の殆どが軍に関係しており、日本最大の軍人閥族でもあった。 A級戦犯合祀が問題になった際、白菊遺族会処刑されたA級戦犯遺族の会。会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)らが分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)。 栄典 昭和12年7...
  • 住友財閥
    thumb|350px|  旧住友本社 設計:[[長谷部竹腰建築事務所]] 住友財閥(すみともざいばつ)は、日本の三大財閥の1つ。 世界最古の財閥 住友財閥は、ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。住友は、製造業を主業として、その隣接部門への多業種化と垂直的統合によって発展した。また、三井と並んで日本の最も古い独占企業体であるが、ただ異なる点は、三井は原則として商いと高利貸でその活動を始め、その事業を継続してきたのに対して、住友は基本的に鉱工業活動に携わってきたことである。 始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ 世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家...
  • 満州
    Template 中華圏の事物? 満州(満洲、まんしゅう、アルファベットによる満州語表記:Manju)は、中国東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。曾ては、高句麗や渤海国、遼(契丹)、そして金国があった地域であり、後金・清朝を建国した満州民族の故地である。 満洲の範囲 日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。 この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。 広義の満洲としては、モン...
  • 世界恐慌
    thumb|200px|right|[[ニューヨーク・ウォール街の群衆]] 世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。 背景 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。 1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化によ...
  • 八幡製鐵所
    八幡製鐵所(やわたせいてつしょ)は、福岡県北九州市戸畑区・八幡東区にある製鉄所である。日本初の近代製鉄所で、現在は新日本製鐵が運営する。戸畑地区と八幡地区に分かれており、かつての本事務所に相当する総合センターは戸畑地区の正門前、北九州市戸畑区飛幡町1-1に立地する。 読みは「やわた」であるが、現在では何故「やわた」と読むのかはっきりと分からないため、「やはたせいてつしょ」と読む人がほとんどである(後述参照)。 概要 敷地面積 1614万m² 従業員数 約2900人 年間粗鋼生産量は約369万トン 生産品 鋼板 ブリキ レール 形鋼 鋼管 専用鉄道 八幡製鐵所は八幡地区と戸畑地区を結ぶために約6kmの専用鉄道(八幡製鐵鉱滓鉄道くろがね線)を所有している。 名称 八幡製鐵所は「やわた」と読み、所在地の八幡は「やはた」と読む...
  • 三井財閥
    thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]] 三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。 江戸時代 thumb|170px|名所江戸百景 駿河町([[歌川広重)越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。]] 伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。 幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。 明治以後 三野村利左衛門、中上...
  • 南満州鉄道
    南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、略称 満鉄、英称 South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。初め大連市、のちに新京特別市に本社が置かれ、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。 設立経緯 thumb|right|満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館として当時の建物で営業されている。]] 南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 国立銀行 (明治)
    国立銀行(こくりつぎんこう)は、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関のこと。 概要 時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で、国家が設立した銀行ではなく、渋沢栄一、三井組などの民間資本が設立したものである。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行(当時、第三は欠番)が設立された。 1876年、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。 銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存する物もあるが、現在存在する八十二銀行だけは第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82...
  • 殖産興業
    殖産興業(しょくさんこうぎょう)とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、産業、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。 歴史 江戸時代後期、鎖国体制から開国した日本は、西洋との圧倒的な国力の差を意識する。王政復古により成立した明治新政府は富国強兵をスローガンに、積極的に自ら産業を興こす政策を取った。地租改正や秩禄処分で税制改革を行い1870年には工部省を設置、ヨーロッパからお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務めた。1872年には官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。鉱山などの事業を行い、群馬県に富岡製糸場などの官営工場を開設した。1873年には官営事業を統括する内務省が設立される。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。金融では1871年に新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告。 1880年に軍関係を除く官営事業...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 政商
    政商(せいしょう)とは、政治家や政府高官との結びつきを利用して経済活動上の特権的利益を得たり、政策を自己の利益に有利な方向に誘導した事業家、企業のことを指すが、もともとは明治期に登場したこのタイプの事業家を意味する歴史的範疇である。 有名な政商 三井財閥 三井高利(御用商人) 三野村利左衛門 三菱財閥 岩崎弥太郎 第一国立銀行(現:みずほ銀行) 渋沢栄一 関西貿易社 五代友厚 大倉財閥 大倉喜八郎 古河財閥 古河市兵衛 北海道炭鉱汽船(三井観光開発) 萩原吉太郎 藤田組(藤田財閥) 藤田傳三郎 中野梧一 竹中工務店 竹中錬一 読売グループ 正力松太郎 渡邉恒雄 東急グループ 五島慶太 西武グループ 堤康次郎 堤義明 熊谷組 熊谷太三郎 国際興業 小佐野賢治 伊藤忠商事 瀬島龍三 福島交通 ...
  • 開拓使官有物払下げ事件
    開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使の官有物払下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。明治十四年の政変のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放。また、国会開設の詔勅が出された。 払下げ決定まで 開拓使は、北方開拓のために1869年(明治2年)7月から1882年(明治15年)2月まで置かれた官庁である。 黒田はロシアに対抗する国力を充実させるため北海道の開拓に力を入れるべきだという建議を行った。これに従い、1871年(明治4年)8月19日に10年間1000万両をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。 黒田は米国人ホーレス・ケプロンらのお雇い外国人を招いて、政策の助言と技術の伝習を行った。開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進し...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • 幣原喜重郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米...
  • 安田財閥
    安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現...
  • 松方正義
    Template 日本の内閣総理大臣? 松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士・薩摩藩士、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。元老従一位大勲位公爵。 経歴 生い立ち 現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認め...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 昭和金融恐慌
    昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。 概要 日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷...
  • 基本国策要綱
    基本国策要綱は、昭和15年(1940年)7月26日に第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針。これにより大東亜共栄圏の建設が政策となる。 内容 昭和15年7月26日 閣議決定 世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定すること左の如し 基本国策要綱 一、根本方針 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事...
  • 満州国-2
    前半は満州国参照 政治 Template wikisource? 満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変...
  • 南洋興発
    南洋興発株式会社(なんようこうはつかぶしきかいしゃ)は、大日本帝国時代の日本の国策会社。大正10年(1921年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を『海の満鉄』と呼ぶこともある。 概要 第一次世界大戦のドイツ敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として内地の資本が次々と進出したが初期のそれら進出会社は経営に行き詰まり、入れ替わる形として設立されたのが南洋興発である。 南洋興発の当初の主たる事業は製糖事業であった。その後、事業を水産業・農園業・製酒業などから鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。従業員は5万人弱と満鉄に匹敵する規模の国策会社に成長した。 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、南洋諸島は連合国の1国であるアメリカ軍...
  • 立憲改進党
    立憲改進党(りっけんかいしんとう)は明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党...
  • 第一次世界大戦下の日本
    Template 右? 第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。 参戦 日英同盟に基づく参戦 第一次世界大戦の開戦に際して、イギリスは日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。当時アメリカ合衆国は中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。 しかし、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。 大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した...
  • 台湾銀行
    台湾銀行(たいわんぎんこう) 第二次世界大戦までにあった特殊銀行(#日本統治時代で記述)。 現在、台湾にある金融機関。台湾銀行(#第二次世界大戦後で記述)。 日本統治時代 台湾銀行(たいわんぎんこう)は1895年の台湾統治後、日本政府の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリア...
  • 石井・ランシング協定
    石井・ランシング協定(いしいらんしんぐきょうてい)は、1917年(大正6年)11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。公文による共同宣言という形式になっている。ワシントン体制への道に通じる対米協調政策の結果であった。 概要 協定の内容はアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。アメリカはすでに日本の対華21ヶ条要求に対して「不承認政策」を取っており、日米両国政府の合意は「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸解放または商工業に対する機会均等の主義」であった。 ただし、ここには「特殊の権利または特典」は除外されていた。そしてその特殊利益とは具体的に満州・東部内蒙古に対する日本の利益をアメリカが承...
  • 在華ソビエト軍事顧問団
    在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣されたソ連軍人により構成された顧問団である。 中国革命を目指す孫文が、国民革命軍の創設と強化のために、隣国ソ連から招いたのが始まりである。孫文の死後、跡を継いだ蒋介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル...
  • 大正
    Template 日本の歴史? 大正(たいしょう)とは、日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間を指す。 改元 明治45年(1912年)7月30日 - 大正天皇即位の為、改元の詔書を公布、即日施行した。 大正15年(1926年)12月25日 - 昭和天皇即位の為、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。 出典 「大正」の由来は『易経』の「大享以正天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 大正年間の概要 thumb|300px|竣工当時の[[東京駅。1914年(大正3年)に完成した。]] 本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られる事が多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 日本統治時代 (台湾)
    台湾の日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。 なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。 沿革 Template 台湾の歴史? 統治初期の政策 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 大阪商大事件
    大阪商大事件(おおさかしょうだいじけん)は、太平洋戦争中の1943年から1945年初めにかけて、大阪商科大学(現大阪市立大学)の教員・卒業生・学生ら数十名が治安維持法違反容疑で特別高等警察により検挙、投獄された事件である。 背景 日中戦争の始まった1937年以降、大阪商大では戦時下にもかかわらずマルクス経済学についての研究会活動が活発となった。この背景には、河田嗣郎学長のもとリベラルな学風が強かったことに加え、1937年から1941年にかけて商大において岩波書店版『経済学辞典』の編集が行われ、その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。 また同じ時期、進歩的な予科講師として人気のあった立野保男の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では上林貞治郎教授ら教員、学生により「帝国主義戦争に反対し、マルクス経済学を研究する...
  • 第2次大隈内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ おおくま ないかく|17|大隈重信|Template 和暦?|4月16日|Template 和暦?|10月9日|立憲同志会、中正会、大隈伯後援会|第12回衆議院議員総選挙|1914年(大正3年)12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html|早稲田大学総長}} 概要 第1次山本内閣崩壊後、徳川家達・清浦奎吾に大命降下されるがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。Template 和暦?4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明が外務大臣として大隈を...
  • 五代友厚
    五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。 経歴・人物 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • ニュルンベルク裁判
    Template 観点? thumb|right|240px|ニュルンベルグ裁判での被告席にて(前列奥から[[ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル)]] ニュルンベルク裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日~1946年10月1日)。最初で主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal(IMT))と、それに続く12の裁判(Nuremberg Military Tribunals(NMT))で構成。  概要 この裁判はナチス党の党大会が開催されていた因縁の街・ニュルンベルクで行われた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。 ...
  • 第2次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ まつかた ないかく|6|松方正義|Template 和暦?|9月18日|Template 和暦?|1月12日|藩閥内閣(進歩党協力)|第5回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/06.html|前職 = 前大蔵大臣}} 概要 Template 和暦?9月10日、松方に大命が降下したものの、以前の第1次松方内閣のときの帝国議会対策での失敗もあり組閣も順調とはいかなかった。三菱財閥の岩崎弥之助は松方に大隈重信の進歩党との連携を提案した。だが、超然主義者の前首相山縣有朋を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出た。松方は進歩党からは大隈の外務大臣以外の入閣は認めなかったものの、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことで...
  • 松方デフレ
    松方デフレ(まつかたでふれ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂...
  • 企画院事件
    企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、...
  • 血盟団事件
    血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。 経緯 日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。 日召は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」などの言葉...
  • 日本の学校制度の変遷
    日本の学校制度の変遷(にほんのがっこうせいどのへんせん)では明治から現代の日本における学校制度のうつりかわりをまとめる(以下、戦前の教育課程はほとんど「學校」と表記するのが正しいが、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により「学校」と書く)。 文部科学省ホームページ ~戦前の学校系統図表 http //www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html 大正~太平洋戦争初期の学制 師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。 ...
  • 読売新聞
    読売新聞(新聞の題字及び漢字制限前表記は「讀賣新聞」)(よみうりしんぶん)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。販売部数は1000万部を超え、世界で最も発行部数が多い(かつては旧ソ連共産党機関紙プラウダ)ギネスブックにはHighest Daily Newspaper Circulationで、朝刊と夕刊をあわせて2002年に14,323,781部を発行したと記されている。。英国Times紙と特約契約を交わした。また、親米保守派新聞として知られている。 歴史 1874年(明治7年)11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊 1917年12月1日 商号を「日就社」から「読売新聞社」に改称。 1924年2月25日 経営難から、前警視庁警務部長、後の衆院議員、正力松太郎が買収。 1925年11月15日 「よみうりラ...
  • 日朝関係史
    Template 日本の国際関係?  日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。 古代 古代には、朝鮮が中国と日本(7世紀まで倭国と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、鉄や紙の生産技術・仏教・医学は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。稲作も朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中...
  • 日本統治時代の朝鮮
    Template 基礎情報 過去の国? Template 朝鮮の歴史? 日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語 Template lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。 総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTempla...
  • 時事新報
    時事新報(じじしんぽう)はかつて存在した日刊新聞の名称である。 1882年3月1日、福澤諭吉の手により創刊。福澤の関係する慶應義塾及びその出身者が全面協力した。 概要・歴史 当初の福澤の計画では、政府の伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定であった。しかし1881年の明治十四年の政変により大隈重信や大隈派官僚が失脚するとその計画も頓挫してしまった。しかし政府系新聞を作るために記者や印刷機械は既に準備していたため慶應義塾で独自に新聞を発行するいきさつになったのである。 創刊時より「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、僅か1,500部余りだった発行部数が2年後には5,000部余りまで増加した。「慶應義塾豆百科」のNo.42「『時事新報』の創刊」を参照。 1896年、ロイター通信社と独占契約を締結、1921年パリ...
  • @wiki全体から「三菱重工業」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。