chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「上院議員」で検索した結果

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  • コーデル・ハル
    ...た。彼は1930年に上院議員に選出され、1933年にはフランクリン・D・ルーズヴェルト内閣での国務長官に任命された。ハルの政策は貿易の促進と関税低下を支援した。また、1930年代の東アジア開発に対する彼の警告は、アメリカ政府に日本との戦争準備を支援した。 国務長官として彼は、1940年から1941年の大日本帝国との平和的外交解決の失敗全般に関係していた。ハルの問題解決の努力に対する評価は、強力で必要なものであったと賛美するものから過度に積極的で単に開戦を刺激したに過ぎないと嘲笑するものまで、歴史家によって大きく変化する。 1943年のモスクワ会議ではアメリカ全権代表を務めた。 ハルはドイツのロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンと彼の研究チームをペーパークリップ計画によってアメリカに移送し、アメリカの戦後のロケット計画を組織するのに貢献した。同計画は後のNASAの宇宙開発計...
  • 尾崎行雄
    ...ム・サーモンドが連邦上院議員を100歳まで務めている)。る。1950年には英語国語化論を提唱したこともある。 1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。96歳。墓所は鎌倉の円覚寺。 永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。 相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。 東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。 難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの...
  • 105人事件
    ...老教教会および三人の上院議員などによる駐米日本大使館との折衝(その際に、かつて米国にも留学した「首謀者」尹致昊への善処を求める嘆願がなされた)などによる「事件」解決、日米関係打開のための動きがみられた。そして、当時の京城(現在のソウル)地方法院(裁判所)は同年9月28日、前述の122人の中で17人だけを無罪とする一方、のこりの105人に懲役刑を言い渡した(「105人事件」というよび方は、ここからくる)。その後の控訴審では1913年10月、105人の中で99人が無罪を言い渡された一方、尹致昊などの6人は懲役刑が確定したが、その6人も1915年2月、大正天皇の即位式にちなんだ恩赦によって釈放された。 こうして、「105人事件」は一応決着し、尹致昊はこれ以降、日本の朝鮮統治を容認し、結局は「親日派」へとなっていく。また、実際には寺内に対する暗殺計画・企図はなく、「105人事件」は日本側に...
  • 翼賛議員同盟
    翼賛議員同盟(よくさんぎいんどうめい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派(1941年9月2日-1942年5月19日)。 概説 1940年の大政翼賛会の結成によって既成の政党は全て解党され、12月20日には翼賛会の下に衆議院統一会派である衆議院倶楽部(435名)が結成されたが、一部右翼からの「大政翼賛会違憲論」に押されて、翌1941年に近衛文麿首相が大政翼賛会を政事結社ではなく公事結社であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての衆議院議員が無所属議員となってしまったために、衆議院は大混乱に陥った。 一方、近衛側近の前司法大臣風見章は元鉄道大臣前田米蔵と図って、貴族院議員である近衛首相を長とする貴族院・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自...
  • 東條内閣
    {{日本の内閣記事|とうじょう ないかく|40|東條英機|Template 和暦?|10月18日|Template 和暦?|7月22日|大政翼賛会など。|第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)|(1942年(昭和17年)4月30日任期満了前の第20回衆議院議員総選挙が行われたのは1937年(昭和12年)4月30日であったため、本来の任期は1941年(昭和16年)4月30日までであった。しかし、1年間任期延長したため、1942年(昭和17年)4月30日に任期満了を迎え、同日、第21回衆議院議員総選挙の投票が行われた。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/40.html|陸軍大臣|画像= |画像説明=東條内閣の閣僚(前列中央が東條英機首相)。1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸にて。}} 概要 前の内閣総理大臣である近衛文麿...
  • ハリー・S・トルーマン
    ...ルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。 再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、彼の知名度は全国的に上昇した。1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初彼は副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズ...
  • 宮中顧問官
    宮中顧問官(きゅうちゅうこもんかん)は、皇室または王室制度が存在する国の官職。多くの場合名誉職的な意味合いが強い。 日本の宮中顧問官 日本では、大日本帝国憲法下で宮内大臣の諮問に応じる職であった。 内閣制度創設の際に、明治18年太政官達第68号により内閣とは別に宮内大臣・内大臣と並んで設置された。名称中に「宮中」とあるように、戦前の日本では皇室・皇族関連を宮中、内閣以下政府を府中とし、宮中の制度に政府は関与できなかった。勅任官で、国家に勲功のあった者の中から選ばれた。1945年11月24日に廃止された。 主な任官者 池田謙斎(陸軍一等軍医正男爵医学博士、侍医局長) 伊地知正治(伯爵、修史館総裁、一等侍講、宮内省御用掛) 伊藤博文(内閣総理大臣、枢密院議長:1889年10月30日~1891年6月30日?) 井上馨(侯爵、大蔵大臣、明治20年9月-明治21年7月...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 普通選挙法
    普通選挙法(ふつうせんきょほう)とは、1925年(大正14年)、加藤高明内閣によって成立した、成年男子による普通選挙を規定する法律である。普通選挙法というのは通称であり、実体は衆議院議員選挙法を改正したものである。 成立 既に起こっていた第一次護憲運動により、民衆の普通選挙を求める運動が高まっていたさなか、貴族院を背景とした清浦奎吾内閣は衆議院を無視して内閣を組閣する。これに対し、高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、第二次護憲運動が始まる。この運動は政党内閣の結成、普通選挙の実施を公約に掲げて行われ、護憲三派は衆議院選挙で勝利を収め、憲政会総裁である加藤高明内閣を組閣する。 こうして公約通り1924年6月11日衆議院議員選挙法(普通選挙法)は改正(成立)された。しかし、政府原案中の、選挙・被選挙権資格規定に関しては、1925年2月の枢密院の修正(被選挙...
  • 衆議院
    {{議会 |国略称 = Template JPN? |議院名 = 衆議院 |公用語名 = 衆議院 |画像 = |画像説明 = 国会議事堂(手前が衆議院) |上下院、一院制 = 下院 |議長歴代 = 17 |議長氏名 = 河野洋平 |議長出身党派 = 自由民主党 |副議長歴代 = 17 |副議長氏名 = 横路孝弘 |副議長出身党派 = 民主党 |成立年月日 = 帝国議会 - 1890年11月29日国会 - 1947年5月3日 |郵便番号 = 100-0014 |所在地 = 東京都千代田区永田町1丁目7番地1号 |任期 = 4年(任期途中に解散有) |定数 = 480(小選挙区300・比例代表選挙区180) |選挙制度 = 小選挙区比例代表並立制 |議会運営 = 委員会中心主義 |ウェブサイト = http //www.shugiin.go.j...
  • 田中義一内閣
    {{日本の内閣記事|たなかぎいち ないかく|26|田中義一|Template 和暦?|4月20日|Template 和暦?|7月2日|立憲政友会|第16回衆議院議員総選挙|1928年(昭和3年)1月21日普選解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html|立憲政友会総裁・貴族院議員}} 概要 昭和金融恐慌の発生によって窮地に陥った第1次若槻内閣は、緊急勅令によって事態切り抜けを図ったが、幣原外交に反感を抱く枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治の策動で否決されて倒れた。元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕はともに憲政常道の観点から立憲政友会総裁の田中義一を後継に推挙し、陸軍出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する貴族院にも田中待望論の動きが高まった。 大命降下を受けた田中は平沼...
  • 皇室会議
    皇室会議(こうしつかいぎ)は、皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経」または「議によ」ることとされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。 皇室会議で決すべき事項 「皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」(皇室典範37条)と定められているので、皇室会議で決すべき事項は、新たな法律の制定・改廃がされない限り以下のもののみである。※印が付されているものは、出席議員の3分の2以上の多数で決する事項。 皇位継承関係 皇位継承順位の変更(皇室典範3条)※ 婚姻関係 立后(天皇の婚姻)と皇族男子の婚姻(皇室典範10条) 他の事項が皇室会議の「議による」...
  • 立憲革新党
    立憲革新党(りっけんかくしんとう)は、明治中期に存在した政党(1894年5月9日-1896年2月24日)。 同盟倶楽部と同志倶楽部が合同して一部無所属議員なども加わって40名の衆議院議員によって結成された。同盟倶楽部は1892年11月20日に藩閥政権に失望した吏党系議員が民党側に離反した際に結成された院内会派、同志倶楽部は1893年12月5日に自由党所属の星亨衆議院議長の不正問題で自由党が星議長の擁護の姿勢を変えないことに抗議した同党議員が離党して結成した院内会派であった。ところが、直後に第3回衆議院議員総選挙が行われて両会派とも減少したために、民党としての地位確保のために合同したのである。当初は対外硬派に属してや皇室の尊栄・国威発揚を掲げる一方で人民の権利伸長、責任内閣制確立などを掲げた。日清戦争後の三国干渉に屈した第2次伊藤内閣を追及する運動を展開した。主な議員には楠本正隆・鈴木重遠...
  • 第2次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ このえ ないかく|38|近衛文麿|Template 和暦?|7月22日|Template 和暦?|7月18日|大政翼賛会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/38.html|公爵貴族院議員・元首相|画像= |画像説明=第2次近衛内閣の閣僚。近衛文麿首相と国務大臣ら。}} 概要 第2次近衛内閣は、米内内閣のあとを受けて、新体制運動の主導者であった元首相・貴族院議員の近衛文麿が組閣した内閣である。組閣直後の1940年(昭和15年)7月26日、「大東亜新秩序建設」(大東亜共栄圏)を国是とし、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。同年9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結し、同年10月12日に新体制運動の指導的組織となる大政翼賛会を結成。翌1941年(昭和16年)...
  • 立憲民政党
    立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、昭和時代の政党。1927年6月1日に憲政会と政友本党が合併して成立した。濱口内閣・第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した。 概要 1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で若槻前政権の与党であった憲政会と田中義一の政友会総裁就任に反対して政友会を離党した床次竹二郎らの政友本党が合同して成立、6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸を総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄・武富時敏を党顧問、桜内幸雄を幹事長、安達謙蔵・町田忠治・小泉又次郎・斎藤隆夫ら10名を総務とし、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げた。支持基盤としては、地主などが支...
  • 国民同盟 (日本)
    国民同盟(こくみんどうめい)とは、昭和初期に存在した親軍部政党(1932年12月22日-1940年7月26日)。 満州事変直後、幣原外交・井上財政への批判を強めた立憲民政党の安達謙蔵内務大臣が推進した協力内閣運動が失敗に終わると、これに憤慨した安達が中野正剛・山道襄一らとともに民政党を離党した上で革新党などと合同して衆議院議員32名により結成した。 軍部と協力して統制経済と満州事変における日本の国際正義の擁護を掲げたが、政権獲得の重視する安達と中野・山道の三幹部の間に意見の齟齬があり、1936年に安達が岡田内閣の内閣審議会委員に任命されると一気に露呈した。その結果、中野は離党して東方会を結成し、山道も民政党に復党した。このため急激に党勢は衰退し、第20回衆議院議員総選挙以後はわずか11名の小政党となり、他の小政党や無所属議員と小規模な院内会派を作って活動するのが精一杯となった。このため...
  • 石黒忠篤
    石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、明治17年(1884年)1月9日 - 昭和35年(1960年)3月10日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎。 経歴・略伝 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1908年(明治41年)第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 1910年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)農務局農政課長。 1924年(大正13年)農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 1931年(...
  • 貴族院 (日本)
    貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下において1890年(明治23年)から1947年(昭和22年)まで存在した帝国議会の一院。衆議院とは同格の関係にあった(ただし衆議院には予算先議権があった)。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。 概要 thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員...
  • 反軍演説
    反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。 経緯 演説 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである ref name= hangun-kaiko 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである。 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は...
  • 大日本政治会
    大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派・政治団体(1945年3月30日-同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。 概説 第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 第2次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ さいおんじ ないかく|14|西園寺公望|Template 和暦?|8月30日|Template 和暦?|12月21日|立憲政友会|第11回衆議院議員総選挙|(1912年(明治45年)5月15日衆議院議員の任期満了による。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html|立憲政友会総裁}}この内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御して明治時代が終わるとともに、同日から大正時代が始まる。 概要 第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派で...
  • 自由党 (日本)
    自由党(じゆうとう)は、かつて存在した日本の政党。 現在、日本において「自由党」の名称を持つ政党は存在しない(政治団体としては存在する)。 自由党 (明治) 本節では、明治時代に創設された日本最初の近代政党である「自由党」と同党解散後、帝国議会開設時の大同団結運動を経て、旧自由党勢力による再結集によって再興された「立憲自由党」(後に旧称である「自由党」に戻す)を扱う。 自由党 (日本 1881-1884) {{政党 |国名 = Template JPN? |党名 = 自由党 |公用語名 = |成立年月日 = 1881年10月18日 |解散年月日 = 1885年10月29日 |解散理由 = 内部対立のため |後継政党 = |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = 自由主義 |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |...
  • 選挙粛正運動
    選挙粛正運動(せんきょしゅくせいうんどう)とは、1930年代の日本において、普通選挙法制定後に公正明大な選挙の実施を目指して行われた選挙浄化運動の事である。だが、後に変質させられて国家による選挙干渉の手段として用いられて後に翼賛選挙のモデルとされた。 第2次護憲運動の結果、普通選挙法が制定されて政党内閣が慣例化した。だが、その一方で選挙にまつわる買収や贈収賄などの問題も浮上してきた。これを憂慮した後藤新平らによって国民の選挙への関心を高めて啓蒙する事によって選挙にまつわる腐敗を防止しようとした。これが、「選挙粛正(あるいは選挙革正)」と呼ばれるようになる。これを受けて浜口内閣では選挙革正審議会が打ち立てられるが、五・一五事件によって政党内閣は終焉を迎えた。 政党内閣が終わり、中間内閣の時代となると、これに目を付けたのがいわゆる「革新官僚」であった。彼らは政党政治以前にもこうした腐敗があ...
  • 朝鮮貴族
    朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)とは、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分をいう「朝鮮貴族令」第2条。1910年(明治43年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。 朝鮮貴族は、公侯伯子男爵に分類され、華族と同一の礼遇を享け、叙位についても華族と同一に取り扱われるなど、従来の日本の華族令による華族とほぼ同様に扱いがなされた。但し、東京在住が義務付けられず、貴族院の有爵者議員となる資格はないなど、華族と違う取り扱いもなされた。 朝鮮貴族に列せられた者 侯爵 李載完 興宣大院君の甥。 李載覚 荘献世子の玄孫。 李海昌 昌山君。 李海昇 全渓...
  • 第1次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ さいおんじ ないかく|12|西園寺公望|Template 和暦?|1月7日|Template 和暦?|7月14日|立憲政友会|第10回衆議院議員総選挙|(1908年(明治41年)3月1日衆議院議員の任期満了。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/12.html|立憲政友会総裁}} 概要 日露戦争中に桂太郎との間で交わされた約束によって立憲政友会総裁である西園寺公望が後継に就任した(なお、この禅譲は元老の干渉を恐れた桂が事前に西園寺の後見人である伊藤博文と井上馨の許可を取ったのみで、元老会議は召集されなかった)。だが、桂と元老は人事や政策に条件を付けて制約をかけ、西園寺も自分の両腕と言える原敬と松田正久の2人だけを入閣させる条件で折り合った。桂はこの内閣の後見人を自負して、政権運営にまで関与しようとしたため...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 翼賛議会
    翼賛議会(よくさんぎかい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中に於ける帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。 概説 戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙は、大政翼賛会が推薦した候補者(主に大政翼賛会の別働隊的院内会派である翼賛議員同盟の議員を中心としていた)に対してよく翼賛会の下部組織の一つである大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を翼賛選挙とも呼ぶ。 翼賛選挙...
  • 大成会
    大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 田中義一
    Template 日本の内閣総理大臣? 田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日) - 昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。立憲政友会第5代総裁。第26代内閣総理大臣(在任 昭和2年(1927年)4月20日) - 昭和4年(1929年)7月2日)。陸軍大将 勲一等 男爵。 生涯 軍人として 萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。 若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍。その後、ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した...
  • 原内閣
    {{日本の内閣記事|はら ないかく|19|原敬|Template 和暦?|9月20日|Template 和暦?|11月13日|立憲政友会|第14回衆議院議員総選挙|1920年(大正9年)2月26日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/19.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}}陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く、すべての大臣に立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。 高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「四大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。 閣僚 内閣総理大臣  原敬(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)11月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内...
  • 食い逃げ解散
    食い逃げ解散(くいにげかいさん)とは、1937年3月31日の衆議院解散の俗称。 経緯 林内閣は、昭和12年度予算が可決されたのを見て、政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した。しかし、政党や国民は、予算成立というご馳走を食べ終わるなり解散をしたということで、「食い逃げ解散」と非難した。4月30日に行われた第20回衆議院議員総選挙の投票結果は、与党的立場をとる昭和会・国民同盟などは合わせても40議席程度で、野党の政友会・民政党が優位に立った。 しかし、総選挙後も林内閣は政権維持の姿勢を崩さなかったため、民政党・政友会、加えて社会大衆党は、一斉に林内閣に対して退陣を要求した。林首相は、退陣要求に対して強気の姿勢を崩さず、5月15日の地方長官会議(知事会議に相当)の席上、政権維持を言明し、再度の衆議院解散をちらつかせた。政党側も一層態度を硬化さ...
  • 第3次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ いとう ないかく|7|伊藤博文|Template 和暦?|1月12日|同年|6月30日|藩閥内閣|第6回衆議院議員総選挙|同年6月10日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/07.html|元老}} 概要 地租増徴を目指して衆議院を解散したものの、政局運営に自信を失った前総理松方正義に代わって伊藤が組閣した。だが地租増徴に反対する進歩党と自由党からの協力は得られなかったために、文部・農商務・逓信を自派(「伊藤系官僚」)が、内務・司法・陸軍を山縣有朋系が占める超然内閣を作らざるを得なかった。 第5回衆議院議員総選挙では自由・進歩両党が圧勝、これに対して伊藤は選挙から僅か3ヶ月で再度衆議院を解散した。だが、これに対して進歩党と自由党が合同して憲政党を結成、貴族院も政権に非協力な態度を取った為に、伊藤は自らの政...
  • 第1次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまがた ないかく|3|山縣有朋|Template 和暦?|12月24日|Template 和暦?|5月6日|藩閥内閣|第1回衆議院議員総選挙|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html|前職 = 陸軍中将・監軍}} Template 和暦?11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度(帝国議会)が開始された。 概要 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立した。内閣職権を廃して内閣官制を導入、「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。教育勅語の発布、第1回衆議院議員総選挙の実施(Template 和暦?7月1日)、府県制・郡制の導入などを行った。 1890年(明治23年)11月25日に召集された第1議会において、...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 清浦内閣
    {{日本の内閣記事|きようら ないかく|23|清浦奎吾|Template 和暦?|1月7日|同年|6月11日|官僚、貴族院。|第15回衆議院議員総選挙|1924年(大正13年)1月31日懲罰解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html|枢密院議長}} 清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。 閣僚 内閣総理大臣 清浦奎吾(子爵・前枢密院議長) 外務大臣 松井慶四郎(男爵・外務官僚) 内務大臣 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部) 大蔵大臣 勝田主計(貴族院研究会) 陸軍大臣 宇垣一成(陸軍中将) 海軍大臣 村上格一(海軍...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 第1次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ このえ ないかく|34|近衛文麿|Template 和暦?|6月4日|Template 和暦?|1月5日|挙国一致内閣。貴族院・官僚が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/34.html|貴族院議長}}Template 和暦?1月4日に総辞職し、次の平沼内閣発足まで、職務を執行した。 概要 第1次近衛内閣は、元老・西園寺公望の奏薦を受けて、公爵・貴族院議長の近衛文麿に大命降下され、組閣した内閣である。内閣発足の1ヶ月後に勃発した日中戦争(支那事変)については、当初、不拡大方針を閣議決定して、事態の早期収束を図った。しかし、軍部強硬派の圧力により戦争は拡大。和平交渉にも失敗して、翌1938年(昭和13年)1月には、「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発...
  • 翼賛政治会
    翼賛政治会(よくさんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院・貴族院合同の院内会派・政治団体(1942年5月20日-1945年3月30日)。略称は翼政会。 日本の歴史上、唯一の「一国一党」体制を樹立した団体である。 概説 1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得したものの、東條内閣に批判的な非推薦候補も少なからず当選した。これを憂慮した内閣総理大臣東條英機は、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用した。その後、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、5月14日に会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送した。だが...
  • 東久邇宮内閣
    {{日本の内閣記事|ひがしくにのみや ないかく|43|東久邇宮稔彦王|Template 和暦?|8月17日|同年|10月9日|貴族院が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/43.html|皇族・陸軍大将|内閣名=東久邇宮内閣内閣総理大臣としての正式な表記は宮号を冠さない「内閣総理大臣 稔彦王」であり、官報にもそのように掲載された。|画像= |画像説明=東久邇宮内閣の閣僚最前列東久邇宮稔彦王、二列目左より重光葵、米内光政、中島知久平、近衛文麿、岩田宙造、三列目左より松村謙三、千石興太郎、山崎巌、津島寿一、小日山直登、緒方竹虎、最後列が村瀬直養。}}皇族が首相となった内閣は史上唯一、在任期間は54日間で史上最短。最後の挙国一致内閣でもある。 1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職...
  • 第1次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ かつら ないかく|11|桂太郎|Template 和暦?|6月2日|Template 和暦?|1月7日|官僚内閣、帝国党|第7回衆議院議員総選挙第8回衆議院議員総選挙第9回衆議院議員総選挙|(1902年(明治35年)8月10日任期満了)1902年(明治35年)12月28日1903年(明治36年)12月11日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/11.html|陸軍大将}}この後、10年以上にわたって続く桂園時代の初めの内閣である。 概要 前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。山縣有朋系官僚を中心...
  • 徳川事件
    徳川事件(とくがわじけん)とは、1928年に水平社と徳川家との間に起こった一連の事件をさす。徳川幕府の子孫である徳川家達公爵に対し、水平社は部落差別の原因は徳川家が作ったとして辞爵を要求。家達側はこれを拒否。後に、暗殺を企てたとして水平社のメンバー数名が逮捕され、1名が獄死。戦後に参議院議員や部落解放同盟委員長となる松本治一郎もこのとき逮捕され、これに怒った松本の知人・浜嘉蔵が徳川邸(900坪)に放火し、全焼させた。 関連項目 部落問題 水平社 徳川家達 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月20日 (日) 11 33。     
  • 犬養内閣
    {{日本の内閣記事|いぬかいないかく|29|犬養毅|Template 和暦?|12月13日|Template 和暦?|5月26日|立憲政友会|第18回衆議院議員総選挙|1932年(昭和7年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/29.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}} 概要 立憲政友会を中心とする政党内閣である。しかし、この内閣は五・一五事件により崩壊し、これ以後日本は一気に軍国主義に傾くため、これが事実上戦前最後の政党内閣となる。 1932年(昭和7年)5月の五・一五事件によって犬養毅が暗殺され、宮中席次の序列に則り、大蔵大臣高橋是清が内閣総理大臣臨時代理を務めた。 閣僚 総理大臣 犬養毅(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月16日) 高橋是清(臨時兼任、1932...
  • 岩倉具視-2
    前半は岩倉具視参照 官歴 ※日付は明治4年までは旧暦。 天保9年(1838年) 10月28日、従五位下叙位。 12月11日、元服し、昇殿を許される。 天保12年(1841年)6月4日、従五位上昇叙。 弘化2年(1845年)2月18日、正五位下昇叙。 嘉永7年1854年) 3月20日、侍従任官。 6月10日、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 万延元年(1860年)12月29日、右近衛権少将に転任。 万延2年(1861年)1月5日、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 文久2年(1862年) 5月15日、左近衛権中将に転任。 8月20日、左近衛権中将辞任し、蟄居。 8月22日、落餝。法名:友山 慶応3年(1867年) 12月9日、明治政府参与兼務。 12月27日、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年...
  • 昭和会
    昭和会(しょうわかい)は、昭和初期に存在した親軍派政党(1935年12月23日 - 1937年5月24日)。 立憲政友会は鈴木喜三郎総裁のもと、岡田内閣に対して野党路線を貫き、入閣した床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也を除名処分高橋是清も入閣したが、総裁経験者の除名による党内の混乱を恐れた鈴木は「別離」(訣別)を宣言して除名の代わりとした。とし、続いて内閣審議会委員となった水野錬太郎・望月圭介も除名した。これに除名議員及びその直系議員は反発し、床次を盟主に「第二の政友本党」結成に動くが、1935年9月8日に床次が急死したため、挫折した。そこで被除名者とこれに抗議して離党した代議士18名で結成されたのが昭和会である。除名者には実力者が多く、亡くなった床次に代わる党首を決定することは困難であったために党首は置かれなかった。 同党設置後、政友会からの離党者が続出して最大25名までに増え、岡田・...
  • 第1次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ まつかた ないかく|4|松方正義|Template 和暦?|5月6日|Template 和暦?|8月8日|藩閥内閣|第2回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html|前職 = 大蔵大臣}} 概要 山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や内務大臣...
  • 進歩党 (日本)
    進歩党(しんぽとう)は、かつて存在した日本の政党。 進歩党 (日本 1896-1898) 進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。 明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1...
  • 濱口内閣
    {{日本の内閣記事|はまぐち ないかく|27|濱口雄幸|Template 和暦?|7月2日|Template 和暦?|4月14日|立憲民政党|第17回衆議院議員総選挙|1930年(昭和5年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/27.html|立憲民政党総裁・衆議院議員}} 概要 立憲民政党を中心とする政党内閣であるが、一方で貴族院の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。 外務大臣には、協調外交で知られる幣原喜重郎を起用。 財界からの信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これらが右翼からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口雄幸が銃撃され、幣原喜重郎が臨時代理を務めた。その後、濱口が復帰するが病状の悪化により総...
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