chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「中佐」で検索した結果

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  • 宮城事件
    ...弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹せよと迫っている。 午後3時から開催された皇族会議の出席者たちは概ね降伏に賛成したが、同時刻の閣議閣議において最後までポツダム宣言に反対していたのは、阿南と松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣の3名であったとされている。および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。しかし、午後3時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相・木戸幸一内大臣・東郷外相・米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し...
  • 桜会
    ...参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐らは、政党政治が腐敗しているとして国民の大多数を占める農民の窮状に日本の将来が危惧されるとして、いわゆる満蒙問題を主張し農民の窮状解決の活路を求めた。また、従来の反ソ親米路線を廃し反米反中への転換と政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていた。彼らは1930年(昭和5年)9月に桜会を結成、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名が参加した。 同会は大川周明らと結んで、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。軍部の独走を助けた。 組織は十月事件後に解散させられたが、同会に所属していた会員の中から多くの将校が統制派として台頭。対立する皇道派が二・二六事件を契機に一掃されるに及んで、軍部の中枢を掌握した。 参考文献 田中健之 「国家改造を企図した幻のクーデター計画...
  • 大日本帝国陸軍
    ...佐  中佐 陸軍中佐陸軍憲兵中佐陸軍技術中佐陸軍主計中佐陸軍建技中佐陸軍軍医中佐陸軍薬剤中佐陸軍歯科医中佐 陸軍獣医中佐  陸軍法務中佐  少佐 陸軍少佐陸軍憲兵少佐陸軍技術少佐陸軍主計少佐陸軍建技少佐陸軍軍医少佐陸軍薬剤少佐陸軍歯科医少佐陸軍衛生少佐陸軍獣医少佐陸軍獣医務少佐陸軍軍楽少佐陸軍法務少佐陸軍法事務少佐 大尉 陸軍大尉陸軍憲兵大尉陸軍技術大尉陸軍主計大尉陸軍建技大尉陸軍軍医大尉陸軍薬剤大尉陸軍歯科医大尉陸軍衛生大尉陸軍獣医大尉陸軍獣医務大尉陸軍軍楽大尉陸軍法務大尉陸軍法事務大尉 中尉 陸軍中尉陸軍憲兵中尉陸軍技術中尉陸軍主計中尉陸軍建技中尉陸軍軍医中尉陸軍薬剤中尉陸軍歯科医中尉陸軍衛生中尉陸軍獣医中尉陸軍獣医務中尉陸軍軍楽中尉陸軍法務中尉陸軍法事務中尉 少尉 陸軍少尉陸軍憲兵少尉陸軍技術少尉陸軍主計少尉...
  • 永田鉄山
    ...派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、1898年(明治31年)9月に東京陸軍幼年学校に入校する。なお、高島尋常小学校・諏訪高等小学校では「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級であり、同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があった。 1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。 1908年(明治41年)に陸軍大学校(...
  • 支那駐屯軍
    ...参謀長 松本健児 中佐 昭和3年(1928年)8月10日 - 昭和6年(1931年)年8月1日 武内俊二郎 中佐 昭和6年(1931年)年8月1日 - 昭和7年(1932年)1月9日 菊池門也 大佐 昭和7年(1932年)1月9日 - 昭和9年(1934年)8月1日 酒井隆 大佐 昭和9年(1934年)8月1日 - 昭和10年(1935年)12月2日 永見俊徳 大佐 昭和10年(1935年)12月2日 - 昭和10年(1936年)8月1日 橋本群 少将 昭和10年(1936年)8月1日 - 昭和12年(1937年)8月26日 支那駐屯軍参謀副長 矢野音三郎 大佐 昭和12年(1937年)8月1日 - 昭和12年(1937年)8月26日 最終司令部構成 参謀 政策 和知鷹二 中佐 経済 池田純久 中佐 作戦 大木良枝 少佐 諜報 専田盛寿 少佐 後...
  • 関東軍
    ...大将や参謀の瀬島龍三中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。 関東軍が関係した戦闘・事件等 張作霖爆殺事件(1928年(昭和3年)):要人暗殺事件 満州事変(1931年(昭和6年)):満鉄付属地外出兵 張鼓峰事件(1938年(昭和13年)):ソ満国境紛争 ノモンハン事件(1939年(昭和14年)):満蒙国境紛争 太平洋戦争末期のソ連軍侵攻(1945年(昭和20年)):日ソ中立条約違反のソ連軍侵攻に対する防衛戦闘 東安駅事件:撤退に当たって弾薬を爆破処分。安全確認を疎かにしたため満州から引き揚げる民間人多数が巻き込まれ死傷。 基本情報 通称号:徳兵団 編制時期:大正8年4月 最終位置:満州...
  • 盧溝橋事件
    ...ーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳二名・一個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の砲撃を命令。しかし、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃はいったん中止された。 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向...
  • 相沢事件
    ...共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。 概要 日本陸軍においては皇道派と統制派が対立し、1931年の三月事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起こる。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。 義憤を感じたとされる相沢は、台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は二・二六事件により一時中断され、翌1936年の7月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、相沢は死刑となる。 なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が在室していた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬り...
  • 真崎甚三郎
    ...皇道派の相沢三郎陸軍中佐が8月相沢事件を引き起こし永田鉄山を殺害した。 更にこの後陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。真崎自身は直接的には加担しなかったと言われるが真偽は明らかでない。反乱首謀者の安藤輝三、磯部浅一らに実行支持と受け取れる態度を事件前から示し、組閣命令を期待して行動する。これが元で、1936年7月に拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた後、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、1937年9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。 終戦後の1945年11月19日に、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所する。第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に第一ホテルで行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内...
  • 大日本生産党
    ...文献 日本陸軍砲兵中佐久保田鉄蔵・永松浅造『昭和大暗殺秘史』芳山房、1932年10月。 出典 関連項目 天皇制ファシズム 皇国青年党 浪人会 右翼 右翼団体   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月17日 (土) 08 56。    
  • 大韓帝国軍
    ...軍○○副領 陸軍○○中佐 陸軍○○参領 陸軍○○少佐 陸軍○○正尉 陸軍○○大尉 陸軍○○副尉 陸軍○○中尉 陸軍○○参尉 陸軍○○少尉 下士 陸軍○○特務正校 陸軍○○特務曹長 陸軍○○正校 陸軍○○曹長 陸軍○○副校 陸軍○○軍曹 陸軍○○参校 陸軍○○伍長 兵卒 陸軍○○上等兵 陸軍○○上等兵 陸軍○○一等卒 陸軍○○一等卒 陸軍○○二等卒 陸軍○○二等卒 関連項目 大韓帝国 朝鮮軍人 近衛兵 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月13日 (日) 14 25。    
  • 三月事件
    ...を結成した橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。 計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、陸軍を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の3月17日に撤回された。 この計画は決して綿密とはいえないものであった。1万人の大衆動員計画は実現性を欠い...
  • 枢軸国
    ...ていたフアン・ペロン中佐の下枢軸国に好意的な立場・政策をとっていた。詳細はアルゼンチンとフアン・ペロンの項を参照。 関連項目 ファシズム 連合国 日独伊三国軍事同盟 敵国条項 中央同盟国(第一次世界大戦) 悪の枢軸発言 インド国民軍 ロシア解放軍 自由ウクライナ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月18日 (水) 00 52。     
  • 渡辺錠太郎
    ... 1913年1月 中佐任官 1915年2月 歩兵3連隊付 1916年5月 参謀本部課長 1916年7月 大佐任官 1917年10月 オランダ公使館付武官 1920年8月 歩兵第29旅団長及び少将任官 1922年9月 参謀本部第4部長 1925年5月 陸軍大学校校長及び中将任官 1926年3月 第7師団長 1929年3月 航空本部長 1930年6月 台湾軍司令官 1931年8月 軍事参議官兼航空本部長・大将任官 1935年7月 陸軍教育総監に就任 1936年2月26日 二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。 関連項目 常磐公園 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月9日 (月) 14 38。     
  • 阿南惟幾
    ...ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、阿南が求めていたのはただ国体護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派の何れにも解釈できる態度を取っていた、との見解を示している。 また、遺書に「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」書き残したうえで、辞世の句として「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」と詠んだ。 阿南が自刃したとの報が流れた際、鈴木は「そうか、腹を切ったか。阿南というのはいい男だな」と語り、終戦工作を巡って阿南と対立し続けていた東郷茂徳は「真に国を思ふ誠忠の人」と評した。 年譜 1900年(明治33年)9月 - 広島陸軍幼年学校卒業。 1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。 1906年(明治39年)6月 - 少尉に昇進。歩兵第1連隊附...
  • 汪兆銘
    ...議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」影佐禎昭『曾走路我記』と回想している。 あまりの過酷な条件に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が運動から脱落して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。 1940年3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。。汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(1940年11月「主...
  • 統制派
    ...皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。 関連項目 皇道派 満州派 (大日本帝国陸軍) 日中戦争 太平洋戦争 外部リンク 国防の本義と其強化の提唱 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月25日 (木)...
  • 乙未事変
    ...文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確 ref name= tsunoda-2 参考文献角田によれば「三浦梧楼が駐韓公使として赴任するとき、すでに閔妃暗殺計画を抱いていたことは、彼の手記からも明らかである。この決意は日本政府が対韓方針を明示しないのなら、自分で自由にやるほかはない という彼の信念から生まれ、固まったものなのか、またはその底に国家の意思、政府の秘密指令があったのか。あったとする説は多い。その主なものを挙げると先ず井上馨の線である。井上が一時帰国してからソウルに戻った後の王夫妻に対する態度急変を理由として、日本政府と彼との間に閔妃暗殺の密謀が成立していたとし、井上はその地ならしをしたところで、後任に三浦梧楼を推薦し、公使となった三浦がそれを実行した---という説」等を紹介している。他方、朝鮮政府の軍務大臣または大院君...
  • 興亜院
    ...日 真方勲 陸軍中佐:昭和15年12月23日 - 昭和17年11月1日 華北連絡部長官 喜多誠一 陸軍中将:昭和14年3月10日 - 昭和15年3月1日 森岡皐 陸軍少将:昭和15年3月9日 - 昭和16年3月1日 (心)塩沢清宣 陸軍少将:昭和16年3月1日 - 昭和17年11月1日 華北連絡部次長 根本博 陸軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和14年8月1日 森岡皐 陸軍少将:昭和14年8月1日 - 昭和15年3月9日 塩沢清宣 陸軍少将:昭和15年4月11日 - 昭和17年11月1日 青島出張所長 柴田弥一郎 海軍大佐:昭和14年3月10日 - 昭和15年8月8日 多田武雄 海軍大佐:昭和15年8月8日 - 昭和16年8月20日 緒方真記 海軍大佐:昭和16年8月20日 - 昭和17年11月1日 蒙彊連絡部...
  • 白鳥敏夫
    ...た森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、事変に対する国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。 事変後も、連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の英雄として扱われるようになったことには、露骨に不快感を表していたという。 以来、皇道精神やアジアモンロー主義を提唱して、国内外で「型破り」といった評価を受けるようになった。 そのことから、1933年(昭和8年)より3年間スカンジナビア四国公使として、ストックホルムに追われる形となったが、その際にも大島浩駐ドイツ陸軍武官と提携して、1936年(昭和11年)の日独防共協定の成立に腐心した。 日本に帰国してからの約2年間は閑職に置かれる状態だったが、日独伊連携強化を主張する若手外務官僚の間では「白鳥を外相にせよ」と...
  • 近衛師団
    ...第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの反乱を知り、反乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる(宮城事件)。のちにこの事件は半藤一利(初発表時は諸事情により名義上大宅壮一の名で出版)により『日本のいちばん長い日』として小説化され、映画化も行われた。 ポツダム宣言受諾後、近衛連隊でも軍旗奉焼、復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した。 また、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。 300px|right|thumb|旧近衛師団司令部(現[[東京国立近代美術館工芸館)]] 師団長 近衛師団長 代数補職日師団長名備考 1明治24年12月14日小松宮...
  • 南次郎
    ...治43年)2月 - 中佐に昇進。 1912年(大正元年)12月 - ヨーロッパ出張。 1914年(大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長。 1915年(大正4年)8月10日 - 大佐に昇進。 1917年(大正6年)8月6日 - 陸軍省軍務局騎兵課長。 1919年(大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官。 1921年(大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に昇進。 1926年(大正15年)3月2日 - 第16師団長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 参謀次長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 朝鮮軍司令官。 1930年(昭和5年)3月7日 - 大将に昇進。 12月22日 - 軍事参議官。 1931年(昭和6年)4月14...
  • 田中隆吉
    ...9年)3月 - 陸軍中佐任官。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)に着任。 1935年(昭和10年)3月 - 関東軍参謀部第2課(情報課)兵要地誌班長(蒙古工作担当)の参謀として満州に赴任。 1936年(昭和11年)8月 - 徳化特務機関長を兼務(~1937年1月)。対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して綏遠事件を起こす。 1937年(昭和12年)8月 - 陸軍大佐任官。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長に着任。 1938年(昭和13年)8月 - 張鼓峰事件の戦闘に参加。 1939年(昭和14年)1月 - 陸軍省兵務局兵務課長に着任。 1940年(昭和15年) 3月 - 少将に昇進、第1軍(中国)参謀長として閻錫山工作に従事。 12月 - 陸軍省兵務局長。 1941年(昭和16年) 6月 - 陸軍中野学校長を兼ねる。 ...
  • 沖縄戦
    ...(後方担当)木村正治中佐 参謀(航空担当)神直道少佐 参謀(情報担当)薬丸兼致少佐 参謀(通信担当)三宅忠雄少佐 参謀(作戦担当)長野英夫少佐 第24師団(師団長:雨宮巽中将) - 歩兵第22・第32・第89連隊基幹 野戦重砲兵第42連隊 - 配属 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・独立混成第15連隊旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。基幹 第5砲兵団司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野戦重砲兵第42連隊を除く全砲兵隊を指揮下に置いた。 野戦重砲兵第1連隊 九六式十五糎榴弾砲×12門 野戦重砲第23連隊 九六式十五糎榴弾砲×24門 重砲兵第7連隊 重砲兵...
  • 軍歌
    ...歌われた。 広瀬中佐 (軍歌) 作詞 大和田建樹 作曲 納所弁次郎 旅順港閉塞作戦で戦死し、軍神として称揚された広瀬武夫海軍中佐を讃える曲。大正年間成立の同名の有名な唱歌とは別の曲であり、海軍内ではこちらが歌われたが、一般に幅広く歌われ親しまれたのは唱歌のほうであった。 橘中佐 作詞 鍵谷徳三郎 作曲 安田俊高 陸の軍神である橘周太陸軍中佐の壮烈な戦いぶりを描き、讃える曲。上が19番に下が13番と非常に長い歌詞であり、上と下にそれぞれ別の曲がついている。のちに静岡歩兵第34連隊の隊歌となった。 日本海海戦 作詞 大和田建樹 作曲 瀬戸口藤吉 海軍省の依頼で作られた制式海軍軍歌の一つ。日本海海戦を経過順に歌いこんであり、鉄道唱歌の流れをくむ軽快なものに仕上がっている。主に海軍内で歌われ、一般には同名の唱歌の方が親しまれた。一番の歌詞に「寄こせし敵こそ健気なれ」と...
  • 国家総動員法
    ...務課新聞班長佐藤賢了中佐は委員会審議中、政府側説明員として長時間にわたり法案の趣旨説明を行った。そのあまりの長広舌に対して議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ際、佐藤は「黙れ!」と恫喝した。議場は騒然とし、事態収拾のため杉山元陸軍大臣が陳謝したものの佐藤本人に懲罰はなかった。 ただし、質問者であった宮脇長吉議員は元陸軍軍人で佐藤の陸軍士官学校時代の教官であったことから、佐藤と宮脇の個人的な確執が発言につながったとする説もある。また、当時陸軍大臣が直ちに謝罪する例は珍しく、法案審議に際しての軍部の低姿勢ぶりが際立っているとする見方もある。 西尾除名事件 社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。3月16日、同党議員の西尾末広は法案賛成の演説を本会議で行ったが、近衛首相を激励する一節「ヒットラー...
  • 朝鮮軍人
    ...軍○○副領 陸軍○○中佐 陸軍○○参領 陸軍○○少佐 陸軍○○正尉 陸軍○○大尉 陸軍○○副尉 陸軍○○中尉 陸軍○○参尉 陸軍○○少尉 下士 陸軍○○特務正校 陸軍○○特務曹長 陸軍○○正校 陸軍○○曹長 陸軍○○副校 陸軍○○軍曹 陸軍○○参校 陸軍○○伍長 兵卒 陸軍○○上等兵 陸軍○○上等兵 陸軍○○一等卒 陸軍○○一等卒 陸軍○○二等卒 陸軍○○二等卒 ○○には、将校は歩兵・騎兵・砲兵・工兵が、下士卒では歩兵・騎兵が入る。将校相当官等についても別途定めがある。朝鮮軍人ニ関スル件制定時の相当表。 大正9年勅令第118号により一般の陸軍将校に転じた朝鮮軍人 特に将官となった者について記す。 李秉武(陸士7期卒留学生)元大韓帝国親衛庁長官・侍従武官長を歴任し、勅令第118号により副将から中将に転じる。 趙東潤元大韓帝国侍...
  • 武藤章
    ...長。 8月 - 中佐に昇進。 Template 和暦?11月 - ヨーロッパ出張(~1934年1月)。 Template 和暦?3月 - 歩兵第1連隊附。 Template 和暦?3月 - 軍務局附。 8月1日 - 軍事課高級課員。 Template 和暦?6月19日 - 関東軍第2課長。 8月1日 - 大佐に昇進。 Template 和暦?3月1日 - 参謀本部作戦課長。 11月1日 - 中支那方面軍参謀副長。 Template 和暦?7月31日 - 北支那方面軍参謀副長。 Template 和暦?3月9日 - 少将に昇進。 9月30日 - 陸軍省軍務局長兼調査部長。 Template 和暦?10月15日 - 中将に昇進。 Template 和暦?4月20日 - 近衛師団長。 Template 和暦?6月1日 -...
  • 参謀本部 (日本)
    ... 課長(大佐又は中佐。以下課長は全て同じ) 副官 庶務班(班長は中佐又は少佐。以下班長は全て同じ) 電報班 主計官 軍医官 教育課(第1課) 課長:昭和18年3月から教育総監部第1課長の兼務 第1部 部長:大本営 兵站総監部参謀長を兼ねる 作戦課(第2課) 課長 作戦班 戦力班(昭和16年以前は兵站班) 航空班(大正9年8月新設) 戦争指導班(第1班。昭和12年12月新設) 防衛班(昭和18年10月新設) 編制動員課(第3課) 課長:昭和20年4月から陸軍省軍務局軍事課長の兼務 編制班 動員班 資材班 第2部 部長 ロシア課(第5課) 課長 軍備班 兵要地誌班 文書諜報班(第10班) 欧米課(第6課) 課長 米班 英班 仏班 独班 ...
  • 梅津美治郎
    ...和暦?2月8日 - 中佐に昇進。 Template 和暦?12月15日 - 大佐に昇進。歩兵第3連隊長。 Template 和暦?12月1日 - 参謀本部編制動員課長。 Template 和暦?8月10日 - 陸軍省軍務局軍事課長。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。 Template 和暦?8月1日 - 参謀本部総務部長。 Template 和暦?11月1日 - 駐スイス公使館付武官。 Template 和暦?3月5日 - 支那駐屯軍司令官。 8月1日 - 陸軍中将に昇進。 Template 和暦?8月1日 - 第2師団長。 Template 和暦?3月23日 - 陸軍次官。 Template 和暦?5月30日 - 第1軍司令官。 Template 和暦?9月7日 - 関東軍司令官兼特命全権大使。 Template 和...
  • 十月事件
    ...を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。 計画は先の三月事件の失敗から陸軍の中枢部には秘匿されたまま橋本ら佐官級を中心に進められた。当初、外部の民間右翼からは大川周明、岩田愛之助が加わっていたが、その後北一輝・西田税が参加したしかし橋本は西田を嫌い、細かい計画は打ち明けていなかった。。その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。 『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎自身もこの計画を知っており、参内・奏上に同意していたとあるが、荒木貞夫の談話で...
  • マレー作戦
    ...作戦主任参謀:辻政信中佐 第5師団 - 師団長:松井太久郎中将、4個歩兵連隊(歩兵第11、第21、第41、第42連隊)、捜索第5連隊、工兵第5連隊、砲兵第5連隊基幹 近衛師団 - 師団長:西村琢磨中将、3個歩兵連隊(近衛歩兵第3、第4連隊、第5連隊)、近衛捜索連隊基幹 第18師団 - 師団長:牟田口廉也中将、3個歩兵連隊(歩兵第124連隊(川口支隊)欠)、歩兵第56連隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55連隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114連隊と師団主力は1/23シンゴラ着 第3戦車団 - 戦車第1、第2、第6、第14連隊 独立工兵第4、第15、第23連隊 独立山砲兵第3連隊、野戦重砲兵第3、第18連隊 第3飛行集団 - 集団長:菅原道大中将、作戦機459機、予備153機、作戦後半には一部を残し蘭印方面へ転用 南遣艦隊 - 鳥海以下重巡5隻...
  • 加藤友三郎
    ...伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させた。 「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」 加藤内閣が実施した海軍軍縮は、現にある主力艦を沈めたりスクラップ化するほか、海軍軍人の整理・削減、造兵廠職工の大量解雇など本格的なものであったが、反面、条約に規定のない補助艦艇では、拡大強化される面もあった。陸軍でも、...
  • 土肥原賢二
    ...正12年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)3月 - 歩兵第2連隊附。 1927年(昭和2年)3月 - 歩兵第3連隊附。 4月 - 中国出張。 7月26日 - 大佐に昇進。第1師団司令部附。 1928年(昭和3年)3月20日 - 奉天督軍顧問。 1929年(昭和4年)3月16日 - 歩兵第30連隊長。 1931年(昭和6年)3月 - 中国出張。 7月26日 - 関東軍司令部附(奉天特務機関長)。 1932年(昭和7年)1月26日 - 関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。 4月11日 - 少将に昇進。歩兵第9旅団長。 1933年(昭和8年)10月16日 - 関東軍司令部附(奉天特務機関長)。 1936年(昭和11年)3月7日 - 中将に昇進。第12師団司令部附。 3月23日 - 第1師団留守司令官。 1937年(昭和12年)3月1日 ...
  • 満州事変
    ...東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀しておこなわれた石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の教義解釈から特異な世界最終戦論を構想、日米決戦を前提として満蒙の領有を計画した。 /REF 。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。 1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊された満洲事変は、第二次世界大戦前のナチ独裁のきっかけとなった1933年2月27日のドイツ帝国議会議事堂(ライヒスターク (Reichst...
  • 帝国国防方針
    ...の原案を元に当時陸軍中佐であった田中義一が草案を作成したものであった。海軍側もこれに対抗して同様の計画を作成して陸海軍揃って提出するに至ったのである。 仮想敵国をロシア・アメリカ・ドイツ・フランスとし、陸軍は平時25個師団・戦時50師団体制を、海軍は八八艦隊の創設を謳っていた。当時の西園寺公望内閣総理大臣は、国防方針への意見と所要兵力の閲覧のみが許され、用兵綱領に関しては統帥権を盾に関与が阻まれた。だが、国防方針の最終決定から首相を排除したことは、逆に政府から国防方針の実行を迫る保証が取れなくなってしまう事を意味し、実際に2個師団増設を財政問題を理由に拒絶されるなどの問題点も浮上した。 また、軍事力強化を優先する余り、仮想敵国の状況が現実の日本を取り囲む状況を反映しないというという点も問題とされた(大正7年の改訂では、当初第一次世界大戦において、ドイツの勝利と独露軍事同盟を想定し...
  • 南機関
    ...島斉志大佐、日高震作中佐、永山俊三少佐 民間 - 国分正三、樋口猛、杉井満、水谷伊那雄 「30人の同志」 鈴木大佐は南機関の本部をバンコクに置き活動を開始した。南機関の任務は、世界最強のイギリス情報機関を相手として、日本の関与をいささかも漏らすことなく謀略を成功させるという極めて困難なものであった。南機関は次のような行動計画を立てた。 ビルマ独立運動家の青年30名を密かに国外へ脱出させ、海南島または台湾において軍事訓練を施す。 訓練終了後、彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させ、武装蜂起の準備をさせる。武装蜂起の時期は1941年6月頃とする。 1941年2月14日、杉井とオンサンの両名に対し、ビルマ青年の手引きを命ずる作戦命令第一号が発出された。両名は船員に変装して、ビルマ米輸送の日本貨物船でラングーンへ向かい、第一陣のビルマ青年4名の脱出を成功させた。...
  • 松井石根
    ...大正4年)8月 - 中佐に昇進。歩兵第22連隊附。 12月 - 参謀本部附(上海駐在)(~1919年2月)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。 1919年(大正8年)2月20日 - 歩兵第29連隊長。 1921年(大正10年)5月26日 - ウラジオストク派遣軍参謀。 1922年(大正11年)11月6日 - 関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。 1924年(大正13年)2月4日 - 歩兵第35旅団長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第2部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)12月21日 - 参謀本部附(欧米出張)。 1929年(昭和4年)8月1日 - 第11師団長。 1931年(昭和6年)12月9日 - ジュネーブ一般軍縮会議...
  • 交換船
    ...行われた松尾敬宇海軍中佐・中馬兼四海軍中佐・大森猛海軍特務少尉・都竹正雄海軍兵曹長の遺骨も、日豪間の交換船(シティ・オブ・カンタベリーと鎌倉丸)によって日本に返還された。 思想教育 日米及び日英交換船によって日本に帰国した民間人に対しては、昭南出航後に乗り込んだ軍人や軍属により日本文化や戦況についての教育が施された他、帰国後に思想調査が行われ、その結果によって、「英米の思想に染まっていた」と思われる者に対して思想教育が行われた『日米交換船』鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創(新潮社、2006年3月)。特に英米で現地校に行っていた日本人児童はこれらの国で育っており、母国への帰国への意欲が弱かったため『米国人記者が見た戦前のシナと日本』ジョン・B・パウエル著 中山理訳 渡部昇一監修(祥伝社 2008年)、結果的にこの様な思想教育を受けたものが多かった。 他国の交換船 なお、日本と...
  • 板垣征四郎
    ...正12年)8月 - 中佐に昇進。 1924年(大正13年)6月 - 支那公使館附武官補佐官(北平駐在)。 1927年(昭和2年)5月28日 - 歩兵第33旅団参謀。 7月 - 第10師団司令部附。 9月 - 支那出張。 1928年(昭和3年)3月8日 - 大佐に昇進。歩兵第33連隊長。 1929年(昭和4年)5月14日 - 関東軍高級参謀。 1931年(昭和6年)10月5日 - 関東軍第2課長。 1932年(昭和7年)8月8日 - 少将に昇進。関東軍司令部附(満州国執政顧問)。 1933年(昭和8年)2月8日 - ヨーロッパ出張。 1934年(昭和9年)8月1日 - 関東軍司令部附(満州国軍政部最高顧問)。 12月10日 - 関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。 1936年(昭和11年)3月23日 - 関東軍参謀長。 4月28日 - 中将に昇進。 19...
  • 日本海海戦-2
    ...、先任参謀:秋山真之中佐、参謀:飯田久恒少佐、清河純一大尉) 第1艦隊(旗艦:三笠、東郷司令長官直率) 第1戦隊(旗艦:日進、司令官:三須宗太郎少将) 戦艦:三笠、敷島、富士、朝日 装甲巡洋艦:春日、日進 通報艦:龍田 第3戦隊(旗艦:笠置、司令官:出羽重遠中将) 巡洋艦:笠置、千歳、音羽、新高 第2艦隊(旗艦:出雲、司令長官:上村彦之丞中将、参謀長:藤井較一大佐、先任参謀:佐藤鉄太郎中佐、参謀:下村延太郎少佐、山本英輔大尉) 第2戦隊(旗艦:磐手、司令官:島村速雄少将) 装甲巡洋艦:出雲、吾妻、 常磐、八雲、浅間、磐手 通報艦:千早 第4戦隊(旗艦:浪速、司令官:瓜生外吉中将) 巡洋艦:浪速、高千穂、明石、対馬 第3艦隊(旗艦:厳島、司令長官:片岡七郎中将、参謀長:斎藤孝至大佐、参謀:山中柴吉中佐、百武三郎少佐) ...
  • 阿部信行
    ...副官。 2月 - 中佐に昇進。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。野砲兵第3連隊長。 8月 - シベリア出征。 1920年(大正9年)8月10日 - 参謀本部編制動員課長。 1921年(大正10年)6月3日 - 陸軍大学校幹事。 1922年(大正11年)8月15日 - 少将に昇進。 1923年(大正12年)8月6日 - 参謀本部総務部長。 9月3日 - 兼関東戒厳参謀長(~11月)。 1926年(大正15年)7月28日 - 陸軍省軍務局長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍次官。 1930年(昭和5年)12月22日 - 第4師団長。 1932年(昭和7年)1月9日 - 台湾軍司令官。 1933年(昭和8年)6月19日 - 大将に昇進。 8月1日 - 軍事参議官。 193...
  • 木村兵太郎
    ...年) 3月 - 中佐に昇進。 7月 - 砲兵監部員。 昭和4年(1929年) 6月 - 陸軍野戦砲兵学校教官。 9月 - 軍令部員(参謀本部員との兼任)。 11月 - ロンドン海軍軍縮会議随員。 昭和6年(1931年)8月1日 - 大佐に昇進。野砲兵第22連隊長。 昭和7年(1932年)8月8日 - 技術本部員(陸軍野戦砲兵学校教官との兼任)。 昭和10年(1935年)3月15日 - 陸軍省整備局統制課長。 昭和11年(1936年)8月1日 - 少将に昇進。陸軍省兵器局長。 昭和14年(1939年)3月9日 - 中将に昇進。第32師団長。 昭和15年(1940年)10月22日 - 関東軍参謀長。 昭和16年(1941年)4月10日 - 陸軍省陸軍次官。 昭和18年(1943年)3月11日 - 軍事参議官兼兵器行政本部長。 昭和...
  • 小磯國昭
    ...大正7年)7月 - 中佐に昇進。 8月 - 第12師団参謀。 1919年(大正8年)4月15日 - 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)7月20日 - 航空本部員。 1922年(大正11年)2月8日 - 大佐に昇進。 6月 - ヨーロッパ出張(~1923年3月)。 1923年(大正12年)3月17日 - 陸軍大学校教官。 8月6日 - 歩兵第51連隊長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部編制動員課長。 1926年(大正15年)12月1日 - 少将に昇進。 1927年(昭和2年)7月26日 - 航空本部総務部長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 陸軍省整備局長。 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍省軍務局長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 中将に昇進。 1932年(昭和7年)2月29日 - 陸軍次官。 8月8日 ...
  • 生麦事件
    ...理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して、騎馬護衛隊の出動を禁じていた。それを無視して、ヴァイス領事が出動したことで、二人の間には確執が生じる。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持して、武器をとっての報復を叫んでいた。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールが、それを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静で、現実的な戦力不足と、全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 一方、島津久光は、その夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士二人が探索に出ている。 天領であ...
  • ドーリットル空襲
    ...ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した。 日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出た。また、索敵から帰還した海軍攻撃機を敵機と誤認した陸軍戦闘機の機銃攻撃を受け、海軍軍人1名が死亡。意図的か誤認か定かではないが、国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、掃除を終え、帰ろうとした小学生1名が機銃掃射を受け、死亡した。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。しかしこのうち一機(ホーネットを4番目に発艦した機長エベレット・w・ホームストロム少尉のB-25)は正規の防空戦闘機隊ではないキ61試作機(三式戦闘機飛燕)の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥...
  • 五・一五事件
    ...会議判士長・陸軍砲兵中佐 神垣秀六 - 東京地方裁判所裁判長・判事 清瀬一郎 - 弁護人 林逸郎 - 弁護人 関連項目 五私鉄疑獄事件 大日本帝国海軍 満州事変 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月10日 (水) 16 15。     
  • 野村吉三郎
    ...2月1日 - 任海軍中佐。 大正3年(1914年)2月11日 - 在アメリカ合衆国大使館付武官。 大正6年(1917年)4月1日 - 任海軍大佐。 大正7年(1918年)10月18日 - 巡洋艦「八雲」艦長。 大正8年(1919年) 2月5日 - 講和全権委員随員。 11月12日 - 免講和全権委員随員。 大正10年(1921年)8月17日 - ワシントン会議随員。 大正11年(1922年)6月1日 - 任海軍少将。 大正12年(1923年)9月15日 - 第一遣外艦隊司令官 大正14年(1925年)9月18日 - 海軍省教育局長。 大正15年(1926年) 7月26日 - 軍令部次長。 12月1日 - 任海軍中将。 昭和4年(1929年)2月1日 - 練習艦隊司令官。 昭和5年(1930年)6月11日 - 呉鎮守府司...
  • 石原莞爾
    ...る。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊は、四女の貞は24歳でなくなっている。 父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守...
  • 閑院宮載仁親王
    ...年)11月 陸軍騎兵中佐・騎兵第1連隊長 明治32年(1899年)10月28日 参謀本部出仕(欧州出張) 明治32年(1899年)11月3日 陸軍騎兵大佐 明治33年(1900年)1月25日 参謀本部部員 明治33年(1900年)2月29日 欧州出張 明治33年(1900年)9月3日 帰朝 明治34年(1901年)11月3日 陸軍少将・騎兵第2旅団長 明治37年(1904年)9月21日 満州軍総司令部附 明治37年(1904年)11月3日 陸軍中将 明治38年(1905年)5月 大本営附 明治38年(1905年)12月20日 参謀本部附 明治39年(1906年)2月3日 第1師団長 明治44年(1911年)9月6日 近衛師団長 大正元年(1912年)11月27日 陸軍大将・軍事参議官 大正3年(1914年) 昭憲皇太后御大葬総裁...
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