chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「中央山脈」で検索した結果

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  • 中央交渉会
    中央交渉会(ちゅうおうこうしょうかい)とは、明治時代に存在した院内会派(1892年4月23日-1893年3月1日)。一般には中央交渉部(ちゅうおうこうしょうぶ)という名称で知られているが、これは本部が置かれた建物名に由来する通称であり、当時の議会の資料には「中央交渉会」と記述されている。 大成会を中心とした政府(第1次松方内閣)支持の政党・会派に属する95名が結成した。古荘嘉門・太田実・津田真道・井上角五郎・末松謙澄・佐々友房・曾禰荒助らが所属する。ところが、中央交渉会の政党化を図る古荘・佐々・曾根らとこれに反対する井上・末松らが対立、結成2ヶ月後の6月22日に古荘らが西郷従道・品川弥二郎を盟主として国民協会が結成すると、同協会への合流を巡って分裂状態に陥り離脱者が続出する。その一方で国民協会は独自の院内会派を結成しなかったために、国民協会所属のまま会派だけは中央交渉会に籍をおく議員が存...
  • 中央倶楽部
    中央倶楽部(ちゅうおうくらぶ)は、明治・大正時代に存在した日本の政党(1910年3月1日-1913年2月5日)。 日露戦争後の立憲政友会の勢力拡大に危機感を抱いた反政友会党派の間で統一新党を目指す動きが生じたが、政党政治を目指す憲政本党・又新会と藩閥に近い大同倶楽部・戊申倶楽部との間で路線対立が明らかとなり、前者は立憲国民党を結成、これに対して後者が結成したのが中央倶楽部である。 桂内閣の衆議院における別働隊であり、桂太郎側近の大浦兼武・安達謙蔵が中心として活動し、日韓併合や陸軍の2個師団増設を支持した。大正政変に伴って浮上した桂を中心とする「桂新党」構想において中心的な役割を果たし、桂の没後に発足した立憲同志会に合流して解散した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月20日 (日) 13 24。 ...
  • 日本統治時代 (台湾)
    ...府は北廻線、南廻線、中央山脈横断線などの調査も行ったが、これらの新規路線は太平洋戦争の激化により計画にとどまっている。また民間企業による鉄道建設も進み、糖業鉄道、塩業鉄道、鉱業鉄道などが軽便鉄道として台湾全域を網羅し台湾における交通の要となっていた。 国民政府により台湾の資源を収奪した植民地時代として否定的な評価が行われるが、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となっている。現在台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下したが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されている。 道路 鉄道の整備に比べ、日本統治時代の道路建設は積極的なものでなかった。濁水渓や下淡水渓(現・高屏渓)など比較的川幅の広い河川への橋脚整備が未整備であった。しかし日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競...
  • 本土決戦
    本土決戦(ほんどけっせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)において想定された戦闘の一つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。 原爆投下とソ連軍の参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。 背景 日本政府・大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。 また、米潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦・レイテ沖海戦以後は制海・制空権を...
  • 援蒋ルート
    援蒋ルート(えんしょうるーと)は、日中戦争において大日本帝国の侵略に対し対決姿勢を強めていた中国(国民政府)を主にアメリカ、イギリス、ソ連が軍事援助するための輸送路である。名前の由来は蒋介石を援助するためのルート。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。 日本では単に援蒋ルートと言った場合後述のビルマルートを想定していることが多い。 経路 援蒋ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。 香港からのルートは、...
  • 南機関
    Template 日本陸軍? 南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。 機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。 背景 thumb|right|220px|ビルマ([[ミャンマー)全図]] イギリスのビルマ統治 ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。イギリスは治安維持の観点からビルマ軍を編成したが、ビルマ族の青年は征服者に協力することを潔しとしなかった。ビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1,600万人、民族別ではモンゴル系...
  • 台湾銀行
    台湾銀行(たいわんぎんこう) 第二次世界大戦までにあった特殊銀行(#日本統治時代で記述)。 現在、台湾にある金融機関。台湾銀行(#第二次世界大戦後で記述)。 日本統治時代 台湾銀行(たいわんぎんこう)は1895年の台湾統治後、日本政府の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリア...
  • 民本主義
    民本主義(みんぽんしゅぎ)は、法学的問題である「主権の所在」を問わず、人民多数のための政治を強調する主義のこと。democracyの訳語であり、最初に使ったのは茅原華山といわれる。 吉野作造が1914年(大正3年)「民衆的示威運動を論ず」や1916年(大正5年)「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(「中央公論」掲載)などの論文でとなえたことで、大正デモクラシーを活発化する一因となった。「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」によれば、democracyの訳語には (1)国家の主権は法理上人民にあり(民主主義)、 (2)国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし(民本主義) というふたつが考えられる。民本主義では、主権の所在は問わない。主権者は、すべからく一般人民の利福・意向を重んずべきことが主張される。一見矛盾するようだが、完全に両立可能なものであるとし...
  • 北洋軍閥
    北洋軍閥(ほくようぐんばつ)とは、中国の辛亥革命後における袁世凱が指揮をとっていた軍による政権である。 元々は、清朝末期の淮軍として結成されていた地方軍が主体となっている。 1901年、袁世凱は清の北洋大臣に就任し、西洋式の新しい北洋軍を設立した。その後、北洋軍が拡大し、北洋だけではなく中央や各地方にも鎮守することになった。辛亥革命後、袁世凱は革命軍に協力して、清王朝を滅亡させた。そのため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。 1916年に袁世凱が死ぬと北洋軍閥は、いくつかの分派に分裂する。 直系(直隷派) 皖系(安徽派) そのほか細かい分派には、以下などがある。 東北の奉系 (奉天派) 雲南のTemplate lang?(雲南派) 廣西の桂系 最初に中央政府の実権を握ったのは、日本の後押しを受けた段祺瑞の皖系だったが、1920年の安直戦争で直系と奉系...
  • 又新会
    又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。 猶興会 猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。菊池武徳・山口熊野を幹事(代表)とし、河野広中・大竹貫一・島田三郎・小川平吉・尾崎行雄・奥田義人・花井卓蔵らが参加した。 日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • 日本共産党査問リンチ事件
    Template NPOV? Template 出典の明記? 日本共産党査問「リンチ」事件(にほんきょうさんとうさもんりんちじけん)日本共産党リンチ殺人事件、日共リンチ殺人事件、スパイ査問事件、スパイリンチ事件、リンチ共産党事件などと呼ばれることがある。昭和51年10月5日の参議院予算委員会では呼び名について公明党の小平芳平から質問があり、稻葉修法務大臣の回答により「共産党リンチ事件」として扱われた。質問者であった小平芳平も質問中は「共産党リンチ事件」の名称を使用している。当時総理であった三木武夫は、自民党内の総務会では「共産党リンチ殺人事件」と呼ばれていたとしている。一方、当時の共産党は「スパイ調査問題」の名称を用いた。 ref name=inaba510130 昭和51年01月30日、衆議院予算委員会、稻葉修法務大臣答弁。は、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生...
  • 軍閥
    軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったも...
  • 満州
    Template 中華圏の事物? 満州(満洲、まんしゅう、アルファベットによる満州語表記:Manju)は、中国東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。曾ては、高句麗や渤海国、遼(契丹)、そして金国があった地域であり、後金・清朝を建国した満州民族の故地である。 満洲の範囲 日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。 この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。 広義の満洲としては、モン...
  • 朝鮮銀行
    Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立され...
  • 独ソ戦
    Template Battlebox? 独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエト...
  • 五四運動
    五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。 背景 遠景―世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命― 近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の...
  • 綏遠事件
    Template Battlebox? 綏遠事件(すいえんじけん)は、1936年末の、綏遠省東部での内蒙軍と、中国軍との戦闘である。中国側では綏東事件とも。 内蒙における自治の要求はつとに強いものであったが、1933年7月、百霊廟の自治会議から雲王、徳王を中心とする自治運動がめざましくなった。10月の百霊廟の五次会議、11月の中央の黄紹雄、趙丕廉の派遣を経て、翌年2月行政院直属の蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設けて、何応欽を指導長官とし、雲王、徳王などを委員とした。 西北問題、内蒙古問題が発展すると、国民政府はこれに安んじることなどなく、1936年1月、綏遠省境内蒙古各盟旗政務委員会(綏境蒙政会)を設け、閻錫山を指導長官とし、傅作義(zh)の監督の下に沙王以下の委員を任命し、中央的色彩を濃くした。これをもって勢力は二分された。 1935年12月、省主席代理との折衝で宝昌、沽源、...
  • 特高課長講演問題
    特高課長講演問題(とっこうかちょうこうえんもんだい)とは、大政翼賛会の結成を巡って千葉県で1940年に起きた政争。中央を舞台として大政翼賛会結成を推進した新体制運動と、地方政治の中心であった内務官僚を中心とする県庁及び地方政界を代表する県議会との意識格差が露呈され、のちの大政翼賛会の行政補助機関化の嚆矢となった事件の一つである。 大政翼賛会に対する千葉県の対応 大政翼賛会の結成に際して、地方でも立憲政友会・立憲民政党をはじめとする諸政党が解党され、自由民権運動を由来とする現存の数少ない政治結社であった夷隅郡の以文会(当時は政友会郡支部を兼ねていた)も同年10月13日解散した。 当時、右翼(主として革新系)は、現状に不満を抱く青年団や戦時体制強化を進める警察の一部と連携して千葉県内でも新体制運動を推進しようとした。だが、大政翼賛会の支部を構成する常務委員会の人選は県知事に事実上一任...
  • 宋慶齢
    Template 中華圏の人物? 宋慶齢(そう けいれい、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1893年1月27日 - 1981年5月29日)は、孫文の妻。中華人民共和国名誉国家主席。 プロフィール 客家の宋耀如(宋嘉樹、チャーリー宋)の次女として清国の上海で生まれた。母は倪桂珍。「宋氏(家)三姉妹」の次女で、宋靄齢の妹、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)の姉。妹の美齢と同じくアメリカのウエスレイアン大学に留学。 孫文とは父が支援者であったことから知り合い、結婚前には孫文の英文秘書を務めていた。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年~1916年とされる。孫文の没後もその遺志を継いで革命活動に従事、1926年には中国国民党執行委員に就任している。 国民党左派で容共的立場をとり、1927年の上...
  • 長征
    長征(ちょうせい)は、中国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。 概要 共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、国民党蒋介石政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。 背景 国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資...
  • 李完用
    Template 韓国の人物? 李完用(イ・ワニョン、り・かんよう、1856年 - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮王朝末期の政治家で、日本による韓国併合に大きな働きをした人物。字は敬徳(キョンドク、Template lang?)、号は一堂(イルダン、Template lang?)、本貫は牛峰李氏。 人物 京畿道広州に生まれる。1883年、科挙に合格し、1887年からアメリカで3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。 1895年の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、親日政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。1896年に高宗がロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、親日政権を瓦解させた反日親露派の重鎮となって外部大臣(外務大臣)に就任する。翌年、学部大臣(文部大臣...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 上海クーデター
    上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。 背景 1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。 しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握し...
  • ハロルド・J・ティンパーリ
    ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記 田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリアバンベリー出身のジャーナリスト。 略歴 ハロルド・ジョン・ティンパーリー(Harold John Timperley)は、1898年6月22日、 ウェスタン・オーストラリア、バンベリーで生まれる。幼くしてパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵され、フランスとベルギーに従軍。1919年に帰国後、前職に戻るが、1921年に香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。 1924年、北平(1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニター、APなど様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙の特派員となる。1934年からASIA誌の顧問編集者...
  • 第三次日韓協約
    第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)は、1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。 ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。 全文 第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト 第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト 第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト 第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト ...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 財閥
    財閥(ざいばつ)とは、財閥解体以前の非常に大きい独占的な資本家または企業の事であるが、一般的には、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸会社(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占めると定義される。また別名ではコンツェルンとも呼ばれる。 なお、近代以前には財閥という言葉は、多数の豪商を生み出した地域に付けられる事もあった。例:甲州財閥、阪神財閥 日本の財閥 日本では第二次世界大戦前に三井・三菱・住友・安田などの財閥があったが、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により分散させられた(財閥解体)。海外ではZaibatsuとも呼ばれる。 四大財閥 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 上記の3つを特に三大財閥と呼ぶ。 安田財閥(金融財閥) 江戸時代...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...
  • 石黒忠篤
    石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、明治17年(1884年)1月9日 - 昭和35年(1960年)3月10日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎。 経歴・略伝 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1908年(明治41年)第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 1910年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)農務局農政課長。 1924年(大正13年)農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 1931年(...
  • 融和運動
    融和運動(ゆうわうんどう)とは、戦前の日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動である。 水平運動との比較 差別糾弾的傾向の強かった水平社運動に対し、融和運動は一般国民以上に天皇への忠誠を誓い、国粋主義者や富裕層の力を借りる事によって部落民の地位向上を実現しようとした。戦後、水平社の思想が部落解放同盟や全解連に引き継がれたのに対し、融和運動の思想は自由同和会や全日本同和会へと引き継がれた。 歴史 明治時代に部落出身の代議士森秀次、和歌山の郷土史家岡本弥らによって始められた。大正時代には、1914年に大江卓が帝国公道会を設立、1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。1925年には国粋主義者の平沼騏一郎を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。昭和初期には、ファシズム台頭によ...
  • ヨシフ・スターリン
    Template 大統領? ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Template Lang?, グルジア語 იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。 「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。「ジュガシヴィリ」は「ユダヤ人の息子」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)の侵略から祖国を守る英雄として、またソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知...
  • 三井財閥
    thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]] 三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。 江戸時代 thumb|170px|名所江戸百景 駿河町([[歌川広重)越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。]] 伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。 幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。 明治以後 三野村利左衛門、中上...
  • 軍令部
    軍令部(ぐんれいぶ)とは日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本...
  • 革新党
    革新党(かくしんとう) アメリカにかつて存在していた政党。進歩党 (アメリカ)を参照。 日本の昭和時代に革新倶楽部の立憲政友会への合流に反対した議員が結成した政党。本項にて解説する。 日本共産党元中央委員赤松克麿が転向して結成した日本革新党。国家社会主義と日本主義を掲げる右翼政党。 革新党(かくしんとう)は、昭和初期(1927年6月3日-1932年7月25日)に存在した政党。 1925年5月10日、革新倶楽部は立憲政友会と合同(正式な合同は14日)したが、この合同に反対した尾崎行雄・清瀬一郎ら左派系は政友会への加入を拒否して一旦無所属となる。その後、30日に小政党・中正倶楽部とともに院内会派である新正倶楽部を結成した。 だが、左派系の中でも足並みが揃っていた訳ではなく、昭和に入った1927年に尾崎らと決別した関直彦・清瀬一郎・大竹貫一らは新党結成を模索、同年6月3...
  • 第一次世界大戦-2
    前半は第一次世界大戦参照 イタリア戦線 Template main? イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。 伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)の...
  • 顧維鈞
    Template 中華圏の人物? 顧維鈞(こいきん 光緒14年(1888年)1月29日-1985年11月14日)は、中華民国の国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川(しょうせん シャウツァン Shǎochuān)、欧名はヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ(Vi-Kyuin Wellington Koo)。外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖...
  • ロシア革命
    ロシア革命(ロシアかくめい)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。 なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。 thumb|right|340px|[[防護巡洋艦アヴローラ10月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献した。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈又は鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクのネヴァ川に保存されている。]] 経緯 前史 Template USSR? ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対...
  • 征韓論
    thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)作。]] 征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年(ISBN 4-12-100561-9)による。。 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 ...
  • 重光葵
    {{政治家 |各国語表記 = しげみつ まもる |画像 = Mamoru_Shigemitsu.jpg |画像説明 = 重光 葵 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1887年7月29日 |出生地 = 大分県大野郡三重町(現:豊後大野市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 神奈川県湯河原町 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第83~85代外務大臣 |内閣 = 鳩山内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1954年12月10日 |退任日 = 1956年12月23日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2...
  • 巣鴨拘置所
    巣鴨拘置所(すがもこうちしょ)(旧字体で巢鴨)は、かつて東京都豊島区巣鴨(現在の東池袋)に存在した拘置所。通称は「巣鴨プリズン」、「スガモプリズン」(Sugamo Prison)。現在の東京拘置所の前身にあたる。 第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲ及び尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。 第二次大戦後にはGHQによって接収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦争犯罪人が収容され、同裁判の判決後、東條英機ら7名の戦犯の死刑が執行されたことでも知られる。 来歴 1895年 警視庁監獄巣鴨支署が設置される。 1897年 巣鴨監獄と改称される。 1922年 巣鴨刑務所と改称される。 1937年 刑務所としての機能を府中刑務所...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 高橋是清
    Template 日本の内閣総理大臣? 高橋 是清(たかはし これきよ、愛称だるまさん、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次。 経歴 嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は身重になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという『高橋是清―財政家の数奇な生涯』 7頁 。生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院...
  • ノモンハン事件
    Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠して...
  • 政体書
    政体書(せいたいしょ)は、明治初期の統治機構について定めた布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、1868年6月11日(慶応4年=明治元年旧暦閏4月21日)に発布された竹内理三他 (1978) 『日本近現代史小辞典』 角川書店、43頁。 概説 1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)王政復古のクーデター、1月27日~30日(慶応4年=明治元年旧暦1月3日~7日)の鳥羽・伏見の戦い、5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城などを経て、奥羽・北越地方では交戦が続いていたが、関東地方以西をほぼ掌握した新政府が、それまでの臨時政府的な三職体制に代えて新たな官制を定めたものである。 冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の...
  • 北伐
    北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。 概要 中国は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には漢民族の文化的故郷とも言うべき黄河があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る戦争は歴代にある。 蜀の北伐 三国時代、蜀漢の諸葛亮自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。 これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の北伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。 228年春の第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていた...
  • 昭和会
    昭和会(しょうわかい)は、昭和初期に存在した親軍派政党(1935年12月23日 - 1937年5月24日)。 立憲政友会は鈴木喜三郎総裁のもと、岡田内閣に対して野党路線を貫き、入閣した床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也を除名処分高橋是清も入閣したが、総裁経験者の除名による党内の混乱を恐れた鈴木は「別離」(訣別)を宣言して除名の代わりとした。とし、続いて内閣審議会委員となった水野錬太郎・望月圭介も除名した。これに除名議員及びその直系議員は反発し、床次を盟主に「第二の政友本党」結成に動くが、1935年9月8日に床次が急死したため、挫折した。そこで被除名者とこれに抗議して離党した代議士18名で結成されたのが昭和会である。除名者には実力者が多く、亡くなった床次に代わる党首を決定することは困難であったために党首は置かれなかった。 同党設置後、政友会からの離党者が続出して最大25名までに増え、岡田・...
  • 甲申政変
    Template 朝鮮の事物? 甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変とも呼ばれる。 事件の概要 当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗...
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