chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「中宗」で検索した結果

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  • 大院君
    ...祖の父 11代・中宗の九男で、名前はチョ(山+召)。1538年に徳興君になる。死後、1567年に三男の河城君が14代・宣祖として即位し、1570年「徳興大院君」に追尊された。夫人は鄭麟趾の曾孫(鄭麟趾の孫・鄭世虎の娘)にあたる河東府大夫人・鄭氏。長男は河原君(1545年 - 1597年)、次男は河陵君(1546年 - 1592年)、三男が宣祖である。墓は京畿道南楊州市別内面德松里にあり(京畿道記念物第55号)、正式にはあくまでも「墓」だが、宣祖の命により王の墓を指す「陵」字を用いた「徳陵」の別称も通用している。 全渓大院君(1785年 - 1841年) - 25代・哲宗の父 興宣大院君 - 26代・高宗の父 上記の3人以外に16代・仁祖の父定遠君も定遠大院君と称されたが、さらに元宗の廟号を追尊されて王扱いになった。 関連項目 尊号   出典 フリ...
  • 李氏朝鮮-2
    ...は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。 そして各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活字を改良して他の国より2倍以上の印刷能率を持つようになった。それに...
  • 李氏朝鮮
    ...追放された。 次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は、最初士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため中宗は却って不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。明宗が即位した年の1545年には乙巳士禍が起きている。 この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を四大士禍と呼ぶ。 朋党政治の始まり - 宣祖から光海君まで 1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まる。しかし、士林勢力は1...
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