chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「中隊」で検索した結果

検索 :
  • 風船爆弾
    ...。 第1大隊(3個中隊)茨城県大津(現在の北茨城市五浦海岸一帯) 第2大隊(2個中隊)千葉県一宮昭和20年2月以降、頻繁にアメリカ空母艦載機の攻撃を受けるようになり放棄された。人員と機材は第1大隊に合流した。 第3大隊(2個中隊)福島県勿来 1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。 中隊人員:将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった。 千葉県一宮には試射隊が置かれた。試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探った。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、宮城県岩沼に本部を置いた。実際の標定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の3カ所に設置されたが、これでは不足であったのか、後に樺太標定所が設置された。 戦果 攻撃開始日は、昭和1...
  • 近衛師団
    ...:明治19年近衛工兵中隊(工兵科下士官)。明治35年2月に近衛師団参謀。後に陸軍大将勲一等功二級男爵。 大谷喜久蔵(陸士旧2期):明治30年10月11日-明治31年近衛師団参謀長(大佐)。 橘周太(陸士旧9期):明治21年(1888年)12月に近衛歩兵第4連隊附となる。明治28年(1895年)12月に近衛歩兵第4連隊中隊長となる。後に陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級を受け、軍神と称えられる。 久松定謨(仏サンシール陸軍士官学校卒(旧11期相当)):明治24年12月に近衛歩兵第2連隊附(歩兵少尉)。明治28年1月近衛師団副官(中尉)。日清戦争に出征。明治30年12月近衛歩兵第2連隊中隊長(歩兵大尉)。大正3年5月11日に近衛歩兵第1連隊長。後に陸軍中将正二位勲一等伯爵。旧 伊予松山藩主。 三井清一郎(陸士6期):明治30年代に近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる(陸軍歩兵大...
  • 山梨軍縮
    ...の部隊、歩兵大隊4個中隊編制を平時3個中隊編制に縮小などの改正、歩兵連隊及び騎兵連隊に機関銃隊を増設した。 第二次軍備整理 1923年(大正12年)3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。 廃止 鉄道材料廠 近衛師団及び第4師団の軍楽隊 2個独立守備隊 仙台幼年学校 新設 父島要塞司令部 奄美大島要塞司令部 これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず、近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し 新式装備の導入は困難となった。『近代戦争概史 上巻』陸戦学会 P286~286こののちに宇垣軍縮が行われることとなった。 脚注 Template 脚注ヘルプ? _   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikip...
  • 盧溝橋事件
    ...第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けた、と見られている。 4時00分:日中合同調査団が、北京を出発した。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳二名・一個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城...
  • 石原莞爾
    ...く行い、訓練を受けた中隊全員が石原に殴られ、上官と意見が衝突して論争した。 第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった為に石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。 石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。 陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするよ...
  • 辻政信
    ...れ、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に上海停戦協定が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には陸軍参謀本部付となり、第一課に配属された。 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件 編成および動員を担当する第一課において当時課長を務めていたのは東條英機大佐であった。翌年8月に大尉に昇進し12月に第一部第三課に転籍した。1934年9月になると、士官学校の幹事(副校長)に任命されていた東條の誘いを受けて本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は、栄転であるモスクワ駐在武官職を断っての決断であり、また陸大を卒業したエリート将校が生徒隊中隊長を勤めることは前例がなかった。辻がこの人事を望んだのは、陸士本科に入学する予定であった澄宮(後の三笠宮崇仁親王)に接触を図る目的であったとの説が存在する...
  • ノモンハン事件
    ...師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。 この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。 5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。 ソ連軍も部隊を送り込み、...
  • 渡辺錠太郎
    ...大卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉任官 1904年7月より9月 日露戦役に出征、負傷 1904年10月 大本営参謀 1905年9月 元老山縣有朋の副官 1906年 清国出張 1907年 ドイツ駐在 1908年12月 少佐任官 1909年5月 ドイツ大使館付武官補佐官 1910年6月 参謀本部勤務 1910年11月 山縣元帥副官 1913年1月 中佐任官 1915年2月 歩兵3連隊付 1916年5月 参謀本部課長 1916年7月 大佐任官 1917年10月 オランダ公使館付武官 1920年8月 歩兵第29旅団長及び少将任官 1922年9月 参謀本部第4部長 1925年5月 陸軍大学校校長及び中将任官 1926年3月 第7師団長 1929年3月 航空本部長 1930年6月 台湾軍司令官 1931年8月 軍...
  • 青島の戦い
    ...大隊基幹、印度兵2個中隊 海軍:戦艦1隻、駆逐艦1隻 損害:戦死160、負傷23 独墺連合軍 ドイツ軍(総指揮官:アルフレート・マイヤー・ヴァルデック海軍大佐(青島総督)) オーストリア軍 損害:戦死183、負傷150、捕虜4,715 参考文献 斎藤聖二『日独青島戦争』ゆまに書房、2001年。ISBN 4-87802-058-X 関連項目 膠州湾租借地 第一次世界大戦下の日本 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 20 16。     
  • インパール作戦
    ...に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。また3万頭の家畜を引き連れて徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上でも空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。さらに、急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし、火力不足が深刻化、糧食・弾薬共に欠乏し、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を既に消耗していた。本来歩みの遅い牛を引き連れて、迅速さを求められる敵拠点の攻略作戦を敢行するという思考そのものに無理があった。 物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ...
  • 南次郎
    ...- 台湾守備騎兵第3中隊附。 1897年(明治30年)10月 - 中尉に昇進。騎兵第6大隊附。 1899年(明治32年)11月 - 騎兵第13連隊附。 5月 - 陸軍士官学校生徒隊附兼教官。 1900年(明治33年)11月 - 大尉に昇進。 1903年(明治36年)11月 - 陸軍大学校卒業(17期)。 1904年(明治37年)3月 - 日露戦争に出征(~12月)。 12月 - 大本営参謀。 1905年(明治38年)3月 - 少佐に昇進。第13師団参謀。 12月 - 陸軍大学校教官。 1906年(明治39年)9月 - 関東都督府陸軍参謀。 1910年(明治43年)2月 - 中佐に昇進。 1912年(大正元年)12月 - ヨーロッパ出張。 1914年(大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長。 1915年(大正4年)8月10日 - 大佐に昇進。 1...
  • ゴーストップ事件
    ...第4師団第8連隊第6中隊の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。その際中村一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論したためつかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治一週間の怪我を負った。 この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として曽根崎署に対して抗議した。当時、第8連隊の松田連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わっていた。 この後の当事者...
  • 梅津美治郎
    ...に昇進。歩兵第1連隊中隊長。 Template 和暦?6月1日 - 少佐に昇進。 Template 和暦?2月8日 - 中佐に昇進。 Template 和暦?12月15日 - 大佐に昇進。歩兵第3連隊長。 Template 和暦?12月1日 - 参謀本部編制動員課長。 Template 和暦?8月10日 - 陸軍省軍務局軍事課長。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。 Template 和暦?8月1日 - 参謀本部総務部長。 Template 和暦?11月1日 - 駐スイス公使館付武官。 Template 和暦?3月5日 - 支那駐屯軍司令官。 8月1日 - 陸軍中将に昇進。 Template 和暦?8月1日 - 第2師団長。 Template 和暦?3月23日 - 陸軍次官。 Template 和暦?5月30日 - 第1...
  • 真崎甚三郎
    ...昇進。歩兵第46連隊中隊長。 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。 1908年(明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。 1909年(明治42年)1月 - 少佐に昇進。 1911年(明治44年)5月 - ドイツ駐在(~1914年6月)。 1914年(大正3年)6月 - 歩兵第42連隊大隊長。 11月 - 中佐に昇進。歩兵第53連隊附。 1915年(大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。 1916年(大正5年)11月15日 - 教育総監第2課長。 1918年(大正7年)1月18日 - 大佐に昇進。 1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。 1921年(大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。 1922年(大正11年)8月15日 - 少将に昇進。歩兵第1旅団長。 1923年(...
  • 冀東防共自治政府
    ...、16日、航空隊6個中隊が山海関、錦州地区に集結し、旅順、青島の巡洋艦と駆逐艦各1隻が大沽口に派遣された。 これにも拘らず、宋哲元は、自治を行わないことを土肥原に通知した。そこで、早稲田大学の卒業生で、日本通として知られる殷汝耕が首班の候補とされた。 冀東防共自治政府の成立 当時、殷汝耕は蘚密区と灤楡区の専員を兼任しており、冀東地区の全権を掌握していた。在任期間、彼は外貨獲得のため日本企業を優遇しており、当然日本との関係は良好だった。11月23日、土肥原は、殷汝耕を宴席に接待し、冀東の独立を持ちかけた。翌日、殷汝耕は、各県県長と保安隊長を招集し、中央から離脱して自治を宣言することを決定した。この地区の人口は、約七百万人であったと伝えられる。 1935年11月25日、殷汝耕を首班とする冀東防共自治委員会が、通州において成立した。成立大会上において、殷汝耕は、殷汝耕、張慶余、...
  • 十月事件
    ...0名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。 計画は先の三月事件の失敗から陸軍の中枢部には秘匿されたまま橋本ら佐官級を中心に進められた。当初、外部の民間右翼からは大川周明、岩田愛之助が加わっていたが、その後北一輝・西田税が参加したしかし橋本は西田を嫌い、細かい計画は打ち明けていなかった。。その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引...
  • 支那駐屯軍
    ...屯軍全体で歩兵10個中隊程度の規模であったのを混成旅団規模に強化し、同年5月1日から司令官は親補職になった(昭和11年軍令陸第2号「支那駐屯軍司令官の親補に関する件」)。 強化した翌年の、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。盧溝橋事件発生後、まず朝鮮の第20師団と関東軍の独立混成第1・第11旅団を隷下に入れ、さらに7月27日に内地の第5・第6・第10師団も隷下に入れた。その後8月31日には第1軍に改編され、支那駐屯軍は廃止された。廃止に当たり直属部隊は支那駐屯混成旅団に改編された支那駐屯混成旅団は翌年の昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯歩兵第3連隊が増加され支那駐屯兵団と改称、6月21日に第27師団に改編された。。 軍概要 歴代司令官 清国駐屯隊司令官 (兼)山口素臣 中将 明治33年(1900年)10月2日 - 明治3...
  • 宮城事件
    ...近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察の護衛官たちは武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。なお、宮内省内にいた石渡荘太郎宮相および木戸内大臣は金庫室などに隠れて難を逃れた。 井田中佐は水谷参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍)の決起参加を求めたが、田中軍司令官及び高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功、森師団長の殺害を知り、畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。芳賀連隊長はその場にいた椎崎・畑中・古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一...
  • 松井石根
    ...月 - 歩兵第6連隊中隊長。 4月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。 8月 - 大尉に昇進。 1905年(明治38年)7月 - 第2軍副官。 12月 - 第2軍兵站監部参謀。 1906年(明治39年)11月 - 陸軍大学校卒業(18期恩賜)。参謀本部出仕。 1907年(明治40年)1月 - 清(北京・上海)駐在(~1911年4月)。 1908年(明治41年)11月 - 参謀本部員。 1909年(明治42年)11月 - 少佐に昇進。 1913年(大正2年)4月 - フランス領インドシナ出張。 1914年(大正3年)5月 - 欧米出張(~1915年8月)。 1915年(大正4年)8月 - 中佐に昇進。歩兵第22連隊附。 12月 - 参謀本部附(上海駐在)(~1919年2月)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。 1919年(大正8...
  • 大日本帝国陸軍
    ...長、大尉・古参中尉が中隊長、中尉・少尉が小隊長・連隊旗手、軍曹・伍長が分隊長を担当。 准尉は特務曹長を改名したものであリ、厳密に言えば将校と下士官の間の階級である為、必ずしも将校・尉官には該当しない(准士官参照)。 組織 天皇 部隊 部隊は総軍、方面軍、軍、師団及びそれを構成する歩兵旅団、歩兵連隊並びに砲兵部隊、騎兵部隊、工兵部隊等の特科部隊からなる。通常は衛戍地にあって警備等を担当している。 参謀本部 陸軍大学校 陸地測量部 陸軍省 教育総監部 陸軍士官学校 航空総監部 特務機関 在外公館附武官(駐在武官) 元帥府 軍事参議院 侍従武官府 皇族付武官 将校生徒試験委員 なお、陸軍の首脳3名たる陸軍大臣、参謀総長及び教育総監を総称して陸軍三長官ともいう。 徴募・生活 兵卒は、徴兵令、後には兵役法に基づき、徴兵制度により充...
  • 二・二六事件
    ...た者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは歩兵による突撃戦法を強要されて殆どが戦死した。 なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事、また社会党衆議院議員)がいる。 捜査・公判 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。戒厳司令官を務めた香椎浩平中将も皇道派であった。 この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号...
  • ドーリットル空襲
    ...日に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した。 エピソード シャングリラ ドーリットル空襲の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、記者会見で空襲の成功を発表したルーズベルト大統領は記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた。シャングリラとは当時の小説で映画化もされた「失われた地平線」に出てくるヒマラヤ付近にあるとされる架空の地名であり、それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。 なお、このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母シャングリラ(CV-38;エセックス級航空母艦の1隻)が就役している。 ...
  • 板垣征四郎
    ...8期)。歩兵第4連隊中隊長。 1917年(大正6年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。 1919年(大正8年)4月 - 中支那派遣隊司令部附。 7月 - 中支那派遣隊参謀。 1920年(大正9年)4月 - 少佐に昇進。 1921年(大正10年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。 1922年(大正11年)4月 - 参謀本部員(支那課)。 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1924年(大正13年)6月 - 支那公使館附武官補佐官(北平駐在)。 1927年(昭和2年)5月28日 - 歩兵第33旅団参謀。 7月 - 第10師団司令部附。 9月 - 支那出張。 1928年(昭和3年)3月8日 - 大佐に昇進。歩兵第33連隊長。 1929年(昭和4年)5月14日 - 関東軍高級参謀。 1931年(昭和6年)10月5日 - 関東軍第2課長。 1...
  • 小磯國昭
    ... - 歩兵第30連隊中隊長。 1910年(明治43年)11月 - 陸軍大学校卒業(22期)。 12月 - 陸軍士官学校教官。 1912年(明治45年)9月 - 関東都督府参謀。 1914年(大正3年)8月 - 少佐に昇進。歩兵第2連隊大隊長。 1915年(大正4年)6月 - 参謀本部員。 8月 - 内モンゴル派遣(~1917年1月)。 1918年(大正7年)7月 - 中佐に昇進。 8月 - 第12師団参謀。 1919年(大正8年)4月15日 - 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)7月20日 - 航空本部員。 1922年(大正11年)2月8日 - 大佐に昇進。 6月 - ヨーロッパ出張(~1923年3月)。 1923年(大正12年)3月17日 - 陸軍大学校教官。 8月6日 - 歩兵第51連隊長。 1925年(大正14年)5月1日 - ...
  • 荒木貞夫
    ...近衛後備歩兵第1連隊中隊長。 5月 - 近衛後備混成旅団副官。 8月 - 大尉に昇進。 1905年(明治38年)12月 - 近衛歩兵第1連隊附。 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。参謀本部出仕(ロシア駐在)。 1908年(明治41年)4月 - 参謀本部員。 1909年(明治42年)11月 - 少佐に昇進。 12月 - ロシア駐在。 1912年(明治45年)5月 - ロシア公使館付武官補佐官。 1913年(大正2年)4月 - 参謀本部員。 1914年(大正3年)3月 - 陸軍省副官。 8月 - 陸軍大学校教官。 1915年(大正4年)4月 - ロシア出張。 6月 - ロシア軍に従軍(~1918年4月)。 8月 - 中佐に昇進。参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。関東...
  • 第二次上海事変
    ...、海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が関係した銃撃事件である。この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。 8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で銃撃戦が起こった。 日中両国の報道 『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。...
  • 閑院宮載仁親王
    ...)7月 騎兵第1大隊中隊長 明治27年(1894年)8月 陸軍乗馬学校教官 明治27年(1894年)9月 第1軍司令部附 明治27年(1894年)11月 陸軍騎兵少佐 明治27年(1894年)11月3日 騎兵第1大隊長心得 明治28年(1895年)10月 騎兵第1大隊附 明治29年(1896年)11月20日 騎兵第1連隊長心得 明治30年(1897年)11月 陸軍騎兵中佐・騎兵第1連隊長 明治32年(1899年)10月28日 参謀本部出仕(欧州出張) 明治32年(1899年)11月3日 陸軍騎兵大佐 明治33年(1900年)1月25日 参謀本部部員 明治33年(1900年)2月29日 欧州出張 明治33年(1900年)9月3日 帰朝 明治34年(1901年)11月3日 陸軍少将・騎兵第2旅団長 明治37年(1904年)9月21日...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...のように連隊・大隊・中隊・小隊の編制を採らず、各地に配置される憲兵隊が基本単位となっていた。憲兵隊の下に、警察署に相当する憲兵分隊(分隊と呼称されるが数十名の人員が居る)があり、憲兵分隊の下に憲兵分遣隊がある。 明治28年当時 明治28年勅令第95号によって全面改正された「憲兵条例」によると、当時の憲兵の編成は次の通りであった。ここにいう「伍長」とは階級ではなく職名である。 憲兵司令部(東京に1個) 憲兵司令官:憲兵大佐 副官:憲兵大尉・同中尉 軍吏 書記:憲兵下士、軍吏部下士又は属 憲兵隊(各師管毎に置く。) 隊長:憲兵中佐・同少佐 副官:憲兵大尉・同中尉 軍吏 下副官(准士官):憲兵曹長 書記:憲兵下士又は軍吏部下士 憲兵分隊(要地毎に置き、管轄区域を憲兵管区という。) 書記:憲兵下士 上等伍長(准士官):憲兵...
  • 重慶爆撃
    ...関東軍独立飛行第一〇中隊主力により実施された1931年10月8日の錦州爆撃である。但し計画立案者の石原莞爾は偵察中に応射を受けたため自衛のための反撃および誤爆としている。戦時国際法に抵触する空襲手段を採用した別の嚆矢としてはイタリア空軍が挙げられる。1935年から39年にかけてエチオピアで500トン以上の化学剤(マスタード剤)の投下をおこなっている。。 戦略爆撃とは、「相手の戦争継続能力を奪うための爆撃。主要軍事施設・生産施設・物資貯蔵所・交通網や政治・軍事の中枢などに対する爆撃」三省堂 大辞林 第2版「戦略爆撃」の項より。を指すが、この思想は1921年イタリア王国のイタリア陸軍の元将軍ジュリオ・ドゥーエが戦略爆撃の書『制空』を出版していることや、アメリカ陸軍の飛行戦術学校が教本として採用しているなど各国で研究されており、日本軍による重慶爆撃がこの戦略思想を独創したと見るのは穿った...
  • マレー作戦
    ...両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き当たり中村大隊長は上陸と同時に戦死した。イギリス空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、大東亜戦争(太平洋戦争)に於ける被撃沈第1号となった。綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船団は一時退避を余儀なくされた。 佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。上陸作戦による戦死320、負傷者538、舟艇も多数を失ったものの作戦は成功した。佗美支隊はその後、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、第25軍主力と合流した。 マレー沖海戦 Template main? イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着...
  • 鈴木貫太郎
    ...に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。 反乱軍が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねたという。たかは止血の処置をとってから宮内大臣湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけてきた。鈴木の意識はまだはっきりし...
  • 東條英機
    ...進。近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年(大正7年)には長女が誕生、翌1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、10月23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日...
  • 八甲田雪中行軍遭難事件
    ...揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が指揮に関与したとされている。神成文吉大尉は、秋田県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。 神成大尉の命を受けて危急を知らせる途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、遭難の詳細が判明した。5月28日に全遺体が収容された。 最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)、の11人のみであった。 生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹...
  • 西郷隆盛-2
    ... 薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。 宮崎の戦い 人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍...
  • @wiki全体から「中隊」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。