chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「享保の改革」で検索した結果

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  • 仮20
    ...新例を定める。 享保の改革 1716年(享保元年) 徳川吉宗、征夷大将軍となる。 1717年(享保2年) 大岡忠相を町奉行(江戸南町奉行)に登用する。 1721年(享保6年) 目安箱を設置する。 1722年(享保7年) 上米の制を定める。 1723年(享保8年) 足高の制を定める。 1742年(寛保2年) 公事方御定書(御定書百箇条)を定める。 1753年(宝暦3年) 宝暦治水事件 1758年(宝暦8年) 宝暦事件 1767年(明和4年) 明和事件 田沼時代 1767年(明和4年) 田沼意次、側用人となる。 1772年(安永元年) 田沼意次、老中となる。 1782年(天明2年) 下総国印旛沼を開墾する(1786年(天明6年)に中止。)。 1784年(天明4年) 蝦夷地開拓を企図し、調査させる。 1785年(天明5年) 下総国手賀沼を開墾する(翌年完...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 日本史の出来事一覧
    ...新例を定める。 享保の改革 Template 和暦? 徳川吉宗、征夷大将軍となる。 Template 和暦? 大岡忠相を町奉行(江戸南町奉行)に登用する。 Template 和暦? 目安箱を設置する。 Template 和暦? 上米の制を定める。 Template 和暦? 足高の制を定める。 Template 和暦? 公事方御定書(御定書百箇条)を定める。 Template 和暦? 宝暦治水事件 Template 和暦? 宝暦事件 Template 和暦? 明和事件 田沼時代 Template 和暦? 田沼意次、側用人となる。 Template 和暦? 田沼意次、老中となる。 Template 和暦? 下総国印旛沼を開墾する(1786年(天明6年)に中止。)。 Template 和暦? 蝦夷地開拓を企図し、調査させる。 Template 和暦? 下...
  • 光緒新政
    光緒新政(こうしょしんせい)とは、清の光緒年間の1901年以降、西太后の号令の下、清朝が進めた上からの政治改革。清末新政ともいう。 具体的には、立憲君主制への移行、科挙の廃止をふくむ教育改革、新軍の建設、商業の奨励などであり、おおむね戊戌の変法で指向された項目と一致している。先に戊戌の変法を否定した西太后が、同様な改革を自ら行わざるをえなくなった背景には、義和団事変の結果、清の半植民地化が著しく進み、強い危機意識(現状のままでは、清朝が滅亡してしまうとの意識)が生じたということがある。 この新政は、清朝を滅亡から救うことはできず、逆に、袁世凱の影響力を高めてしまい(ひいては、北洋軍閥を生み出すこととなり)、清朝の死を早めたという評価すらあるように、遅きに失したという評価が、一般的であった。しかし、近年では中国の近代化の出発点であったことや中華民国の初期の政治・外交(特に北京政府)に対す...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 立憲政体の詔書
    立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。 沿革 1875年(明治8年)1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 蹇々録
    『蹇々録』(けんけんろく)は、明治時代の外交官陸奥宗光が執筆した外交記録。『蹇蹇録』と書く場合もある。 陸奥の晩年の1892年以降に執筆されたが、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。 内容 甲午農民戦争(東学党の乱)から三国干渉までの陸奥宗光自身の外交の経験・苦労・感想が書かれている。たとえば、日清戦争開戦の動機については、内村鑑三は当初、中国の不当な朝鮮支配を打破するための義戦であると唱え、日本の世論もだいたいにおいてこれに一致していたが、『蹇々録』にははっきりと日本の国益のための戦争であって義侠の精神はまったくないと書かれている。 日朝関係については三期に分けて記述されているが、日清戦争までの第一期、井上馨による韓国の改革のいきさつを記す第二期と異なり、第三期の記述は自ら省略すると書かれている。こ...
  • 真崎甚三郎
    Template Infobox 軍人? 眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、明治9年(1876年)11月27日 - 昭和31年(1956年)8月31日)は、日本の軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。 来歴・人物 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)から1895年12月、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校へ。陸士第9期卒後日露戦争に従軍。 陸軍大学校第19期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。 久留米俘虜収容所長2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長、1929年7...
  • 独立協会
    独立協会(どくりつきょうかい)は、1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。甲午農民戦争を率いた徐載弼が李完用とともに創設し、朝鮮における立憲君主制導入を目指した。 当時、李氏朝鮮は清の属国から解放されたものの、李氏朝鮮に対するロシアの支配力が強くなった。このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、1896年に独立協会を設立。同年4月より独立新聞を発行し、協会の主張を啓蒙している。 独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言。後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の皇帝に即位し(別名 光武皇帝)、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。 また独立協会は、日本と清との日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で清に朝...
  • 米騒動
    米騒動(こめそうどう)とは米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのことである。 背景 米の重要性について 米を主食として食す国の場合、米の価格高騰、国内流通量の減少は治安悪化や国家の運営を揺るがす事態に直結する問題となる。そのため国家元首は米の価格、流通に対し神経質になるという ref name= syokuryosoudatsu 『食料争奪』 柴田明夫 日本経済新聞出版社 2007年。 また、消費者側の状況を見ると特に貧困層はエンゲル係数が高く、食料費の高騰の影響を受けやすい『アジアで食料価格高騰、貧困層に大打撃』 2008年2月12日付配信 AFP。 国際取引について 米は三大穀物とも呼ばれ大量に生産されているが、生産量に比べ国際間の取引流通量は少ない。これは主に生産国内でまず主食として消費されるため、国外...
  • 地租改正
    地租改正(ちそかいせい)とは、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 旧貢租・田租について 地租の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調」のうちの「租」にさかのぼる。ここでいう租とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。 豊臣秀吉の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。 地租は収穫量を今日でいう課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって徴収された(物納)。なお、この納...
  • 甲午農民戦争
    甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた内乱である。農民に東学の信者がいたことから、日本ではかつて東学党の乱と呼んでいたが内乱の主体は農民であって、東学の信者ではないため現在ではこの呼び名が公式に使われている。 この戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。 第一次蜂起 1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。 民衆も1876年の日朝修好条規(江華島条約)以降の日本人商人との取引などによる物価の騰貴に悩まされていた。この点は日本が「開国」後に生糸の価格高騰に苦しんだことと似ている。 朝鮮の改革を巡っては、壬午軍乱や甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうし...
  • 輔弼
    輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。 国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内大臣が、統帥上の輔弼は参謀総長と軍令部総長が就いていた。ところが、後に国務大臣である筈の陸軍大臣・海軍大臣にも両軍を代表する形で帷幄上奏を行う権利が認められたことから、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いた。 歴史 大日本帝国憲法以前にも、「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできない...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 基本国策要綱
    基本国策要綱は、昭和15年(1940年)7月26日に第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針。これにより大東亜共栄圏の建設が政策となる。 内容 昭和15年7月26日 閣議決定 世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定すること左の如し 基本国策要綱 一、根本方針 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事...
  • 大阪会議
    大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 会議に至る背景 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、ほぼ大久保専制体制となる。 大久保主導政府の急進的な改革に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児...
  • 第1次伊藤内閣
    {{Infobox |tnavbar = 日本の内閣記事 |above = 第1次伊藤内閣 |label1 = 内閣総理大臣 |data1 = 初代 伊藤博文 |label2 = 成立年月日 |data2 = Template 和暦?12月22日 |label3 = 終了年月日 |data3 = Template 和暦?4月30日 |label4 = 与党等 |data4 = 藩閥内閣 |label5 = 施行した選挙 |data5 = なし(帝国議会未設置) |label6 = 衆議院解散 |data6 = なし(帝国議会未設置) |below = 内閣閣僚名簿(首相官邸) }} 第1次伊藤内閣(だい1じ いとう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 大久保利通
    {{政治家 |各国語表記 = おおくぼ としみち |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1830年9月26日 |出生地 = 薩摩国鹿児島城下 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府麹町区 |称号・勲章 =従一位、勲一等旭日大綬章 |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代大蔵卿 |就任日 = 1871年8月13日 |退任日 = 1873年10月12日 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代内務卿 |就任日2 = 1873年11月29日 |退任日2 = 1874年2月14日 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代内務卿 |就任日3 = ...
  • 甲申政変
    Template 朝鮮の事物? 甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変とも呼ばれる。 事件の概要 当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 林銑十郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日))は、日本の陸軍軍人、政治家。第33代内閣総理大臣。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。 略歴 石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発すると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Templa...
  • 韓国併合
    韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。 韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。 併合条約の日韓の見解 日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで韓国併合ニ関スル条約の締結自体は合法であったという考えを内包しているのに対して、韓国・北朝鮮とも韓国併合ニ関スル条約は違法に結ばれ...
  • 富国強兵
    富国強兵(ふこくきょうへい)とは、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策をいう。 中国 中国では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見える。この時代には各国が諸子百家と呼ばれる思想家たちから人材を登用し、騎馬戦術や戦車などの新兵器を導入して軍事改革を行った。 日本 日本で明治政府の国策の基本を指す。江戸時代の鎖国が原因で欧米列強に国力で大きな差をつけられ、これが安政の不平等条約という新国家を後々まで苦しめる結果となったことを教訓とした日本は、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)して、列強に追いつくことにより条約の改正と国家の保全を目指した。 関連項目 明治維新 静岡県   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月...
  • 玄洋社
    玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881年(明治14年)に結成された政治団体。 概要 当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散させた。 主な活動 1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。 戦前、戦中期にかけて軍部・官僚...
  • 北京議定書
    北京議定書(ぺきんぎていしょ)とは、1901年9月7日に北京で調印された義和団事変における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約、辛丑和約(しんちゅうじょうやく、-わやく)ともいう。欧米では Boxer Protocol の呼び名が一般的である。 なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。 調印国と全権 列国側 ドイツ・シュワルツェンシュタイン オーストリア・ハンガリー・ワールボルン ベルギー・ジュースタンス スペイン・コロガン アメリカ・ロックヒル フランス・ボー イギリス・アーネスト・...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 一進会
    一進会(イルチンフェ・いっしんかい)とは、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。一般に親日団体とみなされる。 宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を成し遂げようとする方向に傾いていきつつあった一部開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)の実現のために活発に活動した。 当時、大韓帝国では最も大きな政治結社であり、会員数は1908年12月時点で公称80万人から100万人であった ref name= B03041514200 アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200。ただ韓国内においては、実数は数万人程度だとする見方が優勢であり、民...
  • 大政翼賛会
    大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。 経緯 内閣総理大臣を務めた近衛文麿公爵を中心として国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には、有馬頼寧農林大臣(伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会・民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦はこの計画は白紙に戻ることになった。 近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、...
  • 太政官
    太政官 太政官(だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)とは、日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が付属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 太政官(だじょうかん)とは、日本の明治維新政府に設けられた官庁名。1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。太政官とは、議政官以下7官の総称。翌1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことに伴い廃止された。 律令制の太政官 概説 ...
  • 李氏朝鮮
    李氏朝鮮/李朝 朝鮮語表記 ハングル 조선(왕조)시대 朝鮮の漢字 朝鮮(王朝)/李朝(封建)時代 片仮名転写 チョソン(ワンジョ)/リジョ(ボンゴン)シデ ラテン文字転写 Joseon/Chosŏn Wangjo 中国語表記 繁体字 李氏朝鮮/李朝 簡体字 李氏朝鲜/李朝 ピンイン lǐshì cháoxiǎn/lǐcháo 英語表記 アルファベット Joseon Dynasty 李氏朝鮮(りしちょうせん、1392年 - 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。高麗の次の王朝。 現在の大韓民国(だいかんみんこく)では、李氏朝鮮が統治していた時代を「朝鮮時代」(ちょうせんじだい)、李氏朝鮮の王室を「朝鮮王朝」(ちょうせんおうちょう)と言う。 139...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 内閣総理大臣
    Template 内閣総理大臣項目?Template 日本の統治機構?  150px|thumb|初代内閣総理大臣 br / [[伊藤博文]] 150px|thumb|第91代内閣総理大臣 br / [[福田康夫]] 内閣総理大臣 (ないかくそうりだいじん) は、日本の行政府である内閣の首長。国会議員の中から国会の議決で指名され、これに基いて、天皇によって任命される。 総理大臣または総理と略され、首相とも通称される。 歴史 明治維新以降、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔...
  • 幕末
    Template 日本の歴史? 幕末(ばくまつ)とは、ある幕府による国内統治の末期のことをいう。単に「幕末」といった時は、江戸幕府末期の時代(19世紀半ば)を指す。 概説 幕末の期間に関する厳密な定義はないが、嘉永6年(1853年)の黒船つまりアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍のサスケハナ号、サラトガ号、ポーハタン号、ミシシッピ号による艦隊の来航から、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還をおこなって幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年に明治天皇が即位して元号が「明治」と改元されたときまでとするのが、一般的である。幕府という名目が失われた大政奉還(1867年)、旧幕府軍による抵抗が終了した箱館戦争の終戦(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県(1871年)なども画期となりうる。 幕末は、徳川宗家の当主が征夷大将軍職に就き、幕府の主宰者とし...
  • 西郷隆盛
    Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大...
  • 日清通商航海条約
    日清通商航海条約(にっしんつうしょうこうかいじょうやく)とは、1896年7月21日に北京において日本と清の間に締結された条約。同年10月20日に批准書交換が行われて10月28日に発効した。辛亥革命後の中華民国にも継続された。日本側全権は林董。清側全権は張蔭桓。 日清戦争により、日清修好条規が破棄されたため、戦後に新たに締結された。同戦争における日本の勝利を受けて修好条規の変則的平等条約から日本に有利な不平等条約に改められた。全29条から構成され、貿易における日本への待遇を欧米と同様とする(第9条)、日本に領事裁判権を認める(第22条)、条約改訂は批准書交換より10年後にのみ提議出来、半年以内に合意が成立しなければ、自動的に10年間延長されてその期間改訂出来ない(第26条)。など、日本に有利な内容であった。 更に北清事変の際に結ばれた北京議定書に基づいて1903年10月8日に上海において...
  • 大村益次郎
    大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日))は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。 生涯 村医 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒...
  • 明治政府の修史事業
    明治政府の修史事業(めいじせいふのしゅうしじぎょう)では、明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業について述べる。 沿革 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明明治2年4月4日(1869年5月3日)に明治天皇から三条実美に下された宸翰沙汰書(現在は東京大学史料編纂所所蔵)には、修史ハ萬世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ、三代実録以後絶ヘテ続クナキハ、豈大闕典ニ非スヤ。今ヤ鎌倉已降ノ武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ。故ニ史局ヲ開キ、祖宗ノ芳躅ヲ継ギ、大ニ文教ヲ天下ニ施サント欲シ、総裁ノ職ニ任ズ。須ク速ニ君臣ノ名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ弁ヲ明ニシ内外ノ命ヲ明ニシ、以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ。と記されている。、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、...
  • 紀尾井坂の変
    紀尾井坂の変(きおいざかのへん、1878年(明治11年)5月14日)は、明治の元勲・大久保利通が東京の紀尾井町清水坂で士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。 事件の経緯 当時、大久保は1877年(明治10年)の西南戦争で政府軍を指揮したばかりであった。また、薩摩や土佐などといった不平士族または自由民権運動者からは、「有司専制」と非難されていた。事件はそのような最中に起こる。 大久保は1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。同日午前8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂(紀尾井坂)において、石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 憲政本党
    憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日-1910年3月13日)。 概要 1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく...
  • 国際連合
    英:Template lang? 仏:Template lang? 西:Template lang? 露:Template lang? 亜:Template lang? 中:Template lang? (詳細) 公用語 英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、中国語 事務総長 潘基文(2007年1月〜) 創設 1945年10月24日 加盟国 192ヵ国 本部所在地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン 公式サイト http //www.un.org/ 国際連合(こくさいれんごう、United Nations)とは、国際連合憲章の下に設立された国際機構である。世界の安全保障と経済・社会の発展のために協力することを目的とする。多くの言語で第二次大戦中の連合国を呼称を同じくする。略称は、国連、...
  • 日本の鉄道史
    日本の鉄道史(にほんのてつどうし)では、日本の鉄道の展開過程について述べる。なお年表に関しては、鉄道の歴史 (日本)を参照のこと。 日本の鉄道の歴史 草創期 日本の鉄道史は、幕末にエフィム・プチャーチンやマシュー・ペリーなどが鉄道模型を持ち込み、日本人に見せ走らせたことで始まったと言える。イギリスを端緒とする鉄道開業の情報そのものは、それ以前にも長崎にある出島のオランダ人から伝えられていたが、実物の模型を見たときの衝撃は大きかったと言われ、佐賀藩のようにその模倣で自製の模型機関車を製造し、現実の鉄道敷設計画を立てるところまで現れたほどであった。 その後、薩摩藩や江戸幕府などでも鉄道敷設計画が立てられ、実物機関車を長崎でイギリスがデモンストレーションのため走らせるということも行われたりしたが、実際に敷設計画が具体化したのは明治維新後のことである。 明治2年(1869年)、明治新政...
  • 護憲三派
    護憲三派(ごけんさんぱ)とは、第二次護憲運動を起こした立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の三政党のことである。 政党内閣樹立や、普通選挙の実現、貴族院改革、行財政改革などを掲げた。 大正13年(1924年)1月18日、各党の党首である高橋是清・加藤高明・犬養毅が会合した際に成立したが、翌年に革新倶楽部が政友会に吸収され、更に第一次加藤高明内閣の辞職の際に解消した。 関連項目 大正 大正デモクラシー 普通選挙法 政党政治 三浦梧楼 両税委譲   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月18日 (水) 02 42。   
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 五箇条の御誓文
    五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記する。 歴史 起草の過程 明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。 制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王...
  • 南満州鉄道
    南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、略称 満鉄、英称 South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。初め大連市、のちに新京特別市に本社が置かれ、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。 設立経緯 thumb|right|満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館として当時の建物で営業されている。]] 南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄...
  • 木戸孝允
    {{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務...
  • ノモンハン事件-2
    前半は、ノモンハン事件参照 ノモンハン事件の戦略と戦術 兵力の集中と兵站 ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。しかしジューコフは、後方基地からの650-750kmに渡る長大な兵站線を大規模自動車輸送によって確保し、8月までに大量の物資を蓄積したことで、8月攻勢の前に十分な戦力を整備したのであった。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ノモンハンは例外であった。 ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。満州国内の民間...
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