chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「人権指令」で検索した結果

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  • 東久邇宮内閣
    ...撤廃に関する覚書」、人権指令。)への対処が問題となった。この指令は、人権確保のため、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察(特高警察)の解体や内務大臣ら内務省幹部の罷免などを内容とした。東久邇宮内閣はこの指令の実行をためらい、内閣総辞職に至った。 閣僚 省庁再編前(8月26日以前) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 国務大臣 内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王(軍人 陸軍大将[陸士20期]・貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 外務大臣 重光葵(貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 内務大臣 山崎巌(官僚 内務省) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 大蔵大臣 津島寿一(貴族院所属・研究会) 19...
  • 治安維持法
    ...4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止を命じられ、東久邇内閣はそれを拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。 その歴史的役割 当初治安維持法制定の背景には、ロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動をけん制する政府の意図があった。 そもそも当時の日本では、結社の自由は厳しく制限されており、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、合法政党であっても、無産政党の議会進出を政府は脅威と見ていたからである。 後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。ちなみに朝鮮共産党弾圧が適...
  • 部落問題-2
    前半は部落問題を参照 地域較差 被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東地方では被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。 北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり原田伴彦 田中喜男『東北・北越被差別部落史研究』明石書店 1981年、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道や南西諸島には歴史的な被差別部落は存在しない。 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が...
  • 水平社宣言
    水平社宣言(すいへいしゃせんげん)は、全国水平社創立に際して、その告文として発された宣言文であり、日本最初の人権宣言ともいわれる。西光万吉を起草者として、平野小剣など幾人かの添削を経て完成に至り、京都は岡崎公会堂において開かれた全国水平社創立大会の場において、大正11年3月3日、起草者の西光自らによって読み上げられ、ここに部落解放運動の勃興が全国に知らしめられた。 特徴 集団および個人としての諸姿勢の訓戒等 余話 米国、ロシア、英国、フランス等においては、『日本で初めての本来民衆による解放運動が起こった』との旨で、トップニュースで伝えられたという。 締めの一文である『人の世に熱あれ、人間に光あれ』は人権標語などにたびたび用いられることで今にも広く認知を得ている。 関連項目 部落問題   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年5月...
  • 愛国公党
    愛国公党(あいこくこうとう)は、 最初の自由民権運動の政治結社。 明治時代中期の政党。 愛国公党 (1874年) 征韓論、明治六年の政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京の京橋区銀座副島種臣邸に同士を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとな...
  • 立志社 (政治団体)
    立志社(りっししゃ)は、自由民権運動の中心となった高知県の政治団体。1874年に板垣退助・片岡健吉・植木枝盛・林有造らにより設立された。人民主権・一院制議会・周到な人権保障など民主主義の理念に貫かれた立志社憲法見込案を発表するなど国会期成同盟の中心的役割を果たした。『海南新誌』『土陽雑誌』『土陽新聞』を発行し、また立志学舎で近代的な教育を行うなど民権思想の普及に努めた。1883年に解散。 関連項目 立志社の獄 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月19日 (木) 12 18。     
  • 国際連合
    英:Template lang? 仏:Template lang? 西:Template lang? 露:Template lang? 亜:Template lang? 中:Template lang? (詳細) 公用語 英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、中国語 事務総長 潘基文(2007年1月〜) 創設 1945年10月24日 加盟国 192ヵ国 本部所在地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン 公式サイト http //www.un.org/ 国際連合(こくさいれんごう、United Nations)とは、国際連合憲章の下に設立された国際機構である。世界の安全保障と経済・社会の発展のために協力することを目的とする。多くの言語で第二次大戦中の連合国を呼称を同じくする。略称は、国連、...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部)とは、第二次世界大戦終結に際してポツダム宣言の執行のために日本を占領し、間接統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。 名称 英語の General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers の日本語訳。「総司令部/ 聯合国軍最高司令官」が正式名称となるが、この記事名のほか、「軍」という語を使わずに連合国最高司令官総司令部、これを略して連合国総司令部としたり、軍を含めて連合国軍最高司令部日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、...
  • 軍国主義
    軍国主義(ぐんこくしゅぎ、Militarism)とは軍事力を国家戦略的に重視し、政治体制・戦略・財政・経済体制・社会構造などの総合的な国力を軍事力の増強のため集中的に投入する国家の体制や思想を意味する。軍事主義とも呼ばれる。軍事力増強に向けて国内のあらゆる領域を統制・管理しようとする傾向があり、非民主的な独裁政治となる場合がある。 通俗的に戦争を支持する人や国の考え、傾向を大まかに指すこともあり、平和主義、民主主義の対義語として用いられる。しかし平和主義と同じように非常に包括的な概念である側面を持っており、絶対的な定義は難しい。 概説 軍国主義に基づいた国家体制は、さまざまな国力が軍事力の造成のために投入されるため、国民や各種の組織が軍事的な目的で動員され、その目的のためにしばしば人権や思想の自由などが侵害される場合がある。 戦時体制と社会現象的には似ている。戦時体制とは戦争という...
  • 全国水平社
    全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)とは大正デモクラシー期の日本において被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として結成された団体である。 1922年3月3日、京都市岡崎公会堂にて創立大会が行われ、日本最初の人権宣言といわれる水平社創立宣言を採択した。結成メンバーは西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作(柏原の3青年)らが中心。昭和初期の日本のファシズム化や内部分裂などにより、1942年1月20日に消滅。戦後、元水平社のメンバーや融和事業団体の役員たちにより、部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)が京都で設立された。 融和運動との比較 差別の原因が部落の劣悪な環境や教育水準にあるとして富裕層の力を借りての部落の経済的向上を目指した融和運動に対し、差別の原因はあくまで「差別する側」にあるとして、差別への糾弾や啓発に重点を置いた。 関連項目 水平社創立宣言 荊冠旗 部...
  • 戦時体制
    戦時体制(せんじたいせい)は、近現代の戦争において、国家が戦争遂行を最優先の目標として、その達成のために各種の政策を行うことをいう。 戦時体制下においては、軍需物資の生産を極大化するために企業や国民が組織化されて動員が図られ、しばしばその目的の障害となる国民の私的領域である人権やプライバシーの抑圧が伴う。第二次世界大戦では、日本は1938年の国家総動員法制定、1940年の大政翼賛会および大日本産業報国会の結成により、世界経済から孤立していたソ連の戦時共産主義政策をモデルケースとする戦時体制の確立をした。しかし航空機の生産機数や粗鋼生産量など各種の指標を見ても、日本はアメリカ合衆国やソビエト連邦はおろかイギリスやナチス・ドイツにも及ばず、経済政策としては失敗している。 しかしながら、経済統制の手法は戦後の経済政策にも生かされていく。企業構造や財政システムなどにおける日本特有の要素は戦時体...
  • 民撰議院設立建白書
    民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は、1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。 建白書の提出まで 1873年(明治6年)末、いわゆる明治六年の政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(迂郎)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。1874年1月12日、板垣らは愛国公党を結成し、反政府運動を始めた。愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。 建白書の内容 愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参...
  • 解放令
    解放令(かいほうれい)とは、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。正式名称は不明だが当時の法令を収集した政府刊行の法令全書の目録には、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」と書かれいる。そのため、研究者の間では様々な呼び方があり、「身分解放令」「賎民解放令」と呼ぶ例、中には「解放」の名称を使用せず「賤称廃止令」「廃称令」「廃止令」などと呼称する人々もいる。 解放令の背景と経緯 解放令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。これは、改革掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、...
  • 万宝山事件
    万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年7月2日に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに日本の警察官とも衝突した事件。この事件を契機に朝鮮半島で中国人排斥の暴動が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。 原因と経緯 この事件の経緯については、中国、朝鮮語版とも全く異なる解説をしているので、中立の立場からすべて翻訳し、記述した。確認は詳細を見られたい。中国、朝鮮語版では侵略の口実を作る日本の陰謀であるとしている。 なお、アジア歴史資料センターの資料によれば、中国語版WIKIPEDIAの記述内容は、中国共産党の宣伝パンフレットの内容に一致している。また、朝鮮語版WIKIPEDIAに関しては外部リンク(韓国語)の内容と一致している。 ref name= shibun 参看 亜細亜歴史中心 資料 Ref.B0203017...
  • 相馬事件
    相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院し...
  • 大阪商大事件
    大阪商大事件(おおさかしょうだいじけん)は、太平洋戦争中の1943年から1945年初めにかけて、大阪商科大学(現大阪市立大学)の教員・卒業生・学生ら数十名が治安維持法違反容疑で特別高等警察により検挙、投獄された事件である。 背景 日中戦争の始まった1937年以降、大阪商大では戦時下にもかかわらずマルクス経済学についての研究会活動が活発となった。この背景には、河田嗣郎学長のもとリベラルな学風が強かったことに加え、1937年から1941年にかけて商大において岩波書店版『経済学辞典』の編集が行われ、その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。 また同じ時期、進歩的な予科講師として人気のあった立野保男の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では上林貞治郎教授ら教員、学生により「帝国主義戦争に反対し、マルクス経済学を研究する...
  • 治安警察法
    Template 日本の法令? 治安警察法(ちあんけいさつほう)は、かつて日本に存在した法律。日清戦争の後、高まりを見せ始めていた労働運動を取り締まるために、それまで自由民権運動を念頭に置いて政治活動の規制を主な目的としていた集会及政社法に、労働運動の規制という新たな役割を付加した上で継承発展させる形で制定された。 沿革 明治33年(1900年) 2月23日に制定、同年3月10日公布、3月30日施行された。 大正11年(1922年)、大正15年(1926年) 一部改正。 昭和20年(1945年) 第二次世界大戦後のGHQの指令に基づき、昭和20年(1945年)11月21日「治安警察法廃止等ノ件(昭和20年勅令第638号)」により廃止となる。 内容 全33条より成る。治安維持法とともに戦前の有名な治安立法として知られる。 第17条はストライキを制限するもので...
  • 財閥
    財閥(ざいばつ)とは、財閥解体以前の非常に大きい独占的な資本家または企業の事であるが、一般的には、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸会社(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占めると定義される。また別名ではコンツェルンとも呼ばれる。 なお、近代以前には財閥という言葉は、多数の豪商を生み出した地域に付けられる事もあった。例:甲州財閥、阪神財閥 日本の財閥 日本では第二次世界大戦前に三井・三菱・住友・安田などの財閥があったが、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により分散させられた(財閥解体)。海外ではZaibatsuとも呼ばれる。 四大財閥 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 上記の3つを特に三大財閥と呼ぶ。 安田財閥(金融財閥) 江戸時代...
  • 奉天会戦
    Template Battlebox? 奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。 背景 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。 日...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 大日本帝国憲法
    Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。ま...
  • 血盟団事件
    血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。 経緯 日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。 日召は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」などの言葉...
  • 内大臣府
    内大臣府(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 更新blog-4
    最近更新したblog一覧 その4 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-5 更新blog-6 # bat99の日記 # 「政治的正しさ」 毒ガス情報センター リソースは有限 自分の周りを思い浮かべてみよう わが名はヤスクニ めでたさも--- ■ グロテスクな想像だとは思うが・・ 冗談が冗談にならない世界 否定論 ■ 今のうちに言っとくこと ふと思ったこと それ、邪魔だから 主客転倒 南京1945年-日僑集中営- そのロジックを認めていいの? タイミングが良いのか悪いのか 気分が悪い 火事、地震 本気なのか 少しずつでも進んではいるのだな 忘れた頃に ホウレンソウ 地震酔い 原子力発電 帰宅 謹賀新年 「敵」を護る まいった 30 item(s) Last-Modified 2015/01/03 12 59 41 #...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • 奉直戦争
    Template Battlebox? 奉直戦争(ほうちょくせんそう、Template lang?、Template ピン音?)は軍閥の支配時代における中華民国での戦争。直隷派の呉佩孚と奉天派の張作霖の間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、戦争が行われた。1922年は直隷派が勝利したが、1924年は奉天派が勝利し、張作霖が政権を掌握した。 第一次奉直戦争 第一次奉直戦争(1922年4月28日~5月5日)の原因は、直皖戦争の勝利の成果に対する分配の不均等と親日親奉的な梁士詒内閣の不満に起因するものであった。直隷派の曹錕、呉佩孚に対抗するため、張作霖、段祺瑞、孫文は同盟した。張作霖は自身を総司令に、孫烈臣を副総指令に、楊宇延を参謀長に任命し、奉天派の軍隊は山海関に入った。4月29日、第一次奉直戦争が勃発した。直隷派の呉佩孚総司令は7個師団、5個旅団約10万人を指揮し、...
  • 自由民権運動
    自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。1874年の民撰議院設立建白書以降、藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた。1890年の帝国議会開設頃まで続く。 運動のはじまり 1873年の征韓論政変により下野した板垣退助は1874年、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。翌年1875年には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、武力闘争と紙一重であった。しかし、武力を用いる士族...
  • 更新blog-5
    最近更新したblog一覧 その5 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-6 # 世に倦む日日 # 引っ越ししました。 大晦日に - 朝日の投書 「日中は戦争になるのですか」 仲井真弘多にリコールを - 12/27のNHKの異様な奉祝報道 安倍晋三の靖国参拝と米国の批判 - その政治の分析 安倍晋三と仲井真弘多の茶番会議とNHKの脱力報道 「東アジアの安全保障環境の激変」の言説と防空識別圏 都知事選の提案 - 若いリベラル候補で安倍晋三を倒す リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 都知事選でSTOP THE ABE - リベラル統一候補の擁立を 「反日」、「テロリスト」、「スパイ」 - 内務省、憲兵、軍法会議 秘密保護法を招いた通路 - マスコミは政治報道の反省を 秘密保護法の成立 - 闘い...
  • 大東亜戦争
    大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、太平洋戦争の呼称の一つ。大日本帝国時代の日本政府によって定められた。 本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。戦争の背景、経過、兵器、人物、影響などについては、日中戦争および太平洋戦争を参照の事。 概要 1941年12月8日の真珠湾攻撃後、1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれる。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分である。 一般に大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることが多い。しかし...
  • 特別高等警察
    特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)は、大日本帝国憲法下の日本で、反体制的な言論・思想・宗教・社会運動を弾圧した秘密警察である。当初は共産主義者・共産党員を対象にしていたが、次第に弾圧の対象を拡大して、第二次世界大戦中には自由主義など一切の反政府運動やそれらの思想も弾圧し、憲兵とともに国民から恐れられた。 一般には、略称の特高警察(とっこうけいさつ)や特高(とっこう)の名で呼ばれる。なお、「特別」と追加されたのは、国体の護持は特別に重要であったから、とされている。 歴史 thumb|right|300px|[[警視庁 (内務省)|警視庁特別高等警察部検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))]] 無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年、警視庁に、従来あった政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • 枢密院 (日本)
    thumb|right|300px|Template 和暦?[[10月29日、「修正帝国憲法改正案」 (日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] 日本における枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。Template 和暦?創設、Template 和暦?に廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。 沿革 Template 和暦?に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、Template 和暦?に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は、伊藤博文。 国政に隠然たる権勢を誇っていたが、Template 和暦?の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法施行によ...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 全体主義
    全体主義(ぜんたいしゅぎ、totalitarianism)とは、民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理、およびその原理からなされる主張のことである。歴史的には近現代において国カを全て総動員する戦間期にこうした主張があらわれたとされるが、今日でも、個人の自由や利益を制約する傾向が顕著な国家について「全体主義国家」あるいは「全体主義体制」の呼称があたえられている。個人主義や民主主義の対語として良く使われる。 背景 Template 雑多な内容の箇条書き? 「全体主義」totalitarismoの語はジョヴァンニ・アメンドラによって1923年に初めて用いられた。これを気に入ったジョヴァンニ・ジェンティーレが全体主義を称するようになる。また、ムッソリーニ体制下のイタリアが、1929年11月2日の「ロンドンポスト」によって最初に全体主義国家と評せ...
  • 板垣退助
    {{政治家 |各国語表記 = いたがき たいすけ |画像 = Taisuke Itagaki 2.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1837年5月21日(天保8年4月17日) |出生地 = 土佐国高知藩(土佐藩) |没年月日 = 1919年(大正8年)7月16日 |死没地 = 東京市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第17代内務大臣 |内閣 = 第1次大隈内閣 |当選回数 = |就任日 = 1898年6月30日 |退任日 = 1898年11月8日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919...
  • 宮家
    宮家(みやけ)とは、日本の皇室で代々皇族の身分の保持を許された一家のことである。 宮(みや)とは、元々、天皇並びに皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。この「宮」という呼称を世襲することから「宮家」という言葉が起こった。ただし、法的な根拠を持つものではない。現在の法令上の取り扱いでは「○○宮」の称号はあくまでも宮家の当主個人の称号とされている。 現在の宮家 秋篠宮(当主:文仁親王) 常陸宮(当主:正仁親王) 三笠宮(当主:崇仁親王) 桂宮(当主:宜仁親王) 高円宮(当主格:憲仁親王妃久子) 三笠宮の長男である寬仁親王も独立の生計を営んでいるが、三笠宮家の継承が予定されているため、独自の宮号は持っていない。 概略 鎌倉時代以降、親王宣下の制度により、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・上皇の養子縁組・猶子となって親王の称号を世襲する例が散見...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 日本統治時代の朝鮮
    Template 基礎情報 過去の国? Template 朝鮮の歴史? 日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語 Template lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。 総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTempla...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • A級戦犯
    A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、ア...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 乙未事変
    乙未事変(いつびじへん)とは朝鮮国王王妃であった閔妃が1895年10月8日に暗殺された事件。韓国語ではウルミ、俗に「明成皇后 弑害事件」とも呼ばれる。 概要 親露に傾いていく閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日、それらの勢力により景福宮にて殺害され、遺体も焼却された。 この事件では朝鮮が親露化によって日本の影響力が低下することを恐れた日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して ref name= nikkan 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353は証拠不十分で免訴となり、釈放した ref name= shinbun 新聞集成 明治編年史 第九...
  • 滝川事件
    滝川事件(たきがわじけん)は、1933(昭和8)年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件とも呼ばれる。 経緯 事件の発端 事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」...
  • 部落問題
    部落問題(ぶらくもんだい)は、日本における差別問題のひとつである。江戸時代の穢多や非人など賎民身分を由来とする。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。 部落 「部落」は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などとよび定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味をもたない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。 近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった 『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年、993頁。なお、「特殊部落...
  • 三菱財閥
    三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。 岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された。 財閥の起源 三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この...
  • 樺太庁
    世界 アジア 東アジア 大日本帝国 樺太地方 樺太庁 樺太庁のデータ 面積 36090.3km² (海豹島・海馬島含む) 樺太の位置 東端 東経144度45分00(北知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端北緯45度47分25(二丈岩)北端 北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1...
  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 若槻禮次郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。 生涯 生い立ち 松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思い...
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